電車で西大寺まで行く。そこから平城京跡まで歩く。
わたしの知っている知識では、広い野原のなかに、区画の目印があり、近鉄奈良線が横切り、その南に朱雀門ができた。
その朱雀門を見たいと思ったのだ。
平城京跡の北西の外れまで来たら平城京跡資料館がある。そして平城京跡の地図があった。
これを見ると朱雀門ばかりでなく、いろいろなものができている。
まずは平城京跡資料館に行く。
まだ時間前でもあって誰もいない。
左が入り口だが閉まっている。
辺りを三十分ほど散歩して、資料館に戻る。
「まだ時間前ですが、入って構いませんよ」と言われ入った。
「よかったらご案内します。ボランティアのガイドがいますから」
ガイドをお願いして、二人で話しながら館内を歩く。
暫くすると、二人の先生と小学生の団体が入ってきた。そちらも別なガイドが説明している。
奈良時代は70年と言われるが、はじめは第一次大極殿(だいごくでん)で、一度遷都するも戻って来て、第二次大極殿を第一次大極殿跡の東側に建てた。
この遷都の時、柱や屋根はもちろん、敷石まで運んで組み立てたという。
戻って来たときも同じだ。建築の材料は簡単には手には入らないということだ。
平城京遷都 710年
平城京(第一次) 〜740年
恭仁 (くに) 京 740〜744年
紫香楽 (しがらき) 京 744年
難波京 744〜745年
平城京遷都 745年
平城京(第二次) 〜784年
長岡京 784〜794年
平安京遷都 794年
平安京遷都まで84年間を総称して奈良時代という。
平城京にしたところで、まず大極殿ができて、それから徐々に形か整ったであろう。京として計画通り完成したのかどうか。
だから紫香楽 (しがらき) 京などは、大極殿だけ引っ越しして、街ができないうちに次に引っ越しただろう。約5年である。結局大極殿を建てる材料とともに平城京に帰ってきた。
そんな話を聞いて、資料館を出た。
第一次の大極殿(だいごくでん)が見えてきた。
復元事業情報館に入って、説明を見る。釘を使わず、材木を組み合わせる具体的な模型なども展示されている。手に取って組み合わせてみる。これだからこそ、簡単に引っ越しができるのだ。
仮の塀、この塀の内側が大極殿院。左の灰色の覆いは、工事中の大極殿院南門。
大極殿(だいごくでん)はこのアングルの写真が多い。
最重要な建物で、国家的儀式などを行う。
2010年(平成22年)に復元した。
脇から。入り口はこの面の左の方。
屋根の二層部分は意外に小さいと思った。
入り口指示。
濡れ縁から。遠くに見える丸い植木は、ここに建物があって、その柱の位置の印。北側つまり裏側なので、内裏などがあったようだ。
大極殿の前の写真はこれしかない。
高御座(たかみくら)
屋根の上の真ん中にある飾り。
屋根の左右は定番の鴟尾である。靴を横にしたような形だ。
天井
部屋の敷石
柱や壁は礎石の上
昔のまま復元したのでは、建築構造上の安全性を満たせない。基壇内部に免震装置が導入されている。
余談だが、資料館には碁を打っている姿があった。奈良時代には碁は盛んに打たれていた。その盤面はよくできているが、よく見るとなんだかおかしい。イメージで言えばヌキ跡ような形なのに閉じていない。では何でそこに石がきたのか。(^_^)
そうはいうものの、こういう展示にしては形がよくできている。よくできているから違和感が生じたのだ。