2007年10月27日

永楽帝

   伴野朗  徳間書店  1999.7
 永楽帝は明朝の三代目である。しかし、実体は北明(謫仙造語)の初代と言っていいのではないか。
         
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 初代皇帝の四男朱棣(しゅてい)は、甥の建文帝から帝位を奪い、明の三代皇帝に即位した。鄭和(ていわ)に大航海を行わせ、自らはモンゴルまで5度も外征した武人である。

 明の初代洪武帝は、明を建国すると都を南京に置いた。すぐに建国の功臣の粛正に乗り出した。理由は次の代に、実力者に国を奪われないためだ。しかも宰相を置かず、自らが宰相も兼ねた。権力の集中である。
 そして自分の子供たちを王にし、藩塀として、各地に送り出す。四男の朱棣(しゅてい)は燕王として北平(北京)へ行く。
 
 都では皇太子が没し、皇太子の子が皇太孫として立つ。洪武帝の死後、皇太孫が、二代目建文帝となる。
 この時はすでに建国の功臣はいなくなっており、帝位を脅かす者は、むしろ各地に派遣した王たちであった。
 少年の建文帝は自ら判断できず、家臣のいいなりに近かった。その進言によって各地の王の粛正に乗り出した。しかし朱棣は逆にクーデターを起こしたのである。これを靖難の変という。
 優れた家臣をすでに初代が粛正してしまったため、建文帝には対処できる有能な家臣がいなかった。

 朱棣のクーデターは成功したが、決して簡単ではなかった。基本的な軍事力の差が大きすぎたのだ。始めた時はわずか八百。皇帝の遠征軍は三十万と号した。何度も薄氷を踏んでいる。これを打ち破ると、更に五十万と号する皇帝軍も打ち破る。
 朱棣はついに南京を落とし、三代目永楽帝となる。この時、建文帝を取り逃がしてしまう。
 建文帝は南海に逃れた。
 永楽帝は明を世界帝国にしようとし、鄭和の大航海を計画する。同時に南海に逃れた建文帝の捜索も密かに命ずる。
 都も北京に遷都する。以降明朝の都は北京になる。

 この小説に永楽帝の密偵として日本人が出てくる。史実だろうか。
 また、永楽帝に一門を殺された方孝儒には、知られていない庶子(女)がいた。これがある男を利用して、復讐をはかるのだが、この男がなんとエスパー。
 このエスパーが登場するシーンは浮いてしまう。しかもエスパーは物語にはなんの関係もない。忠臣蔵に義経が登場したようだ。
 そして鄭和が探した建文帝はイスラム教徒とてメッカに住んでいた。

 わたしはこの日本人・エスパー・メッカの建文帝は、浮いてしまって、この物語にはうまく嵌め込まれていないと思える。
 伴野朗の小説はどれをとっても、こういう浮いてしまうところがある。
 せっかく資料を駆使しているのに残念だ。
posted by たくせん(謫仙) at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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