金庸の最後の小説である。
主人公は武侠小説史上最低のヒーローだそうだ。
相変わらぬ、ご都合主義。このご都合主義を必然にするため、いろいろ工夫をする。それがストーリーを複雑にして、面白くするのだが、それを嫌う人もいる。わたしはそこが好きだ。さらに史実とも適合させなければならず、このあたりも読者の楽しみ。
康煕初年、揚州の花街で育った十二三歳の無頼少年「韋小宝」が江湖の「茅十八」に連れられて、揚州から北京に行き、二人そろって、宦官の海大富にさらわれ紫禁城に入る。「茅十八」は天地会に助け出され、韋小宝は偶然の積み重ねで、目の見えなくなった海大富の小姓の小桂子になりすまし、紫禁城で生活することになり、少年康煕帝にであう。
康煕帝と韋小宝は、二人で協力して、越権の多いオーバイを牢に入れる。
韋小宝は偶然にオーバイを殺すことになり、その功によって、反満組織天地会の幹部になりそうなところまで。このころ康煕帝は韋小宝より一歳か二歳上で十五歳。
海大富は労咳で死に、韋小宝はその後釜となる。
この小説の舞台は清朝初期であり、当時は徹底的な言論弾圧が行われた。名君の続いた清朝の暗部といえる。
金庸が執筆したのが文化大革命のころ。本文中では子供の韋小宝が茅十八をからかったりするが、茅と毛はおなじ発音(マオ)。重ね合わせて読む人が多い。著者は否定しているのだが。
題名の鹿鼎について
「中原に鹿を逐う」
「鼎の軽重を問う」
などという言葉があるように、中国の皇位や権力の象徴である。
第一巻は康煕初年としながら、実際は康煕帝十四歳から十五歳のころ、康煕七年から八年であろう。半年ほどの間に、韋小宝が揚州から北京に来て、ソニン死去、スクサハ刑死をえて、オーバイ暗殺にいたる。
カバーの絵はどう見ても八歳のころであろう。康煕初年である。
清朝は名君が輩出して世界に冠たる大帝国を築いた。しかし、二代ホンタイジが亡くなって、六歳の順治帝が即位し、翌年北京を占領し中国王朝となり、順治帝が二十四歳で急死し、八歳の康煕帝が即位したことを見ると、決して順風満帆ではなかった。
わたしは明王朝があまりに酷かったため、復明勢力が民衆の支持を得られなかったのではないかと見ている。