2008年03月18日

孤高の人

   新田次郎  新潮社  昭和48年2月 (初出 昭和44年)
 すごい男がいたものだ。単独行の加藤文太郎。ヒマラヤ登山を夢み、初任給から生活に必要なお金以外はヒマラヤ登山のための積み立てを決意する。
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 神戸の近くに和田岬があるが、そこから歩いて塩屋まで行き、六甲山の山脈50キロを17時間で縦走して宝塚まで行き、また歩いて和田岬まで帰ってくる。
 わたしは六甲の山を歩いたことはないが、これをわたしがやったとすれば4日はかかりそうな気がする。それを日帰り登山でやるのだ。
 歩く速さからして、わたしの倍以上、それも休まず歩くので、一日の歩く時間も2倍である。少なくともわたしの4倍の距離を歩いたことになる。
 わたしを基準にするのは問題があるが、普通に登山する人でも、加藤の半分ではなかろうか。

 六甲山で山の練習をし、アルプスに挑む。
 最初のアルプスが、中房温泉から燕岳に登り、大天井岳をえて西岳まで一日で行こうとする計画だ。だが、大天井岳で雷を伴う大雨となり、燕岳に引き返す。
 翌朝早く発ち、大天井岳で朝食。西岳をえて槍ヶ岳まで行って昼食。槍の峰に登り、それから南岳をえて穂高まで。燕から穂高まで一日で歩くのだ。
 わたしならば中房温泉から燕まで一日。燕岳から大天井岳は、歩いたことはないが半日か。大天井岳から槍ヶ岳まで一日。そこから穂高まで一日。おそらく四日かかるコースを一日で歩く。

 そして、次は真冬の八ヶ岳である。朝6時半に茅野駅をたち10時に上槻ノ木につく。ここまでは普通の道だ。そこから午後3時には夏沢鉱泉まで行く。翌日は昭和4年の元旦。雪が降っていた。いうまでもなく風も強い。夏沢峠まで往復する。そして屋外で寒さに耐える実験をする。
 1月3日、夏沢峠・硫黄岳・横岳・赤岳、そして夏沢鉱泉まで戻る。この山の稜線は台風並の風が吹くところだ。まともに立っていると吹き飛ばされる。そんなときは這って行く。わたしには夏山でも往復はできない。ある友人は、このコースは足場が悪く危険なため、夏でも通るのはイヤだという。そんなコースを台風並の風の中を往復するのだ。
 そして同じように北アルプスの中心部を冬に登る。
 これらは全て単独登山である。

 下巻では加藤の新婚時代のお金の話がある。
 加藤は高級で月給100円、20円を社内預金にして、残りの80円がふたりのひと月の生活費になる。家は3部屋に台所や風呂。
 家賃8円50銭、食費30円、だから余裕を持って生活できる。
 当時の家賃はふたりの食費の三分の一より少ないのか。現代から見ると粗末とも思える食事であろう。食費が高いのか、家賃が安いのか。

 加藤の最期は結婚して一年ほど後であった。女の子が生まれていた。
 その時後輩のためにその後輩とパーティーを組む。いつもなら一週間分の食料を持つのにわずか2日分の食料で真冬の槍ヶ岳を登る。食料は尽きた。下山すべき時に、新たに北鎌尾根に入るという。無謀とも言える後輩の行動に付きあってしまう。
 結局は吹雪にあって戻れなくなり、別ルートを下りたものの、後輩を助けようとして無理を重ね、死に至る。事情はあったが、初めてのパーティで、単独行しかしたことのない加藤は、判断を誤ったといえよう。自殺行につきあったようなものである。

 著者は富士山頂に勤務していたとき、一度加藤に会ったことがある。平地を歩くような速さで山を登っていた。
 単独行の加藤文太郎は実名である。何でこのように山に引きつけられたのであろうか。
 なお、登山時の食料は甘納豆と干し小魚。これをポケットに入れていて、歩いているときにも食べる。これで吹雪の夜でも野宿できる。桁外れの体力だ。
 最近まで一流の冒険登山家は、これと同じようなことをしていたのだろう。植村直己の死をもって、冒険登山の時代は終わりを告げた。
posted by たくせん(謫仙) at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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