田中 修 中公新書 2012.7
植物の不思議を集めている。中学高校程度を対象にした書き方だが、大人の入門書にもなる。
地球に生命が誕生し、ここまで進化したのだから、多くの“すごい”があっただろう。それをわかりやすく説明している。もちろん動物だって同じだが、ここは植物に限定。
まず、植物も海から陸に上がった。海で弱い光で光合成の“すごい技”を手に入れて陸に上がる。ところが陸では太陽光線はあまりに強く有害だった。太陽の光をもろに受け活発に光合成するが、光を使い切れない。そして紫外線という害のある光線を新たに受けることになる。活性酸素が発生するのだ。それを押さえるためにビタミンCなどを合成する。南国の果実レモンにビタミンCなどが多い理由だ。
そんな風に防衛手段を次々と手に入れている。
トゲを生やす、毒をもつ。この本を読んでいると、ほとんどの植物に毒がありそうに思える。よくぞ人はその中から毒のない植物を探し当てたと感心してしまう。
たとえば山菜、毒を抜くために工夫せねばならない。あく抜きである。
銀杏は大量に食べてはいけないとか。モロヘイヤは葉以外は毒があるとか。日常に食べているジャガイモさえ毒を持つのだ。青いところや芽は食べてはいけない。
マンゴーの果汁にかぶれるという。
暑さ寒さへの対処もある。
第一章 自分のからだは、自分で守る
第二章 味は、防衛手段!
第三章 病気になりたくない!
第四章 食べつくされたくない!
第五章 逆境に生きるしくみ
第六章 次の世代へ命をつなぐしくみ
あと進化の話が欠けている。海から陸に上がったといっても、歩いて上がったわけではなく、進化という形で上がった。なぜ太陽光線を使い切るように進化しなかったか。ほかにも、ではなぜこうならなかったのかという疑問が相次ぐ。
いろんな説明も、それで結論は、と思っていると別な話に移ってしまう。
毒も、食害を防ぐために作ったと説くが、多数の偶然の中に、たまたまそのような能力あり、それで生き残れたのではないか。ほとんどは別な進化をして滅んでしまっただろう。残ったのは例外なのだ。それをまるで目的を持って毒を合成したような書き方に、あれっ、と思うことがある。
おそらく、専門家には疑問の多い書き方をしているだろう。証明していないし、異説の説明もない。
すごい、にしても確かにすごいが、逆にそのくらいできないと、生存できなかった、当然のことのように思えたりするのだ。
こういうことに興味を持ってほしい。が本書の目的かな。
あの八木雄二の生態系三部作については本腰を入れて取り組んだ私ロクリアン正岡ですが、これについては図書館から取り寄せる気さえ起りません。
一応、貴殿が各章のタイトルらしきものを並べておられるので、それを
前提としてコメントさせていただきます。
第一章について:植物に自分なんてあるのか?少なくとも人間が言葉でいう「自分」概念の内包を満たすような外延たることは、いかなる植物にも不可能ではないでしょうか?
第二章について:植物の味とおっしゃるが、「味」はそれを食する者の主観にて初めて発生する出来事ですから、植物に帰属させられないでしょう。
第三章について: 第一章についてLMが言ったことからして、著者の問いがそもそも成立しないでしょう。
第四章:第三章に同じ。
第五章、第六章:「しくみ」とくれば、言葉使い(概念使用)は尤もらしい。
だが、一章から四章のあとに、内容まで唐突に学的厳密さを持った説明に転じるとは考えにくいですね。
土台、自然界の生物は生態系の一部分でしょう。人間にすら*そういった存在の在り方は残っておるくらいです。ましてや動物一般はどうでしょう。いわんや植物を「個」として扱うなど、科学として危ない危ない。著者は読み手が喜ぶものを書いて金を稼ぎ己の生存本能を満たそうとしている。そんな著者だから、余計に植物にも「個」としての自覚とか「自分の気持ち」とかあるように思いなす(考えたがる)傾向が、少なくとも私どもよりずっと強いというところですかね。
*人間の各臓器の事を思えば、やはり、各臓器の関係性から身体全体性、と言う前提にたった見方を弱めてしまっては、実験的人間改造論、あるいは同技術開発を一方的に推し進めてゆくには都合が良いが、それは「挫折したらその時はその時」というむごい心といい加減な頭の志向するところでしょうね。体内生態系(LM造語)という概念、言葉、いかがでしょうか?雲外さん!
