2016年05月05日

暖かいざるそば

暖かいざるそば

 駅の近くに天丼屋(天麩羅屋?)がある。わたしも時々入る。天丼を食べている人が多い。
 わたしがいつも頼むのは「天ざる」だ。このとき、若い店員に「ソバですか、ウドンですか」と訊かれる。関東では蕎麦だが、関西では饂飩と聞いたことがある。これは人によって違うので、確認するのは仕方ない。ここは関東だから蕎麦というわけにはいかない。
「ソバにしてください」
 重ねて訊かれる。
「暖かいソバですか、冷たいソバですか」
 このとき、答えに詰まってしまった。わたしは芯まで冷たくしたのは好みではない。家で食べるときは、茹でた蕎麦をぬるい湯でさっと洗うだけで冷やさない。そばつゆもちょっと暖める。電子レンジで20秒ほど。つまり冷蔵庫から出した冷たいままではない。しかし、店でそんなことをするだろうか。
「冷たくないソバにしてください」
 出てきたのは「かけそば」だった。
 わたしも学習するので、こんな失敗は一度だけ。次の時からは「天麩羅ざるソバ」という風に注文している。暖かいざるソバとは言いにくい(間違われそう)ので、訊かれたときに「冷たいのを」と加えている。
 ただし、店員にもよる。ベテランの店員だと「天ざる」で通じる。それでも「天もり」が出てくる。これはわたしが悪い。メニューに「ざる」がなかった。
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2016年04月07日

足立郷土博物館

足立郷土博物館・東淵江庭園
 3月31日 足立郷土博物館へ行った。
「こち亀」で有名な亀有駅から北へ約2キロ。ゆっくり歩いて四十分弱。バスの便もある。

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 葛西用水、右は「葛西用水桜通り」
 この直線の葛西用水の桜はまだ三分咲きくらい。

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 カッパの抱えているのはナマズのようだ。

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 右の亀は本物、左の鷺は像。

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 この桜だけほぼ満開。

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 足立郷土博物館へ到着、小さな博物館である。

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 今回のテーマは、「酒井抱一・谷文晁とその弟子たち」
 足立区に縁のある日本画家の絵を集めた。
 この日は無料であったが、入館料は300円。
 特に目を引いたのが、雪舟の阿育王寺伽藍(正式な名は何だったか)。「あいくおうじ」と仮名を振ってあった。
わたしは2007年に阿育王寺に行ったことがある。
  参考 寧波2寧波市と古刹 http://takusen.seesaa.net/article/61860489.html
このとき旅行団員は皆「あしょかおうじ」と読んでいたが、中国人ガイドは「あいくおうじ」と説明していた。
 間違いというわけではないのだが……。

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 博物館の裏側は東淵江庭園である。
 右へ歩く。

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 庭園の最奥より。
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2016年02月08日

皇居東御苑 その4

皇居東御苑 その4

2004年、紅葉の二の丸庭園

16.1.30-1.jpg 案内地図 横1200ピクセル

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 案内地図の番号5の手前から右へ行く。

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 二の丸雑木林、昭和天皇のご発意により、武蔵野の面影を持つ樹林として、1982年から3年にかけて整備された。

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 皇居の庭園とは思えないほど。今では紅葉の名所の一つ。
 地図番号39の辺りをうろうろしていた。

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 池のそばに出た。池に浮かぶのは羊草か河骨(コウホネ)か。

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 池の周りも秋景色。

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 地図番号39の辺りの雑木林。

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 もう一度林の中に入った。
 二の丸庭園でもっとも気に入ったところだ。
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2016年02月06日

皇居東御苑 その3

二の丸庭園から平川門

16.1.30-1.jpg 案内地図 横1200ピクセル

 天守台を下りて、汐見坂を二の丸跡へ向かう。かなり急な坂だ。汐見の名のごとく、すく近くに海が迫っていた。石垣の石も伊豆などから下の濠まで舟で運ばれた。

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 二の丸庭園に入る。冬景色。一部に武蔵野の面影を残した雑木林があるのだが、草は枯れて笹が足下を隠すのみ。
 2004年の11月に来たときは、背を超すススキなどで武蔵野らしい様子だった。その4でそのときの写真を載せる。

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 建物は諏訪の茶屋。二の丸の唯一の建物。(休憩所を除く)

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 池は日本庭園に付きもの。池も冬景色。

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 池の向こうには菖蒲田などがあるが、菖蒲田は水を抜いている。
 向こうの林が、冬の雑木林。

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 この錦鯉は見慣れない形をしている。
 インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配した、ヒレナガニシキゴイ。
 まるで大きな金魚のようだ。

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 池を半周した。

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 諏訪の茶屋の前には都道府県の木がある。
 梅が咲き始めていた。平川門に向かう。

 天神濠の近くが小さな梅林となっている。
 
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 まだ咲き始めたばかり。
 この辺りは南側に比べて、研究がされておらず、今後に期待することになる。

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 松はどうしてここまでねじれるのか。

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 入場札を返し、平川門に向かう。写真は櫓門であり、この外には高麗門がある。
 御三卿(ごさんきょう)はこちらに屋敷があったので、この橋を通って登城した。他の大名などは大手門から登城する。

