2007年08月31日

長安物語

   伴野朗   徳間書店  1997.7
 西安満喫夏紀行に
懿徳(いとく)太子も永泰公主もよく聞く名前ながら、どんな人だったのかさっぱり思い出せない。 
と書いたが、この本にその解答があった。
 二人とも武則天の孫であった。 永泰公主は武延基に嫁いだ。武延基は名から判るように武則天の親族である。
 懿徳太子の名は李重潤、父は54日で皇帝の座を追われた唐朝第四代中宗である。中宗は武則天の退位後返り咲く。中宗の後を継いだ第五代睿宗は6年の在位で首になったが、中宗に同じく返り咲く。

 小説なので、以下は史実かどうか判断ができかねるが、史実でないとしても、それに近いことはあったであろう。

 懿徳太子19歳、永泰公主17歳の時であった。
 懿徳太子と武延基が、武則天の行動を批判する内容の会話をしてしまった。それが宦官の耳に入って、武則天に届く。あっという間に二人は処刑されてしまった。その話を知らない永泰公主も連座した。永泰公主は何をしたわけでもなかった。
 なお、武則天の非情さはいろいろいわれるが、ひとつだけいいことがあった。この当時、ごたごたは皇室などにとどまり庶民を巻き込まなかったので、庶民は穏やかに暮らしていたという。これは希有のことなのだ。
 盛唐といわれた時代。日本からは遣唐使が派遣され、阿倍仲麻呂が唐の高官となり、杜甫や李白などが詩を競い、牡丹を愛でて「一城の人狂えるがごとし」と歌われた玄宗皇帝の御代。
 その玄宗皇帝の一代記である。

 武則天が最高権力者になり、ついには皇帝となって国は「周」となり、クーデターによって「唐」に戻る。復位した中宗は無能で、韋皇后に権力を握られる。しかし、武則天の真似をしようとする韋皇后は政治能力がなく、さらなるクーデターによって、睿宗が復位、間もなくその三男が玄宗皇帝となる。
 聡明な玄宗も晩年は楊貴妃におぼれ、政治をかえりみなくなり、無能の楊国忠を起用し、安禄山の乱を招く。
 世界帝国といわれ、日本に影響の大きかった唐も内実はなかなか複雑であった。

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 わたしはいつも思うのだが、伴野朗氏の小説の創作部分は、なぜかしっくり溶け込まない気がする

 この本では上官婉児のこと。わたしの場合「上官婉児」に書いたような先入観があるので、無理を感じてしまうのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
?徳太子の最初の文字がよめません。どうゆう読みでどういう意味なのか教えてください。
Posted by 龍之介 at 2007年09月02日 05:28
懿徳太子は「いとくたいし」と読みます。
わたしも目にするだけで耳で聞いたのは、西安旅行が初めてでした(^_^)。
諸葛孔明の敵役、司馬懿仲達が「い」と読んだので、読み方は知っていました。
旅行記とこちらに仮名をふっておきましょう。
意味はなんでしょうか、わたしも名前以外で見たことはありませんので、m(__)m。
辞書で見たら、「麗しい、立派な」というような意味でした。
日本の天皇にも懿徳天皇という名があります。
貴重なコメント、ありがとうございます。
Posted by 謫仙 at 2007年09月02日 07:17
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