2024年08月14日

ある会計処理

05.12.8記
24.8.14追記

ある会計処理

 わたしが経理の仕事をしていた会社がある。その会社の社長は経理のことを知らず、税金減らしのために元税務署員を経理責任者に雇った。ところが結果的に、150人ほどの会社で、20人分ほどの賃金に相当する金を毎月使われてしまった。それなりの金額が、社長の懐にも入ったのだが、それはまともに経営すれば入る金額より少ないのだ。
 社長は食い物にされてしまったことに気づき、わたしを経理部員にした。数年して、そして元税務署員を解雇し、公認会計士を依頼し、経理の改革をはかった。わたしには会計士に全てを話しなさいと言う。
 結果、決算では年間利益200万円の会社で、◯億円という追加の税金を払うことになり、裏の金も表の金もスッカラカンになってしまったのである。
    
 怒ったというか呆れた社長夫人が、経営者の一人として経営に口を出すようになり、経理責任者となり、リストラを敢行し、出るところを締めて経営を立て直した。
 無駄をなくせば儲かる会社だったのだ。それでいながら、慣れてくると、わたしには不正経理処理を要求した。もちろん会計士が見ればひとめで判るものである。わたしは拒否した。それからは、わたしと経営者の仲は少しづつ悪化した。
 たとえばある処理を要求された。
謫仙 「ここは会計上こう処理をしなければいけません」
社長夫人「わたしが、そう処理をするためにあなたに給料を払っているんです。あなたがわたしに給料を払っているのではないのだから、わたしの言うとおりにやりなさい」
謫仙 「そうですか」
 優秀な経理員ならきちんと説明し説得するところだが、あいにくわたしは優秀ではない。
 この件については、経緯を伝票の裏に書いておいた。あとで間違った処理をしたと糾弾されないためである。
 結局、会計士の前で糾弾されたが、裏に経緯を書いてあるので、会計士は逆に社長夫人をたしなめる事になった。
 そのあと、伝票の裏に経緯を書いておいたことを糾弾されることになる。
社長夫人「会社の恥を外に漏らすとは何事ぞ」だって(^。^)。

 ここまではまだよかった。ここで会社経営の味をしめた社長夫人は、自分で会社を設立したのである。十数人の工員を雇い会社を始めたが、たちまち倒産してしまった。
 その理由がなんと「売上」がなかったのである。出るを制することを知っていても、収入を計ることは知らなかったのだ。会社を起こすと自然に収入があると思っていたらしい。営業員が一人もいない会社である。もちろん、裏ではそれなりの話もあったのだろうが、営業を知らない社長夫人には、それを形にすることが出来なかった。
 結局、会社を再建した利益を、その新会社でそっくり失ってしまった。そのころわたしはその会社を辞めたのであるが、二年後には、わたしの知っている人はほとんどいなくなってしまった。特に営業部員がいなくなってしまった。見通しが暗く、見切りをつけたのか。
 間もなく会社は更に小さくなったという話を聞いたが、その後20年ほどした頃、会社はなくなっていた。十数年、よく保ったと言うべきであろう。
 仕事の縮小にリストラが追いついていたのだが、あまりに小さくなって、産業構造の変化を吸収できる人がいなくなってしまったと思われる。成功体験がリストラで、それ以外の経営手段を持たなかった結果と思える。親会社が海外に工場を移し切り捨てられたのかも知れない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
24.8.14追記
 今思い返してみると、貴重な社会勉強だったと思う。
 わたしは決して優秀な人材ではない。田舎から出てきて、社会の荒波に初めて揉まれたようなもの。
 特に学校で習った経理処理はいわゆる表の顔。それよりも重い裏の顔がある。プラス、苦手な未経験の庶務の仕事。
 社長夫人はあちこちで笑われていたと見えて、わたしを相手に愚痴をこぼす。そのうちにわたしを叱責する。話しているうちに、わたしに笑われたと勘違いしてしまったらしいのだ。わたしの態度にも出ていたのか。
社長夫人「そのうちわたしが言ったことが正しいと判る」
 
社長夫人「他社では経理が数十億円も稼いでいるのに、うちは一円も稼いでいない」
 数千億円を動かしている大会社の経理部と、一円も任されていない徒手空拳の一事務員を一緒にするな。そもそも経理の責任者はあんただろう。それにわたしにそんな能力があったら、ここには務めていない。
 その経理が稼いだという大会社は、後に大損して、会社が傾いている。堅実を旨とする経理社員に、博打をというより相場を任せたのが間違い。

 わたしは後任者にきちんと引き継いで退社した。ところが後任者は、一週間もしないうちに、社長夫人とけんか状態になり、退社してしまった。
 こんないろいろなことが、反面教師になって、わたしの視野を広くしたと思う。
 しっかりした優秀な経理マンがいれば、わたしの出る幕はなかった。同時に、そんな会社だから、わたしも伸びるチャンスは少なかった。それでもプラスの方が大きかったと思っている。
posted by たくせん(謫仙) at 07:51| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月13日

パワハラ

05.12.9記
24.8.13加筆訂正

 中学二年生のとき、教師を殴った事がある。学校が荒れていたわけではない。
 わたしはそのころ既に耳が悪かった。補聴器も持ない時だ。英語の発音など聞き取れはしない。特に無声音は一切聞こえない。先生の英語は聞き取れないから発音の真似などできるはずがない。できないと殴られた。他の男子は一回だけだが、わたしだけ授業毎に2回づつ殴られていた。ある時殴り返したのである。その教師は真っ青になって声が震えてしまった。ただしそれ以後はわたしの教室では、その教師は誰も殴らなくなった。
 その教師は震える声で、「あとで職員室に来い」と言った。
 わたしは職員が大勢いる時を狙って(二人だけではあとでごまかされる可能性がある)、行った。
「用事はなんだ」
 何も言われず無罪放免になった。クラスの担任の先生にはだいぶ面倒をかけたと思うが、詳しいことは知らない。
 わたしが高校を卒業したとき、すでに家は引っ越しして中学校のある村は、遠かったが、家に帰る前に回り道して、中学の担任だった先生に挨拶に行った。喜んでくれた。
  
 時は流れて、ある会社で、わたしはカッターナイフを持って仕事をしていた。とある上司が殴りかかってきた。事情はあるのだが、わたしから見ればその社員は“暴力用員”だった。