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 櫓門を出ると左に不浄門がある。地図を見ないと判りにくいが、ここから帯曲輪を得て死体などが運び出された。生きてここを通ったのは浅野内匠頭だけという。
 私たちはここを通らず(通れない)、高麗門から外に出る。

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 平川門の橋は木の橋だ。擬宝珠(ギボシ)には文字が刻まれている。

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 不思議なことに「大工」の文字が消されている。

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 今に残る、ただ一つの木の橋を通って振り返る。右が高麗門である。
 大手門と同じように、高麗門と櫓門がセットになっている。
 この後、パレスサイドビル屋上から平川門を見るとこの日一番の絶景が広がる。なお、そこでは撮影禁止である。

  つづく
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2016年02月03日

皇居東御苑 その2

江戸城本丸跡

16.1.30-1.jpg  案内地図 横1200ピクセル

 本丸の高さまで上がると、二本のケヤキが正面にある。

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 この二本のケヤキの向こうが城の中心で、本丸跡の大広場である。わたしたちは左に行く。
 左へ左へと回り込むと、富士見櫓がある。天守閣のない江戸城では、富士見櫓が象徴であった。

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 松の廊下跡を過ぎて……、松の廊下では判らない人がいるだろうと思ったが、見学者はほとんどが知っているという。
 ガイドの研修のとき、「あちこちでガイド以上に知っている人がいて、この松の廊下跡がその代表です」といわれたという。だから説明しません(^_^)。

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 この広場は奥が、中奥と大奥の跡、手前が表で政治の中心であった。この大広場にはびっしり隙間もないほど建物が並んでいた。
 明治天皇が来たとき、荒れていて、とても住める状態ではなかったので、蓮池濠の西に仮宮殿を建てた。そこが現在までつづいて新宮殿になっている。

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 石室、狭い石室で使用目的は不明。

 竹林がある。昭和天皇のお印が竹であったため。

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 キッコウチク
 
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 キンメイモウソウ

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 天守台。明暦3年(1657)の大火で天守閣は焼け落ち、以後は再建されていない。保科正之が幕府のトップであったとき、江戸の街を再建するのが先と、天守閣の再建を止めたという。すでに天守閣の時代は終わっていた。

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 天守台から見た大広場。
 今、天守閣を再建築しようという話がある。だがここは宮内庁の敷地であり、今上天皇など皇室は消極的であるという。近代化の波で消えたのならともかく、明暦3年以降存在しない天守閣を再現するのは疑問に思う。
 天守閣のないのが元和偃武(げんなえんぶ)の象徴といえないか。

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 桃華楽堂
 香淳皇后の還暦祝い(昭和41年)に建設された。ここだけが場にそぐわない異様な雰囲気。鉄線(クレマチス)のデザイン。

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 北側には武道館の屋根がわずかに見える。

   つづく
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2016年01月31日

皇居東御苑 その1

江戸城 登城

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案内地図 横1200ピクセル

 1月のある日、次のような招待状が届いた。

囲碁の仲間と回る東御苑
皇居の一部として唯一一般公開されている東御苑をご案内致します。
  〜略
11:00
大手門〜同心番所〜百人番所〜大番所〜富士見櫓〜松の廊下跡〜富士見多聞〜本丸跡〜大奥跡〜天守台〜汐見坂〜二の丸庭園〜平川門〜パレスサイドビル屋上
13:00
パレスサイドビル内の飲食店で打ち上げ〜
http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html

 招待者は囲碁仲間で、千代田区の観光ガイドである。もしガイドの組織を通せば有料であるが、個人の招待なので……。

 1月27日、ガイド(女性)に案内されたのは男4人と女1人、5人であった。
 わたしは11時少し前に大手門に着いた。

 まず手渡された案内図、その一部が上の案内地図である。この日はこの順番に沿って進んだ。

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 大手門に向かって左側の堀、桔梗濠。
 堀には氷が張っていた。沖縄でも雪という記録破りの寒波の後である。しかし、この日は一転暖かくなり、道も乾いていて滑るようなことはなかった。

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 右側の堀、大手濠。
 江戸城の掘の名はすべて「濠」を使っている。

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 大手門だが、その高麗門(こうらいもん)。どういうわけかこの形の門を高麗門という。

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 大手渡櫓門
 高麗門を入ると枡形の土地があり、突き当たりや左手には鉄砲狭間がある。そこを90度右に曲がると大手渡櫓門がある。防御のための造りだ。
 この大手渡櫓門と高麗門を一緒にして大手門という。
「大手門とは何でしょう」ガイドの最初の問いである。
 どこの城でも正門だが、なぜ大手門というのか、と考えていると、「正門」の声を受けて、「では裏門はなんというのでしょうか」これがガイドの本当の質問だった。
 一呼吸置いて誰かが「搦手(からめて)門」。で、江戸城には搦手門という名の門はなく、半蔵門が相当すると。
 
