2019年06月25日

奈良3 平城京跡大極殿

平城京跡大極殿

 電車で西大寺まで行く。そこから平城京跡まで歩く。
 わたしの知っている知識では、広い野原のなかに、区画の目印があり、近鉄奈良線が横切り、その南に朱雀門ができた。
 その朱雀門を見たいと思ったのだ。
 平城京跡の北西の外れまで来たら平城京跡資料館がある。そして平城京跡の地図があった。

IMG_3325.JPG  IMG_3327.JPG  サムネイル
 これを見ると朱雀門ばかりでなく、いろいろなものができている。
 まずは平城京跡資料館に行く。

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 まだ時間前でもあって誰もいない。

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 左が入り口だが閉まっている。

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 辺りを三十分ほど散歩して、資料館に戻る。

「まだ時間前ですが、入って構いませんよ」と言われ入った。
「よかったらご案内します。ボランティアのガイドがいますから」
 ガイドをお願いして、二人で話しながら館内を歩く。
 暫くすると、二人の先生と小学生の団体が入ってきた。そちらも別なガイドが説明している。

 奈良時代は70年と言われるが、はじめは第一次大極殿(だいごくでん)で、一度遷都するも戻って来て、第二次大極殿を第一次大極殿跡の東側に建てた。
 この遷都の時、柱や屋根はもちろん、敷石まで運んで組み立てたという。
 戻って来たときも同じだ。建築の材料は簡単には手には入らないということだ。
平城京遷都 710年
   平城京(第一次)     〜740年
   恭仁 (くに) 京    740〜744年
   紫香楽 (しがらき) 京 744年
   難波京       744〜745年
平城京遷都 745年
   平城京(第二次)     〜784年
   長岡京       784〜794年
平安京遷都 794年

平安京遷都まで84年間を総称して奈良時代という。
平城京にしたところで、まず大極殿ができて、それから徐々に形か整ったであろう。京として計画通り完成したのかどうか。
 だから紫香楽 (しがらき) 京などは、大極殿だけ引っ越しして、街ができないうちに次に引っ越しただろう。約5年である。結局大極殿を建てる材料とともに平城京に帰ってきた。
 そんな話を聞いて、資料館を出た。

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 第一次の大極殿(だいごくでん)が見えてきた。

 復元事業情報館に入って、説明を見る。釘を使わず、材木を組み合わせる具体的な模型なども展示されている。手に取って組み合わせてみる。これだからこそ、簡単に引っ越しができるのだ。

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 仮の塀、この塀の内側が大極殿院。左の灰色の覆いは、工事中の大極殿院南門。

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 大極殿(だいごくでん)はこのアングルの写真が多い。
 最重要な建物で、国家的儀式などを行う。
 2010年(平成22年)に復元した。

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 脇から。入り口はこの面の左の方。
 屋根の二層部分は意外に小さいと思った。

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 入り口指示。

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 濡れ縁から。遠くに見える丸い植木は、ここに建物があって、その柱の位置の印。北側つまり裏側なので、内裏などがあったようだ。

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 大極殿の前の写真はこれしかない。

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 高御座(たかみくら)

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 屋根の上の真ん中にある飾り。
 屋根の左右は定番の鴟尾である。靴を横にしたような形だ。

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 天井

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 部屋の敷石

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 柱や壁は礎石の上

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 昔のまま復元したのでは、建築構造上の安全性を満たせない。基壇内部に免震装置が導入されている。

 
 余談だが、資料館には碁を打っている姿があった。奈良時代には碁は盛んに打たれていた。その盤面はよくできているが、よく見るとなんだかおかしい。イメージで言えばヌキ跡ような形なのに閉じていない。では何でそこに石がきたのか。(^_^)
 そうはいうものの、こういう展示にしては形がよくできている。よくできているから違和感が生じたのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 06:50| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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