東京都荒川区南千住にある曹洞宗の寺院。あまり知られていないが、無名でもない。
791年に坂上田村麻呂将軍によって開かれ、八幡太郎義家が再建した、と伝わる。
門前からも見える観世音菩薩が古い寺にしては珍しい。
仏塔のような外観が異彩を放っている。
史跡
彰義隊士の墓、旧上野黒門、小塚原旧跡。
わたしは黒門があるので見に行った。
本来は百観音で知られていた。ただし、安政の地震で観音堂が倒壊、現在は三十三体が本堂にあると言う。それは見なかった。
黒門
これは上野寛永寺の総門であった。寛永寺は上野公園のほぼ全域を境内としていた。その南の正門で、官軍と彰義隊の激戦の中心となったところだ。
冠木門であり、正門にしては質素な作りである。
たくさんの弾痕がある。
戊辰戦争は鉄砲の戦争であり、弾丸の量が勝敗を分けた。
荒川区指定の有形文化財となっている。
裏側
八幡太郎義家が、奥羽征伐のとき、賊の首48をここに埋め、四拾八塚を築いた。
それでこの辺りが小塚原と呼ばれるようになった。
石造七重の塔には銘があり、現存する荒川区最古の石文である。遠くて判らなかった。
元からの石像か?
円通精舎、榎本武揚の書。
黒門とその後ろの彰義隊士の墓などは大きく囲われている。
中に入る。
さかるほと 見あける人や ふちの花
と読めたが? (2字目自信なし)
曼珠沙華
自然に傾いたのか?
慶応四年(1868)五月十五日に戦死した彰義隊士の遺体が放置されていたのを、円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野に行って斬首覚悟で供養した。拘束の後、埋葬の許可が出た。
これが縁で、明治40年10月に、帝室博物館より黒門が円通寺に贈られた。
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余録
東京オリンピックの前の年(1963)、吉展ちゃん誘拐殺人事件があった。
2年3ヶ月後、埋められて白骨化した遺体が円通寺で見つかった。
その供養のため、「吉展地蔵」か建立されている。
古い写真とは異なるので2代目の像か