 櫓門を入り左に曲がると、入場札を受け取る。札は出るときに返却する。
 入場は無料、開門は9時、閉門は季節によるが今は午後4時。原則として月曜と金曜が定休日。

 途中4カ所の門の跡を通る。最初の門の跡を通ると、右手に同心番所がある小さな建物だ。

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 瓦の紋は鬼瓦が三つ葉葵、徳川家の紋。その他は三つ巴。

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 反対側は、三つ葉葵の下、左が三つ巴で右が菊のご紋だ。俗説はあるが、理由は不明。

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 次の門の跡

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 「中の門」の跡、角は石の積み方が算木積み。ブラタモリ小田原城でも紹介された。
 写真がないが、左手には百人番所、伊賀者がつめたとか。中の門から先は殿様他数人の家来しか入れない。大勢の家来がこのあたりで、殿様の下城を待つことになる。

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 この石が、江戸城の石垣で一番大きな石。地中にも潜っている。

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 中の門を入った右側、大番所。
 左の方へ坂道を登っていく。

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 石垣の積み方が、中の門の跡とは違う。坂は緩やかながら往時は階段だった。
 ヘアピンカーブでこの石垣を回り込むと、最後の門の跡がある。「中雀門(ちゅうじゃくもん)」跡である。石垣は、無残に表面が割れて剥がれたりしている。火事によるという。(地図では8)

つづく
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2016年01月01日

謹賀新年

新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

 身の丈に合わせて生きるしあわせは 新年を見る心養う 

   謫仙
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2015年12月11日

パソコン VALUESTAR G W その3

パソコン VALUESTAR G W その3
 2014年02月20日に その2 を書いてからは、順調に推移していた。

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 現在のデスクトップ

 最近OSをwin7からwin10にアップした。この型はメーカーでも対象外なのであるが、できるというのでアップしてみた。
 アウトであった。具体的にはテレビが見られなくなった。ほかにも障害がある。
 そしてインターフェイスが使いにくい。昔の「98ランチ」と同じような形だ。win3.1の時の98ランチはありがたかったが、win95が出たら、95の方が使いやすかった。
 これは工夫すれば、何とかなるようだが、テレビの件は決定的で、win7に戻した。
 ところがきちんと戻らない。いろいろいじっているとき、何かの誤操作をしたようで、BIOSさえ動かなくなってしまった。
 結局、メーカーに初期設定に戻してもらった。1万5千円余。
 2週間テレビなしの生活になった。そのため新聞を精読することになった。(^_^)
 まあ、XP機があるし、タブレットもあるのでメールなどは何とかなった。
 パソコンが戻ってきたのが10月14日。
 追加ソフトを入れて、不要ソフトを削除し、辞書を再構成し、ほぼ復旧したのが、11月4日。
自動バックアップのデータは全滅だった。それとは別にドラッグアンドドロップでデータを保存してあったので、大部分回復できた。
 さてその後であるが、テレビの録画機能の一部が機能しない。結局は、11月28日にテレビソフトをアンインストールして、再インストール。
 まだあった。Aeroの余計な機能を殺すこと。ようやく完全に復旧したといえよう。

 この時点でCドライブは、
     空き領域が10G
     使用領域が46G
 これで何年保つかな。
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2015年11月10日

東京スカイツリーの景色

東京スカイツリーの景色
 先日、東京スカイツリーに上った。
 昼時に東京スカイツリー駅に着いた。以前は業平橋といっていた駅だ。
 東京ソラマチのビルに入り食堂を探す。あちこちにあるが、けっこう込んでいた。
 五階建てビルの四階に展望デッキへの入り口がある。そのフロアに大勢並んでいて、40分待ち。降りてきたときは待ち時間なしだったので時間によっては待たずにすむようだ。
 四台のエレベーターもしゃれている。そして全く振動がない。
 展望デッキ(約350メートル)に上がり、さらに10分ほど待って上の展望回廊(約450メートル)に上がる。
 以下の写真はタブレットのカメラによるもの。
 今回は写真を少し大きめにした。

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 隅田川にかかるX型の桜橋

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 下には展望デッキの屋根が見える。

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 右 言問橋、左 東武線の鉄橋、手前に墨田公園。

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 東武線の鉄橋の先は大きく左に曲がり浅草駅に至る。鉄橋のまっすぐ先はご存じ浅草寺。

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 ビルの陰になるが吾妻橋、その右脇に観光船の乗り場がある。この通りに雷門がある。
 左に駒形橋、そのあたりが観音像の出たところ。つまり浅草寺の建立のきっかけとなった場所である。橋のそばに駒形堂があるのだが、写真でははっきりしない。

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 駒形橋の左が厩橋

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 右端に半分しか見えないが蔵前橋。そして総武線の鉄橋、その次が両国橋。総武線の鉄橋の左側に国技館や江戸博物館の屋根がみえる。

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 このあたり隅田川の河口である。左右に分かれた隅田川に挟まれた島は、本来はもっと小さく、旗本石川八左衛門が徳川家光から拝領して石川島といわれた。その隣の砂州を摂津国の漁夫が築島し佃島とする。江戸時代にさかのぼる佃煮の発祥の地である佃島である。
 隣の石川島とは陸続きになって、今では石川島の名は消えてしまった。高層ビルの街になっている。
 明治以降にも島の南西を埋め立て月島とする。陸続きだが名は残っている。

