2017年08月11日

鹿の王

鹿の王
上橋菜穂子   角川書店   2014.9
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 征服者の帝国東乎留(ツオル)の人の名前は、漢字を使って難しい読み方をする。万葉仮名的な使い方もする。被征服者の名前はカタカナ。この書き方は必要があったんだろうか。
 東乎留(ツオル)とあればこの国は漢字を使う国である。国名は「ツオル」でもなく「tuoru」でもなく「東乎留」と漢字でなければならない。この場合の漢字とは、いわゆる「漢字」である必要はなく、表意文字を使っていると言う意味である。ツオルと読めても、他の文字ではいけない。それにしても小説として、何でこんな難しい読み方をせねばならないのか。人の名も同様である。しかも他国から来た人は、カタカナ名のままである。
 たとえば「山犬」という字にオッサムとかなをふる。このような例が多い。自国語の文字ならこのような無理矢理の読み方はしない。もしかしたら、文字のない国が漢字の国を征服して、自国語に漢字を無理矢理あてたとか。
 他の国は文字がないか、あっても表音文字ということになる。
 しかし、「山犬」という漢字が必要なら読み方は「やまいぬ」に、「オッサム」と読ませたいならカタカナにすべき。一二の例外はあっても良い。

 戦士ヴァンが囚われていた岩塩鉱を犬が襲い、囚人も奴隷監督も謎の病死をするが、戦士ヴァンだけ助かる。ここから物語が始まる。そして逃亡生活。そういう少数民族や動物の、帝国東乎留(ツオル)との戦い(戦争とは限らない)。
 東乎留では天才医師ホッサルが、岩塩鉱の謎の死の原因解明と、その後の治療に当たる。
 細菌とウイルスの差が判りかけ、その対策を研究している。注射や顕微鏡などが発明されている。そのなかでの医師と病原体との戦い。
 この二つの戦いと共生がこの物語のテーマである。

 ファンタシィではあるが、推理小説のように謎が絡む。それがかなり複雑でありながら、メインではない。読者を迷わすための意味のない複雑さに思える。
あとがきに、
「生物の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」
「それって、社会にも似ているなぁ」
 この事実を小説化したともいえるのだ。
 ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ネタバレだが、事前にウィキなどであらすじや登場人物の説明を読んでおくとよいだろう。

参考 失われてゆく、我々の内なる細菌 には、 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。 という。
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2017年08月06日

幻庵

幻庵(げんなん)
百田尚樹   文藝春秋   2016.12
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 古来、中国では琴棋書画が君子の教養であった。棋とは碁のこと。
 この碁を爛熟させたのが、江戸時代の日本であった。それは幕府の家元制度によった。
 碁の家元制度は実力主義である。本因坊・安井・井上・林の四家があり、それを取り締まる名人碁所(ごどころ)が頂点にいる。碁所の権力は強大である。碁所になるには名人にならねばならない。
 この名人を目指して技を磨き、同時に碁所の地位を争う。江戸時代の二百六十年間に誕生した名人はわずか8人。
 幻庵とは、十一世井上因碩(1798−1859)のこと。隠居後、幻庵を号とした。
 本来十世であるが、幻庵の時代に一世井上因碩の前の中村道碩を一世としたため、十一世と伝わるようになった。今から見ると児戯に等しい。
 井上家では代々因碩を名乗ったので区別するため、引退後の号をつけて、幻庵因碩と言われる。八段(準名人)になった。名人は原則1人であるため、一応最高段位に登ったといえよう。

 幻庵因碩の時代を中心とした、戦国から昭和までの囲碁界の様子を俯瞰した小説だ。さらにAI囲碁まで言及している。
 主人公は幻庵を中心とした同時代の棋士たち。ライバルの本因坊丈和も幻庵なみに生き生きと書かれている。
 特に対局シーンは迫力がある。これは著者の文章力のたまものだ。ただ、棋譜のない観戦記のような文は、読んでいてもどかしさを感じることがある。しかもかなり大げさに感じる。
 “恐ろしい手”だとか、“凄まじい妙手”とか、言葉を並べられても、ホントかなと思ってしまうのだ。
 江戸時代の碁は失着が少ない。それは時間に縛られないことと、公式な対局が少ないことにあった。高段者のみが年1局である。それに準ずるような対局も、多くはなかった。少ない機会を生かさねばならない。ゆえにその1局に集中する。現代碁とは異なり、原則、時間は無制限。1日では終わらないことが多かった。失着が少ない理由である。
 現代は年50局でも珍しくない。時間の制限があり、秒読みはいつものこと。
 小説中で、ときどき碁の解説を加えるが、この解説では、碁を知らない人にはたぶん意味は判らないであろう。といって省いていいものか。
 碁は勝負を争う。しかし家元制度は芸術の域に高めた。たとえば、このままでは2目の負けとなる。そんなとき、投了するか、あるいは最後まで最善手を打ち、1目でも差を少なくしようとする。これが芸であり美学である。
 しかし、勝負手として逆転を狙う手を打つこともある。勝負を争うなら当然であるが、場合によっては、手のないところに打った、棋譜を汚したとして、その人の評価を落とす。
 あるべき姿はどちらか。登場人物も悩むところ。