 数年後、わたしなど異常な残業に耐えられない何人かの社員が辞めて間もなく、その“暴力用員”は退職したという。
 その“暴力用員”はアルコールに弱かった。当時の同僚が、ボーナスの出た日に、その“暴力用員”「飲みに行こう」と誘われたという。
謫仙「あれは飲めなかったンでは…」
同僚「ほとんど飲まない」
 それでどうしたのかと言えば、ついた女にいきなり「やらせろ」
 そんなことを三軒つづけて、ボーナスの出たその晩にボーナスの半分は使ってしまうと言う。給与の一ヶ月分以上だ。そのボーナスも実は残業代の変形(一部)であった。残業代を正規の七割程度しか払わず、残り三割をボーナスにしたと見れば間違いない。

 その会社では長時間残業が常態であった。定時間は170時間程度なのに、最も多い人は残業が200時間を超えた。一ヶ月の残業である。普通の人でも120時間程度、わたしは最も少なくて80時間くらいであった。それが上の“事故”の遠因となるのだが、それはともかく。
 200時間を超えた人の曰く。
「俺の友人たちでは俺が一番給料が多い。うちの会社は恵まれている」
 わたしたちは陰で笑ってしまったのであるが、その仕事ぶりはこんなふうだった。
「土日の連休はほとんど出勤した、月に一度だけ休んだかな。毎日夜12時近くまで仕事で、終電車で帰ることが多い」
 その人の食事は、毎朝弁当を2食注文し、昼に届いた弁当を、一食は昼に皆と食べ、夕方にもう一食を食べる。朝はどうしているのか聞き漏らした。
 こんな仕事ぶりで、友人たちより給料が多いと喜んでいるのであった。

 わたしが退社したころ、社員数は150人ほどになっていた。その後、二年ほどして聞いた話では、3人ほど過労死しているらしい。表だって過労死とは言わないので実情は不明だが、巷の噂である。この3人の中に、上記の人は入っていない。

 順序は逆になるが、社長は「わたしはいつも全社員と話し合い、納得して貰っている」という趣旨の事を言っていたという。
 わたしが入社したころ、全社員(百人以上)をあつめ、ボーナスの説明をし、「質問はないか」と訊いた。
 これが「全社員と話し合い…」の正体だった。それまで質問者はいなかったという。その時、若い女性があるお願いをした。「一部定期預金とされますが、非課税の枠はまだ余っていますので、それを非課税扱いにして下さいませんか」と言ったのだ。そのあと社長は、全ての部課長を集め、2時間怒鳴りまくったそうである。
「お前等の管理がぬるいから、女のくせに質問するのが出てくるんだ。どんな管理してるんだ!」
 それ以降、社員を集めて説明することも「質問はないか」と訊くことも一切なくなった。
 質問がないと「全員と話し合って…」と言い、質問があると「文句あるか」と怒鳴る人のなんと多いこと。二度と言わなくなったところをみると、案外まともな社長だったのかもしれない。

 先日、ある人に「こんなブラックな会社で…」と話をすると、「給料を払っているならブラックではない」と言われた。
 わたしとは考え方があまりに違うのに愕然とした。
posted by たくせん(謫仙) at 07:31| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月12日

役名詐称

05.12.11記
24.8.12加筆訂正

 津山宏一の小説に「屋根屋狂躁曲」という本がある。
 主人公が勤めていた会社は鈴木重工業有限会社という。あの自動車会社と間違える人がいるかもしれないが、屋根屋なのである。会長の名前が鈴木重太郎で、鈴木重工業有限会社と名付けた。従業員は社長の息子が3人と主人公ともう2人の6人である。
 ある時、重太郎がつぎのような名刺を配った。重太郎が「会長」で、長男が「代表取締役社長」、次男が「業務及び営業担当常務取締役」、三男が「第一業務部課長」。そして、主人公が「第二業務部業務四課業務係り係長 杉並支社」、もう2人は「本社第三業務部部長」と「第七業務部業務七課業務係り主任 西船橋支社」。
 これでは役名詐称ではないか。これから考えても判るようにユーモアドタバタ小説だ。
   
 銀行に「支店長代理」という役職がある。支店長の次かと思うと、さにあらず、ほとんど平社員に等しい。支店長代理の上司が係長だ。
「支店長の代理として責任を持って営業をしている」というが、それは内部の話。外に出しては役名詐称に近い。

 鈴木重工業有限会社の会長は壊れた電気器具などを捨てることができない。修理すれば使えるが費用がかかる。あとで修理しようと、とりあえず故郷に倉庫をつくり、そこに収納してある。もったいないといいながら、更に大きな無駄をしているのだ。捨ててしまえば、倉庫は要らないし、そもそも修理して使うことはあり得ない。
 なぜ、こんな話をするのかと言うと、実はよく似た話があるのだ。

 わたしは、パワハラに書いた会社を退職して、ある小企業に就職した。
 小さな部屋にいる人は、
 代表取締役社長・登記上別会社の取締役会長・専務取締役・常務取締役営業部長・取締役総務部長・取締役第一営業部長・取締役第二営業部長・第三営業部長・営業第一課長・営業第二課長・2人の女子社員・そして入ったばかりのわたしである。そうそうパートが1人いた。別室があって、そこに女子社員が5人。
 頭でっかちの組織だが、鈴木重工業のように、ごく小規模の会社ではよくあることである。わたしの名刺を作るとき、製作係長にするという。意味がないので断った。それ以降も人の入れ替えがあったが、新入社員を課長だの部長だのにする。部長が入社3日目で辞めて、課長が2日目に辞めたりを繰り返していた。
 かなりの人が入れ替わったが、だんだんと売り上げが減り人も減り、わたしが退職した頃には別室はなくなっていて、会長(前社長)・社長・部長3人・課長2人・平社員4人になっていた。
 部屋は狭くて荷物置き場にも困っているのに、故障してしかも古くて使うことのなくなった電子機器を捨てられなく、5年も場所をとっておいてある。15年も前に製造中止になった電子機器だ。たとえ修理できたとしても、性能は悪く、使える人もいなくなっていた。これは経理的には少しは意味があるのだが、費用(家賃)をかけてとっておくほどのことはない。意味とは黒字の時に廃棄すればその分税金が安くなること。
 鈴木重工業会長を笑えません(^。^)。