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 東京ゲートブリッジが見える。

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 東の方には荒川が目立つ。遠くは千葉市の方向。

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 鉄道は、左が東部スカイツリーライン。右は京成押上線。

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 隅田川が荒川に近づいて、ヘアピンカーブをしている。鐘淵で隅田川の難所であった。その左上が北千住。白鬚橋がはっきり見える。
 左の隅に桜橋が見える。一周した。

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 北北西、隅田川は北千住のさらに上流。川口市の方向。

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中央の木立は上野公園。その先の高いビル群は池袋。

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 まだ宵闇ではないが、逆光で暗い。
 東京ドームがわかりやすい。その向こうに新宿のビル群。左の方には皇居の森も。

 下に降りる。そこは五階。四階に下りると、並んでいる人はほとんどいない。待ち時間なしの状態だった。
 まだ時間に余裕があるので、すみだ水族館に行った。思った以上に充実していた。

 余録

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 隅田川
 徳川幕府の成立以来、東京の河川はあちこち変えられた。有名なのが利根川で、江戸湾(東京湾)に流れていたのを鬼怒川と合流させ、現在のように太平洋に流した。そのため鬼怒川が利根川の支流になっている。元利根川は今は江戸川となった。
 隅田川は古くは入間川の下流部であり1629年に荒川の本流となる。
 明治以降、洪水を防ぐため、岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、今では放水路が荒川の本流となっている。それ以前から千住大橋付近から下流は隅田川と俗称されていたので、岩淵水門から下が隅田川となった。
 また、江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれていた。だから古典落語で、大川・隅田川・荒川がでてくることになる。宮戸川の別名もあったようだが、どこまでかはっきりしない。
 前に紹介した 古隅田川(ふるすみだがわ) は、どうだったのか。
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2015年10月14日

古隅田川 3

古隅田川 3
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 この道から離れる。向こうに見える橋を渡って水路沿いに歩く。ここから水路のイメージが一変する。

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 大黒さまとウサギの話で知られた蒲が群生していた。

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小菅の風太郎 1000ピクセル
 いつ頃作られた話だろうか。なお文中の「もろこし」とは稲科の穀物。

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 水路は幅がある。ここまでは水路の上に木道があったので、狭く見えた。つりは禁止だが、つりをしている人もいた。

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 土の道を歩く。

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 生活の道として普通に人が歩いているようだ。

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 振り返ると先ほど渡った橋が見える。

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 ここで九十度右に曲がる。

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 白鷺公園の脇を通る。大きいとはいえないが、公園には幼い子供を連れた人たちが多い。平日の昼間のせいか。

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 この橋あたりで水路は終わりとなる。橋から左に行けば綾瀬駅だ。
 前方一時の方向に小さな水路が細く浅く続いている。

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 綾瀬駅の方向、iPadの地図では川があるが、先は暗渠になっている。

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 小川となってさらに続く。向こうからこちらへ流れている。

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 水は澄んでいる。メダカより少し大きい程度の小魚が泳いでいるのが見える。
 ずっと続いているようだが、ここで引き返した。

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 綾瀬駅へ向かうと暗渠の上は細長い駐輪場になっていた。
 綾瀬駅に着いたが、左に折れて小菅まで歩く。さほどの距離ではない。この途中に五反野親水緑道の入り口がある。
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2015年10月10日

古隅田川 2

古隅田川 2
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 大六天排水場、ここが一応古隅田川の終点になる。ここから綾瀬川に排水するのか。

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 排水場のすぐ近くにこんな路地がある。古隅田川緑道の入り口になる。この狭い水たまりを古隅田川と言われても、納得できない。昔の隅田川はこんなに狭かったのか。

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 左下の水路の左が大六天排水場である。水路の総延長は600メートルくらい。

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 いよいよ水路だが、この橋は行き止まり。
 橋の上から排水場を見る。流れているようには見えないが、ゴミの様子では少しづつ流れているのか。

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 反対側は川の上流方向ということになる。初めて見た時は異様な感じがした。これで水がきれいなら申し分ないんだが。

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 この木道を歩く。水は流れているようには見えない。

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 水のあるところ草が繁茂しやすい。

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 鵜の森橋、最初の橋だ。

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 少し広い歩道。
 
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 川は道の向こうへ続く。

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 道は左へ緩く曲がる。陸前橋が見える。

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 陸前橋まではすぐ。振り返るとさっき横切った鵜の森橋が見える。

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 この通りは大通りだ。そして斜め左に川の続きがある。
 地図でも大きく曲がっている。

つづく。
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2015年10月06日

古隅田川 1

古隅田川 1

 前に書いた 五反野親水緑道 の続きのようなものである。三回に分ける。
 小菅の駅を下りると目の前が東京拘置所で、堀に沿って右に行くと小菅万葉公園であると書いた。

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 この堀も古隅田川という。上部に有刺鉄線をはったこの殺風景な柵が、この中が拘置所であることを思わす。反対側にも、つまり堀に沿って左に行くと、途中に同じような柵があったが、今はない。

