2008年02月13日

真説・智謀の一族 真田三代

  三池純正  洋泉社  06.6
 真説と名乗る本に真説は少ないが、この本も推測の部分が多く、謎は解明していない。巻末に80冊ほどの参考文献が並んでいるが、それらを寄せ集めて判りやすく再編集しただけの感じもする。だから新しい発見はない。
 まあ実際、このような研究はそうするもので、研究材料を示しただけ良心的なのだろう。わたしのような素人にも判りやすい。
 真田三代とは、真田幸隆を初代として、昌幸を二代目、信之と幸村の兄弟を三代目とする。
       sanadaichizoku.jpg
 真田の故地には真田歴代の墓が発見されているのに、海野氏の没落時に、海野氏嫡流が真田に改姓したとして、幸隆が真田の初代となった理由の推測。一族の将来を武田信玄にかけた背景、といっても結局は謎。
 質素な上田城は真田の城と言われているが、実際は、真田の城は跡形もなく壊されて、後に仙石氏が築いた城だとか。
 真田の城は、なんと瓦が金メッキだった。これは豊臣秀吉に与した、江戸の徳川家康包囲網の特徴だとか。
 昌幸が武田・北条・徳川・豊臣と何度も主人を変えた理由は、滋野一族の領国安堵で…ってあたりまえのような気がするが、ここに海野氏は滋野一族の本家で、真田はそれを継いだという建前が生きる。故に真田の以前の墓所を隠したのではないかと推測する。
 徳川軍が上田城を攻めたときは上杉の援兵もいて、単独で防いだのではないとか。
 関ヶ原の戦いに向かって進軍していた秀忠軍が、上田城の戦いで足止めされたのは、路銀不足で立ち止まったところに真田がいたから、攻めただけだった。一部が路銀を求めて江戸まで戻ったという。これも諸説のひとつ。
 おいおい、徳川本軍が路銀不足で立ち止まるか。傭兵ではあるまいし、立ち止まっても路銀は同じようにかかるだろうに。そもそも、路銀の問題で立ち止まらなければならず、関ヶ原に間に合わないとなれば、路銀の用意をせずに上田まで来た徳川軍はバカである。
 大阪の陣での真田勢の活躍は、偶発的で、追いつめられた立場だったからとか。
 まあ戦はお互いが相手の裏をかこうとするので、偶発的な面が多いが、そこで活躍できるのは、それなりの力があるからではないか。

 真田三代の歴史は判っていないことが多く、いろいろと言われている。ここでは諸説を紹介し、歴史的経緯を細かく推測する。今までの解釈とは違った面を強調しすぎているような気もするが、わたしの知る今までの解釈も、ほとんどは小説で得た知識で、著者の解釈を強調しているのが普通。いわゆる真実とは言いがたい。本当のところはこんなものか。
posted by たくせん(謫仙) at 08:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
風林火山の山本勘助がいなかったのは間違いないように
こういう話しは、創作のほうが面白いですね。
あとの歴史は勝者が正しいとして書かれ、つじつまを合わせます。
でも、その中にも、真実はあるかもしれないですね。

ただ、戦国を生きるためにみんな必死だったということは
間違いのない、事実だったのでしょうね。

私の町に「町の歴史を学ぶ会」というのがあるのですが・・・
そこで、講師がこんな例え話しをしました。
学者が小説家に言います。
「実際になくても、創造で本が書けるいい商売だ」
小説家が反論します。
「実際にあった事だけ書いていれば本が書けるいい商売だ」

わからないということは夢がありますね。
Posted by オコジョ at 2008年02月13日 21:40
戦国の時代、生きるのはまさに命がけ。多くの武将は死に絶え、幸運な一部の武将だけが生き残った。「幸運な」で片づけては失礼。真田のように智慧を絞って生き延びたことでしょう。
山内和豊のように、つねに大木に寄り添うのも、それなりに命がけで智慧を絞ったことでしょう。
小説は読者が共感できるように解釈していきますが、それでも、判っている事実にうまくとけ込めるか、ですね。浮いてしまうと、面白くない。
判らないことに少しでも近づこうとする姿勢が、夢を楽しくさせますね。
Posted by 謫仙 at 2008年02月14日 08:49
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