1991年8月 探花登山会
当時、探花登山会という名はなかった。後でわたしが勝手に付けた名である。探花の意味は中国の科挙の第三位合格者のこと。人の名は、この記事のためにわたしが付けたハンドルネームである。
写真が多いので五回に分けます。
編笠山から権現岳をえて赤岳まで行き、そこから阿弥陀岳をえて下山する、二泊三日のコースであった。参加者は五人である。
八ヶ岳は南北三十キロ以上の山脈の名前で、一座で八ヶ岳という山はない。全体が火山である。
大きく南北に分けられ、北は樹林帯が広がり、南は鋭い地形の岩峰群である。日本百名山の八ヶ岳はこの南八ヶ岳を指すという。知らなかった。北八ヶ岳の蓼科山も百名山に入る。
南八ヶ岳でも編笠山は例外的に穏やかな山容をしている。
一日目

編笠山
まず編笠山(2524)まで、どう登ったのか覚えていない。観音平(1570)からと思うが、1994年の地図ではバス路線はない。
新宿から夜行列車で小淵沢まで行き、小淵沢駅から歩くには遠すぎるので、観音平までタクシーを使ったか。

頂上はこのような大石が多いが、周辺は樹木が茂る。

編笠山は、こうしてハイマツなどが覆う。

山頂から青年小屋(2400)へは30分ほど。その手前に氷河のような大きな岩塊が横たわる。先ほどまで雲がかかっていた小屋がはっきり見えた。身の丈を越える巨大な石の群れを横切る。

リーダーの甲斐はこのような道が苦手。

思えばわたしも若かった。女の子と間違えられるほど髪も長かった(^。^)。
青年小屋は2食付きで泊まる。我々だけで二階の一部屋を与えられ、ゆっくりできた。
廊下はアイゼンの爪の跡が目立つ。冬山を登った人が無人の小屋にアイゼンのまま入ったのだろう。
甲斐と妙高がウィスキーを持ってきていたので、夜はそれを飲みながらの宴会となる。近くの「乙女の水」を汲んできて割った。水だけでもうまい。
「謫仙さん、いったいどうしたんだ。今日はついていくのがやっとだった」
甲斐の言葉に長老が続けた。
「息が切れたな。何か良いことあったのか」
もちろんお世辞である。一番弱いわたしがトップを歩き、他のメンバーはわたしの脚にあわせて歩くのが、いつもの形であった。
黒潮は隠し持っていた、自分で作った梅酒を出した。わたしはウィスキーをやめて梅酒にする。
山小屋は朝が早い。すぐに布団に潜り込んだ。
翌朝、天気はよさそうだが雲は多い。

雲のかかる岩壁。どちらの方向だったのだろう。

朝露に濡れた撫子、ナデシコにも種類があるが、細かい分類は判らない。
つづく