林 元美(はやし げんび) 林裕校注 平凡社 1978.6
林元美(1778−1861)は江戸時代の囲碁四家の林家の十一世当主。本来坊門(本因坊家の弟子)であったが、十世林(鐵元)門入の死去に伴い、坊門から移り林家の当主となる。旧姓は舟橋。
林家では代々門入を名乗る例が多いが、林元美はこのままで通した。
引退(1849)後に(1852)八段を許された。
この本は、1849年に発行された。そして林家分家の林佐野から、その養女の喜多文子に伝えられた。
1914年、林佐野の三女の女流棋士林きくがまとめて、大野万歳館より出版された本がこの本のもとである。1849年の原本は失われてしまった。写本が国会図書館にあるという。
囲碁の史話、説話、随筆、記録類を集め、注と評論を加えたもの。囲碁界にあっては貴重な資料である。
だだし、市井の噂のような根拠の薄い話もあって、注意が必要である。たとえば、日蓮と弟子の日朗の対局、武田信玄と高坂弾正の対局、真田昌幸・信幸親子の対局などが、棋譜とともに紹介されている。すべて疑わしいのだ。偽作らしい。
本能寺の変における三劫の話など、あちこちに引用されていて、歴史的事実であるかのように扱われているが、確認できていない。
第一世本因坊算砂が、秀吉によって碁所に任命された話は明らかな間違い。当時は碁所の制度はない。
その他の話も、引用するときは注意が必要だ。
当時のエンタメとして書いたのかもしれない。それでも貴重な情報が多い。
多くの棋譜は特に貴重である。残念ながらわたしには鑑賞するだけの力がない。
本文は江戸時代の文体である。写真はその一例である。こんな調子で書かれているので、かなり読みにくい。下巻P122。
碁では引き分けを持碁という。写真の文はそのことに触れている。わたしはこの部分を読みたくて、この本を手にした。
囲碁贏輸(勝ち負け)なきを持碁と云うは、正字にあらず。歌合わせに勝負左右にこれ無きを持と云うに倣えるなるべし。しかれども、「囲碁三十二字釈義」(『玄々碁経』)を見れば、持は「せき」の事をいうなり。持碁の正字は芇なり。……
次のように解釈した。
引き分けを日本では持碁(じご)という。しかし正しくは芇(べん)である。ゆえに芇の字に「じご」の訓を与えた。
現代中国語では和局という。書物上ではなく口語では、芇(べん)はいつ頃まで使われたのだろう。
芇
音読み:ベン、 メン、 バン、 マン
訓読み:あたる、 じご
写真中に“路”とあるが、助数詞で一路は一目。唐代あるいはそれ以前に中国で用いられた。