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 堀のこちら側は、こんな細長い公園である。

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 少し進むとこんな柵があるが、これは危険防止の柵であろう。

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 その先は、もう荒川土手である。

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 人工の水源、これで堀の水をまかなう。

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 振り返る。親水緑道のような小菅万葉公園だった。
 ここから水戸橋に向かう。

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 綾瀬川と水戸橋跡地
 寛永年間に、綾瀬川を堀変えた、という記録がある。それ以来ここが綾瀬川となった。
 また水戸光圀の妖怪退治の伝説があり、水戸光圀が自ら筆を執り「水戸橋」と書いたと伝わる。現在の水戸橋を渡る。
 この綾瀬川を挟んで両側に古隅田川がある。挟んでといってもかなりずれている。

 P9237455.JPG 一応説明を。 横1000ピクセル

つづく。
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2015年09月12日

初めての歌舞伎

初めての歌舞伎 伽羅先代萩

 九月九日は重陽の節句だが、これは旧暦の中国の話。新暦の東京では残暑の厳しいころだ。菊を愛でる時期はまだまだ先である。
 今年の関東はこの日は豪雨の日であった。翌日の10日は栃木県で鬼怒川が氾濫した。テレビでは、二階まで水につかり、屋根の上から救助を求める人などが報道された。

 話を戻して9日であるが、この日、わたしは初めて歌舞伎座に行った。夜の部の歌舞伎を見に行ったのだ。予定外の仕事を途中で切り上げたが、雨が激しく時間もなく、内外の写真を撮ることもできなかった。
  夜の部 午後4時30分開演 (9時ごろ終演だったか。幕間も計50分ほど)
通し狂言 伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ) 5幕
  花水橋  竹の間  御殿  床下  対決  刃傷
 主役とも言える政岡(まさおか)役は坂東玉三郎。いいですねえ。

   政岡の手の捌き方美しき

 さて初めての歌舞伎であるが、台詞が判らないところが多く、案内文を読まないとストーリーばかりでなく、ほとんどに意味が判らない。
 そして座敷で座ったまま、延々と会話が続く。ちょっと退屈してしまう。
 「御殿」では、乳母政岡が幼ない鶴千代が暗殺(毒殺)されることを恐れて、御殿の中で畳に座り、自ら飯を炊く。これが長い。実際はどのくらいか、体感的には30分以上。こういうところで手を抜かないらしい。その手さばきばかりでなく、所作のすべてが美しい。どこをとっても絵になりそう。政岡の息子「千松」の死を悼む場面も痛ましい。
 五歳か六歳かと思える子役(主君「鶴千代」と政岡の息子「千松」役)が長い間正座したまま長い台詞を言う。これだけでも感心してしまう。
 でもこうして役者を褒めるのは邪道かもしれない。肝心の劇は間延びした感じがする。
 「御殿」では、義太夫が語られ、玉三郎の演技を助けているようだ。義太夫は好みではない。

 京劇なら全体を1時間半程度に縮めてしまうかも知れない。飯を炊くシーンも、盛大な鳴り物1分で、1時間経ったことにしてしまうとか。(笑)
 ついでに、時代は鎌倉時代。鎌倉の問注所で裁く山名宗全と細川勝元は室町時代の応仁の乱の当事者と同じ名。
 江戸時代、仙台伊達藩のお家騒動を題材にしている。
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2015年08月13日

五反野親水緑道

五反野親水緑道
 (写真が多いが、分けずに載せる)
 小菅の駅を降りてちょっと左手に行くと、目の前に小菅の東京拘置所の敷地と道を距てる堀がある。
 堀はL字型になっていて、右に行くと荒川の土手にぶつかる。その手前は少し緑地が広くなって小菅万葉公園である。名前負けしている。
 左手に行けば堀は直角に曲がり、堀に沿った道をまっすぐに行くと綾瀬川に至る。今回はそこまでは行かない。
 この道にはテラス状の歩道があり、散歩に良い。
 その中ほどに橋ができていた。新古川橋という。

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 左が車が通る道路、そして一段下がったテラス状の歩道。右が拘置所の敷地になる。
この堀の水は流れていないので、きれいとは言いがたい。旧隅田川という。今の隅田川との間には荒川がある。不要になった隅田川を埋め立てた名残か。

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 橋の向こうは拘置所の裏門になる。この橋ができて拘置所に入りやすくなった???

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新古川橋を背にすると五反野親水緑道がある。

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 趣のある道ではないか。歩いてみることにした。

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振り返った。道は左側になる。

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 水量はかなりありそう。言い遅れたが、歩いた時期は八重桜のころである。

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 常磐線の下を横切る。

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 振り返ると、右には躑躅が満開。
 
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 遠くに見える高架鉄道は、東武スカイツリーライン(旧東武伊勢崎線)。スカイツリーラインと常磐線と写真右手の道路に挟まれた三角形の土地は、五反野コミュニティ公園になっている。

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 公園は道路の右手になり、八重桜が満開である。公園の全体像の写真がない。

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 公園もおわり、まもなくスカイツリーラインになる。

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 目の前にスカイツリーライン。そこから道も水路もスカイツリーラインに沿って右に曲がる。