 退職するころ、わたし自身は会社の倒産を願っていたほど。倒産ならば、早く雇用保険金がもらえ、退職金より多い。なかなか倒産しないので、こちらから退職願いを出したのが実情である。
 ある現場の嘱託は、ミスがあったと何回か費用を負担させられた。結局「時給300円にしかならないよ」と、会社の仕事をやめてしまった。
 わたしが退職のときにも、会長はなんと退職金をごまかそうとする。しかし新社長は、雇用保険金より少ない程度の退職金のさらに数分の一をごまかして裁判で争う気はなく、全額支払いに同意した。
 わたしが退職金規定を知っていたので、争う気が失せたのかも知れない。わたしはいざというときのために、弁護士の用意までしていた。結局五千円の相談料だけで済んだ。
 逆に、そんな会社だからわたしが就職できたとも言える。感謝しなくてはいけません(^_^)。

09年:先日当時の同僚から電話があった。わたしが辞めてから2年ほどで、全員が辞めてしまった。先日会長も亡くなって、知っている人は社長くらいしかいなくなったという。
 その亡くなった会長は自分では営業ができず、営業成績が落ちたら神頼み。狭い部屋に神棚を鎮座して、毎朝わたし以外の全員で神頼みするのだ。わたし一人が拒否していたので、会長とわたしの仲は冷え冷えだった。
会「君は創価学会なのかな」と下手に出てくる。
謫「いいえ違います」
会「創価学会でもないのになんで拝まないだ」といきなり恫喝された。
 宗教は創価学会しか知らないらしい。それとも創価学会が怖かったのか。わたしは−神仏は尊し神仏を頼まず−で通している。

 登記上別会社の会長が亡くなったときも、社長は花輪一つで、済ますつもりだったらしい。その家族は従業員数十人(実は取引先も含んでいる水増し)の会社の現役会長が亡くなったのだから、当然会社から…、というように思っていたという。実体は机一個のペーパーカンパニーで、毎週一度営業会議のためにその椅子に30分ほど座る程度で、あとは不在。登記上もう二人取締役がいて運営している。
 会長とは名刺に刷るだけで、実体は嘱託の営業マンのようなもの。家族が実体を知ったら唖然とするだろうな。

 会長が亡くなったとき、電話が入った。辞めさせられた元営業部長からである。おいおい、解雇されて泣きながら辞めた人が、葬式の手伝いなんかしているのかよ。呆れたが、それが世間の常識かもしれない。そうわたしは非常識な人間なのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:01| Comment(4) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月12日

南千住カメラ散歩

南千住駅前
 南千住で降りて浅草まで歩いたことは何度もあるが、西側は二度目だ。
 前回は 円通寺 だった。
 (小さい画像はサムネイル)

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 駅前は小塚原処刑場あとである。道はコツ通りとして有名であるが、ただしわたしは落語で知ったのであり、特に学んだわけではない。
 駅前にはJR線を挟んで延命寺と小塚原回向院がある。

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 延命寺 あまり広いところではない。

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 入って突き当たりに大きなお題目の石柱が有る。同じものが大森の鈴ヶ森にあるとか。
 右奥の像は首切地蔵である。三百年ほど前に立てられた。

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 小塚原回向院
 この奥の見えるところから左は一般の墓所で、立ち入りは遠慮すべき。右方には案内がある。

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 その墓所の案内。

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 カールゴッチの墓があった。プロレスファンなら知らない人はいない。あのプロレスの神様カールゴッチである。ガチで強かった。
 そのお墓がなぜここに?
 検索したところ、骨のほとんどは海に散骨され、1割ほど弟子が保管していて、それがここに納骨されたという。

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 高橋お傳
 一応、毒婦と言われるが…

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 鼠小僧次郎吉
 「十年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余り」と白状したが、実際は不明。 

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 橋本左内

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 吉田松陰

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 入り口には吉展地蔵尊が有った。円通寺で見たとき、「古い写真とは異なるので2代目の像か」と書いたが、ここにあった。


素盞雄神社
 少し北千住の方へ歩くと素盞雄(すさのお)神社がある。

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 素盞雄神社の正面、旧日光街道側から。

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 碁盤の儀
 七五三の行事。ここから飛び降りるはずだが、下が石畳では躊躇しそう。ここではどうしているのか説明はなかった。宮中行事に由来する。

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 向かって左側は狛犬のはず(?)、角がないので獅子かな。右には獅子。区別つきませんでした。

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 日光街道から。ここから入った。正面はこの左手になる。

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 松尾芭蕉の奥の細道での最初の宿場が千住。

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 富士山
 見にくいが鳥居より高い。

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 神楽殿

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 荒川ふるさと文化館の前

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   荒川千住 芭蕉主従に 花の春     兜太 
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2022年06月06日

桃花石

 先日散歩していたら、歩道の敷石に珍しい石が使われていた。
 桃花石だ。もっとも宝石の桃花石とは異なるだろう。このあたり正確なことは知らない。
 わたしが桃花島に行ったのは2006年3月のことだった。
 当時は中国国内でも小説(ドラマ)上の架空の島と思われていたらしい。そのように思っている人が多かったという。
 わたしたち武侠迷(武侠ファン)9名は関西空港から上海に行き、一泊して桃花島に向かう。片道一日半かかった。東京からは2日半だ。
 詳しい話は旅行記「桃花有情」を読んでいただくとして、その島の特産の石が桃花石だ。
参考 桃花有情 3 射雕英雄伝旅游城

 写真は散歩中に見つけた歩道の敷石。

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 シダの化石と思われる。道路の敷石などに使われているように、高価な石ではないだろう。桃花島にある石だから桃花石、としか思えない。
 それで、散歩で見つけた石はその桃花石とそっくりだった。輸入したのだろうか。
 もしかしたら、そのような模様を付けただけなのかもしれない。桃花島を思い出しながら、しばらく見入ってしまった。

参考 桃花有情 1 往路 
posted by たくせん(謫仙) at 07:14| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月06日

フィルムの劣化

フィルムの劣化
 いま、古いフィルムをスキャナー撮りしている。
 もう使うことはほとんどなく、そのまま捨てても良いくらいだが、一応記念にとっておこうと思った。これが終われば押し入れの半分が空く。管理の手間も少なくなる。
 もっとも、そのために手間をかけてスキャナー撮りするのは矛盾するか。

