この本で取り上げた美人は、次の7人である。
西施・卓文君・王昭君・皇后羊献容・薛濤・萬貴妃・董妃

西施
美の基準は時代により地方により違う。もちろん人によっても違う。
美人でも、傾国の美女といわれる女がいる。西施はその代表なのだ。
妹喜(ばっき、夏を滅ぼす)、妲己(だっき、商を滅ぼす)、褒姒(ほうじ、周を滅ぼす)、などは、結果として、国を滅ぼすことになったが、西施は呉を滅ぼすことを目的として、范蠡(はんれい)の計画によって、越から呉に贈られたのである。
わたしは細面の北方系の美人を思うのだが、南方系の丸顔だったのだろうか。
何人かが西施の話を書いているが、長く王に愛されている間に情が傾いていくのが普通。
しかし、ここでは、西施は初志を忘れないものの、范蠡(はんれい)の計画の中に自分を助ける具体策がないことを知り、脱出の計画をたてる。そして見事に脱出し、斉の国に移った范蠡の競争相手として登場する。
この呉越の戦いは有名であるが、その中に「臥薪嘗胆」の故事がある。
あまりにも有名なこの言葉は、実は、宋の時代にできたらしい。
陳舜臣さんは、そのまま使用している。言葉はなくとも、同じ意味のことがあったと見ているのであろう。
卓文君
現在でも登麗君(テレサテン)のように、女性の名前に君が着くことがある。
成都にちかいところの大金持ちの令嬢であるが、すべてに積極的で、司馬相如に嫁ぐ。司馬家は貧しく、卓文君は実家の近くに酒家を開いた。みずからホステス役である。史上まれなる美女がお酌してくれる居酒屋である。はやった。
実家では、恥として莫大な援助をしてやめさせた。
司馬相如は漢の武帝に仕えて有名なので、この話も語り草になったのである。
王昭君
三峡下りの途中に王昭君の生地がある。
そこで育った王昭君が長安の都に行き、宮女となるが、匈奴に嫁ぎ、そこで三人の子を生むまで。
従来この話は悲劇として伝わっているが、決して悲劇ではなかった。
(王昭君 −匈奴で得た幸せ−)
この不自然な流れが、陳舜臣さんの筆で、ごく自然な流れとなって納得させられる。
祖父と二人で巫山村にいるが、その祖父は匈奴の研究家であった。
「これは国家の大事であるぞ。おろそかにしてはいかんのだ」
それはそうだが、他にも大事はある。それを指摘されると、
「匈奴問題の処理を誤れば国家は亡びる。亡びたあと、なんの国家の大事ぞ!」
なんか、いまでもこんな人いますよね。
他の問題で国家が亡んだあと、なんの匈奴問題ぞ!
さて、王昭君は、そのような祖父に育てられたので、匈奴に対する知識は人一倍あった。それで匈奴に行くにも恐れはなかったようだ。
皇后羊献容
晋の二代目恵帝の皇后に立てられたのが14歳の時。6年の間に5度廃された。これだけでも晋の政変の激しさが想像されよう。恵帝は名前だけであり、なんの権力もなかったのである。
晋の初代は武帝だが、実際は武帝の祖父と父の二代で魏を乗っ取っていた。それゆえ武帝は創朝の苦労を知らない。呉を滅ぼし三国志の時代を終わりにしたが、呉の女を後宮に加え、後宮の女が1万人にもなったというレベルの人物。
羊献容が嫁ぐとき、父は「権力に目を閉じよ」と言ったという。それゆえ廃されても死ぬことはなかった。だが父は皇后の父である故、地位を与えられ死ぬことになる。
25歳のとき、匈奴の劉曜の側室となる。なんと劉曜は7年後に皇帝となった。国号は趙。そのため羊献容は皇后となる。12年の間に3人の子を産み、亡くなったときは享年36。
不幸な晋の皇后時代に比べ、晩年の12年は幸せであったようだ。この時まだ晋は存在していた。
薛濤(せっとう)
魚玄機と並ぶ詩妓である。
妓女は何らかの特技を持っていた方がよいので、いろいろ芸を習う。
通常は歌舞音曲であろうが、詩を作れる妓女は珍しい。
政府高官は詩の応酬が多くあり、そんな席に侍るとき、薛濤が呼ばれることになる。