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 結構広い。

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 小さな祠、説明は見つからなかった。卍なので仏教系であろうか。

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 休むに都合がよさそう。

 この先、江北橋通りで暗渠になって道を横断する。道の向こうに続いていた。

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 緑地が狭くなってきた。道も狭く一方通行で、自動車もあまり通らないようだ。

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 まもなくこの小川も終わる。

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 小川の終点。
 頭上はスカイツリーライン。まもなく五反野駅である。
 人の手になる小川だが、友人は、子供の頃この小川でザリガニつりなどしたという。かなり前から整備されていたようだ。
 こう見ると緑道よりも水路ばかり、写真を整理していて気がついた。
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2015年08月05日

ホームページビルダー19

 ホームページビルダー19(HPB19)を買った。
 前のビルダーは6だった。搭載していたXP機が使いにくくなり、次は別のやり方を考えていて、タグでの作成に挑んだが、覚えるまで時間がかかりそう。
 同時に勤務先のHPも作らなければならなくなった。幸いにも勤務先のHPもほとんど動きのないHPであり、CSSを作るほどのものではない。それで使い慣れたHPBとなったのだ。時間を買ったに等しい。
 そこでビルダー19をWin7機に搭載した。
 多少の戸惑いはあるものの、使い勝手はビルダー6とあまり変わらない。
 わたしのHPではCSSを作成しても、使うのは一回きり、あまり意味がなさそう。
 巷では、CSSを勧めていて、表で体裁を整えてはいけないという。そういう記事もそれなりに表を使用していた。表が悪いわけではないらしい。
 一説によれば、表を使うとブラウザーによっては形が崩れることがあるとか。
 しかし、わたしは経験したことがない。どこかのブラウザーでは崩れているのかな。
 以前、ワープロで文章を作ると、インターネットでは形が崩れるという話があったが、これも経験していない。
 文字に赤い色をつけたのが、あるブラウザーでは黒くなってしまったことがある。おそらくブラウザーに色の対応ができていなかったせいであろう。後にできるようになったから。

 ブログを作るとき、何日にもわたって、CSSをいじったことがある。
 一番苦労したのが、文字の大きさと行の幅である。HPでは縦書きかと思えるほど行間がない。それがブログでは自由にできた。
 HPは行間が悩みの種だった。それがHPB19では行間を自由にできるではないか。かなり見やすくなった。もっとも今では中心はブログで、わたしのHPはその案内、目次に過ぎない。そもそも今では100%の大きさという概念がないに等しい。
 わたしのHPで唯一CSSの可能性のあるのが、「歌声のない歌」だ。いつか作ってみたいと思う。しかし、専門的な知識も必要になりそう。専門書がなくては無理か。とにかく、メリットが感じられない。その前にHTML文を習得せねばならない。いつかいつかで終わりそう。
 なお、わたしの理想のHPデザインはGoogleのデザインである。あの極端に無駄を省いた簡潔さ。脱帽である。

 HPB19は全体的にどこか品のないソフトだ。「初心者のために…」を歌いながら、入り口がわかりにくい。入ってしまえば、よくできていると思うのだが、それだけに、入り口で迷っているうちに売店に誘うような構造に、品がないと思ってしまう。
 たとえば、ユーザー登録をクリックすると、出てくる画面は自社のCM、そこからまたユーザー登録を探さねばならない。
 ジャストシステムという会社の要素を除いて、HPの作成に徹底すれば、優れたソフトと思うが、ネットを見ていると、実際はかなり躓いているらしい。
 ソフトとしてはかなり優秀だと思うので、余計なことで躓く人がいるのは残念。
参考にしたHP  ホームページビルダー19 使い方
 このソフトの入り口で躓かないように丁寧に説明している。
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2015年07月25日

「楊家将演義」完訳刊行記念トークイベント

 2015.7.17
「楊家将演義」の完訳刊行記念トークイベントを聞きに行ってきた。
 開演前に岡崎先生と話をする機会があった。
楊家将について、
 もともとは、小説として書かれたものではなく、講談などの種本なので、現代小説から見るとあちこち物足りないところがあるでしょうね。講談や芝居など、いろいろある話を演者によって作者によって変えたり膨らましたりして、いつの間にか原本とはかけ離れたものになってしまう。それを次の世代に原本と勘違いした作者が、それをさらに手を加える。こうなると名前だけ楊家将でも全然違った話になる。テレビドラマでも同じ。

