土塁の前に小田原を潤した上水道を見る。
早川に堰を作り、一部を分流させた。
右が城下への分流である。
取水口の様子である。現在はほとんど流れていなかった。
取水口から下流を見る。
ここから土手(国道)の下をくぐり、城下へ続く。
写真を撮り損ねたが、狭い水路であった。
この水路が江戸の上水道の原点という。
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小田原城は総構(そうがまえ)で知られている。城下全体を守っている。秀吉の小田原攻めに備えた。これを知った諸将は、小田原の戦いの後、自らの城下にも総構を施した。
会津では役に立たなかったことは前に書いた。守る兵がいなかったのだ。
ところでわたしは何度か中国旅行をしているが、中国の城とはこの総構である。それはレンガや土の塀である。だから城とは総構の都市を指す。戦国時代の人も知っていたはずで、これまで総構の考え方がなかったのが、不思議に思えるほど。日本なりの事情があった。
(以下、グーグル地図を見ても判りにくいが、★印で検索すると出てくる)
国指定史跡 小田原城跡 総構 城下張出(平場)★
小田原の前は海、後ろは丘陵。その丘陵に施した総構(そうがまえ)の一部である。
城下張出(しろしたはりだし)とは、突出した部分で、総構に取り付く敵を横から攻撃した。
ブラタモリで見たような…、ここから堀を見る。
総構 城下張出(堀)
調査の結果、総構の土塁の一部がある程度判ってきた。
一帯は立ち入り禁止である。ポリの紐で囲っているだけなので不心得者は入ることができるが、あえて入る気はしない。このときはわたしひとり。
違った位置から。
大きく巻いて、下に降りて、脇から見る。
民家が映り込むのは申し訳ない。
近くの畑であるが、ここは堀を埋めた。その跡が階段状の農地になっているが、判りにくい。
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三の丸外郭 新堀土塁 ★
ここは総構を構築する前からあった。総構ができて、その内側の堀となった。
段になっている。
一番上はこんな石がある。建物の礎石だろうか。
高低差はさほどではない。上からは見晴らしはよい。鎧武者が歩いて上るのは無理だが、もう鉄砲の時代である。
見張りと砲台の役目であろう。
四角くへこんでいるのは建物の跡か。
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小峯御鐘ノ台大堀切東堀 ★
こみねおかねのだい
三の丸外郭 新堀土塁に隣接して総構の堀切がある。
サムネイル
この空堀の説明。
かなり急な空堀だが、秀吉の大軍を前にして、役に立ったのだろうか。
秀吉には、一夜城を作る土木力があり、戦いに備えていても、戦闘のない十万を超える兵士がいる。その力で数ヶ月かければ、これら堀を埋めて崩してしまえるのではないか。
そもそも秀吉の戦いは、兵を死なせない戦いである。戦闘はできるだけ避けた。兵糧攻めや水攻めである。そのためには金を惜しまない。
それまでの戦いは遠征軍は補給が続かないため、短期決戦で乗り切ろうとした。しかし秀吉軍は補給は問題ないので、決戦はせず、にらみ合うのみである。却って籠城軍の方に補給の問題が生じる。
こういう空堀は、短期決戦のときには役に立つだろうが、長期に渡ってにらみ合う場合は効果が薄い。もしかすると秀吉は、逆に城を包囲する堀として利用した可能性も考えられる。
この右が、城山公園である。なんと立ち入り禁止になっていた。
大外郭堀 ★
少し戻って西へ行くと、未調査の空堀がある。
大外郭堀である。
下は山道らしき道があるようだ。行きたいと思わなかったが、写真で見るときちんとした道がある。降りて見ておくべきだった。
堀の土を盛り上げた。
引き返すと、森の中にも堀があると説明があるので入ってみた。
小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北の端か。
これが堀の土を盛り上げたのであろう。この左が堀である。右側は民家である。
急な斜面の下は堀であるが、山道らしい。さほど深くはない。
ここから民家の前の道に出た。
一時間ほど山の中をさまよったような気になったが、地図で見ると、民家と畑の間にある細い藪を歩いていたようだ。(^_^)。
山ノ神堀切 ★
未調査である。当然もっと深かったはず。
山ノ神堀切の向こう側、脇に詳しい説明がある。
先に触れた城山公園だが、立入禁止になっている。これもポリひもで囲んであるのみ。自由に出入りしている。
禁止理由は、「先の台風で枝が折れたりしていて落下の危険がある」という。
一目見て、こんな安全な山は滅多にないと思うが、実はここは山の中ではなく、住宅街の中の公園であった。