弟子たちが語る「木谷道場」のおしえ
内藤由起子 水曜社 2016.10
昭和の前半を代表する棋士、木谷實九段。冠は少ないが、(もちろん当時はタイトル戦が少なかった)プロ棋士を次々と育て上げ、呉清源九段と並び称された、昭和初期の大棋士である。
自宅を「木谷道場」として、育てたプロ棋士は51人、日本の棋士育成を独りでやったようなもので、一時はタイトルは木谷門下のたらい回しと言われたこともある。
木谷道場は平塚にあった。著者も平塚出身で碁を学び観戦記者となる。
弟子は通いの弟子もいるが、ほとんどは住み込みである。著者はその弟子たちに接し、直接話を聞いて、木谷道場の様子を綴っている。
いったいどのように教育したのか。
弟子たちの碁を見て、「それも一局だね」とは、木谷がよく口にしていた言葉。
この言葉は本来盤上をさして言う言葉である。碁が打たれ、途中で別な手段もあって、その後の展開が変わるとき、その別な手をさして言う。続けて打ってみれば拙い手もあろう。しかし、そのとき、その手が悪手とはいえず、その後が違った碁になるならば、「それも一局だね」と評価する。
決して上から頭ごなしに指導することはなかったという。
塾頭格の大竹英雄、三羽烏と言われた石田芳夫・武宮正樹・加藤正夫、さらに小林光一・趙治勲などそれぞれ個性が違う。それ以外の棋士も独特の個性で光り輝いている。これらの人が互いに磨き合っていた。
「それも一局だね」には「それも一つの人生だね」という意も込められている。どんな人生も一つの人生なのだ。
木谷夫人の美春さんはもと地獄谷温泉の旅館の長女であった。毎日三十人分もの食事を作ったのも、その経験が生きたのかもしれない。夫人は七人の自分の子も、弟子たちと区別しなかった。個性を尊重した。そのため七人は全く違う道を選んでいる。
プロ棋士ばかりでなく、周りの人たちの話もある。
第11章では、海外の子どもたちの夢をお手伝い 小林千寿
として、小林千寿六段の話がある。
多くの欧州の青少年の世話し、二人のプロ棋士を育てた、異色の経歴の持ち主である。
木谷家の長男である医師の健一さんから電話があった。
「君は父がやりたかったことをやっている。父は戦後の焼け野原をみて、『もし世界中の人が囲碁をやっていれば、こんな戦争は起きなかっただろう』ってよく言っていましたから」
と、海外普及の努力を評価した。
順調だったわけではない。初めて育てたハンスピーチ六段は囲碁普及のおり、グアテマラで強盗の凶弾に倒れて亡くなっている。
それから13年。今年になり、アンティ・トルマネン君が入段した。二人目のプロ棋士だ。
不肖私は小林千寿六段のアマの弟子である。木谷九段の孫弟子と言うことになる。千寿会に参加してもう15年になった。入会して1年後の正月にハンスピーチ六段の訃報を聞いた。ハンスピーチ六段には一年間で十局ほど指導碁を打っていただいた記憶がある。
千寿会に参加しなかったならば、全く違った人生を送ったことだろう。それも一局なンだが。
参考 ハンスピーチさん死去