 大体1990年頃までがネガフィルム。これをポジフィルム(ラッシュ)にして、マウントしてある。
 それから2004年頃までがポジフィルムの時代。ここまで約2万コマ。この頃、スキャナー撮りした写真は鮮明であるが、今となっては画像が小さすぎた。横1000ピクセルのパソコンに載せる大きさだったのだ。
 その当時のスキャナーは故障してしまった。
 最近新しい小型スキャナーを買った。使ってみて判ったが、スキャナーの性能が低すぎた。特に明暗の幅が狭くハレーションをおこしてしまう。前のスキャナーではきれいに見える夕焼けも、新しいスキャナーでは表現できない。しかも、フィルムが劣化している。
 2004年にデジカメとなった。
 ところがここ数年ほとんど撮っていない。しかもいわゆるカメラは使わず、iPadやケータイで済ませている。これらは劣化しない。
 全部終わるまで、辛抱が続くかどうか。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
6月2日記
 ようやく終わった。万一ネガからおこす必要に備えて、スキャナーは捨てずに置くが、おそらく二度と使うことはないだろう。
 これからの処理は、選択。不要なコマの消去などだが、それは折りがあればで、いまはする気がない。
posted by たくせん(謫仙) at 19:06| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月28日

草加宿から草加松原

草加宿から草加松原

東福寺から旧日光街道を通り松並木まで。

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 おせん茶屋
 旧日光街道散策の休憩用の小公園。何もない。周りにはお茶を売っている店がある。

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 その案内。
 言い伝えによれば、草加煎餅を作ったのがおせんという女性。それが人気が出て、有名な草加煎餅になったといいう。

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 神明庵、草加宿で一軒だけ残った建物。裏の方は、現代風に改造されている。
 戸は閉まっていたが、休憩所らしい。売店もある。
 
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 旧日光街道が神明町の交差点で国道49号線にぶつかる。左右におせん公園がある。
 右にある曽良像
「奥の細道」の芭蕉の同行者。曽良の書いたものは、資料価値が高い。
 芭蕉は文学として「奥の細道」を書いているため、それなりに脚色されている。

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 旧日光街道を挟んで北側を見る。
 
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 北側のおせん公園には、おせんべいの碑

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 おせんべいの作り方。

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 芭蕉像
 松尾芭蕉は北千住で見送りの人たちと別れ、最初の宿泊地が草加宿である。
 国道49号線を神明町交差点から北へ二十メートルほどで、おせん公園を過ぎ伝右川になる。
 獨協大学脇を通って西から流れてきた伝右川は、綾瀬川まであと二十メートルほどで九十度ほど曲がって、綾瀬川と並行して南へ行く。

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 札場河岸公園望楼
 伝右川をわたると、伝右川と綾瀬川に挟まれた、小さな札場河岸公園があり、古い望楼がある。
 北は国道49号線と平行して綾瀬川が流れている。
 南へは伝右川と綾瀬川が並行して流れているが、交わらず分かれてしまう。
 
 国道49号線と綾瀬川の間は二十メートルもなく、松並木で有名な旧日光街道が通る。今は草加松原遊歩道である。

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 草加松原遊歩道(旧日光街道)をすこし歩くと大きな歩道橋がある。
 道も川筋もまっすぐだ。江戸時代に整えられたか。

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 歩道橋の上から見る。松原というより松並木だ。
 最寄り駅の獨協大学前駅は、元は松原団地駅といった。2017年に変更された。

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 国指定の名勝地「おくのほそ道の風景地」。歩きたくなる道だ。

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 まっすぐな遊歩道が約1.4キロメートル続く。地図で見ると、この間は綾瀬川の川幅も狭くなっている。

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 松は若い木が多く、江戸時代からの老木は少ない。
 昭和四十年代には、七十本程度にまで減っていたのを、昭和51年に保存会が発足して補植され、現在の景観となった。

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 名 勝
 おくのほそ道の風景地
  草加松原
     ドナルド・キーン書


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 松並木の案内板に詳しい説明がある。
posted by たくせん(謫仙) at 07:05| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月22日

東福寺(草加東福寺)

 草加には東福寺という寺がある。正式には「松寿山不動院東福寺」という。
 草加は宿場町だが、大川図書(おおかわずしょ)なる人物が、宿場町を開き、この東福寺も創建した。1606年というから、江戸幕府ができてまもなくである。
 この写真は6月14日、ようやく写真を整理して、紹介することになった。

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 山門

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 門脇の石灯籠はかなり大きい。

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本堂
 1993年(平成5)には大規模な改修が行われた。

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 鐘楼 文久二年七月再造立(1862)

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 三鈷の松 鐘楼の脇の松はなんと3葉の松。名は高野山で有名であるが、こんな近くにもあったとは。
 そういえばこの寺は真言宗。

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 五葉松は知っているが、3葉の松というのは初めて見た。

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 本堂の前、ここが墓ではない。墓地に大川図書の墓があるという案内である。

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 本堂内外陣の欄間の彫刻の説明。中は見なかった。

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 外の彫刻も優れている。

 草加八景という案内もある。
 東福寺本堂内外陣境彫刻欄間(市指定有形文化財)
 東福寺鐘楼(市指定有形文化財)
 東福寺山門(市指定有形文化財)

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 草加不動堂、「松寿山不動院東福寺」という名からすれば、こちらが寺の中心かな。
 手前の低い植え込みは、ハマナスだった。

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 関東でハマナスを見たのは初めて。八戸や函館で見たことを思い出す。

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 果実は食用になる。どんな味だろう。

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 白い花もある。

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 参道を日光街道に向かって歩くと途中に紫陽花が咲いていた。
 スマホでマクロ写真は難しい。

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 日光街道から振り返る。こちらが表参道である。
posted by たくせん(謫仙) at 08:03| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月04日