魚玄機は色町生まれだが、薛濤は普通の家の生まれである。
まだ10歳になる前、対句を作ったことがある。父が練習のため庭の桐の木を指して、これで考えなさいと言ったのだ。
薛濤はすぐに、
枝は迎える南北の鳥
葉は送る往来の風
と作った。
父親はこれを予言として悲しんだ。女が毎日客を送り迎えする人生を送るとは、妓女となることではないかと。
おそらく、妓女となったので後から作られた話であろうという。
妓女になったのは、父が死んで母子家庭となり、薛濤の文才と美貌で生きなければならなくなったからである。
蜀にいたのに、文才は長安の都で評判になったという。
萬貴妃
明の英宗の時代、モンゴルのオイラートが国境を侵した。英宗はこれを親征したのだが、逆にオイラートの捕虜となった。明は弟の景泰帝を立てた。そして英宗の子朱見深を皇太子とした。この時わずか2歳である。
これらの采配を振るったのは皇太后孫氏であった。
萬氏は才能を認められ、その皇太后の宮女となっていた。そして2歳の皇太子に仕えることを皇太后に命ぜられる。萬氏はこの時19歳。仕えるといったが、つまり養育係りを兼ねた妻である。
皇太子は吃音であったことを理由に5歳で廃される。
オイラートから帰還した英宗は紫禁城の一画に軟禁されていたが、景泰帝が病になったとき、クーデターによって復位した。
朱見深は再び皇太子となるが、吃音がひどく、萬氏にしか心を開かなかった。
英宗が亡くなり、朱見深は16歳にして皇帝となった。憲宗(成化帝)である。
身分が低く17歳も年上の萬氏は皇后にはなれず、貴妃になった。
この後どろどろした後宮の権力は争いが続く。それも萬貴妃一方的な攻撃に近い。それも少数民族である瑶(ヤオ)族の紀氏が無事に子を産んでから五年後に終わる。憲宗が、萬貴妃にかくして育てられた子の存在を知ったのだ。
これからは表の争いになる。
皇太子となったその子は、萬貴妃に菓子を出されても「毒が入っているんだろ」と言って食べなかった。
萬貴妃は事実上の最高権力者であっても、憲宗あっての権力である。自ずと限界があった。後に芸術の指示者として名を成す。
なお、ヤオ族の子は弘治帝となる。名君である。
さて、萬貴妃は美人だろうか。
董妃(とうひ)
清朝は初代皇帝ヌルハチが王朝をたて、二代目ホンタイジの時に力をため、その死によって、三代目フリンがたった。わずか5歳である。
翌年北京に入る。この年が明王朝が亡んだ年だ。
三代目フリンは順治帝といわれる。その10年後弟の妃を取りあげ自分の妃とした。これが董妃である。
こう見ると問題児のようだが、政治においては名君の部類に入る。
それまでに摂政のドルゴンがやるべきことをやってしまったので、過酷なことはしなくて済んだのだった。
この董妃の亡くなった4ヶ月後順治帝は亡くなった。24歳である。この時長い遺書を残している。急に亡くなったにしてはおかしい。
そして第三子の玄Y(げんよう)を次の皇帝とした。これが康煕帝である。
この康煕帝が金庸の「鹿鼎記」における重要な役割をなす皇帝である。
順治帝は、本当は死んではいなくて、董妃の死を悼んで出家したと言われている。場所は五台山清涼寺である。
この小説ではこの説を採っている。もちろん鹿鼎記もだ。
このように董妃は魅力的な女だったといえよう。
もしわたしがこの七人を直接見ることができたとして、美女と思うだろうか。
思うに、これらの美女たちはクレオパトラ的要素が多分にある。
クレオパトラの美しさの説明には、現代で考えると聡明であるとしか理解できない文が多い。たとえば、何カ国語を話せたとか、当意即妙に答えたなどという。
そういう女は美しく魅力的だ。
魅力的な女であることは間違いないが、美しさについては多少割り引いて考えている。
ただ西施だけは、なぜか間違いなく美人のように思える。