最後にLMには珍しく、ある人の言葉を使わせていただきます。
数学者の佐藤幸平という方、故人ですが、次のような文章が残されているそうです。
「なぜ此のごろ、むつかしいことを易しそうに錯覚させる本が多く、やさしいことを面白く説明した本が少ないのでしょうか?」
植物に「自分」という概念があるか。特定の意思があるのか。これは大いに疑問であって、わたしもとても信じられません。
だから、一本の植物が意思を持っているような擬人化した著述に、抵抗感を持つ人が多いのではないかと思われます。
でも植物の一生というより、進化の過程を得た、植物の種としての歴史を擬人化したので、そのつもりで読むと、けっこうおもしろいですよ。だからここで紹介する気になりました。
常にロクリアン正岡さんのように、植物の個としての自覚に疑問を持って読まないといけませんね。それが判らないと、まるで植物か意思を持っているのかと、錯覚してしまいます。
すごいすごいと「すごい」を連発されても、それしか形容詞を知らないのか。(笑)
挫折した、つまり絶滅した種も無限大といえるほど多かったことでしょう。
生き残った種の歴史の擬人化ですね。それ故に入門書と断定しました。
わたし自身はこのような話は嫌いではありません。ただし、一面的な解釈には、疑問を持ちながら読まないといけませんね。
>「なぜ此のごろ、むつかしいことを易しそうに錯覚させる本が多く、やさしいことを面白く説明した本が少ないのでしょうか?」
なぜでしょう。多いか少ないかも判断できませんが、それが悪いことかどうかも判断を保留したいですね。個々の本次第です。
でもないというのは人間から見ただけのことかもしれません。
一つ一つに植物には個はないかもしれません。
しかし、その中で自然に対応して行く姿を見るとそこには何らかの意思を持っているのではないかと気がします。非科学的な言い方ですし、勿論、科学的に見れば何の証拠もありませんが・・・
今日、こちらの小さな山を歩いてきました。イワカガミが葉を紫に染めていました・冬の厳しい日光から避けるために・・・
陽の当たらないところは緑を・・・
人間は文明を失ったら、このように生きていけるのか・・・
しょせん裸の猿ですから・・・
命とは不思議な輝きを持つのかもしれませんね。
あくまでも、歴史をひもとくと、意思を持っているように考えるのが、わかりやすい解釈、説明ではないかと思われます。そこで疑問を持って、意思はなかった、あるいは一定の方向性があった、などと深く研究してほしい。この本はそのきっかけですね。
いずれにしても人類20万年に満たない歴史からは、想像もできないほどの数千万の歴史です。海の時代から考えると数億年か。
人は個人では生きられないほどの弱い生物、果たして進化した結果なのか。これはSF小説で何度も取り上げられる話です。もしかしたら進化に失敗した生物かもしれません。それでも精一杯輝いて生きたいですね。
テレビで見ました。ある種の蘭がある昆虫(蜂だったと思います)に一対一の関係にあります。その蘭はその昆虫がいないと実を結ばず、もしその昆虫がいないとその蘭は滅んでしまうそうです。そんなガラケーのような進化をした蘭がかなりあるようです。
この例などその植物の歴史を擬人化して考えるのが、一番分かりやすい解釈と思えます。でもどうなんでしょう。植物が先か昆虫が先か、そもそもそのために進化したのか。確かに疑問です。進化の歴史を分かり易く擬人化したと思えます。
もしかしたら、あなたも金庸ファン? ハンドルネームからの推測です。
本題、植物が先か昆虫が先か、は謎ですね。どちらが先にしても偶然そうなったのであって、はじめからそうだったとはとても思えません。
同じような昆虫が一種ではなかったが、全部滅んで新たに今の昆虫が誕生したか、あるいは似たような花がたくさんあったが、今の蘭だけが残ったとか。
進化の話を読んでみると、あまりにもいろんな種が爆発的に増え過ぎて、そのほとんどは滅びてしまう。その生き残った種だけを見ると擬人化が判りやすいという話ですよね。
ガラケーはガラケーなりにその微妙さには、驚嘆してしまいます。
会社人間を見るようで、そんなにその会社(その種の植物)に頼り切っちゃっていいのか。心配になってきちゃいますね。
すごいなあと興味を持てば、その先は専門書とはいわないまでも、もっと深い内容の本を読んでください。という本だと思います。