ホームページの改造

ホームページの大改造をした。
 数年前から考えていたのだが、今では仕事でもホームページ作成をしたりして、それなりに深く知る必要が生じていたのだ。
 従来はHPBで作っていたが、時代に沿わなくなっていた。
 そこで、買い求めたのが、
   HTML&CSSのきほん 1980円
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 これで4日間、HTMLのお勉強。かなり難しいが、いままでのHPBでもHTML文は見ていたし、ブログを始めたときは、見本を選ぶと、そのCSS文も変えることができ、一ヶ月以上かけて、CSS文を変更し、ようやく今のブログを作ったのである。2007年のことであった。
 それから13年経つが改造はしていない。HTMLも5.2になったが、特に問題はないようだ。
 本題のホームページだが、HPBでは、いろいろと問題が生じていた。使えなくなる前に、HTML5 に準拠したホームページにしたい。
 「HTML&CSSのきほん」だけでは、とても無理だ(時間も、技能も)。そこで新しいホームページ作成ソフトを求めた。そして選んだのがSIRIUS(シリウス)である。
 普通なら、WordPressであろうが、なぜか気が向かない。
 余談だが、わたしがインターネットで物を買うのは今回が初めてである。いままでは、物は選んであって、流通経路としてインターネットを利用しただけだった。今回はインターネットで物を選び購入した。つまり中身が全く確認できない状態で、宣伝文だけで判断した。
 6月23日に購入。HPBよりかなり難しい気がした。しかし、他のソフトは使ったことがないので、易しいのか難しいのか判断はできない。ブログとHPBの経験とHTMLのお勉強があったので、なんとか7月3日に公開できた。
 まだあちこちを手直ししたい。それはゆっくり。

7/9追記
 このソフトは、HTML&CSSの知識がないと扱いにくい。
 ページ内リンクの仕方が判らず、ネットで調べて、タグ打ちでリンク処理をした。これでリンク問題は解決した。
 内蔵のアップロード機能は使いにくいので、FFFTPをインストールした。ところが問題発生。
 画像フォルダー名にimgを使うと、アップロード時に、ソフトが用意した100個以上の不要な画像ファイルが一瞬に滑り込む。何度か消したが、繰り返しなので、画像フォルダー名を変更し、アップロード時に工夫することで解決した。それでもimgフォルダーが入り込んでくる。こうなると「改訂ファイルのみアップロード」という機能が使えない。さらに訂正しても反映されないという事態が発生。扱っているファイルと実際のファイルが違っていた。どこかに秘密のファイルがある。エクスプローラーをいくら探しても見つからない。
 今日一日かけて、ようやくファイルの位置を探し出した。
 わたしはブラックボックスが嫌いだ。意味が判らないと心配なのだ。ファイルの位置が判ってみると、いままでの苦労のかなりの部分が不要となる。意味が判ると、すっきりするし、あちこちに応用が利く。画像の問題も意味が判った。何より「知らずに消してしまう」「知らずに壊してしまう」ことがなくなる。
 この点はHPBが勝る。

8/14追記
 今のFTPはシリウスのソフトを使っている。FFFTPはおやすみ。「更新されたファイル」のみ送るのであるが、送る寸前にimgフォルダーを削除して「更新されたファイル」を送る。毎回削除するので慣れたが、どこを見てもこれを回避する方法が判らない。そのうちシリウスに添付された、シリウスとは別のFTPソフトをためしてみよう。 
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2020年01月15日

神韻晩会2020

 神韻晩会2020 を見た。

     20.1.14.1.jpg
 中国の舞台芸術の神髄のような見事な芸である。そして知性が感じられる芸である。
 他の芸は知性がないと言うわけではないが、別な思いがある。
 中国の雑技を見ていると、できがよいほど(勝手に)痛ましさを感じてしまう。その芸を習う、習い方とその期間、そしてその経緯を思ってしまうのだ。

 覇王別姫という映画がある。覇王別姫という京劇の演目を習う虞美人役の男の話だ。
 幼いときに遊廓の母に捨てられ、貧しい京劇の養成所に入れられる。大勢の子供と一緒に、一日中覇王役の男性と組んで、虞美人役を習う。昼も夜も。それが大人になっても続く。その間に多くの人は脱落していく。京劇界きってのスターとなっても、世間のことは全く知らない。その男のできることは京劇だけで、その中の虞美人役だけである。
 雑技の名手には、そんな練習ぶりを感じてしまう。しかし、神韻は違った。
  
 文化大革命によって、中国五千年の芸術が破壊されかなり失われた。2006年、それを復活しようと世界各地の中国系の芸術家が集まって、神韻を結成した。
 すでに欧米で、芸術家として活躍している人たちである。そして演目は毎年変えている。神韻の演目に知性が感じられるのは、そのためかと思う。

 間に一度休みを入れて、前後2時間。19演目だが、そのたびに幕が降りて解説が入る。
説明の意味もあるが、俳優が衣装を換えたりする用意の時間でもあろう。
 新体操を思わせる美しい演技と演出は、余計なことは考えずに見とれてしまう。
posted by たくせん(謫仙) at 09:09| Comment(1) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月06日

札幌らーめん北の大地


2014.5.4 追記
2011.7.23 記
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2014.5.4 追記
 久しぶりに新宿の「北の大地」に行った。
 三度目になる。今回も碁会の前によった。碁会に参加する棋友も一人来たが、待ち合わせた訳ではない。

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 入り口

 今回は味噌ラーメンを食べた。白味噌である。
 最初は醤油ラーメンだった。

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 シンプルなメニュー。気づいた方もいよう。醤油を正油と書いてある。
「どういう訳か北海道では正油と書くことが普通。それなのでそのまま正油と書いています」
 その方が北海道らしい。

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 今回食べた白味噌のラーメン。「おいしかった」だけでは小学生の作文。(^。^)
 しかし、前回も書いたように、ラーメンは滅多に食べないので、他との比較は控える。

