2017年05月17日

鶴ヶ城

会津3 鶴ヶ城(若松城)

 5月1日、雨の降る日であった。
 会津若松といえば鶴ヶ城。戊辰の戦役で新政府軍の猛攻を受けた。

   ♪二十日籠りて城落ちぬ

と歌われたが、実際は一ヶ月の籠城で落ちなかった。結局降伏する事によって、戦は終わった。取り壊されたのは明治7年である。石垣は残された。
 昭和40年9月に天守閣が再建され、会津若松市のシンボルとなっている。

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 地図の外側に大きく外堀があったが、外堀は埋め立てられて今はない。
 北口から入ると北出丸を通り、椿坂を通って管理事務所に至る。
 西出丸からは梅坂を通り、二の丸からは廊下橋を通っても、やはり管理事務所の前に出る。
 今は“旧表門”から入場券売り場に行き、天守閣に上れるが、本来の登城の道は南に下り、表門から本丸に行ったのであろう。

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 椿坂
 さくらまつりの表示があるが、もう普通の桜は散ってしまった。いわゆる葉桜である。
 傘を差しての登城となった。

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 椿坂の突き当たり、この辺りの石垣は、きちんと整形された石で組み立てられている。

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 ここを曲がると、天守閣は近い。

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 上の石垣の内側にはこのような階段がついている。“武者走り”という。

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 鶴ヶ城(若松城)の天守閣の石垣は傾斜が緩い。

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 旧表門を通って、天守閣に入る。

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 天守閣は最上階しか展望がきかない。
 真ん中辺りの手前の山が、飯盛山である。

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 本丸跡、藩政の中心部である。天守の東側。

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 南走長屋、このような構造は他の城では見たことがない。天守の南側。
 中程の門が“鉄門”といわれる表門である。

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 天守の西側、桜の木に囲まれている。何だったのだろう。

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 登城の道である。天守の北側、武者走りが見える。

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 天守閣内は一方通行で、下りるときは南走長屋を通って外へ出る。
 出口より表門(鉄門)を見る。

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 真ん中辺りがもう一つの出口。南走長屋を通らずに出たい人はここから。

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 荒城の月碑。南東の隅にある。
 昭和22年に、作詞者土井晩翠夫妻を迎えて、除幕された。荒城の月碑は鶴ヶ城・青葉城・竹田城址の三カ所にある。

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 本丸側から天守を見る。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
歴史に残る激戦の城でしたね。
鶴ヶ城は外から見ただけでした。
私は、行っても何もないのに、山城の方は0ls
わりと寄道するのですが。意外と近代の城は無視してしまうようです。この時は裏磐梯を歩いて、城の近くをバスで通り抜けただけでした。それだけでしたが、立派な城だなと、そして町が歴史を感じさせるものがあり、寄ればよかったなと・・・
機会があれば行ってみたいと思っています。城もいいが町がいいかなと・・・
Posted by オコジョ at 2017年05月18日 21:48
旅行は生きたいところと時間との兼ね合いですから、そのとき行きたいと思っても、時間が無かったとはよくあること。
鶴ヶ城が歴史を感じさせるのは、関連する諸々の事が伝わっているからでしょう。ただ、いろいろなことを調べている内に、疑問も多く出てきます。
たとえばある説では、
 会津兵は弱かった、ただ攻める方が、資金が枯渇して戦う事が出来なかったので、一ヶ月も保った。とか。その根拠はと調べても判らないので本文には載せられませんでした。
 これは戊辰戦争の刀傷と伝わっているのに、そこでは戦いはなかった。というところもあります。
 また、会津はかたくなに天皇を守っていたのに、朝敵とされてしまった。なぜだろう。そんな歴史の謎も会津の城の魅力でしょうか。
Posted by 謫仙 at 2017年05月19日 20:35
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