 こんな話をしてから、トークイベントの会場に向かった。
 松浦智子さんも来ていて、話に加わった。若い女性なのでびっくり。それだけに今までになかった話を聞けたりした。
 たとえば、何々軍とは独立した小領主の自分の軍隊で、国の傭兵部隊となり、高い報酬に引かれて、移動してしまう。もともと忠義心などないに等しい。その本拠地は「村」と訳したが大きなかたまった一軒(一群?)の家に一族何千人もの人が暮らしている。岡崎先生もご存じだったがわたしには聞く機会がなかった。
 楊家将の一部分で封神演義みたいになるが、中国では常に仙界の話は身近にあるので、どんな時代に出てきてもおかしくない。諸葛孔明の八卦陣もそれに近いのではないか。
 さらに土屋文子さんもいらしていた。岡崎先生の師妹(正しくは学妹)である。いつもながら、武侠関係者に女性がなんと多いこと。
 秋梨惟喬さんは芥川龍之介の「鼻」の例をだして、その基になる話があるが、その30倍にも膨らんでいる。昔の人は簡潔な文から30倍もの情報を得たのではないか、という。
 「馬に踏み殺された」。その文だけで、戦って何度も傷を負い苦しみながら落馬して、結局何度も馬に蹴られたり踏まれたりして息絶える。そこまで説明なくても想像できたのではないかと。
 岳飛伝もそうだが、燕雲十六州を取り戻せという主張がある。しかし、その思想はこれらの物語の作られた明代の主張を反映していると思われる。
 終わってから、岡崎由美さん秋梨惟喬さん松浦智子さんを含めて、11人で二次会。
 秋梨惟喬さんには「矢澤潤二の微妙な陰謀」という著作がある。
 トンデモ本というのがある。そこに書かれたことはもっともらしいが、常識を働かせれば、多くは素人でも嘘を見破れる。
 この連作短編集は、各編の主人公たちを、矢澤潤二がトンデモ情報をもっともらしく解説し、説得するのだ。
 この小説の続きは書いていますか、と訊いたところ、書いてはいるのだが、一冊にまとまるのはまだだいぶ先になりそう、と言っていた。
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              九年花雕酒
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2015年07月11日

国立西洋美術館

 国立西洋美術館には若いときに入ったことがある。その後は、この前の通りを毎年何度も通っているのに、なぜか入らなかった。

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 この建物を世界遺産に登録しようとしている人たちがいる。わたしには価値の判らないものの一つ。
 前庭には、ロダンのブロンズ像作品が並んでいる。
 オーギュスト・ロダン(フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン)
 1840−1917
 19世紀を代表する彫刻家である。
 ロダンを代表する彫刻が「地獄の門」であるがこれは未完成であるという。
 「弓を引くヘラクレス」はブールデル(エミール=アントワーヌ・ブールデル)作。

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 ご存じ、「考える人」である。思考の重さに体が押しつぶされそうだ。
 地獄の門の上部にあり、地獄で苦しむ人をを見ながら思考する。

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 カレーの市民
 百年戦争のとき、イギリスのエドワード王は包囲したカレー市が飢えて降伏するとき、6人の市民の出頭を要求した。志願した6人である。

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 志願した有力者6人は、痩せ衰えて裸に近い姿で、首に縄を巻き城門の鍵を持って、死ぬ覚悟をして出頭した。しかし、エドワード王の妃が嘆願し助命された。

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 弓を引くヘラクレス
 へラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために渾身の力で弓をひき、まさに矢を放とうとする瞬間。

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 アダム(Adam)

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 エヴァ(Eve)
 地獄の門の両脇に、少し離れてアダムとエヴァがいる。

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 地獄の門
ウィキによれば、ここ国立西洋美術館と、静岡県立美術館など世界で7点展示されている。
 門の頂には
   我を過ぐれば憂ひの都あり、
   我を過ぐれば永遠の苦患あり、
   我を過ぐれば滅亡の民あり
   義は尊きわが造り主を動かし、
   聖なる威力、比類なき智慧、
   第一の愛、我を造れり
   永遠の物のほか物として我よりさきに
   造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
   汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ

 という文が書かれているという。(もちろん日本語ではない)

 わたしが初めてこの美術館に入った頃は、「松方コレクション」という別名があった。今では松方コレクションの名は見えない。
 この美術館は松方コレクションを基礎に、広く西洋美術を展示するために、1959(昭和34)年4月に発足した。
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2015年05月17日

神田祭

神田祭
 秋葉原駅の近くに、神田明神がある。江戸鎮守の神社である。
 今年は遷座400年になる。5月の4日〜15日に神田祭が行われた。
「天下祭」として知られる神田祭は、江戸時代に山王祭(赤坂・日枝神社)と隔年で斎行することになり、今でもその伝統は守られている。今年はその例祭の年だ。
 江戸時代は江戸城内に祭礼行列が練りこみ、将軍・御台所の上覧があったという。
 5月10日に見に行ってきた。
 大小200の神輿が練り歩くさまは壮観である。もっともわたしが見たのはそのうちの30〜40基くらいだろうか。
 粋でいなせという江戸っ子の姿を見ることができるが、江戸っ子ばかりではあるまい。
 元気の良いかけ声は祭りを華やかにする。
 写真が多いが、分けずに一回で載せる。

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 秋葉原駅の駅前に、御輿や太鼓が飾られている。駅から一歩踏み出せば、祭りの中になる。

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 万世橋という町があるのか。台の彫刻もよい。

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 秋葉 VS アキバ
 神田祭の間は秋葉の勝ちのようだ。

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 中央通りを、御輿が練り歩く。

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 小さな御輿が一基。まわりで子供たちが休んでいたので、子供御輿であろう。
 中央通りから直角に曲がったこの前の道を行くと、神田明神の方へ向かう。
 写真の正面は中央通り。