   ……………………………………………………………………………………
2011.7.23 記
 先日、久しぶりにラーメンを食べた。
 どのくらい久しぶりかというと、七年以上、おそらく十年ぶりくらいかな。
 7月18日に新宿の囲碁サロン喜楽で、ある碁会があった。喜楽はビルの7階にあり、ビルの屋上に小さな部屋があって、そこを個室として、碁が打てるようになっている。時々ここに集まって碁会を開いている。
 その碁会は1時からであり、家を出る前に食事するには早すぎる。新宿に行ってから昼食を済まして、喜楽に向かうことになる。
 その昼食にラーメンを食べたのだ。長い間食べなかったのは、別に嫌いだったわけではない。ラーメンは自分では作れないし、外で食べるときは別なものを食べるので、ラーメンを食べなかったに過ぎない。
 今回行った店は、札幌らーめん「北の大地」。
 ここの経営者はわたしの碁友である。碁はわたしの方が少し強いと思う。その碁友はこの日は休みであり、若い男たち三人で営業していた。
 基本的にラーメンの専門店。各種のラーメンがあるが、それ以外は無いに等しい。酒類もビールだけ。
「札幌ラーメンと銘打ったのはうちが最初じゃないかなあ」それだけに経営者のラーメンにかける想いは熱い。先日、その話を聞く機会があった。出汁の取り方から具まで、北海道に拘っている。
 この日わたしは醤油ラーメンを食べた。一番普通のラーメンだ。出汁が濃厚な美味いラーメンだった。わたしが前に食べた普通の街のラーメンとは別物。次回にはその他のラーメンを試してみたい。
posted by たくせん(謫仙) at 10:49| Comment(8) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

甘利俊一さん文化勲章

甘利俊一さん文化勲章

 今日の新聞で、甘利俊一さん(83)に文化勲章が贈られると発表された。おめでとうございます。
 甘利さんは、東大名誉教授で、理化学研究所栄誉研究員。そしてわたしの碁友であり、毎月2〜3度碁席をともにしている。わたしより強い。アマ六段くらいである。
 脳科学と情報科学の二分野の研究者であり、海外では別人と思われたこともあったという。現在AIが急速に発展していて、特に囲碁界では人を超えたと、注目されている。
 
 このAIの基になった研究者であり、大げさに言えばAIの生みの親である。
 2年ほど前に、英語で本を書いたが、去年今年と印税が……、と言うと堅いお人のようだが、いつもニコニコしている、気さくな方で、知らない人は気づかない。
 先日帰国したアメリカの青年が、帰国のとき甘利さんを検索して「大変な人だった」とびっくりした話もある。
 わたしは二つの碁会に参加していたため、甘利さんの碁敵となった。
 この甘利さんと先日ある会話をした。

 AIが発達し、家中の家電やら何やらが、全部AIで動くようになると、生活がしにくくなりそう。
 どれかが故障を起こす度に、自分では処理できなくて、大騒ぎになるのでは。
 便利になるのか、不便になるのか。

 もちろんその頃には、そのことも工夫されるだろうが、こんなことを甘利さんに言われると、不思議な気がする。
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2019年10月04日

円通寺

円通寺(えんつうじ)

 東京都荒川区南千住にある曹洞宗の寺院。あまり知られていないが、無名でもない。
 791年に坂上田村麻呂将軍によって開かれ、八幡太郎義家が再建した、と伝わる。

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 門前からも見える観世音菩薩が古い寺にしては珍しい。
 仏塔のような外観が異彩を放っている。

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史跡
 彰義隊士の墓、旧上野黒門、小塚原旧跡。
 わたしは黒門があるので見に行った。
 本来は百観音で知られていた。ただし、安政の地震で観音堂が倒壊、現在は三十三体が本堂にあると言う。それは見なかった。

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 黒門
 これは上野寛永寺の総門であった。寛永寺は上野公園のほぼ全域を境内としていた。その南の正門で、官軍と彰義隊の激戦の中心となったところだ。
 冠木門であり、正門にしては質素な作りである。

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 たくさんの弾痕がある。

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 戊辰戦争は鉄砲の戦争であり、弾丸の量が勝敗を分けた。

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荒川区指定の有形文化財となっている。

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 裏側

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 八幡太郎義家が、奥羽征伐のとき、賊の首48をここに埋め、四拾八塚を築いた。
 それでこの辺りが小塚原と呼ばれるようになった。
 石造七重の塔には銘があり、現存する荒川区最古の石文である。遠くて判らなかった。

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 元からの石像か?

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 円通精舎、榎本武揚の書。

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 黒門とその後ろの彰義隊士の墓などは大きく囲われている。
 中に入る。

    さかるほと 見あける人や ふちの花

 と読めたが? (2字目自信なし)

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 曼珠沙華

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 自然に傾いたのか?

 慶応四年(1868)五月十五日に戦死した彰義隊士の遺体が放置されていたのを、円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野に行って斬首覚悟で供養した。拘束の後、埋葬の許可が出た。
 これが縁で、明治40年10月に、帝室博物館より黒門が円通寺に贈られた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 余録
 東京オリンピックの前の年(1963)、吉展ちゃん誘拐殺人事件があった。
 2年3ヶ月後、埋められて白骨化した遺体が円通寺で見つかった。
 その供養のため、「吉展地蔵」か建立されている。

    IMG_3855.JPG
 古い写真とは異なるので2代目の像か
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2019年01月13日

新林公園


 藤沢駅の近く、駅から歩いて20分ほどのところに、新林公園(しんばやしこうえん)がある。
 行ったのは12月23日、天気予報は曇りだが、時々小雨が降る日であった。

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 ここだと普通の公園に思え、大きさが実感できないが、遠くに見える山も公園の一部だと言えば、大きさに驚かれよう。ゆっくりと山道を一周すれば一時間。散歩コースにしては少しきつい。

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 歩いた順は 1→ 3→ 5→ 湿地帯→ 川名大池→ そのすぐ左の一周路→ 山道登り口→ 鉄塔→ 15→ 12見晴台→ 9→ 8→ 7→ 5

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 この鉄塔のある山が公園の一部である。

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 まず目に入ったのが、この古民家。藤沢市内柄沢村の名主の住宅で、旧小池邸。朝早くまだ門は閉まっていた。あとで細かく説明する。

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 小さな湿地帯を抜ける。湿性植物区。

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 川名大池。周囲は立ち入り禁止であり、こうして見るのも壁の覗き穴から。
 この奥は上から見るとかなり深い谷である。

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 坂道の小さな谷を一周する。一面シダばかり。一度下に下りて、あらためて山登りをする。

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 急な山登りが結構長い。公園内の山道と馬鹿にしてはいけない。尾根や山稜のアップダウンの連続で、何度も休んだ。

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 鉄塔のある峰から降りて周回コースに入る。

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 きれいな紅葉に出会えた。雨が降ってきたので、写真は少ない。

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 ここに下山した。急な坂道である。先に紹介した旧小池邸の裏側に降りた。