 幻庵は、吉之助→橋本因徹→服部立徹→井上安節→井上因碩→幻庵(引退後の号)と名を変える。
 家元制度は実力主義、我が子でも実力がなければ篩い落とす。弟子の中から最強者を選んで跡を継がせる。適当な人がいなければ、他の家から貰い受ける。そのとき養子縁組をする。
 子は父の名を継ぎ、養子縁組後は新しい名となり、さらに義父の名を継ぐ。それで姓名共に変わっていく。同じ名の別人が登場する。当代か先代か先々代か。区別は前後の文ですることになる。
 事情は判っていても、人物を知らないと判りにくい。この人誰だっけ、という状態になりやすい。
 全体的に、歴史書を読んでいるようで、かなり冗長に感じる。この冗長部分を削り、幻庵に集中した方がよいと思う。
 持碁を芇と書き「じご」とかなをふる。芇に「じご」と仮名を振るくらいなら「持碁」でよいはず。芇(べつ)の字にこだわる必要性がないと思う。
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2017年08月02日

爛柯堂棋話

爛柯堂棋話(らんかどうきわ)
林 元美(はやし げんび)  林裕校注   平凡社   1978.6

 林元美(1778−1861)は江戸時代の囲碁四家の林家の十一世当主。本来坊門(本因坊家の弟子)であったが、十世林(鐵元)門入の死去に伴い、坊門から移り林家の当主となる。旧姓は舟橋。
 林家では代々門入を名乗る例が多いが、林元美はこのままで通した。
 引退(1849)後に(1852)八段を許された。
 この本は、1849年に発行された。そして林家分家の林佐野から、その養女の喜多文子に伝えられた。
 1914年、林佐野の三女の女流棋士林きくがまとめて、大野万歳館より出版された本がこの本のもとである。1849年の原本は失われてしまった。写本が国会図書館にあるという。

 囲碁の史話、説話、随筆、記録類を集め、注と評論を加えたもの。囲碁界にあっては貴重な資料である。
 だだし、市井の噂のような根拠の薄い話もあって、注意が必要である。たとえば、日蓮と弟子の日朗の対局、武田信玄と高坂弾正の対局、真田昌幸・信幸親子の対局などが、棋譜とともに紹介されている。すべて疑わしいのだ。偽作らしい。
 本能寺の変における三劫の話など、あちこちに引用されていて、歴史的事実であるかのように扱われているが、確認できていない。
 第一世本因坊算砂が、秀吉によって碁所に任命された話は明らかな間違い。当時は碁所の制度はない。
 その他の話も、引用するときは注意が必要だ。
 当時のエンタメとして書いたのかもしれない。それでも貴重な情報が多い。
 多くの棋譜は特に貴重である。残念ながらわたしには鑑賞するだけの力がない。

 本文は江戸時代の文体である。写真はその一例である。こんな調子で書かれているので、かなり読みにくい。下巻P122。
 碁では引き分けを持碁という。写真の文はそのことに触れている。わたしはこの部分を読みたくて、この本を手にした。
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 囲碁贏輸(勝ち負け)なきを持碁と云うは、正字にあらず。歌合わせに勝負左右にこれ無きを持と云うに倣えるなるべし。しかれども、「囲碁三十二字釈義」(『玄々碁経』)を見れば、持は「せき」の事をいうなり。持碁の正字は芇なり。……
 次のように解釈した。
 引き分けを日本では持碁(じご)という。しかし正しくは芇(べん)である。ゆえに芇の字に「じご」の訓を与えた。
 現代中国語では和局という。書物上ではなく口語では、芇(べん)はいつ頃まで使われたのだろう。


 音読み:ベン、 メン、 バン、 マン
 訓読み:あたる、 じご
 
 写真中に“路”とあるが、助数詞で一路は一目。唐代あるいはそれ以前に中国で用いられた。
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2017年07月28日

宇宙にとって人間とはなにか

宇宙にとって人間とはなにか 小松左京箴言集
小松左京   PHP研究所   2011.1

 著者は小松左京となっているが、小松左京事務所が、著書のあちこちから、テーマ別に選んで編集したものである。
 小松左京の思考のダイジェストなので、魅力ある文章が多い。
 言葉が難しく、わたしには理解できない文が多い。ただ小説などを読んでいたときはそのようには感じなかったので、おそらくその言葉の背景や状況が判っていれば、理解できるのではないか思う。思考過程が重要なのだ。
 名言ではないので、かなり長い文もあるし、その文単独では賛同できない文もある。特に小説の場合は、その小説の特殊状況が文の意味を左右する。SFの世界が多いので、仮説だったり仮定だったりする。そのためここで紹介するかどうか迷ったほど。
 SFを書くには総合的な知と常識にとらわれない思考力が必要である。間違いなく、小松左京には備わっていることを実感する。
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2017年07月23日

たゆたいエマノン

たゆたいエマノン
梶尾真治   徳間書店   2017.4

「……名前なんて記号よ」
「なんでもいいわ。エマノンでいいじゃない。うん、それでいいわ」
「ノー・ネームの逆さ綴りよ」
 この不思議な少女エマノンのシリーズ6冊目。
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 今回は短編5編のうち3編に親友ヒカリが登場。時を跳び越えるヒカリと永遠の記憶を持つエマノンが、何度も出会う。とくに、エマノンの嬰児時代の話が象徴的。エマノンに恋した少年が、約束の日に、エマノンを抱いたヒカリに出会う。
 母から娘へ記憶が受け継がれ、同時に母は記憶を失い、普通の人になる。だからエマノンは短命ともいえる。恋をし子どもが生まれるまでの、つかの間のエマノンとしての命。そして嬰児の時にすでに30億年の記憶を持つ老成した心の持ち主。
 今回は成人したエマノンが次の世代のために配偶者を選ぶ話が多い。
 時代は行ったり来たり。なぜならヒカリは過去にも未来にも跳べるから、一定方向に流れる「時」に縛られていない。しかし、時間の経過はある。エマノンがヒカリの最期を看取ることになる。

 初出が1979年なので、37年以上かかって短編25話。
 美少女ということになっているが表紙の絵は、美少女には見えないな。
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2017年07月18日

流れ行く者

流れ行く者 −守り人短編集−
上橋菜穂子   偕成社   2008.4
守り人シリーズの番外編である。
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 タンダとバルサの子どものころの話である。
 「浮き籾」は幼いタンダとバルサの気持ちがつながる話。その他、成長過程の一場面。
 表題作の「流れ行く者」は、13歳のバルサが、戦いに強いところを見せ、雇い主を納得させて、ジグロと共に護衛の役に就く。そして戦いの場で、初めて相手を殺すことになる。その苦悩。それがバルサが一生負うことになる宿命の始まりだ。残酷だがそれが職業。そのような経験を得て、大人の世界に踏み出し、成長していく物語だ。
 ラフラ(賭事師)という職業の老女がいる。バルサの精神に影響を与える。このような脇役が生き生きと書かれているのだ。
 まだまだ生産性は低く、多くの過酷な労働で成り立っている時代なので、毎日が緊張をはらんでいる。そんな時代の生き方の例だ。決して残酷の一言で片付けられる話ではない。

 上橋菜穂子の小説の結末は、言葉は短く切り捨て、余韻は読者に任せるようなところがある。でも言葉足らずではない。
 本編のラストで、いきなり「つれあいです」と登場するなども同じ。
 一応、児童書となっているが、内容はとても児童書ではない。漢字のルビを取ってしまえば、そのまま大人の小説である。
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2017年07月13日

炎路を行く者

炎路を行く者
上橋菜穂子   偕成社   2014.11

 守人シリーズの外伝と言うべきか、ヒョウゴの青年期を描いた中編「炎路の旅人」と、15歳のバルサを描いた短編「十五の我には」からなる。

 ヨゴ皇国はタルシュ帝国に征服され、「帝の盾」の息子だったヒョウゴは、殺されるはずだったのを、なんとか逃げて市中で生き延びた。
 ある時のヒョウゴの言葉、
「タルシュの枝国になっちまったこの国で、そんなふうに根をおろすってことは、タルシュに征服されたことを納得したってことじゃねぇか! 土足で踏み込んできた強盗に、のうのうと自分の家に居座られて、そいつらを食わせるために身を粉にして働くなんて冗談じゃねぇと、なんでだれも思わないんだ?なんで、そんなに簡単に納得しちまうんだ?」
 それに対し「わたしらは、ここで生きてきたし、ここで生きていくんだもの」という声をヒョウゴは理解出来ない。
 庶民にとっては、タルシュ帝国に収奪されるのも、ヨゴ皇国に収奪されるのも同じだが、ヨゴ皇国の収奪する側にあったヒューゴには、タルシュ帝国が強盗に思える。
 ヒョウゴという器は市中には収まらない。結局はタルシュ帝国の武人になるが、その心は消えたわけではなく、本編に続いている。

「十五の我には」は15歳では見えないものが、20歳になると見えることがある。
 多感でいて、大切なことに気づけない焦りやもどかしさ。そんな思春期時代のバルサのお話。
 荒事を一人で始末しようとし、結局自分一人では始末できなくて、ジグロに助けてもらう。
 まだ独立出来ないのに、必死になって独立しようとする15歳だった。

……十五の我には、見えざりし、弓のゆがみと 矢のゆがみ
二十の我の この目には、なんなく見える ふしぎさよ……
 
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2017年07月09日

世直し小町りんりん

世直し小町りんりん
西條奈加   講談社   2015.5
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 江戸時代の爛熟期、同時に幕藩体制の崩壊の芽も出る頃。
 南町奉行所の同心をつとめる榊家の当主安之には溺愛する妹がいた。亡くなった父が芸者に生ませた娘で、高砂町で長唄の師匠をつとめるお蝶、高砂弁天といわれる美人。
 そして、安之の妻沙十(さと)も美人で、方向音痴で薙刀の名手。
 この二人の美人が小さな事件をいくつか解決していくが、その事件が、榊家の先代が亡くなった謎と関連して、陰で大きな陰謀が進行していた。
 この大事件を解決するために、お蝶を守る男たちや、おっとりしていた安之とその上司の南町奉行などが、別人のような働きをする。
 幕府の屋台骨を揺るがすような大事件も、なんとか表沙汰にならずに済んだ。
 幕藩体制に光と影かあるように、旗本たちにも市井の人たちも光と影がある。
 登場人物に個性があって魅力的で、一気に読んでしまった。

 時代劇作家に一人の名手が加わったといえよう。わたしはよく“校閲ガール”のようなことを書くが、この小説は校閲ガールもほとんど手を加えるとはないだろう。だから安心して楽しめる。
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2017年06月29日

虹のジプシー

虹のジプシー
式 貴士   CBSソニー出版    1980.11
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 ある日、地球の周辺に、月のように地球が出現した。
 それが毎日増えていって、数百の地球となった。大きさも地理も地球と同じ。人々はその状態に慣れていった。
 主人公の流水五道(つるみごどう)は恋をして、心中しようとして、不思議な宇宙生命体に助けられる。宇宙生命体は猿の姿をしていて、孫悟空と名乗った。そして流水はいわゆる超能力者にされて、憧れの貴美子の幻影を追うように、空に浮かぶ地球のいくつかを遍歴する。

 先に紹介した「もしも月がなかったら」に似たプロットである。「もしもこんな地球があったら」という小説である。
 いきなり人の消えてしまった地球。ソ連に支配されている日本。誰もがコスプレをしているような世界。国境のない戦争のない、10歳のとき三分の二は生殖不能にされて人口調節をしている世界。その他。
 十年ほどかけて、地球TからYまでをえて、最後に行った地球で自分の居場所を見つけたとき、空の地球は消えていた。
 さて、ここでいくつかの地球が元の地球と同じように重力があるとなると、すべての地球は他地球の重力の影響で、メチャクチャになっているはずだ。「もしも月がなかったら」を読んだばかりなので、この本を読んでいる間、頭の中で重力問題が離れなかった。
 ファンタシィと同じような、科学性を無視した小説として読むことになる。
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2017年06月20日

もしも月がなかったら

もしも月がなかったら ― ありえたかもしれない地球への10の旅
ニール・F・カミンズ   東京書籍   1999.7
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 SF的科学書とでもいうのか。イフ・ワールドの世界である。
 もし月がなかったら、地球はどうなっていただろうか、という科学的考察をしている。
 この内容を用いて小説にすればSFになる。小松左京の小説は科学的説明が、このレベルになっていたと思う。
 普通の小説はここまで厳密ではない。

1章 もしも月がなかったら?
2章 もしも月が地球にもっと近かったら?
3章 もしも地球の質量がもっと小さかったら?
4章 もしも地軸が天王星のように傾いていたら?
5章 もしも太陽の質量がもっと大きかったら?
6章 もしも地球の近くで恒星が爆発したら?
7章 もしも恒星が太陽系のそばを通過したら?
8章 もしもブラックホールが地球を通り抜けたら?
9章 もしも可視光線以外の電磁波が見えたら?
10章 もしもオゾン層が破壊されたら?

 たとえば月がなければ、1日は8時間になっている。潮汐はほとんど無い。風が強く、会話も聴力より視力が用いられる。
 そうなると…と、いろいろと影響を及ぼす。あることが変わると、それが原因となって、思いもよらない結果となるのだ。生物の進化の様子もだいぶ異なり、もし人が発生したとしても、人の生き方は現代とは全く違った生き方となる。
 現在の地球が、奇跡のような偶然のバランスを保っていることを知ることになる。

 若い頃はこんな話に夢中になったものだが、今では少し敬遠気味。もし人が百メートルを9秒で走れたら、8秒で走れたら、7秒で走れたらと、いくらでも仮定は設定できる。
 おもしろい話だが切りがない。だから、それらが小説と結びついて、おもしろい小説になった時は読む。今回は小説ではないが一応全部読んだ。最後の、
10章 もしもオゾン層が破壊されたら?
また、この本にはないが、地球の温度が2度高くなると?
 など、現実的な問題となってマスコミを賑わしている。

 この「もしも……だったら」という問いは、あまり意識しないが、常に考えていることでもある。
 もしも大金持ちになったら、もしも失職したら、もしも断水したら、もしも停電になったら、もしも電車が止まったら、もしも……、というように。
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2017年06月12日

宗教なんかこわくない!

宗教なんかこわくない!
橋本 治   マドラ出版   1995.7
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 少し古い本である。1995年といえば、地下鉄サリン事件のあった年である。サリン事件の余波の中で書かれている。
 この題名は、「宗教は怖い」と言う人がいたことを前提にしている。宗教とは怖いものだろうか。

  宗教とは、この現代に生き残っている過去である。

 わたしは、「神仏は尊し、神仏を頼まず」で一貫している。
 悟りとは「修行などしても無意味であることを知ること」と思っている。無意味ではあるが、修行することを馬鹿にすることはない(神仏は尊し)。ただ、わたし自身はすでに悟っているので、宗教の修行はしない(神仏を頼まず)。
 インドでは輪廻転生の思想があった。それは永遠の苦しみであった。解脱とはその苦しみから逃れること。つまり“転生しない人”になることである。
 日本人には転生の思想はない。だから日本人は“転生しない人”になっている。すでに解脱している。だから解脱のために修行する必要はない。
 こう考えるわたしの心に響く本であった。

 むかし、宗教は怖いものだった。神罰は恐ろしい、仏罰も恐ろしい。だから、宗教は国家権力より上にあるのが普通だったのだ。
 しかし、日本では織田信長の比叡山焼き討ちにより、宗教は怖いものではなくなった。江戸時代に、仏教は檀家制度で為政者の下に組み込まれた。役所仕事の下請けになった。もはや仏教は宗教としての力はなく、国を動かす力はもちろんない。
 明治維新後は国家神道が強制された。
 現在、憲法では、信教の自由・強制されない自由がうたわれている。
 宗教には2種類ある。社会を維持する宗教と、個人の内面に語りかける宗教だ。
 社会を維持する宗教とは、たとえば五穀豊穣を願うような宗教である。
 個人の内面に語りかける宗教とは、(たとえば)仏教とキリスト教である。出家者が多くなれば国が滅びる。消費するだけだからだ。滅びないためにはそれなりの生産力が要求された。

 この本は「生き方は自分で考えよ」というのが主題だが、自分で考えられない人は他人の考えたことに従うようになる。たとえば釈迦やキリストの考えに従う。釈迦やキリストの言葉を疑問に思わない人は多いだろう。あるいは社会や会社のリーダーに従う。
 信用できる優れた人を選び従う事も一つの方法だ。
 現代は現代なりの、日本なりの問題がある。そんなとき新たに解釈して「こう生きよ」と言い出したのが新興宗教だ。自分で考えられない人はその言葉に従ってしまう。
 わたしは解脱していると言ったが、能力に限界があり、劣悪な選択をしているかもしれない。
 日本人は織田信長以来、宗教が怖くなくなったはず。それでオウム真理教を考えてみると、矛盾だらけに気がつく。
 この本は宗教の本ではなく、オウム真理教の矛盾をあぶり出す本である。だから仏教やキリスト教には深入りはしていない。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 たとえば、仏教に仏罰という概念はない。仏罰を説くのは間違いである。しかし、日本の仏教は有りもしない仏罰を説く。そんな仏教を対象にして語っている。
 仏罰はない。では破戒者はどうなるのか。ただ破戒者は立派な仏教者になれないのだ。
 学校に行っても、怠けていては学問が身につかないのと同じ。
 仏教僧侶は葬式を職業としているようだが、実は釈迦は「葬式は在家の方だけでして、出家者は関わるな」と言っている。そもそも職業をもっていては、出家者ではない。
 わたしの友人には、各種の○○教徒がいる。その人たちの態度はわたしよりよほど規律正しく、人として優れている。だから、尊敬こそすれ怖いことはない。
 あらためて宗教とはなにかを考えさせられた。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 かなり前だが、この本の題名と同じ論理で、「国を思うて何が悪い」という本があった。
 これは「国を思うのは悪い」と言った人がいたことを前提にしているはずだ。しかし、そんな人がいるのかねえ。
 その「思いかたが悪い」と言った人が大勢いることは知っている。しかし、「思うのが悪い」と言うのは想像できない。キリストやローマ法王なら言ったかなあ。お釈迦様は言わないだろうな。
(実際は、“思う”かどうかではなく“思いかた”を論じている本である。だから題名が間違っているというべきか)
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2017年06月06日

囲碁AI新時代

囲碁AI新時代
王 銘琬   マイナビ出版   2017.3
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 AI囲碁の典型的な打ち方の紹介とその解説の書だ。
 昨年囲碁ソフト AlphaGo (アルファ碁)がイセドル九段に対し4勝1敗で話題となった。
 さらに昨年末にはMaster(マスター、AlphaGoの改訂版)が登場し、一流棋士に30戦全勝。
 国内でもデープゼンが登場し趙治勲九段と五分(1勝2敗)に渡り合っている。
 この一二年で、一気に10年と予測された時間を縮めてしまった。
 王銘琬九段も囲碁ソフトの開発には協力していたので、この方面に詳しい。
 各ソフトは個性的で、ソフトごとに特徴があるという。その比較。
 ミニマックス法やモンテカルロ法やディープラーニング(深層学習)などの説明もあるる。
 全体的には囲碁界はこのソフトのレベルアップを歓迎している。多くの棋士が積極的に研究しその打ち方を取り入れている。もう人間と比べてどっちが強いという時季を脱している。
 王九段のこの事態に対する現在の見識を示し、解説をしている。そして、この後も見識が変わるかもしれないという予想もしている。この柔軟性があるのだ。

 驚くのはこの日本語の文章力。HPに書いていた頃から文章力には感心していたが、あらためて脱帽する。
 銘琬はメイエンと読む。わたしはメイワンとしか読めなかったが、辞書にはエンという読み方があった。さらにご本人に訊ねたところ、子どものとき、親御さんに「『日本語ではメイエンと読む』と言われましたよ」とおっしゃっていた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 いま世界ナンバーワンの柯潔(か けつ、柯洁)九段が、5月23日25日27日にAlphaGoと三局打ち、三連敗した。もはや人では勝てない。一説では二子でも勝てないという。
 これをもってAlphaGoは引退つまり碁をやめるという。DeepMind社とって碁は本来の仕事の一過程であったわけだ。
 普通の会社では、もちろん個人でも、何百億円もの金を碁の対局につぎ込むことはなかなか出来ないので、当分これだけのソフトは出て来ないだろう。ただ準ずる程度なら出来そうな気がする。
 碁神の人に対するいたずらだったのか。
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2017年05月04日

話せばわかる!

話せばわかる!
養老孟司対談集 身体がものをいう
養老孟司   清流出版   2003.9
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 20年近く前の各界の著名人との対談集である。
 それぞれが、一家言のあるひとばかり、蘊蓄に富む話をしている。
 次に記すのは、ほんのわずかの例であるが、対談の中に出てくる。本人が言ったというわけではない。
★山本容子 肖像画は似ていないからいい。似ていてはつまらない。
★竹宮惠子 ひとを描くとき、はじめは骨から描く。絵や文は最初は観察して書く。後のひとはそれを写すが、繰り返している内に内容が異なってしまう。
★岩城宏之 モーツァルトでも日本人が演奏すると、日本語になる。チャイコフスキーの曲を演歌のように歌えるのは日本人だけ。
★米原万里 同時通訳は本当なら透明人間であるべき。
 ひとつの言葉でくくれるいろいろな現象が、民族によって微妙にズレている。(ヨーロッパ系言語と)日本のように歴史や文化が異なる言語ともなると、そこら中にある。
★天野祐吉 昔は本を読むとき、声を出して読んでいた。それを黙読するようになった。日本語は視覚でも意味がとれるので黙読しやすい。
 天野さんは、黙読を発見した人に「考えたらスゴイ人ですね。耳を通さないで意味がわかるようになった。でもね、僕は黙読するとわりあい意味がとりにくい人間なんですよ。無意識のうちに声に出してみたり、頭の中で音読している」
 養老「僕は英語の本を読むとき音読になっちゃうんです」

 この本が発行された頃、著者は バカの壁 という本を出している。
 バカの壁では「話してもわからない理解できない壁がある」ということが主題だ。
 この題名と矛盾している。
 さらに 老人の壁 でも「薬は飲むな、害があるだけ」と非常識なことをいっている。(常識については「バカの壁」参照)。それでわたしは著者の見識を疑っているが、相手の話を導き、内容を理解できる能力はさすがと思う。
 双方の言いたいことの急所は十分に伝わってくる。判りやすく話している。
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2017年04月24日

薀蓄好きのための格闘噺

夢枕 漠   毎日新聞社   2007.9
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 格闘技好きの著者による格闘技の蘊蓄である。
 たとえば、当麻蹶速と野見宿禰の戦いは相撲の始まりといわれているが、戦いの様子を見ると、日本の総合格闘技の始まりではないか。
 古代オリンピックの格闘技は現代格闘技と同じではないか。柔術対柔道、グレイシー柔術、あるいは力道山対木村戦の徹底解説、プロレス、K‐1、PRIDE、さらにはルパン対シャーロック・ホームズの柔道対決など分析している。
「プロレスには八百長なし」こう言われて多くの人は「えっ」と思うのではないか。つまりプロレスは事前にどうするのか話し合われていて、そのストーリーによって動く(フェイクという)。つまり試合ではないので八百長は有り得ない。
 八百長とは建前は真剣勝負である試合にのみ存在する。だから、格闘技でフェイクをしたら、八百長である。
 力道山対木村の試合は、プロレスのはずが(つまりフェイクのはずが)、途中で力道山が格闘技を放ったので、木村が戸惑っているうちに、あのような結末になったとか。
 あるいは格闘技全盛時代の様子など。
 今では格闘技の地上波放送がほとんどない。無くなったのかな。わたしは見るのが好きだったので、残念ではあるが、試合を見に行くほどのファンではない。
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2017年03月27日

三舟、奔る!

三舟、奔る!
仁木秀之   実業の日本社   2016.7
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 幕末の三舟といわれた、山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟の三人の、若き姿を描く時代小説である。
 山岡鉄舟が、明治21年に、勝海舟に向かって、若き日の生き方を語るという形をとる。まだ出世前だ。
 後に山岡鉄舟は、西郷隆盛と江戸城の無血開城の談判をするが、その前の話である。
 小説とはいえ、どこまで史実か気になるところ。
 父が飛騨高山の郡代になったので、高山で育ち剣や禅などを学んだ。17歳にして父の死後、幼い弟5人を連れて三千両を守りながら江戸に出る。途中で賊に襲われたりするのだが、それがきっかけで若き勝海舟や高橋泥舟と出会う。時は幕末に近く、今までの秩序が壊れそうな時代で、いくつかの事件をえて、何とか生き延びる。
 幕末の活躍の苦労話がないと何となく物足りない。これからこの小説のクライマックスを迎えるぞ、というところで話が終わってしまうのだ。
 だから「三舟、奔る!」というより、「鉄舟の助走」と言いたい。
 著者らしく、暗い面もしっかり見つめているので、話に厚みを持った。
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2017年03月18日

落日の譜

落日の譜   雁金準一物語
団 鬼六   筑摩書房   2012.12
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 雁金準一といえば、碁好きにとっては、伝説的な人物であった。
 この本で、具体的な人物像を知ることができた。
 明治・大正・昭和初期の囲碁界は混乱の時代である。明治維新によって幕府の庇護がなくなり、自分の力で生きる道を探さねばならなかった。
 囲碁界の重鎮である本因坊家も明治のはじめには断絶の瀬戸際まで追い詰められながら、なんとか命脈を保った。
 雁金準一は伊藤博文に才能を認められ、庇護を受けながら専門棋士として成長していった。本因坊秀英を尊敬しながらも、対立的団体である方円社に所属し、同時代の棋士の信望を集めていた。
 本因坊秀英の希望と秀英没後は秀英未亡人の要請もあり、次の本因坊の声が高かったが、アクの弱さが災いし、田村保寿(21世本因坊秀哉)にとられてしまう。結局、実力的にも棋界の頂点を極める前にプロ棋界を去ることになる。
 本因坊家以外では、方円社・裨聖会・棋正社・瓊韻社などが設立されては潰れていき、それに関わる人たちを、良くも悪くもいきいきと書いている。
 高田民子の囲碁界への援助には驚く。それによって明治の碁会が保たれたようなものである。
 棋士の品格も、人間としての品格と同じで、決して別な世界の話ではないことを示している。

 この本は著者の死去により未完である。高木祥一九段が「その後の雁金準一」を書き加え完成させた。
 著者は高木祥一九段の紹介で、瓊韻社(けいいんしゃ)の富田忠夫八段に面会し、話を聞き資料を集めている。

参考
雁金準一 1879〜1959、1941年に瓊韻社を創設。
本因坊秀栄1852〜1907
本因坊秀哉1874〜1940 本名は田村保寿(やすひさ)。
富田忠夫 1910〜2002 雁金準一門下。学習院大学卒。1941年飛付三段、1997年名誉九段。門下に王銘エン、鄭銘瑝、鄭銘g、郭求真、渋沢真知子など。1994年大倉喜七郎賞受賞。
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2017年02月19日

銀河乞食軍団 つづき

銀河乞食軍団 つづき
 消滅!? 隠元岩礁実験空域
野田昌宏  早川書房   2009.11

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 まえに紹介した 銀河乞食軍団 の続きである。
 これで「発動!タンポポ村救出作戦」が完了する。
 もう一度言うが、A4三段組み5冊合本というのは無理があるなあ。図書館では他の作家の本だが、束が5センチ以上ある本がある。見ただけで読む気がなくなる。

 わたしは金庸小説のような、女の子や老人が活躍する話が好きだ。この本も女の子が活躍する。
 “銀河乞食軍団”つまり星海企業の宇宙船整備工は、下の“おネジッ子”はなんと12〜13歳、初級の学校を卒業すると、すぐに整備工としては働かねばならない。それを引っ張る班長のお七と副班長のネンネは17〜18歳。こんな子どもたちが、宇宙船を整備し操縦する。免許証はとれたのだろうか。免許制度は無いかもしれない。
 人類が宇宙に進出して、この銀河の辺境に来て千年以上(?)もたっていて、軍事的専制国家。新兵器を開発して、中央に進出し制圧しようという、軍産複合体が支配する。庶民の人権はなきがごとし。
 星海企業はその軍産複合体の裏をかく。

 金持ちの娘が偽善でやっている慈善事業で歌われる男声合唱は「月光とピエロ」で、歌の様子を細かく説明している。

   月の光の照る辻に…
   ピエロ…ピエロ…
   ピエロ淋しく立ちにけり…
   ピエロの姿、白ければ
   月の光に濡れにけり
     ‥‥‥‥

 検索してみたら、今でも歌われている。こんな所は現実的。

 前に書いた、「ん」を「ン」と書くやり方は、一冊目の半ばから復活している。
 全体的には、江戸時代のような社会で、名前や運用体制は明治時代。機械類は昭和時代と宇宙時代の混合。登場する人物は冒険心にあふれている。
 敵役の軍産複合体も内部事情は複雑で、星海企業を一気に押しつぶすようなことはしない、できない。
 
 終わり方が唐突だった。まだ作戦途中なのに、あちこちの伏線が回収し終わっていないようなのに、タンポポ村が帰ってきたので、つまり目的が達成されたので、切ってしまったような終わり方。予定変更もあったらしい。第二部があるので、そちらで回収するか。
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2017年02月18日

銀河乞食軍団

銀河乞食軍団 合本版
野田昌宏   早川書房   2009.6  (1982初版)

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 銀河乞食軍団(全十七巻)は、日本SF(スペースオペラ)では一二を争う傑作だと思っている。

 文庫版はもう手に入らないが、なんと合本版が有ったではないか。
 早速注文した。2冊で十一巻まで、第一部「発動!タンポポ村救出作戦」完結である。
 A4三段組み。重い。気軽に持ち歩くことはできない。
 残念だが、イラストは変わってしまった。

 さて、著者の特徴である、独特な仮名づかいがある。
 なんてかかられたら、あたい、死ンじゃうわ。
 わかったもンじゃないわ。
 もろにつンのめる形になって、
 おねえさン。

 「ん」を「ン」と書くのだ。はじめの十ページくらいまでは何度か出てくるのに、その後は全然使わなくなってしまっている(まだ読み終わっていないので後に出てくるか)。新しく組み直したので、校閲で訂正してしまったのか。初版もそうだったのかな。
 この方法は便利なので、わたしもまねして使っている。
   この小説はなんておもしろいンでしょう。というように。
 電話するのにダイヤルを回すのも懐かしい。あの頃はケータイなんてなかった。

 著者は、古いアメリカSFのコレクターで有名である。それらをクズと喝破した。
 たとえば西部劇の馬を宇宙艇に変えただけだったり。
 最近の映画でも、エイリアンは野蛮な侵略者だったりする。何十万光年の彼方から来ることのできた宇宙人は、地球人よりよほど進歩した文明の生物だと思うのだが。
 本書では、著者は逆手にとって、宇宙時代に江戸時代を再現する遊びをしている。いろいろ矛盾もあると思うが、承知の上である。
 たとえば、舞台は星涯(ほしのはて)星系の第四惑星である白沙(しろきすな)とか。 軍団のリーダーのひとり、お富さんの登場シーンは、
 事務所の長火鉢で煙管(キセル)の刻みを詰め替えながら
 という具合。これでもお富さんは核融合炉のスペシャリスト。番頭さんや奉行もいる。
 宇宙空間で日本語が普通に通じるのも、設定を工夫しているからだ。
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2017年01月31日

失われてゆく、我々の内なる細菌

失われてゆく、我々の内なる細菌
マーティン・J・ブレイザー   みすず書房   2015.7
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 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。(3万種類、1000兆個という説もある。また70〜90%というのは数量で、重量ではなさそう)
 P28には細菌だけなら3ポンドほどという。
 テレビ“ためしてガツテン”で、腸内細菌は2キロほどいると言っていた。
 わたしは紹介していないが90%が細菌という本もあった「あなたの体は9割が細菌」。
 これらの数字はかなり矛盾しているようで、どう解釈したものか。
 驚いてしまうが、それらのほとんどの細菌は害をなすことはない。それどころか体を守ってくれているのだ。

 腸内細菌は、人間の食べた食物を消化し、腸が吸収できるようにしている。人には消化の能力がほとんどなく、消化を腸内細菌にさせている。腸内細菌は必要な栄養素も作り出す。だから腸内細菌は消化の下請け作業を請け負っていることになる。
 (糞便の95%はこの腸内細菌やその死骸である。という説もある)
 腸内細菌のバランスが崩れるとどうなるか。いろいろな病は、このバランスの変化と死滅によって引き起こされると思われる。
 これらの細菌は、人類誕生以来、人類と共に進化してきた。人類と細菌は運命共同体なのだった。これは他の動物でもそうで、独特の細菌群を持っている。
 こんな話を、細かく例を挙げて説明している。

 1例を挙げると、胃の中にピロリ菌がいる。胃潰瘍などの原因になることが知られているが、健康のために必要(特に子ども)な細菌であった。
注:もちろんわたしに確認できることではない。他の専門家が追試で確認するとか、否定するとかをして、正しいかどうかはっきりする。
 参考: NATROMの日記 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/ 2017.01.16「ピロリ菌は胃がんの原因の何%か?」にピロリ菌の別な観点からの記述がある。

 さて、問題は害をなす細菌が入ってきたときだ。昔はしばしば死の病があった。最近になって抗生物質ができて、外来細菌を殺し、死の病を治すことができるようになった。しかし、この抗生物質は外来細菌ばかりでなく、下請け作業をしている細菌まで殺してしまう。そうなると、バランスが崩れ新しい病を引き起こすことになる。
 さらに抗生物質は畜産でも使われている。早く体重を増加させるためだ。これが食物連鎖で人体に蓄積していく。また病院でも過剰に抗生物質を処方する。そうなると人体も太りやすくなる。
 現代は世界的に“肥満”が異常に多くなっている。それがここ二十年間に起こっていることなのだ。その他アレルギーや喘息など、「害」の深刻さに我々はようやく気がついてきた。
 なんと、金持ちは死滅した腸内細菌を求めて、原始社会の抗生物質を使ったことのないヒトの腸内細菌(つまり糞便)を求めているという。
 そんな警告、特に抗生物質の使いすぎ(特に幼児)に対する警告の書である。

参考: 肥満に関しては、こんな本もある あなたは、なぜ太ってしまうのか? 肥満の原因は一つではない。
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2017年01月24日

天と地の守り人

天と地の守り人
上橋菜穂子   新潮社   2011.6
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 これはロタ王国編・カンバル王国編・新ヨゴ皇国編の三部作となっている。シリーズ通算8〜10冊目になる、完結編である。
 どこの国もどの人も、それぞれ立場があり、生きる理由があり、外からは見えない苦悩がある。それらが納得できる物語だ。

 故国新ヨゴ皇国が南の海の向こうのタルシュ帝国に飲み込まれようとしている。それを救うためには、となりのロタ王国と北のカンバル王国と同盟を結び、タルシュ帝国の侵略軍と対抗するしかない。
 新ヨゴ皇国の皇太子チャグムはタルシュ帝国に囚われの身になったが、海に飛び込んで脱出し、ロタ王国に向かう。ロタ王国では南北問題(南の反乱の兆し)を抱えていて、単独では同盟できない。チャグムはさらに北に向かいカンバル王国を説得する。そしてロタ王国と同盟を結び、同盟軍を率いて新ヨゴ皇国に向かう。その間もバルサに助けられている。
 すべての人がその立場ならではの事情を抱えている。チャグムやバルサも例外ではない。
 ロタの内紛もカンバル王の迷いも、それぞれに苦悩の事情があるのだ。新ヨゴ皇国も帝と皇太子チャグムは、国が滅びようとしている時でも対立関係にある。
 タルシュ帝国でさえ、内部では対立していて、統治方法に異論がある。今まではタルシュ帝国に支配されれば、過酷な目にあうと考えられていたが、実情は少数民のタルシュ帝国と、多数民の被支配国の関係は、協力関係にあり、過酷ではない。過酷では反乱が予想されるのだ。国の中枢は被支配地の異民族出身者もいる。
 こうしてあちこちで異論があり、対立しているが、それでも何とか協力の道を探している。
 さらに新ヨゴ皇国の都は、タルシュ帝国にも勝る圧倒的な自然の力によって、滅びようとしていた。ナユグ(異世界)に春が来たのだ。何百年に一度の春だ。
 ふたつの国難をどうやって防ぐのか。16歳のチャグムは成長した。
 バルサは、緒戦の犠牲になったタンダを探しに行く。そして瀕死のタンダを見つけ看病する。
 タンダを世話していた村人に「つれあいです」と宣言する。

 なお、この最終巻の発行のため、荻原規子・佐藤多佳子・上橋菜穂子の3人の対談が巻末にある。平成23年3月22日。なんとあの東日本大地震直後の余震の中での対談だった。小説と重なるではないか。
posted by たくせん(謫仙) at 09:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする