2017年05月26日

会津武家屋敷

会津6 会津武家屋敷

 会津武家屋敷というが、家老西郷頼母の屋敷を再現したものが半分。旧中畑陣屋を移築した建物や、くらしの歴史館などが半分である。

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     案内図

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 城の北側、北出丸停留所のそばに、西郷邸があった。今ではこの石碑のみ。外堀の中である。

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 ここから入る。

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 入って左に折れ西郷邸に行く。

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 西郷邸の塀に沿って入り口に向かう。

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 門の脇に西郷四郎の像がある。姿三四郎のモデルである。得意技は山嵐、西郷頼母の養子となった。

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 表玄関である。ここから右は領主などの“お成りの間”。写真では見えないが左に塀が有り、その左には家族や西郷邸使用人の玄関があった。

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 こうして賓客を迎えた。

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 ここが領主などの部屋。廊下の向こうは次の間で有り、一の間はその奥になる。

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 玄関を入ったとなりの部屋“使者の間”で有り、領主などはこの廊下を通ってお成りの間(一の間など)に行く。

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 案内図、上が玄関、左の黄色い部分がお成りの間である。

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 裏庭から

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 図では青い部分、当主の部屋である。

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 左が子ども部屋、右が女中部屋、案内図では右の方。この右が次の奥玄関。

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 奥玄関、この右に台所がある。台所以外は火は厳禁なので、風呂の湯も、台所で沸かして風呂場まで運んだ。

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 中の口玄関、家臣たちの出入り口である。右の塀を隔てて、はじめの表玄関が並んでいる。

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 片長屋、第二資料館としている。戊辰戦争で西郷頼母が登城のおり、女たち21人は足手まといにならないよう自刃した。新政府軍が入ってきたとき、死にきれなかった女が介錯を頼んだという。
 後ろの屏風が逆になっているのが、決意を表している。

新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
西郷は8月26日に容保の使者として城を脱出。
開城は9月23日
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。
 西郷頼母は松平容保が京都守護職に就くのを反対している。それもあって一時家老職を解かれている。会津決戦にも反対した。新政府軍が容保親子の首を要求したため、それを拒否し、会津戦争となった。

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 旧中畑陣屋

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 旧中畑陣屋を裏から

 ここの土産物屋ですてきな茶筒を見つけた。買おうと思って蓋を開けたら、中蓋が開けにくい。プラスチックで、それはいいのだが摘むところが無いのだ。残念だがこれでは使えない。

2018.1.5 追記
 後で思ったが、中蓋などどうでもよかった。使わなければいい。ただ、あのゴテゴテした飾りは好みに合わない。
 帰ってから、100均で好みの茶筒を見つけた。満足している。

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 会津藩は将軍家の守りを自認していたため、領民に対しては過酷であり、全く人気が無かったという。軍備を整えるのは平時でも金がかかるのだ。
 戊辰戦争のおりも、多くの民は協力を拒否したらしい。現在、会津の民が松平容保や白虎隊を自慢(とは言いすぎか)するのはおかしいはず。
 愚直に朝廷の守護をして朝敵といわれたが、賊ではないはず。会津戦争などの戦いの様子は郷土の誇れるところであった。
 いま冷静に考えて、苛政もあったが、それを乗り越えて郷土の誇りとしよう。という状況と思える。
 次回に述べるが、明治初期にも松平容保を支持する人は多くいた。明治維新の後、会津からは新時代の優れた人材が続出している。教育に力を入れた結果である。

 インターネットなどで調べるのであるが、諸説ある。意見の表明とはことなり、歴史的事実は? と訊かれると、判らないとしか言いようがない。
 苛政と書いたが、他藩と比べたわけではない。そんな時、わたしの考え方に合致する意見を採りやすい。
 常にそんなことを考えながら書いている。

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ウィキ の「会津戦争」によれば、
(出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年6月)) という注釈付き



会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て従来から主張していた和議恭順を藩主・松平容保に勧めるが、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。

しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な租税を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。

 とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにした。

また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも、領民たちの恨みを深くした。

そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、反発するどころか、歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。


 とあり、その説明では、


会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた。

江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで会津藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった。

『斗南藩史』でも会津領内では藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれた農民など領民の立場からしてみれば、長い間の施政に対する領主への不満に加わったとして会津藩や藩士がほとんど支持されていなかったことなども敗因の一つであると指摘されている。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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