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 旧小池邸に裏から入る。
 
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 この日は週に一度屋内をいぶす日で、裏側は戸が閉まっていた。
 人が生活していれば日々の煮炊きがあるが、今は保存のため薪を燃やしている。

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 藤沢市内の柄沢村にあった小池邸を文化財として保存のため1983年に移築した。
1999年に市指定重要文化財に指定。
 もとは1841年(天保12年)に建てられた。移築に当たっては、ほとんどの木材はそのまま利用したという。

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 この庭や門などは、再現されたものではない。往時はどのようだったか、管理していた人も判らないという。
 この家の右手には、倉庫や下男の部屋があったが、それは復元しなかった。復元するには右の山を削らなければならない。
 この日は入山者‥‥ではなく入園者が少なかったが、晴れていれば賑わいそうな雰囲気だった。
posted by たくせん(謫仙) at 09:00| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月19日

亀戸天神

 亀戸天神に初めて行った。藤の花で有名だが、天神社なので梅もあるはず。
 わたしが行ったのは神無月、当然だが藤の花も梅の花もない。一ヶ月以上たって写真を整理したとき、わたしの誕生日だったことに気づいた。
 菊まつりもあるので、今ならギリギリ間に合うか。行く気が沸かないが。
 天神社といえば九州太宰府天満宮だが、亀戸天神は東宰府天満宮といわれていた。現在は亀戸天神社が正式な名称である。

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 亀戸駅から、亀戸梅屋敷まで行き、左に折れて亀戸天神通りを亀戸天神入り口まで、七百メートルくらいか。そこからすぐ前にこの鳥居がある。

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 この朱塗りの太鼓橋は江戸時代から変わらず。浮世絵にもある。
 こちらは男橋。社殿の手前にもあって、そちらは女橋。

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 橋の向こうは池に囲まれた島になっていて、藤棚多い。

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 社殿は思っていたより大きかった。

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 境内には中江兆民の碑もある。
 中江兆民を調べてみたが、亀戸天神との縁は不明。

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 紅梅殿、天神様なので、梅は必須だ。

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 入り口近くの灯籠、中途半端な位置だ。棚のせいかな。
 ここからはスカイツリーも遠くない。
posted by たくせん(謫仙) at 08:16| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月13日

金庸さん死去

 10月30日に、金庸老師が亡くなった。享年九十五、九十四歳であった。
 もう二週間もたってから知った。このことから判るように、わたしは生のニュースに疎い。
 二十年ほど前に金庸(本名:査良縺jの武侠小説を読み、のめり込んだ。その後も繰り返し読んでいる。現在、書剣恩仇録を読んでいるが、5度目である。金庸ドラマのDVDも集めた。
 杭州に近い海寧が生地であり、香港で活躍した。
 私たちは岡崎由美先生と一緒に、海寧の生家に行ったこともある。
 執筆の期間は意外に短い。1955年に『書剣恩仇録』を発表し、1972年に『鹿鼎記』を書いて断筆した。いろいろな人物や恋愛を書き切って、重複させないという。
 他の武侠作家は、架空の王朝で架空の話を書く。金庸は史実を巧みに取り入れて、歴史小説のように書く。
 長編12、中編2、短編1。全部で15編の小説を書いた。
 日本では岡崎由美先生を中心に翻訳し、全55冊になる。このブログでも書庫で紹介している。

 残り1冊分の翻訳原稿があるが、発表される機会はなさそうである。それは鹿鼎記の前章であり、金庸先生の祖先が「文字の獄」にあって、壊滅的な打撃を受けた話である。
 清の雍正帝の時代、科挙の試験に「詩経」から「維民所止」が出された。これが雍正帝を呪っているという。「雍正」という二文字の頭である「亠」と「一」切っているというのだが。
 小説の執筆以外にも、いろいろと活躍した。
 ご冥福を祈る。

 わたしは武侠ファンと思うが、金庸を離れると、好きというわけではない。思い入れはない。だからわたしは金庸ファンであって、武侠ファンではないのかもしれない。
posted by たくせん(謫仙) at 10:55| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

山本邸

山本邸

 柴又帝釈天の後方、江戸川の近くに、旧山本邸がある。
 大正末期に、故山本栄之助氏の住居として建てられた。増改築している。
 葛飾区が昭和63年に買い取り、平成3年4月から一般公開された。
 和洋折衷の建築というが、基本的には和風である。現在は葛飾区の登録有形文化財に指定されている。

   案内図 山本邸サイト
 

 参考図  P6039851.JPG

   
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 入口であるが、本来は裏口である。案内図では右下。

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 左が茶室、右が本邸
 ここを通って右に行けば旧玄関から長屋門に至る。案内図の長屋門は位置が違うので注意。
 わたしは先に本邸を見学した。見学順とは逆になるが長屋門から紹介。

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 長屋門、ここが正門であった。入ると正面が玄関である。

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 旧玄関。閉まっているが、なかには人力車が置いてある。

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 旧玄関に向かって左側は日本庭園である。この門は日本庭園の門。

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 鳳凰の間(応接室)の外側にはこの庭が広がる。

 邸内に入る。

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 玄関の間。閉じられている旧玄関から入ると、正面にこの花菖蒲の絵が目に入ることになる。

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 鳳凰の間。山本亭唯一の洋間であり、応接室である。

P6039855.JPG
 ここが玄関前の日本庭園の入り口。
 以下、左から順にみていく。

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P6039863.JPG

P6039865.JPG

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 受付の隣の部屋、四方を廊下に囲まれている。
 
 この日は琴の演奏があった。抹茶をいただきながら聞くことができた。いろいろと催し物が計画されている。
 なお、茶室は借りることかできる。
posted by たくせん(謫仙) at 13:28| Comment(2) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

柴又帝釈天

柴又帝釈天
久しぶりに柴又の帝釈天にお参りした。
経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という。
江戸時代初期の1629年創建。
日蓮宗の寺である。司馬遼太郎は「法華経とは愚にもつかぬ教典であるが、……」 と言っていた。わたしと同じ考えだ。ただし、信仰と教典は別物である。わたしは法華経の信者に対して、尊敬も侮蔑もしない。宗教活動は他の宗派を攻撃しない限り尊重する。
  参考 司馬遼太郎と法華経
 わたしは、我が家の先祖代々の寺の、宗派の経典を読んだことは、一度もないのだ。それなのに法華経は読んだ。
 だから、信者としてのお参りではなく、観光である。

