2007年08月29日

秦始皇帝陵の謎

    岳南  講談社   1994.12
 わたし(謫仙)が初めて西安を訪れたのは1966年である。是は「西安満喫夏紀行」に書いた。
「西域1999年」にも2度目の西安旅行を書いた。あの中に始皇帝陵のことも書いたが、幾つかの誤解に近いことがある。
 あの文を書く前にこの本を読んでいたら、もう少し別な書き方をしたであろうと思う。
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 始皇帝陵の側近くから今世紀最大の考古学上の大発見となった「兵馬俑」の大地下軍団が発掘された。二千年の眠りから覚めた遺物群が、語りかけるものは何か。歴史の闇に閉ざされた始皇帝と秦王朝の、真実の姿に迫る。

 わたしが一番気になったのは始皇帝陵は空ではないかということだ。項羽と劉邦の争いの折、項羽の軍など30万人が一ヶ月かかって宝物を運び出した(墓を荒らした)。それが日本人の常識となっている。わたしはそれをもとにしたが、本書によれば、その根拠となった書物が必ずしも正確とはいえないらしい。
 つまり項羽の悪口を言うために書いたふしがあるため、未盗掘の可能性があるという。

 この本は、大部分を兵馬俑の説明に費やしている。
 兵馬俑は1974年の大旱魃の時井戸を掘ろうとして発見された。だが、歴史書を読んでみると何度も見つかっている。しかも全体の大きさも知られていたという説もある。
 たとえば満州のドルゴンが北京を占領した年、地底の怪物を見つけたという記録がある。
 さて1974年の再発見のとき、その価値を判る人が見たため、本格的に発掘することになった。文化大革命の混乱の中であった(4人組が逮捕されたのは1976年)。

 1号坑は東西230メートル南北62メートル、馬と人で6千体あまり。この時青銅の武器は数十万点も多く発掘されている。それでも大半は奪い去られたという。数のバランスが悪い気がするがどうだろう。
 重要なところは当時の軍隊の様子が判ることである。今までは文字だけで推測の域を出なかったのだ。
 後に二号坑三号坑も発見され発掘している。二号坑の発掘の日が第一次天安門事件のあったときである。
 わたしが注目したのは中国人が「第一次天安門事件」と書いたことだ。してみると、第二次天安門事件も、一九九四年以前に国民に知らせた(知らせることを許した)ことになる。
 一号は歩兵軍団、二号は戦車・弩・騎兵などの軍、三号は将軍の住まいである。
 なお兵馬俑は焼かれている。これに対してもいろいろな推理があるが、決定的ではないらしい。たとえば項羽の焼き討ちだが、つじつまの合わないところがあるという。羊を飼っていた牧童が誤って焼いてしまったという説もある。

 一九八〇年には陵の側で、2輛の銅車馬が発見されている。始皇帝が全国を巡行したときの車のようであるらしい。これこそ最高の発見であった。
本の八割を過ぎて、ようやく始皇帝の陵墓の話になる。

 七〇万人もの労働力で三九年間も造営を続けらながら、始皇帝の葬儀までなお完成していなかった陵墓は、まず項羽の大軍に荒らされた。 −略− 始皇帝陵にも足を踏み入れ、項羽の命令で陵墓が掘り起こされ、あらゆる地上建築が壊され、大火は何日も燃え続けた。これは始皇帝陵の被った最初にして最大の打撃であった。 −略− 
 清朝に代わった中華民国の時代には、軍閥の混乱が続き陝西の軍閥もあちこちで発掘、大量の金銀財宝を持ち去った。これは項羽、黄巣に続く大規模な盗掘だった。


 とあり、空ではなかったことになる。史記の記述についても、記述を裏付ける考古資料が多く見つかっており、信憑性が高い。
 ところで、漢代に記録された項羽の盗掘の記録は信憑性が薄いらしい。そのため、かなり残っているのではないかと思われる。ただし、そういう期待がその説を強めている可能性も高く、断定的なことはいえない。
 将来、発掘技術・保存技術を高めてから、発掘する予定。
posted by たくせん(謫仙) at 09:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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