2007年07月31日

海東青

 海東青−摂政王ドルゴン  井上祐美子  中央公論新社 00.7
 題名の海東青はハヤブサの一種「鶻」である。満州族の故地に生息するという。
 ドルゴン、この名を聞いてすぐに判る人は、かなり歴史に詳しい人であろう。満州族「清」では、歴代皇帝以上の重みを持つ人物である。
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 太祖ヌルハチが「金」の国を再興する。そのヌルハチには当然ながら多くの子がいる。
 太祖はドルゴンを次代のハンと目指していたが、志半ばにして没し、まだ子供であったドルゴンは傍流となり、嫡流のホンタイジが二代目となる。
 ホンタイジはドルゴンの聡明さに着目し、若くして高官に抜擢する。
 他の有力者が戦争を略奪のために行うことしか考えられない時に、いち早く、統治することを考えたのである。
 ホンタイジは、国号を「清」と改め、みずから皇帝となる。その意味と行動の理解者はドルゴンだけであった。
 ホンタイジは、いよいよ中原に進出しようとし、まず永平府を手に入れた。ここは北京と寧遠城(長城の最東端)の間にあり、絶好の基地となる。
 そして北京の南の山東の諸城を攻めるが、なんと永平府の留守を預かった有力者たちが、ここを留守にして付近の略奪を行っているうちに、永平府を奪われてしまう。
 驚愕したホンタイジは遠征を中止しする。
 再び明を攻めようとする矢先、ホンタイジは病死する。

 三代目を誰にするか。
 みずからも有力な候補者であったドルゴンは、幼児のフリンをたて、みずからは摂政となることで、会議を決する。
 フリンは後に順治帝と言われるが、この時はわずか6歳。(陳舜臣の「中国美人伝」では5歳)
 フリンの二年目に、ドルゴンが北京を目指して寧遠城で呉三桂と対峙している間に、明は李自成によって亡んでしまう。
 呉三桂と同盟して、北京を奪い、ここに清帝国が中原を手にする。

 呉三桂が清に帰順するとき、ドルゴンは弁髪になることを要求した。それを帰順の象徴としたのだ。
 ホンタイジの言葉「衣服、髪型が気に入らぬから、善政を捨て悪政を選ぶというのも、妙な話ではないか」
 上に立つものが公正で、国と民人の利益を考えている限り、風俗の好き嫌いなど問題ではないはずだ。
 ドルゴンもその方針を変えなかった。
 それゆえ、帰順した百官がドルゴンを帝王の礼で迎えたとき、それを退け
「私は、周公旦として来た」
 孔子の理想とする人物に自分をなぞらえたのだ。
 中国の故事来歴、文化、そしてなにより、大義を理解していることを、群臣に知らしめるとともに、自分自身に対する宣言でもあった。
 ドルゴンは摂政として君臨する十年間ほどに清帝国の基を築きあげる。

 亡くなった時は享年39。皇帝の礼で葬儀は行われた。
 フリンは15歳、ドルゴンの葬儀の1ヶ月後、ドルゴンに罪を着せて親族の名誉や権利を剥奪する。
 それ以外は24歳で亡くなるまで、目立ったことをしていない。するべきことはすべてドルゴンがしてしまっているのだ。
 一応名君といえよう。国民を困らせるようなことをしなかったという意味だが。
 その子は康煕帝、康煕帝の孫の乾隆帝の時にドルゴンの名誉は回復される。

 清朝の初期はこうして名君が続いた。それが中国に受け入れられた原因だろう。元が草原に追い返されたのと異なり、清は中国に融け込んでいった。
 今でも日本で中国服といえば満清服(チーパオ)のことである。
posted by たくせん(謫仙) at 09:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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