2007年06月21日

奔流

    田中芳樹  詳伝社   1998
 日本ではあまり知られていない物語である。時代は南北朝の梁の武帝(在位502〜 549)の時である。
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 南北朝時代の梁(502〜557)は建康(南京)を都とし、淮河を挟んで北朝の魏と対立していた。
 当時仏教が盛んで、南朝四百八十寺(なんちょうしひゃくはっしんじ)と杜牧の江南の春に歌われている。北朝も仏教は盛んであった。 この時代に淮河の中流域の鐘離で、鐘離の戦いという、中国史上最大級の戦いが行われている(506〜507)。建国まもないころである。
 建康から鐘離まで約150キロと思われる。
 北朝の魏軍八十万。対する南朝の梁軍二十万は、陳慶之らの活躍で降り続く雨を味方にして、魏軍を撃退した。
 後に陳慶之は、騎馬隊七千騎だけで、魏の都洛陽を落としている。
 この梁の武帝は名君に属する。しかし晩節を汚しているのが惜しい。
 武帝の下で梁国内は平和な繁栄を謳歌したが、国境では常に戦争が続いていた。平和とは、国内が戦場にならなかったという意味だ。

 おもしろいのだが、地理的にかなりの問題を含んでいる。
 はじめに六世紀初頭の地図が載っている。
 この物語のポイントとなる合肥という町がある。地図上では淮河の中流域で、この城の攻防が鐘離の戦いの前哨戦となる。
 ところが実際の地図では、合肥は長江と淮河の中間あたりにあり、緯度では南京より南にあるのだ。
 淮河の形からみて、河道の変わった様子はない。町が移動することはありえる。が、合肥が引っ越しした話は聞いたことがない。これは確認したかった。
 そして合肥から洛陽までおよそ550キロある。
 鐘離の戦いの前に、梁軍は洛陽の東100キロ2日の距離のところまで来ていて、暴風雨のなかで、30万の梁軍は敗北する。一夜にして5万の軍を失い、残った25万は合肥を目指して逃走する。
 殿軍をつとめた昌義之は、

「韋予州と打ち合わせてある。ひたすら合肥まで走れ。合肥につけば助かるぞ!」
 当然のように昌義之が殿軍をつとめ、暴風雨のなかを、かつ戦い、かつ走った。


 合肥の直前まで追撃してきた中山王は、そこで馬をとどめた。
 そして洛陽に帰還する。
 後ろからは、中山王率いる魏軍が追撃する。歩兵が戦いながらの逃走で、もちろんお互い飯を食う暇さえなかろう。まるで一日で合肥にたどり着いたような記述だが、この距離は東京から岡山ほどである。
 さらに途中には、橋のない淮河という大河がある。このように、あれー? と思うような箇所がいくつかある。

 登場人物では、梁山伯(りょう・さんぱく)と祝英台以外はすべて実在の人物。梁山伯と祝英台は著者が入れたが、使い方は伝説とはかなり違う。このふたりの悲恋物語は京劇にもなっている。
 金庸小説では、連城訣で、戚芳が蝶を作って梁山伯と祝英台と名前を付けた場面がある。

なお、碁の記述があり、それはかなり無理があるのだが、詳しく別記した。「奔流」の碁
posted by たくせん(謫仙) at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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