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 神田明神の方から御輿が来る。練り歩いているので動きはゆっくりだ。

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 神田明神下あたり。

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 神田明神の入り口だが、付近は身動きできないほど。境内には裏道から入れるはず。境内では和太鼓の演奏などが行われている。今回は行かなかった。

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 引き返すと電気街に向かう御輿がいる。

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 これは山車(だし)。なんで山車と書くのだろう。
 山車は本来牛が引いたというが、今では人が引く。
 もう数は少なくなったらしい。多額の費用がかかり、各町内だけでの維持は難しい。

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 昼時、アキバらしい寿司屋。入ろうとしたが、開いていなかった。

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 山車の上には、太鼓・笛・鉦の鳴り物演奏者と、ひょっとこが乗り込む。
 本来神田祭りは山車が中心だった。今では御輿が中心である。

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 単調なリズムのなかでひょっとこが視線を集める。

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 こんな豪華な彫刻もある。火事の多い江戸では、そのたびに作り直さねばならなかった。
 戦災で全滅したが、こうして何基か復活している。

P5107419.JPG サムネイルにした。
 混雑は人も御輿も。

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 奴姿が持っている竿の先には、町名の書かれた提灯があったと思うが、記憶が曖昧。
 その前に浴衣姿の大人。

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 駅前に戻った。御輿が表に出ていた。

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 御輿は屋根と台が立派だが、胴は細いもの。

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 神社と同じような、唐破風(からはふ)の立派な屋根。

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 龍や鳳凰の彫刻もある。
 この御輿は、ヨドバシビルと駅の間の狭い道に入ってきた。御輿の屋根の上の鳳凰がアーケードの屋根にぶつかってしまう。そのため少し低くして駅構内に入れた。担ぎ手も苦しそう。無事入ると、まわりから拍手。
 祭りはこれからと思うものの、秋葉をあとにした。
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2014年11月29日

角のない鬼

角(つの)のない鬼(鬼子母神)

 鬼子母神(きしもじん)は各地で祀られているが、有名なのに、「恐れ入谷の鬼子母神」がある。
 夏になれば、入谷朝顔まつり(朝顔市)が開かれるが、この入谷鬼子母神前が中心である。朝顔市は明治時代から。
 法華宗本門流の寺院。仏立山真源寺(しんげんじ)という。万治2年(1659年)の開山。地下鉄日比谷線入谷駅からすぐ。

 近くに「びっくり下谷の広徳寺」があったが、関東大震災で崩壊して練馬区へ移った。いまは下谷にはない。

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 入り口の壁に埋め込まれた表札。鬼の字に角がない。右下はムではなく人になっている。

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 入り口右には角を取ったわけの説明がある。

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 この小さめな社に鬼子母神は祀られている。

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 入り口から入った右には、福禄寿、下谷七福神の一つ。七福神は道教の神で、よく仏教寺院に祀られているが、仏教とはどんな関係があるのだろう。
 
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 入り口から数歩進むと左にこどもを抱いた地蔵菩薩像。

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 道の向こう側の細い道を入ると、狭い路地の下町が残っている。失礼してひとコマ写真を撮らせていただく。
posted by たくせん(謫仙) at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月09日

浅草寺境内

浅草寺境内
 既に紹介したところと一部重複します。

 菊花展を見て境内を散歩する。
 金龍山浅草寺は、都内最古の寺で聖観音宗(せいかんのんしゅう)である。
 元は天台宗であったが、戦後独立し、聖観音宗となった。その総本山というが、末社はあるのかな。

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 名を知らぬ花。

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 いつも通り過ぎるだけだが、久しぶりに参拝した。

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 昔は火事に備えたが。

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 本堂の天井、中央に龍の図。

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 本堂の天井、龍の両脇には天人の図。

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 中央に御宮殿(ごくうでん)がある。ご本尊の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を納める。
 秘仏であり、見ることはできない。長い間見ることがなかったため、明治二年に役人が調査したところ、20センチほどで焼けた跡があり、両手両足がなかったという。
 落語では一寸五分という話が出てくるが、上の話が本当なら、それよりはだいぶ大きい。
 それにしても、それからは誰も見たことがないらしいので、実際はどうなのか。

 本堂を出て浅草神社に行く。浅草寺の境内にあるのだが別法人。通称三社様。

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 浅草寺の裏手に回る。銀杏の大木、幹の半分が枯れている。

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 大谷米太郎夫妻。大谷米太郎は戦前「鉄鋼王」と言われ「日本の三大億万長者」になったという。後にホテルニューオータニを建設。浅草寺では宝蔵門を寄贈した人である。
 この向こうは浅草寺病院。

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 浅草寺病院に沿って、植え込みがあり、各種の像などかある。

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 本堂の方を見ると、広い土地にほとんど人がいない。表側の混みようとは別世界。

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 9代目市川團十郎

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 「暫」の像というが、わたしは歌舞伎に疎いので、説明抜き。

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 この塀のつきた向こうが本堂の裏手になる。塀の中は影向堂(ようごうどう)など。
 これで今回の浅草寺は終わる。
posted by たくせん(謫仙) at 07:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする