2016年06月19日

優曇華の花

優曇華(うどんげ)の花

2016.6.19追記
ここで会うたが百年目。盲亀の浮木優曇華の、花待ち得たる今日の対面。親の仇、いざ尋常に勝負勝負。 
というのは落語でおなじみ。もとは芝居でしょうが、わたしは歌舞伎は不案内。この言葉もいろいろなパターンがある。

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 ガラス窓の外側に咲いたものを内側から撮影。今朝(2016.6.19)気がついた。
 これが我が部屋で三度。かなり小さい。実際に米粒と比べてみると小ささがよく判る。

P4206109-2.JPG

 今まで見なかったのは、気がつかなかっただけで、何度も目の前にあったのかも知れない。

   …………………………
2012.1.1記
新年おめでとうございます
今年もよろしくお願います


きのう障子の桟に優曇華(うどんげ)の花を見つけました。知ってはいたのですが実際に見たのは初めて。
わが陋屋にもなにかいいことありそうな。
これまでなんとか過ごしてきた祝福かも知れません(^。^)。

PC264644-1.jpg

 実際は薄翅蜉蝣(ウスバカゲロウ)の卵です。幼虫はアリジゴクとして知られています。もっともウスバカゲロウにも種類があって、アリジゴクにならない種もあるので、この卵がアリジゴクになるかどうかは判りません。

 本来、優曇はサンスクリット語ウドゥンバラの音写で、無花果(イチジク)の一種の樹木名だといいます。三千年に一度咲くとか。花は優曇華、普通は「優曇華の花」といいます。
 無花果は花が咲かずに実になるといわれていますので、花が咲くのは珍しいことになります。実際には実というのは花です。花を食べるわけですネ。
 それがどうしてウスバカゲロウの卵になったのか(^_^)。
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2015年03月04日

矛盾

 2007.5.8 記   2015.3.4追記

韓非子(かんぴし)の中にある話、その3である。
 あるとき、わたしの身近で矛盾が話題になった。なぜ矛と盾か。
「矛は攻るもの、盾は守るもの、だから矛盾ではないか」などという。
 あらためて問われると、意外に知らない。わたしは国語の教科書にあったので知っていた。
 楚の商人が、矛と盾を並べて言う。
「わが盾の堅きこと、よく陥(とお)すものなし。わが矛の利なること、物において陥(とお)さざるなし」
 ある人曰く、
「子の矛をもって、子の盾を陥さば如何(いかん)」
 その人、応うるあたわず。

 どんな盾も陥す矛と、どんな矛も陥さない盾は、同時に存在できないのだ。それが存在するという主張は矛盾する。
 孔子が聖人とあがめる王がいた。そのふたりが堯と舜である。堯は帝位を舜に譲った。武力によらず譲ったので、これを禅譲という。

 韓非子にこんな話かある。
 歴山で農民が境界をめぐって争っていた。舜が出かけてともに農耕したところ、一年で境界の畦は正しく定まった。
 黄河の漁師が釣場を奪い合っていた。舜が出かけて漁師の仲間に加わると、一年で釣場は年長者にゆずられるようになった。
 東夷の陶工が作る陶器は粗悪だった。ところが、舜が出かけていっしょに作るようになると、一年で陶器は立派になった。
 この話を聞いて孔子は感激した。
「……これはなんと立派な「仁」であろうか。みずから実践することによって、人民にならわせたのだ。これこそ聖人の徳と言うものだろう」
「このとき堯は、何をしていたのか」儒者にきいた者があった。
「堯は天子であった」と儒者はこたえた。

ここで、
 堯が聖人なら、農民も漁民も争うことはないはず。争ったのは、失政があったことではないか。それでは聖人とはいえない。もし失政がなければ舜は徳を施す術がない。
 ここで矛と盾のたとえ話が出てくる。堯と舜を同時にほめたたえることができないのは、この矛と盾のたとえと同じである。と。
 舜が三年もかけて三件を解決するとは効率が悪い。世の争いは無限にあり、これでは解決できない。王が「争いをやめよ」と法律で命令すれば一日で済むこと。というのがこの文の主眼である。
 儒家に反論させれば、論破できるかも知れない。聖人の定義からして違う。聖人とは全知全能ではなく、間違いに気づいたとき、公表して改めるような人だ。
 それはともかく、たとえ話が実に巧みではないか。本題の方は誹られても、たとえ話の「矛盾」は現在も生きている言葉だ。

 最初に書いた人たちはマイナス面を矛盾という。矛(む)にアクセントを置く。「先富論によって富む人が出たが、貧富の差が激しくなるという矛盾が吹き出した」というように言う。それは当然で矛盾してはいない。
   …………………………………………
2015.3.4 追記
 コメントに書いた次の言葉。
 神は自分で持ち上げられないような大きな岩を作ることができるのかどうか。

 この答えは「できない」が正しい。これは矛盾しているようでいながら、実は矛盾していない。
 神には持ち上げられないような大きな岩を作ること(不可能なこと)はできない。それは作れない。
 「できない」は否定しているようだが、不可能なことを「ない」と否定しているので、「できない」とは、「不可能なことはない」、と同じで意味になる。
posted by たくせん(謫仙) at 18:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月18日

ガリレオ詭弁

 最近ガリレオ詭弁という言葉を知った。「わたしだけが知らなかった言葉」かも知れない。
 疑似科学や創造論でよく使われる詭弁にGalileo FallacyあるいはGalileo Gambitと呼ばれるものがある。
 言葉がかたいが引用する。読みやすいように行替えをした。

 ガリレオは笑われたが、正しかった。
 私は笑われたので、私は正しい。


 実際にガリレオ詭弁を使う時は、もっと回りくどい言い方をして目くらましをするが、論理はこれである。
 笑われたのは、叩かれたのは、正しかったからではない。間違った、おかしい、と思われたからである。ではなぜガレリオは正しいのか。
 後に、正しいことを証明した、あるいは科学的に正しいと思われた、からである。

 ガリレオ詭弁とは自分の考えがフルボッコにされたら、それ故に自分の考えが正しいはずだというものである。これは、当時の正統な聖書字義解釈に対抗して太陽中心説を擁護したためにローマカトリックによるガリレオ・ガリレイ迫害に言及する。
 代替医療支持者の中にはガリレオではなくイグナーツ・ゼンメルワイスに言及する者もいる。ただ理解されないときより、重大な批判を受けたときに、人々はこの詭弁を用いる。
 悪しき科学的コンセンサスに対抗する創造論者や同様に地球温暖化否定論者にありがちである。
 多くの人々を苛立たせたから、ガリレオがガリレオだったわけではない。誰も同意しない、学界が激しく反対した、新しい考えを持っていたから、ガリレオがガリレオだったわけではない。
 ガリレオがガリレオだったのは、何をおいても、彼が正しかったからである。
 ガリレオは、我々が世界について知っていると思っていたことをひっくり返す新しい考えを、ただ持っていたのではない。我々が世界について知っていると思っていたことを、うまく、ひっくり返す新しい考えを持っていて、それが正しかったから、ガリレオがガリレオだったのである。
 彼には証拠があった。彼は研究した。彼は計算した。そして彼は正しかった。正しいことは、学界が同意しないとか、人々が苛立つとかよりも、はるかに困難なことである。

  参照  ガリレオ詭弁
posted by たくせん(謫仙) at 10:41| Comment(4) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月30日

いただきたい

 先日ドジを踏んでしまった。気がついて、すぐにお詫びのメールを送った。

 あるEメールが届いた。
 始めはAさんからBさんへメールが行き、Bさんが「こういうメールがありました…」などと加えて、わたしなど多くの人に転送したのである。わたしは一目見てAさんからのメールと錯覚をしてしまったのだ。(Bさんは代理と思った)
 その内容は、問題のところだけを言うと、

「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待させていただきたいと思います。」

 AさんとBさんは◯◯◯であるが、その他の人たちは◯◯◯ではない。もちろんわたしも◯◯◯ではない。

 わたしは朝の忙しい時であり、Aさんからと錯覚して解釈してしまったのであるが、仕事から帰って、もう一度全体を読み直して、大変な間違いに気がついたのである。なによりBさんが追加した文を正しく読んでいなかったし、さらに悪いことに、錯覚してしまったので付随する文を詳しく読んではいなかったのだ。反省。

 錯覚の中心は「かぎりご招待させて」と「いただきたいと思います」がどうもかみあわないこと。
 わたしがまず間違えた(錯覚した)内容は次の如し。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待いたします。その他の方はお断りさせていただきます」

 夕刻にはこう思った。
「…公演を開催します。…◯◯◯の方々にかぎりご招待(役と)させていただきたいと思います。」(招待する客の人選を任せます)

 正しくは
「…◯◯◯の方々にかぎり(無料で)ご招待いたします。その他の人たちは有料です。」
 ではないか。
 結局、「させて」の解釈と、「させていただきたいと思います」を、Aさんからわたしたちへ(Bさんではなく)の言葉と錯覚したのが問題だった。
 意味が判ったので、わたしも観賞に行くことにした。

参考  雲外の峰−いただきます
posted by たくせん(謫仙) at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月09日

くれる(呉れる)

くれる、という言葉がある。
普通の意味は、
1、 人が自分に、または自分の側の者にものを与える。「いつも姉が小遣いを―・れる」「友達が妹に花を―・れた」(OCNのWeb辞書)
 これには違和感がない。

 物やサービスがAからBに移動し、与えるAは「Bにやった」、貰うBは「Aがくれた」。

 わたしが勤めていたある会社のA部長は、取引先に謝らなければならないとき、「許してやってくれ」と言っていた。
 これにはわたしは、とてつもない違和感を覚えていた。腹が立つと言ってもいい。いったい誰の言葉だ。
 取引先の電話に出ているB担当者のC上司が、B担当者に向かって言う言葉ではないか。
 もしA部長がBさんとCさんに謝り、その上でCさんがBさんに向かって、「B君、Aさんは謝っているので許してやってくれ」と命じる。それなら「許してやってくれ」に違和感はない。
 謝るべき人が謝らずに、謝られるべき人に「許してやってくれ」と命令しているのがA部長の言葉だ。
A 「許してくれ」
C Bに向かって「許してやってくれ」
B 「許してやる」

 ただし、「くれる」には「やる」と言う意味もあるようだ。
2、自分が相手にものを与える。また、相手に対してある行為をしたり、加えたりする。相手を与え手より低い者として卑しめる気持ちを込めた言い方で、「くれてやる」の形になることも多い。「鳥にえさを―・れる」「盆栽に水を―・れる」「平手打ちを―・れてやる」
 また説明として、
3、(補助動詞)動詞の連用形に接続助詞「て」を添えた形に付く。
㋐ 人が自分に、または自分の側の者に対して何かをすることを表す。「手伝って―・れる」「秘密にしておいて―・れ」「母がセーターを編んで―・れる」
㋑ こちらが、相手に不利益になるようなことを与えることを表す。「痛い目にあわせて―・れるぞ」
[補説](1) 対等の間柄か、または目下の関係にある人に対して用いる。目上の人に対したり、尊敬の意を表す場合は「くださる」を用いる。
(2) 下一段活用であるが、命令形は「くれ」を用いるのが一般的。
(3) 3㋐は、その行為が好意的、恩恵的になされる場合が多いが、「とんでもないことをしてくれたなあ」のように、その行為を受ける側が被害をこうむったり、不利益になるときにも用いることがある。


 たしかに「やる」という意味もあるようだが、そこまでは認めても、上のような謝り方は誤りではないか。
 与えられた方が「くれる」と言っているのは、問題ない。与える方が「くれる」と言うのが、わたしが違和感を感じるところだ。
本当に「くれる」には「やる」と言う意味があるのか。使い方によって「やる」という意味に取れる場合があるということではないだろうか。
 わたしは今でも、「やってやる」とはいうが、「やってくれる」とは言えないのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 07:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月07日

名誉教授

名誉教授

 三十年も前の話であるが、ある時4人が、名誉教授とは何か、という話をしていた。そこへわたしが顔を出したので、わたしにも訊かれた。
「定年をすぎた元教授のことだよ」と答えたのであるが、二人の大学出に猛反発された。
「すばらしい業績を上げたと認められた教授、に決まっているではないか」と決めつける。
 わたしが来る前の一応の結論であったようだ。だがひとりの女性が疑問に思ってわたしに訊いたのだ。
 わたしは、「あっ、そう」で話は終わりにして次の話題に入った。

 去年の夏、京の先斗町のお茶屋に後から来た方が、次のような話をしたので笑い転げたことがある。 参考お茶屋
「わたしは名誉○○鑑定士である。そう名乗ってから、よく○○の鑑定を頼まれる。ところがわたしは○○については何にも知らんのだ」
「何にも知らないのに鑑定士を名乗るので名誉をつける。名誉なんとか、とはそのようなものであって、○○のことを知っていたら名誉はつけない」
 そのときに昔の名誉教授の話を思い出したのだ。
 調べてみると、定年を過ぎれば元教授に限らず講師でも名誉教授になれる。一応誰かに推薦されないといけないが、それは建前でほとんど無審査に等しい。もちろん職ではなく称号なので名誉教授としては無給である。
 ネット上では、一度名誉教授を断った人が、名誉教授になると大学の図書館に出入りできると判り、退職時に急遽名誉教授にしてもらった、という話もあった。
 つまり、定年退職した元教員というのが実体のようだ。

 都市銀行と地方銀行はどこで区別するのか。という話もあった。
 少し前に、神戸銀行と太陽銀行が合併して太陽神戸銀行が誕生していた。
 わたしは「外国取引ができる銀行が都市銀行、できないのが地方銀行」と答えた。これにも猛反発された。「東京や大阪にある大きな銀行のことだよー。神戸なんて田舎の銀行だ」と言われた。
「都市銀行の太陽銀行が、神戸の(小さな)地方銀行を飲み込んだんだから」
 この時もひとりの女性が疑問に思って、わたしに訊いたのだ。
 どこかで太陽銀行が地方銀行だったとされていたので、おかしいと話題になっていたらしい。
「太陽銀行は地方銀行だったが、都市銀行の権利を得るために、小さな都市銀行である神戸銀行と合併した。形では神戸が大きな地方銀行の太陽銀行を吸収して、都市銀行の神戸銀行になり、名称を変更して太陽神戸銀行になった」と答えたが、納得しない。
 形の上では神戸が太陽を吸収したのだ。現在はさらに合併し、その名は残っていない。
 昔の地方銀行は外国取引をどうしたのかといえば、外国取引専門の東京銀行に依頼した。
 東京銀行の前身は横浜。横浜や神戸が外国取引の中心であった時代には、都市銀行があってもおかしくない。今では取引方法も変わり、東京銀行も普通の銀行になって、他行と合併してしまった。
 今、インターネットで調べてみたが「外国取引」で分ける分け方は載っていない。
 わたしの常識は間違っていたのか。
posted by たくせん(謫仙) at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月05日

岡目八目


 わたしの持っている広辞苑第三版(1955)には、次のようになっている。
 他人の囲碁を傍で見ていると、実際に対局している時よりずっとよく手がよめるということ。転じて、局外にあって見ていると、物事の是非、利・不利が明らかにわかること。
 これは意味も正しく語源も正しい。(ただし、「八目」の説明がないので本当に判っているのかどうか)

 江崎誠致の随筆に、碁の博物誌 がある。1982年発行。その中に詳しく説明している。
 辞書に書いてあることがすべて正しいと思うのは間違いある。その一例に「岡目八目」がある。岡目は傍目とも書くが、広辞苑をひらくと次のような解説がなされている。
「局外にいて他人の囲碁を見ていると、対局者よりは勝敗に冷静であるから、八目も先までわかるということ。転じて局外にあって観察する時は、物事の是非・得失が明らかにわかるをいう。」
 私の手許にある他の数種の辞書も、皆同意の解説がなされている。
「八目も先までわかる」という表現がおかしいことは、多少とも碁に心得のある人ならお気づきであろう。文体をなしていないし、意味も不明である。
 囲碁における「目」というのは、交差線上の石、あるいは地を指す言葉である。辞書のような解説をするのなら「八手先までわかる」あるいは「八手先まで読める」という言い方をしなければならない。しかし、八手では岡目八目の解説にはならない。
 流動する読みの「手」と置き石の「目」をとりちがえているだから、解説にならないのは当然である。
 碁では、力が対等であれば白黒を交互に持って打つが、力が違えば、その度合いに応じて、置き石の数をふやして行く。岡目八目はその置き石の数である。

 そして「八目」は具体的な数字ではなく「旗本八万騎とか八百八町というように八が選ばれたのではないか」と言っている。

  八目とは置き石の数なのだ。八目置かせるくらい良い手が打てる、の意味。

 前に 九級から一級までの詰碁  で、囲碁用語として
 「打っている本人は主観的で、盲目だがハタから見ているとよくわかる。八目ぐらいさきまで読めるの意。」とあり、すでに広辞苑も改まっているのに、それを見もしないで初版の孫引きで丸写ししているとこうなる。 
 と書いた。
 2007年発行の碁の本でさえ、広辞苑初版の間違い説明の孫引き。もう半世紀も前の広辞苑第三版でさえ、改正されて正しくなっているのにだ。
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posted by たくせん(謫仙) at 07:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月07日

愚妻と賢弟

 愚妻という言葉がある。「私の妻」の意味であって、愚かな妻ではない。
 藤本義一さんが、愚は「私」の意味で妻にかかるのではない、といっていた。「愚かなる私」の妻、だ。
 愚息=わたしの息子、愚案=わたしの案、愚見=わたしの意見、などと同じ使い方である。
 これは判りやすい説明だが、違和感があった。わたしは意味はわたしの妻でも、言葉の上は「愚かな妻」ではないか、愚は妻にかかると思っていた。。
 ここで愚が私なら、賢はあなたと言うことになる。だが必ずしもそうではない。
 違和感の源は「賢兄」と言うような言葉を知っていたからだ。使われた例は「あなた」の意味で、「あなたの兄」ではなかった。
 具体例を示そうとしたが、なかなか見つからない。翻訳書であるが「飛狐外伝」で、趙半山が義兄弟になった少年胡斐を「賢弟」と言う文を、ようやく見つけた。原文がそうだったのか翻訳者がそうしたのか、そこまでは判らないにしても、使われた具体例だ。賢弟とは二人称であって、「あなたの弟」ではない。
 もっともこれは中国文学の翻訳なので、日本語の意味としては適切ではないかも知れない。
広辞苑第三版では、
愚妻:自分の妻の謙称。
賢兄:他人の兄の尊敬語。手紙などで、同輩または年上の男子を敬って呼ぶ語。
賢弟:賢い弟。他人の弟の尊敬語。年下の男子を敬って呼ぶ語。

 どうやら、賢弟には「賢い弟」や「あなたの弟」などの意味があるようだが、なぜかしっくりしない。

 高島俊男さんの「お言葉ですが…2」では、「愚」はわたしの意味だと説明した上で、実はこのような一人称二人称という発想は西洋人の発想だとことわり、日本人の発想は、「こちら側」と「あちら側」に分けるのだという。
 なるほど、「愚」はこちら側、「賢」はあちら側と考えれば、上のもやもやが全て説明できるではないか。趙半山が「賢弟」と言ったのは、二人だけの場なのであちら側なのだ。もし他人に説明するときは、こちら側の扱いで愚弟というだろう。
 最初に戻って「愚」が私なのか妻なのかも、妻をこちら側と認識するかあちら側として認識するかの違いなのだ。

 日本語に二人称がないことにも共通する考え方か。正確に言えばないことはないが、知らない人や年上の人を呼ぶ二人称は適当なものがない。代わりに方向で現す。彼方(あなた)此方(こなた)そなたなどだ。三人称のあの方(かた)も同じ。中国人へも呼びかけの時は、「中国のかた」となる。
 強いて言えば「あなたがた」というのは二人称ではなく、二人称の代わりだ。
(お言葉ですが…1)
posted by たくせん(謫仙) at 07:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

鳥肌が立つ

 わたしに十二湖を紹介した人は「青池を見たとき、鳥肌が立った」と言った。わたしは鳥肌が立つような禍々しい毒の青さを想像した。だが、実際に見た時はうっとりするほど美しかった。まあ、あり得ない美しさに、ぞーとすることが無いとは言えないが、わたしは経験がない。
 鳥肌の立つ歌声といえばサイレントであろうか。その歌声は恐ろしかったという。ローレライの歌声にはうっとりしたそうだから、鳥肌の立つことはない。
 感動したところで「鳥肌が立つ」と表現する例が多い。この人たちは、実際に、恐ろしい思いで鳥肌が立ったことがないのだろうか。
 恐ろしくてぞっとしたとき、腕などの表面が鳥肌のようにぶつぶつになる。一度でも経験すれば、心地よいときには鳥肌は立たないことが判るはずなのに。もっとも鳥の肌を見たことなく、鳥肌を知らない可能性もあるかな。
 言葉の意味が変わってしまったのか、誤用か。難しいところです。
posted by たくせん(謫仙) at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

弱冠

 弱冠を辞書では「二十歳。二十歳ごろのこと」とある。周では男子は二十歳で成人として、冠をつけた。故に二十歳を弱冠という。
 ネットで調べたら、本来、二十歳を弱といい、弱になると冠をつけるとある。わたしの漢和辞典にはその説明はない。
 転じて年若い人の意味もあるのだが、誤用が広まったのであろう。誤用でも多くの人が使い、意味が通じれば間違いとは言えなくなる。それで辞書も二十歳ごろという意味を採っている。

「弱冠二十八歳」「弱冠十三歳」なんて文を読むと、判って書いているのかなあと思う。弱冠の本来の意味が二十歳だからだ。
 弱冠二十八歳を間違いとは言いきれないが、もっとふさわしい言葉がありそうだ。時代によって国によって身分によって、成人として扱われる年齢は異なる。中国の皇帝は十三歳で弱冠という話を読んだことがあるが、これは例外である。二十八歳で弱冠という話は聞いたことがない。

 似た言葉に「若干」がある。弱冠とは異なる言葉で、わずかの意味。「若干二十歳」は間違いと言えよう。わたしは「帰りの荷物にはまだ若干の余裕があります」を思ってしまう。八百年も生きた仙人が、二十歳を若干というのはありそうだ。
 若干を年齢表記に使うなら、例えば十七歳くらいの少年を、「二十歳にはまだ若干の間がある」と言うように使う。

「若冠三十五歳」と書いた人を知っている。意味を訊いたら「若いという意味だよ。若い人のことを『じゃっかん◯◯歳』と表現するんだ」と答えた。しかし、「若冠」という言葉はない。これは「弱冠」の間違いで、しかも意味も間違っている。二重の間違いだ。

 なお、弱冠は本来男子だけに使う。女子は「笄年(けいねん)」というが、十五歳のこと。十五で簪(かんざし)をつけて成人となったことから。

 わたしも正確な意味を知らない慣用句をけっこう使っている。自戒せねばならない。
posted by たくせん(謫仙) at 07:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月30日

たとえ

「たとえ」はいろいろな意味がある。
(1) 例えば:例をあげれば・いってみれば・たとい
(2) 譬える:他の物事に擬していいあらわす
(3) 仮令(たとえ・たとい):もし・かりに・もしそうだとしても

インターネット辞書の例。
(1) このごろはみんな怠けている。例えば君だ。
(2) 命のはかなさは例えば蜻蛉(かげろう)のようなものだ。

(3)の「たとい」は現代文では使わないが、同じ意味の「たとえ」なら言う。
 たとえわたしが千年勉強したとしても、プロ棋士にはなれないだろう。
 なぜこんなことを言い出したのかといえば、わたしがはっきり区別できていなかったから。自分でこうして書いてみると、意味がはっきりしてくるのだ。
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posted by たくせん(謫仙) at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月12日

いただきます

01.3.10記

 わたしが初めてパソコンを買ったとき、ワープロはワードであった。ところがユーザー登録の葉書を読んでびっくりした。これで登録すれば新製品パンフレットなどを「送付させていただきます。」とあるではないか。
 なんでお金を出して買ったのに、パンフレット送付の仕事を受け持たねばならないのか。しばらくしてから、「送付いたします」の間違いであることに気づいた。自ら負担する「いたします」と言うべきところ、相手に負担を強要する「いただきます」を使ってあったので、読んだとき勘違いをしてしまったのだ。
 これが普通のソフトなら、これくらいの間違いに目くじらを立てることはない。しかし、ワープロソフトでは気になって仕方がない。まして、校正機能まで付いているという。その上でこの間違いなのだ。
(09年:この文は当時の無知をさらけ出しているなあ)
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posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月10日

文の違和感

01.2記

「わたしはうれしいです」
この言葉は間違っているが、さて、正しい言葉はどうか。これはわたしの中学時代からの長い長い宿題であった。35歳を過ぎたころ、陳舜臣氏の文を読んで悟るところがあった。氏はよくですます調の文を書く。「うれしいんです」と、いとも簡単に答えを示してくれた。そう、それに気がつけば、いくらでも答えがあるではないか。
 ところが大野晋の「日本語練習帳」に、このような説明があった。
 ですは名詞に付くとことわった上で、「わたしはうれしかったです」について、
「私などは、どうもこの形は違和感があって使いません。しかし……現代語の必要に応じる、将来広まっていい形なので、社会的に認めていいと思います。」
と言っている。
 つまり、わたしも違和感があるが、間違っていると断定したのは問題だった。本来間違いでも、それが多数派を占めるようになれば間違いではなくなる。
 最近流行りだした、頂く必要がまったくない当然の義務を履行するのに、恩着せがましく「させて頂ます」と、頂いてもいないのに言う無礼な言い方も、もしかすると認められるかもしれない。いつかですます調の文を試みようと思う。
 ホント、ですます調の文は難しいデス。
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2009年02月20日

諸刃の剣

 十二国記のアニメ「東の海神 西の蒼海」を見ていた。
 その中のせりふで「モロハノヤイバ」と言っていた。諸刃の刃か。諸刃の剣(モロハノツルギ)の間違いだろうな。
 著者の小野不由美が、そんな間違いをするとは考えにくい。小説も読んだが、この言葉で引っかかったことはないので、おそらく小説にはなかっただろう。
 では台本作家が間違えたか。それとも、台本は正しいのに声優が間違えたか。
 試みにインターネットの辞書では、「諸刃の剣」は説明があるが、「諸刃の刃」は出てこなかった。言葉がないのだから、出てこないのは当然か。出して「諸刃の剣」の間違いですと指摘する手もある。
 念のためと思って広辞苑(第三版)を開いてみた。するとありました。

 諸刃の剣 一方では大層役に立つが、他方では大害を与える危険を伴うもののたとえ。「諸刃の刃(ヤイバ)」とも。

 本当かいな。それは誤用例ではないのか。それとも昭和五十八年には、世間に通用してしまって、もはや誤用とは言いきれないほどだったのか。

 書いてみたが、そういえば、わたしが直接この言葉を聞いたのは数えるほど。ほとんど文章で読むだけ。それでモロハノケンと読んでいたのだから、モロハノヤイバと五十歩百歩だ。他人のことを言える立場じゃないな。
 それはともかく、文だけ知っていて、読み方を知らない言葉がときどきあります。
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2008年11月01日

目線と視線

 最近、政治家が「国民の目線で……」という例が多いという。それについて、新聞で、芸能界では視線は誤解しやすいので目線を使ったのが一般的になった、と説明していた。
それを読んで、「国民の目線で……」は「国民の視線で……」の意味であると知った。わたしはいままで政治家の話を半ば誤解していたことになる。

 目線はまっすぐ前を見たときの視線。視線は実際に見ている対象と目を結ぶ線。というように覚えていた。
 これは三遊亭円生さんが、「高座に座ったときの目線…」という話から、目線の意味をそう説明していたのを覚えていたのだ。その時初めて目線という言葉を知った。

ネットの辞書を見ると、
視線:目の中心と見ている対象とを結ぶ線。見つめている方向。
目線:俗に、映画・演劇・テレビなどで、視線。

 とあってわたしの記憶と違う。

 考えてみると、政治家が「国民の目線で……」というのはおかしいので、気づくべきだった。「国民の目線だが、視線は中流・上流を見ている」なんて目線と視線を区別するはずがない。いや区別はしているが、それを国民に向かっては言わない。
 中流・上流に向かって、「目線は(顔)は庶民に向けていますが、視線(心)はあなたたちに向かっています」と言ったのなら話は判る。だが国民に向かって話している。だから、聞いている方は間違っていることを承知の上で都合よく解釈していて、話している方は間違いに気づいていないかも知れない、と思っていた。
 それが上の解釈では、目線も視線も同じ意味という。いつごろから使われた言葉なのだろうか。円生さんが間違っていたとは考えにくいので、言葉の意味が変わってきたのではないかと思われる。
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2008年03月13日

爛柯

 爛柯(らんか)は碁の別名である。爛柯以外にも手談とか烏鷺とか橘中の楽とかある。「手談を交わす」「烏鷺を戦わす」という言い方がある。しかし爛柯という語を使った例は見たことがない。動詞はなんだろう。
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2008年01月10日

座布団を飛ばす?

以下は1月10日の朝日の社説である。

党首討論―座布団を飛ばしたい
 いよいよ千秋楽、結びの一番。東西の横綱が土俵に登り、さあ激突……。そう期待した人たちは、思わず座布団を投げたくなったのではないか。
 この国会が始まって122日目。やっと福田首相と小沢民主党代表の初の党首討論が実現した。なのに、その内容はがっかりするほど低調だった。その一番の責任は小沢氏にある。


 こんな場合「座布団を飛ばしたい」というのだろうか。「匙を投げたい」のなら意味が判るのだが。
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posted by たくせん(謫仙) at 18:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 言の葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月21日

探花

 下の「非花−葛巾紫」での探花の扱いについて、疑問があったのでネットで調べてみた。
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2007年07月01日

芹を摘む

広辞苑によれば
(高貴な女性が芹を食べるのを見た身分の低い男が、芹を摘んで、自分の思いの遂げられるのを期待したが、徒労に終わったという故事から)恋い慕ってもむだなことをいう。また一般に、徒労なこと、思い通りにゆかぬことをいう。
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2007年05月01日

臣もまた臣の信を愛む

 韓非子(かんぴし)の中にある話、その2である。
 魯の楽正子春は人格者として有名だったらしい。魯は孔子の出た国である。
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