2015.9.23 追記
著 山颯(Shan Sa) 訳 平岡敦 早川書房 04.8
碁の強い満州娘と日本の青年士官が、満州のある町の千風広場で碁を打つ。
この碁は何日も打ち次ぐ。そうして心が通じ合うのだが、それを言う前に別れの日を迎える。
それぞれ苦悩を抱えた二人だが、日本の青年士官は北平(北京)へ移動する。
娘はその前に、故郷の町にいられなくなり、男と一緒に北平に行く。だが、その男に愛想をつかし、故郷まで戻ろうとする。その途中で、日本青年士官と再会する。
進退窮まって、二人は……。
著者の山颯は名前で判るように中国人である。
北京生まれ、11歳で詩集を出版、18歳までに4冊。1990年、17歳で渡仏。2001年フランス語で書いた3冊目の本がこの「碁を打つ女」。
前の2冊はフランス語について、助けてもらったが、この本はすべて自分で書いたという。まさに言葉の天才であろう。
わたし(満州娘)の話と、私(青年士官)の話が、数ページずつ交互に現れる。まるで碁を打つようだ。そして、千風広場で運命の出会いがある。
日本の侵略を告訴する話ではなく、民衆の苦しみを訴える話でもない。敵対する国の、二人の出会いの重さを語る小説といえようか。
さて、著者の棋力が問題となりそうだが、わたしの感じでは、碁は知っているが、あまり強くはないと思う。
霧氷につつまれ、千風広場で碁を打つ人々は、まるで雪だるまであった。鼻から口から白い息を吐き出している。縁なし帽の端から、小さな氷柱が地面に向かって伸びでいた。
冬の戸外で碁を打つのだが、満州では、この凍てつく寒さの中で碁を打ったものなのか。このシーンが不思議であった。
言葉を交わさずとも、石を打つ音で相手の気持ちがわかる場面。まるで金庸小説のようだ。
日本に対する知識は「よく勉強しました」という程度だが、その勉強の程度が半端ではない。普通の日本人では太刀打ちできないだろう。ただ現場を知らない技術者の意見のような、どこか現実感の薄い表記が目立つ。
たとえば刀。まるで日本軍の主力兵器のように書くが、刀は兵器としては役に立たなかった。これが武器となったのは、武器が禁じられた平和な時代だけだ。ただし象徴にはなる。この区別が判っていないと…。この区別が一番判っていないのは日本陸軍だ、という説もある。
満州における日本軍の行動も、そういう風に中国の教科書に載っていました、というごとく。
もっとも戦中戦前のことは日本人でも知らない人が多く、わたしでもよく知らない。だからわたしの指摘が見当違いである可能性も高い。
一般民衆が息を潜めて生活していた、誰かがあの人はおかしいと言っただけで一家が離散した。そんな文化大革命時代が終わるころ著者は生まれている。その時の記憶が中国社会に残っていただろう。
そんな時代の中国軍が現実のモデルではないか。
そんなことを承知で読むと、読めます。わたしの場合、囲碁ネタでなければ読まなかっただろう。
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2015.9.23 追記
この話が 囲棋少女 として映画化されるという。
主役はあの劉亦菲(liu2 yi4 fei1)だ。
あの、というのは、武侠ドラマで何度か紹介しているからだ。
山颯と劉亦菲は8年前に映画化を計画したが、種々の原因で延び延びになっていた。このたび、二人は会って、当時の夢を完成させようとした。という。
8年前といえば二十歳頃、「神雕侠侶(神G侠侶)」が完成してまもなくだ。
映画のために改変もあるだろうが、小説の基本は崩さないでほしい。
「囲棋少女」は劉亦菲のもっとも好きな小説だという。
劉亦菲は碁を打てるのだろうか。