三千年ほど前の殷周革命に、ミサイル・アンチミサイル・化学兵器・細菌爆弾・神経ガス・殺人光線・ロボットなどの宝貝(秘蔵兵器など)を使って繰り広げる殺戮戦の数々。
史上有名な殷周革命を題材にしたSF小説である。もちろん、明代の半ばにできた話なので、SFとして作られたのではない。
わたしがSFというのは、内容からである。
バカバカしいと言って切り捨てる人もいる。そのとおりで、あまりのバカバカしさに呆れてしまう。ところが、わたしはそのバカバカしさが好きなのだ。
主人公は、あの太公望。
「釣れますか、などと文王そばに寄り」
の川柳でも知られて、日本では釣り人のことを太公望ともいう。だが、実際には太公望は釣りをしていない。本性は、人の命をただの消耗品として扱う、冷酷非情の軍師である。
中国は儒教の国というが、それは官僚だけで、下の者や庶民は道教の信者である。そして、この封神演義は道教の神話というべき話なのだ。それゆえ日本ではあまり知られていないが、中国庶民は誰でも知っている話である。
太公望:氏は呂、姓は姜、名は尚、一般には姜子牙と呼ばれる。
題の封神であるが、日本でも豊臣秀吉は豊国稲荷に封じられたし、徳川家康は東照大権現に封じられたように、神に封じることは、死ぬ(殺す)ことを意味する。
名の出た登場人物(?)のほとんどは死んでしまう。魂魄が封神台に飛ぶと表現する。その数366、そのうちふたり一組がいて名目上は365柱。
崑崙山で仙界再編成の動きがあった。
仙界は道教の世界である。おおざっぱに分けて、闡(せん)教と截(せっ)教に分けられる。さらに人道(仏教)もいる。ただし、この時代はまだ仏教の成立以前なので、仏教が入っているはずがない。
闡教は仙界の正統派を自認して、異端の截教を仙界から追い払おうとたくらむ。さらに人道を西に送り出そうとする。
そうして掲げられた大義名分は神界の創設であった。
下界には仙人になろうと修行をしたがなれなかった者が大勢いて、仙術を使う。これが仙界では面白くない。
そこで死なせて、神に封じてしまおう、ついでに截教も殺してしまえ。
つまり、天界・仙界・下界のうち、仙界と下界の間に神界を新設し、そこに優秀すぎる人間と截教を送り込もうというのである。そのために殷周革命を利用することを考え、周を後押しする。截教側もそれに気がつき、殷を後押して対抗する。
もう一つは「殺劫」というのがある。仙人は千五百年に一度、人を殺さずにはいられなくなるのだそうだ。それを殺劫という。そんな無茶な。
それを目指して、様々な宝貝(強力兵器)を千年以上かけて作っている。
その時期が来たので、仙界は上にあげた計画を企んだのだった。
文王が太公望を迎えるときの話である。
儒教では、師として車に載せたという。王の脇に師が載っていれば名君で、女が乗っていれば、亡国の暗君である。たが、道教では違う。
太公望は車に乗り、文王に車を曳かせた。文王は280歩で、梶棒を落としてしまう。
太公望は「すぐ拾い上げて曳き続けよ」と叱咤する。
再び曳くが、後ろから助ける者がいる。449歩で目がくらんで尻餅をついてしまう。
この結果、周の天下(西周)は280年続き、挫折する。
その後再興し(東周)449年続くが、この時は常に覇者の助けを借りければならない。
本文における、言葉のおもしろさもある。
革命軍の武王(文王の子、文王はすでに亡い)が、敵の紂王の息子を助けてくれと言って、周りの人が呆れてしまい、
「殿下、政治と浪曲を混同されてはなりません。きれい事を並べ立てるなら、初めから政治の世界に足を踏み入れてはならなかったのです」
「武王、そういう芝居は街中でやってください」
「武王は泣いて助命を嘆願したと、史書に書きましょう…」
で、納得させる。思わず嗤ってしまう。
儒教の聖者でも真実は案外こんなものかも。しかし、浪曲の愛好者とは知らなんだ(^_^)。
最後に、殷周革命が成功すると、武王は大事なところにはすべて近親者を封じ、最大の功労者である太公望には、
「尚父はご高齢ゆえ、朝廷においておくに忍びない。斉の国に封じることにした。自分の城でゆるりと太平を楽しまれたい」
と、しゃあしゃあと言ってのける。
この本には出てこないが、この当時の斉はまだ領土とはなっておらず、自分の力で切り取っていかなければならないのだ。事実上追い払ったに近い。
第一巻は、妲己が宮廷に来て国が乱れ始めてから、周が背くまで。
第二巻は、殷の西征軍が周を攻めるが、周は守り通し殷の西征軍が全滅するまで。
第三巻は、周が東征をはじめ、孟津で八百諸侯の盟主となり、殷(商)を滅ぼして、新王朝を築くまで。
なお、この時代にようやく貨幣が誕生した。それが東海で採れる宝貝である。
ここでは宝貝は秘蔵の武器をさすが、その背景は貨幣の利用であろう。
この本と出会ったのは、かれこれ十数年前になると思いますが、もう幾度読み返したことでしょうか。
そのたびに面白くて、どきどきして、胸がすく思いをして・・・。
本屋さんでびびびっと電波を感じる本があります。
封神演義はまさにその一冊でした。
残念ながら漢字が出ませんが完璧な白面郎「陽ぜん」がいいですねえ。
この物語はあまりにも登場人物が多く、それぞれに個性があって、わたしは、特に思い入れのある人(?)はいませんが、強いて言えば「なたく」ですね。これ両方とも出ない文字でした。わたしはこういうとぼけたのが好みなんです。
わたしの場合は、どこかでこの物語を紹介を読んで、それを本屋で探したように気がします。そしてこの本のカバーを見たとき、間違いないと思いましたね。
同じような話が繰り返されて、だれるところもありましたけれど、間違いなくおもしろかった。
特に、神話とはいえこのプロットには敬服します。ストーリーは物足りない所もありますが、古い物語だから当然ですね。
ところで「ようぜん」は井上祐美子さんの長安異神伝の「ようぜん」と同一神物だとおもいます? (^。^))
あちらの「ようぜん」も大好きですが、どうも封神演義の完成された人格の「ようぜん」とは別人のような気がします。
「なたく」もいいですねえ。
私は「なたく」から、水滸伝の「りき」を連想してしまうのですが。
水滸伝は駒田信二訳を読んだことがありますが、今読みかけの北方謙三の水滸伝は全く別な物語ですね。登場人物の精神構造が全く違う。北方水滸伝は現代人がタイムスリップしたようなイメージがします。
駒田水滸伝は原作の翻訳に徹して、原作の矛盾もそのままですから、当時の庶民の感覚に近いのではないかと思います。
話が飛んでしまいました。黒旋風の「りき」ですか、言われてみると……。いままで思ったこともありませんでした。