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 柴又駅は、小さな駅である。

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 駅舎にはツバメの巣がある。注意書きもあった。

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 なんと言っても柴又は「男はつらいよ」の寅さんである。
 毎回、騒動を起こしては、柴又に居られなくなって出ていく寅さん。このシーンは何度見たか。

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 寅さんをひとりで見送る、妹のさくら。
 本当の主人公はさくらではないか。団子屋の店員として、妹として、主婦として、母親として、一家をなんとか結びつけていた。上手くいかなくても絶望せずに、毎回こうして寅さんを見送っていた。

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 帝釈天の参道は、いつも人が溢れている。

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 私 生まれも育ちも
 葛飾 柴又です
 帝釈天で産湯をつかい
 姓は車 名は寅次郎
 人呼んで
 フーテンの寅と発します
   山田洋次

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 二天門
 参道途中の写真はなく、門前に着いてしまった。
 あとの二天は帝釈堂の中。四天王は須弥山の四方を守る。

案内図
 適当な案内図がないので、帝釈天の案内図を紹介。
 左上の駐車場が、元ルンビニー幼稚園の跡。ルンビニー幼稚園は近くに移った。

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 瑞龍松と帝釈堂。帝釈堂には内殿が続く。
 二方に延びた枝の長いこと。

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 大鐘楼。映画ではなんども出てきた。ここに寺男の源さんがいた記憶がある。

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 祖師堂(本堂)。元帝釈堂だったが、江戸時代に移築した。

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 釈迦堂

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 塔供養の図 金子光晴作
 帝釈堂内殿の外側には大きな10枚の彫刻が並んでいる。そのうちの2枚を紹介。小さい彫刻は数え切れない。

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 三車火宅の図 木嶋江運作
 10枚は大正から昭和初期にかけて彫られた。このため、柴又帝釈天は彫刻の寺としても知られている。
 案内図の喜見城は内殿も含めた帝釈堂の別称か。
 喜見城とは、須弥山の頂上中央にある帝釈天の住まいである。善見城とも。

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 邃渓園(すいけいえん)
 永井楽山 作

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 なかなかに趣のある庭園である。屋根付きの回廊が一周している。
 
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 回廊を通って、反対側に来ると池がある。

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 回廊を一周した。

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 帝釈天附属 ルンビニー幼稚園
 初めて帝釈天に来たときは、回廊の後ろにあって、回廊から見えた。いまは少し離れた場所に引っ越していた。
 なお、ルンビニーとはゴータマ・シッダッタ(釈迦)の生誕の園地である。

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 幼稚園の生け垣、なんだろう。柏(コノテガシワ)と思ったが、断言できない。
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2017年05月07日

へび道と谷中銀座

へび道と谷中銀座

 地下鉄千代田線の千駄木駅の近く、千代田線の東側にほぼ並行して、へび道と呼ばれる細い道がある。なんとか車一台が通れる程度の道幅である。
 根津神社に躑躅を見に行き、その帰りに日暮里まで散歩した。

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 根津神社の北口から東へ向かって不忍通りを横切り、200メートルほどで、へび道に至る。ただし直線ではない。

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 この角に来た。振り返ったところ。
 ここから蛇のようにくねくね曲がった道が続く。

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 道は曲がって見通しはきかない。住宅街なので(といっても、しゃれた店などあります)、写真はこの2コマだけにする。
 この道は藍染川という川であった。大正10年(1921)に暗渠にされた。今でも下には流れているらしい。
 へび道が終わって、その延長の広い道をさらに進むと、急に外国人(と思える人)が多くなった。

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 まもなく、谷中銀座の道にぶつかる。

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 この狭く短い160メートルほどの商店街が、なんと国際色の豊かな街であることよ。多くの人が食べ物を持って歩きながら食べている。まるでお祭りのようで、不作法には見えないのだ。

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 「夕焼けだんだん」と言われる階段。
 この階段を上れば、まもなく日暮里の駅である。

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 谷中銀座を見下ろす。ここから日暮里駅まで300メートルもない。
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2016年10月15日

血糖値スパイク

血糖値スパイク

 10月8日にNHKで、血糖値スパイクという問題を取り上げていた。糖質食を摂ると、その後一時的に血糖値が上がる。
 人によっては上がりかたが高すぎる。これを血糖値スパイクという。様々な病の原因になる。その可能性のある人は日本で1400万人ともいう。

 食事を食べたすぐ後の短時間にだけ、人知れず血糖値が急上昇し、やがてまた正常値に戻る。それが、「血糖値スパイク」。食後時間がたった状態で行われる通常の健康診断では、見つからないことも多い。ところが最新調査で、なんと1400万人以上の日本人に「血糖値スパイク」が生じている可能性が明らかになってきた!


 わたしは「血糖値スパイク」のことについて知識はあった。だがその問題性についての認識が薄かった。
 主食をやめると健康になる で血糖値急上昇の説明があったのだ。その本は糖質制限食ダイエットを中心としていた。
 だが、まるで糖質食が問題のような書き方と、前後矛盾する書き方に疑問が生じていた。そのため、血糖値スパイク(その本では血糖値スパイクとはいっていなかったと思う)のことは判っても、問題を甘く見ていた。
 そのとき、いくつかの疑問点を書いた。
 7月6日の「ガッテン」でも糖質制限食をとりあげていて、一応納得した。
  参考 糖質制限食

 しかし、今回の放送で、糖質食が問題の人は一部の人だけで、大部分の人は該当しない、といっていたので、ようやく納得できたのだ。
 たとえば「3.米を主食とする日本食はヘルシーといわれているが、この定説を覆せるか。」など。多くの人にとって定説は正しい。問題は一部分の人なのだ。
「主食をやめると健康になる」のは一部分の人だ。問題はこの一部の人がなんと、1400万人もいるらしいことだ。
 わたしも他人事ではない。おそらく今までの情報でも、気をつけてみれば、一部の人と言っていたかもしれない。わたしの勝手な思い込みがあったかもしれない。
 納得できれば対策も考えられる。すっきりした。

    参考 “血糖値スパイク”危険度チェック!
posted by たくせん(謫仙) at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする