2018年09月15日

会津戦争の鶴ヶ城

会津戦争の鶴ヶ城

 昨年の春に行った会津若松に、今年の九月も行ってきた。団体で東山温泉に二泊し、その後ひとりで駅前のホテルに三泊した。

18.09.14.13.jpg
 ひとりになってから訪ねた御薬園のガイドから、会津戦争の話を聞くことができた。
 会津武家屋敷で書いた疑問の答えである。
 新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
 西郷の家族の自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。

 答えは「入っていた」のである。

 小田原城は町全体を囲む堀をもって戦ったため、豊臣秀吉軍も落とすことができなかった。のちに大阪城も外堀を構え、秀吉は「この掘がある限り大阪城は落ちない」と、豪語したという。江戸城も鶴ヶ城も真似て外堀を構えた。
 鶴ヶ城の外堀は、今では埋め立てられてしまったが、会津戦争当時はあったのだ。
 その外堀が役に立たず、その日のうちに無抵抗で破られてしまった。その理由である。

18.09.14.jpg
 当時会津軍は各地に散っていた。8月21日の母成峠の戦いで敗れ、最後に残された少年の予備軍である白虎隊まで投入したが、それも一撃で敗れ、23日には新政府軍は城下に突入した。
 白虎隊とは、数え16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。現代なら中学生だ。
 外堀で戦うにも、もはや兵はいない。その日のうちに外堀の内側まで入られたのである。
 城の中に残っていたのは、女性・老人・怪我などで戦えない男・城主守護役の白虎隊員や白虎隊にも入れないこどもだけであった。
 本来ならここで落城である。しかし、落ちずに一ヶ月後に降伏することになる。
 鶴ヶ城が落ちなかったのは、攻める新政府軍の事情もあったにしても、この人たちで一ヶ月も保ったのだから奇跡的である。

 会津城下の庶民は、疲労と食料不足で疲弊していた。会津藩は将軍家の軍として平時から強力な軍を保持していた。そのため酷税であったので、戦になっても庶民の支持はなかった。庶民は新政府軍の侵入を喜んだともいう。会津藩が斗南に移るときも、見送る庶民はひとりもいなかった。
posted by たくせん(謫仙) at 06:36| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。