2008年04月17日

田成子の簒奪

    沢周一郎   河出書房   1997.6
 斉の国は太公望が開祖である。紀元前1122年から紀元前221年まで約900年続いた。
 勢力の消長はあっても、大国のまま春秋の終わりを迎え戦国時代に突入する。
 その時、臣下の田氏に領主の位を奪われる。大国「斉」が滅んで新しい「斉」になった。それ以降「田斉」ともいう。その勢力交代時の田氏の頭領が田成子である。その3代目が「田斉」の国王となる。
        denseishi.jpg
 事実上の王の交代という大きな事件なのだ。それなのに、今までの歴史小説では読んだことがない。
 ちょうど孔子の時代である。歴史的には田成子と孔子が会談したという記録はないらしい。
 小説上では、田成子が孔子を批評する。その内容はわたしの思うところに近い。

 さらに、孔子を胡散臭く感じたことがある。孔子の母が得体の知れない巫女あがりだったことと、父は魯国の貴族の流れをくむ有力な士族だったというが、これは経歴を飾りたてるための自己宣伝ではないか、と思えたことだった。第一、父母が野合してできた子であるというのは、あまりにも有名な話で、隠しようがない。
 それなのに、彼らは婚礼の儀式を重視して、おごそかで重々しく、煩瑣な礼で飾りたてている。よく考えれば、おかしなことだった。
 孔子はすでに老齢で、斉国を去ったあとは、やっとありついた魯国の大臣の末席に連なり、いまは政務のかたわら、著述と後進の育成にあたっているらしい。この噂は、成子の耳にも届いていた。


 (野合とは、恋愛のこと。当時の支配階級は結婚相手は親が決めたので、恋愛結婚はありえなかった。  謫仙)

 顔回は学問に励むあまり、三十二歳で総白髪となり、陋屋で窮死した、と伝えられている。孔子は「天は我を亡ぼせり」と、大袈裟に嘆いた。つまり、自分の学問や徳行での最高の跡取りを失ってしまった、といったのである。
 顔回の父は、息子の葬儀を立派に執り行なおうと、孔子に、馬車をお借りしたい、と申し込んだ。
 ところが、孔子は、「わたしは、長男(伯魚)の葬儀のときも、自分の馬車は使わせなかった。まして、弟子の葬儀に使わせるわけにはいかない」
 と、すげなく断わった。
 詳しい事情はよくわからないが、どうも、いっていることとやることが矛盾している。孔子はこのような面では、存外、俗物だったのかもしれない。


 孔子の弟子に子貢というひとがいた。商売上手で、各地で商売をしながら孔子を宣伝していた。
 そのおかげで孔子は有名になれた。その子貢との会話はぎこちない。
 
 成子は、もう数か月前のことだが、斉国に滞在していた子貢に会ったことがある。さすが孔門一の実力者といわれるだけあって、容儀は端正だし、弁舌はさわやかだった。
「わたしは、師を尊敬しております。博学で、理想に向かう揺るぎない情熱。弟子に教えて倦むことのない熱心さ。儀礼を整え、荘重な音楽で情操を養い、詩書を学んで知性を高める。仁と義によって国を治め、さらに天下におよぼす、という師の考えは、立派な指針というべきでありましょう。わたしとしても、かくあるべきだ、と思っております」
 子貢はもっともらしい顔で、いいたてた。成子は皮肉っぼく笑った。
「いうことは立派だ。しかし、現実はどうなのかな」
「現実はきびしいものです。師は、この理想を掲げて長い間、諸国を遊説しましたが、、どこの国でも用いられませんでした」
「どこにも居場所がなく、放浪を余儀なくされた、と聞いたぞ」
「はっきり申せば、その通りです。仕官に焦った師は、評判の悪い纂奪者の招晴にすら応じょうとしました。しかし、それに応じれば、面目を失い、これまで説いてきたことが水泡に帰すことになります。そう思った弟子たちが必死で止めたので、師はやっと諦めましたが」
 子貢は羞恥を抑えながら話した。纂奪者の招聘に応じることが恥なのか、成子にはわからなかったが、なにか孔子がみすぼらしく、哀れにさえ思えた。
「なかなか苦労の多いものだな」
 成子の言葉にうながされるように、子責は話をつづけた。
「さすがの師も、理想だけでは食べていけない、と観念したのでしょう。仕官しないことには暮らしがなりたたず、政治的な抱負も実現することがかないません。そこで師は、仁義や礼楽、詩書、治国、泰平はさておき、下級役人にでもなれるようにと、御者術や算術、射術など、実用に力を入れるようになったのです。その結果、やがて弟子のなかから仕官する者も出てきました」
 成子は大きく領きながら、
「現実的になったわけだな。通俗化といってもよいか」
 と、納得するようにいった。子責はむきになって、反論する。
「そうともいいきれません。わたしたちの教団の理想は、非常に大切なものです。現に仁義の実現に命をかけ、詩書、礼楽の習得に精根を傾けている者も沢山おります。この者たちは融通が利かず、人間的な魅力に乏しいけれど、それはそれで、教団としては有用な人材なのです


 子貢がこれほどごつごつした会話をするか疑問に思うが、まあ見方は正しいだろう。

 わたし(謫仙)が孔子を好まない一つの例をあげる。
 斉の国に「礼」の客員教授(お雇い外国人)としていたときのこと。
「礼」を教える役なのに国の係官にどうするのかと訊くばかり。
批判されると
「ことごとく聞く、これを礼という」
と答えてすましている。
 それは間違いではないが、それくらいのことで高給で雇うか!
 礼というのはマナーよりもローに近い。ローを訊くのにマナーで答えている。教えてもらいたいことは、たとえば現代風にいうなら、
「父の葬式では泣き声は60デシベル3時間。兄の時は60デシベル2時間。弟の時は55デシベル1時間。君主の時は……」
という具体なのだ。
 学校に於いて、教師が講義をせず生徒に訊くばかりでは話にならない。

 さて、本題に戻って。
 斉の君主は、贅沢の為の財源が不足であった。そこで目をつけたのが、田氏一族の財産である。君主を凌駕する実力のある田氏を除くには、奇策を用いねばならない。もう一人の実力者子我の奇策に乗った。
 それに気がついた田氏の一族が逆に奇策によって田氏の長「田成子」に反乱を起こさせてしまう。

 小説としては中編に近い長編といえよう。
 文はなかなか乗りにくい。稚拙かもしれない。ただ話は急所をはずさない。
 伴野朗の文が、文は華麗なのに、内容がどこか急所を外れていると感じるのと対を為すようだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック