2017年05月26日

会津武家屋敷

会津6 会津武家屋敷

 会津武家屋敷というが、家老西郷頼母の屋敷を再現したものが半分。旧中畑陣屋を移築した建物や、くらしの歴史館などが半分である。

     2017.5.17.1.jpg
     案内図

P4308508.JPG
 城の北側、北出丸停留所のそばに、西郷邸があった。今ではこの石碑のみ。外堀の中である。

P5028686.JPG
 ここから入る。

P5028687.JPG
 入って左に折れ西郷邸に行く。

P5028689.JPG
 西郷邸の塀に沿って入り口に向かう。

P5028691.JPG
 門の脇に西郷四郎の像がある。姿三四郎のモデルである。得意技は山嵐、西郷頼母の養子となった。

P5028692.JPG
 表玄関である。ここから右は領主などの“お成りの間”。写真では見えないが左に塀が有り、その左には家族や西郷邸使用人の玄関があった。

P5028693.JPG
 こうして賓客を迎えた。

P5028694.JPG
 ここが領主などの部屋。廊下の向こうは次の間で有り、一の間はその奥になる。

P5028698.JPG
 玄関を入ったとなりの部屋“使者の間”で有り、領主などはこの廊下を通ってお成りの間(一の間など)に行く。

P5028699.JPG
 案内図、上が玄関、左の黄色い部分がお成りの間である。

P5028700.JPG
 裏庭から

P5028701.JPG
 図では青い部分、当主の部屋である。

P5028702.JPG
 左が子ども部屋、右が女中部屋、案内図では右の方。この右が次の奥玄関。

P5028704.JPG
 奥玄関、この右に台所がある。台所以外は火は厳禁なので、風呂の湯も、台所で沸かして風呂場まで運んだ。

P5028708.JPG
 中の口玄関、家臣たちの出入り口である。右の塀を隔てて、はじめの表玄関が並んでいる。

P5028709.JPG
 片長屋、第二資料館としている。戊辰戦争で西郷頼母が登城のおり、女たち21人は足手まといにならないよう自刃した。新政府軍が入ってきたとき、死にきれなかった女が介錯を頼んだという。
 後ろの屏風が逆になっているのが、決意を表している。

自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
西郷は8月26日に容保の使者として城を脱出。
開城は9月23日
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。
 西郷頼母は松平容保が京都守護職に就くのを反対している。それもあって一時家老職を解かれている。会津決戦にも反対した。新政府軍が容保親子の首を要求したため、それを拒否し、会津戦争となった。

P5028688.JPG
 旧中畑陣屋

P5028712.JPG
 旧中畑陣屋を裏から

 ここの土産物屋ですてきな茶筒を見つけた。買おうと思って蓋を開けたら、中蓋が開けにくい。プラスチックで、それはいいのだが摘むところが無いのだ。残念だがこれでは使えない。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 会津藩は将軍家の守りを自認していたため、領民に対しては過酷であり、全く人気が無かったという。軍備を整えるのは平時でも金がかかるのだ。
 戊辰戦争のおりも、多くの民は協力を拒否したらしい。現在、会津の民が松平容保や白虎隊を自慢(とは言いすぎか)するのはおかしいはず。
 愚直に朝廷の守護をして朝敵といわれたが、賊ではないはず。会津戦争などの戦いの様子は郷土の誇れるところであった。
 いま冷静に考えて、苛政もあったが、それを乗り越えて郷土の誇りとしよう。という状況と思える。
 次回に述べるが、明治初期にも松平容保を支持する人は多くいた。明治維新の後、会津からは新時代の優れた人材が続出している。教育に力を入れた結果である。

 インターネットなどで調べるのであるが、諸説ある。意見の表明とはことなり、歴史的事実は? と訊かれると、判らないとしか言いようがない。
 苛政と書いたが、他藩と比べたわけではない。そんな時、わたしの考え方に合致する意見を採りやすい。
 常にそんなことを考えながら書いている。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック