シリーズ第5巻(6・7冊目)
J.K.ローリング 松岡祐子訳 静山社 04.9.1
第一巻の「賢者の石」以来快調に読んできたが、ここに来て、初めて躓いた。
p504
「…誰だか知りませんが、一人、または複数の人間と連絡していたのを見つけたんです!」
せりふとはいえ気になる。この本では校正ミスでこんな文になったとは、考えにくい。前後を読み返しても必然性がない。それをこのように訳したとは。
一人、または複数の人間
これは日本語ではない。日本語ならば、一人・複数・その他、と最低三つ以上の選択肢がある場合の、そのうちの二つを選ぶ場合の言葉だ。
ここでは、一人でも複数でもない状況つまりその他は存在しない。
人間以外の者への連絡がその他になるかとも考えたが、ここではやはり無理がある。誰だか判らないのに、人間と限定しているからだ。
「…誰かと連絡していたのを見つけたんです!」
とでもするのが、日本語かな。
あげ足取りのように思う人がいるかもしれない。だが、このような、原文がそうだといってこなれない日本語を使うのは、訳者のもっとも嫌うところだ(そう明言している!)。
もう一カ所 p469
「南無三!」
これは間違いではない。
以前、栗本薫がグインサーガで「南無三」と書いたとき、非難の声が上がった。
「南無三は南無三宝のことで仏教用語、仏教徒でない人が使うのはおかしい」
日本語ではそこから転じて、普通の言葉となっており、こだわる必要はないと思う。
だが、噛みつく人がいないとも限らない。
さて、ここにきて、ハリーは大人の世界へ半歩足を踏み入れた。それによりいくつかの謎が明らかになってきた。
★ハリーはなぜ意地悪なおじさんのところにいなければならないのか。
★ハリーはなぜ子供でもヴォルデモートに対して強いのか、つまりヴォルデモートはなぜハリーに手が出せないのか。
★校長ダンブルドアはなぜハリーに目をかけているのか。
★落第先生と思える先生をなぜダンブルドアは信頼しているのか。
などである。
また、ハリーの父親は決して良い子ではなかったことを知るのも、成長の証であり、ハリーの親同様の人をハリーのミスによって死なせてしまうのは、大人の苦しみを知る始まりだ。
こうして内容も前巻までの「児童書」とは異なり、「少年の書」に変わってきた。
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10月17日、発売後1ヶ月17日後。
千寿会に書いている囲碁クラブは数寄屋橋にあり、地下鉄銀座駅の近くだ。改札口を出て、数十メートル歩き本屋の前を右に曲がる。
その本屋だが、ハリポタを山積みしている。ざっと見て百組以上。発売からかなりたつ。宣伝しているというより、売れ残ったというイメージだ。売れているのだろうか。
初版290万部とか。本屋がもてあましているという風聞もある。
今回、あり得ない愚訳があり、訳者の厳しさが不足しているように思える。その結果かもしれない。
杞憂であってほしい。
翻訳の苦労には頭が下がるが、それが表に出てきてしまって、本よりそちらの宣伝の方が大きくなっては本末転倒。
翻訳者は後に、「ハリー・ポッターと不思議な納税地」問題を起こした。第一巻に書いた初々しさは微塵もない。それはいいが、翻訳より脱税に夢中になっては…。
2008年03月21日
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