2006-5-20記
2021-2-10改訂(「たくせんの中国世界」から「雲外の峰」に移す)
李清照 −詞后の哀しみ−
李清照の悲しさ 李清照と宋詞 詞について 武陵春 文学 家庭環境 生涯
参考:
李清照 その人と文学 中国の女詩人 新譯漱玉詞 李清照後主詞欣賞 ★李清照 年表 絵には見えないが 賛 があり、その賛を書いた人は夫である趙明誠。
政和甲午新秋徳父題於帰来堂 と記す。
易安居士三十一歳之照
政和甲午 政和4年(1114)
易安居士 李清照の号
徳父 趙明誠の号
帰来堂 趙家の図書館
この絵は後世の模写である。菊の花を持っているが、原画は蘭の花を持っている。
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李清照の悲しさ
詞人李清照は北宋の官の娘として生まれ、その官としての特権に疑問を抱かず一生を終えたようだ。
18歳のとき太学生の趙明誠に嫁いだ。後年そのときを振り返り、李家も趙家も貧しかったと言っている。しかし、宋代は史上もっとも官吏の給料が高かったことで有名であり、義父はそのときすでに大臣で翌年には宰相となっている。
夫の趙明誠はエリートの学校である太学で学んでおり、すでに金石学で名をあげていた。父の李格非は高官ではないが、名文家として高名であった。いずれにしても貧しいはずがない。
北宋の滅びるときに、李清照は百万冊といわれる書物を失っている。買い集めた書画骨董のうち、良い物だけを選びに選んで、舟十数艘で建康(南京)まで運んだが、結局それも失ってしまった。これらを得るにはどれほどのお金が必要であろうか。
余談ではあるが、本の溢れかえる現代でも、司馬遼太郎氏が持っていた本は三十万冊といわれている。
李清照についての疑問はまだある。李清照が嫁いだ翌年、父の李格非は元祐姦党として弾劾される。この時、李清照はときの宰相に人の心をふるわせる手紙を書いて父を救ったという。
北宋は王安石の新党と司馬光の旧党の争いによって自滅を早めることになるが、李格非は旧党であり、義父の趙挺之は新党であった。
そして元祐姦党を弾劾したのは宰相となった趙挺之であった。ときの宰相とは義父なのだ。もう一度いうと嫁入りの翌年である。敵対する家に嫁に行ったわけだ。
趙明誠が子供の時「詞女之夫」という謎の夢をみて、長じて詞女の夫となる話が伝わっているが、前後の複雑な事情を覆う作り話であろうと思われる。
李清照はそれぞれに悲しんでいるが、特権を当然と考えて、それが不十分であると嘆く姿に同情心はわかない。特権を「自分は恵まれている」と思うことができれば、決して悲しみの人生ではなかったはずだ。それに気がつかないのが、李清照の最大の悲しさであろうか。
多くの詞を填した(詞を作った)が、漱玉詞一冊のみが伝わっている。評価は詞后。詞帝李後主に対す。
李清照は再婚している。王安石も寡婦の再婚を勧めているように、当時では非難されることではない。井上祐美子の小説に、この李清照の再婚を扱った短編小説がある。創作部分がほとんどのようだが、一読を勧める。
如夢令 李清照 昨夜雨疎風驟 昨夜、雨は疎にして風驟く
濃睡不消残酒 濃い睡りにも残酒は消えず
試問捲簾人 簾を捲く人に問うてみれば
却道海棠依舊 却って海棠は舊に依ると道う
知否 知るや否や
知否 知るや否や
應是緑肥紅痩 應に是れ緑肥え紅痩せるべし
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李清照と宋詞
わたしが李清照の名を知ったのは1983年のことであった。
ある日、台湾のかわいいガールフレンドから手紙が届いた。その手紙の中に李清照を紹介してあった。
そのガールフレンドは間もなく高校受験の準備に入り、音信不通になってしまったが、わたしは李清照に興味を持った。それまでは、人並みな漢詩の知識しかなかったわたしは、宋詞の世界に強烈な印象を受けた。
唐詩は、恋をうたっても、政治演説のように建前を描写してしまうようだが、詞は和歌のような心を打ち明ける恋の歌なのだった。
恋愛の歌も当然多いが、国を恋し、故郷を恋し、芸術を恋し、酒に恋し、花鳥風月に恋する、そんな印象がした。
当時はめぼしい資料もなく、やっと見つけた本は、当時としてはありがたかったが、原文と意訳文のみで解説も読み下し文もなく、とても味わうところまではいたらない。しかもわたしにも判る間違いがあり、物足りなかった。
その本のまえがきの一部を紹介する。
新譯漱玉詞 昭和三十三年 花崎采琰(さいえん)
詞は晩唐五代の頃からさかんになりはじめるが、このころの作品は多くは宴席の楽しみのために‥‥、こさめのふるたそがれ、‥‥、ゆく春をおしみつつものおもいにしずんだり、あかつきの鶯、ありあけの月にきぬぎぬのわかれをおしんで、‥‥などという情景がもっとも多く‥‥。
‥‥南唐の天子、李後主は、このような宴席のたのしみのうたにとらわれることなく、その滅びゆく國家への愛惜と身世のかなしみを、そのままことばにうつして詞をつくった。‥‥ほんとうの意味の文學作品であった。‥‥
‥‥北宋のおわり南宋のはじめにかけて一人の天才的な閨秀詞人があらわれた。それが李易安居士清照である。詞というものは男性がうたってもわざわざ女性の身におきかえて作られるように、本来は女性の立場にたっているものである。‥‥
詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、‥‥‥‥ 中田勇次郎しるす
なお花崎氏は昭和六十年(1985)三月に「中国の女詩人」を発行している。この中でも十頁にわたり李清照を紹介している。新譯漱玉詞より正確である。
その後、わたしは台湾旅行のおりに、中国語の「李清照李後主詞析賞」を買い求めた。この本と前述の本を較べることによって、少しは理解できたが、どうしても判らない部分があり、長い間そのままになっていた。
ところが新世紀に入って、インターネット上で李清照に関する優れたサイトを見つけることができた。
碇 豊長 「詩詞世界」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/ 碇氏にメールで問い合わせたりして、いくつかの長年の疑問が氷解した。
そこで、屋下に屋を架すようだが、ここに李清照についてのいくつかを書くことにした。
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詞について
次の詞を「武陵春」と書いてあるが、正しくは詞牌といい、その下に小さく書き加えた「春晩」が題である。ただし、ほとんどは詞牌のみで題名は書かない。
そもそも詞は替え歌のようなもので、詞牌はその曲である。それに各人がいろいろな詞をつけて歌った。それゆえ詞牌のイメージと詞のイメージが合わないので、知らずに読むと疑問に思う。
中には本来のイメージによって作られた詞があるが、それを本意などという。
詩は士大夫のもの、詞は庶民のものといわれ、詞は庶民に親しまれたが、芸術作品とはみなされなかった。それを五代に南唐後主李U(いく) が格調の高い詞を作って芸術作品とした。そして宋代に花開いたのが宋詞である。
唐代の李白が作った詞が伝わっているが、その真贋は疑わしい。
李清照は多作したが、現在伝わっているのは五十数首だけである。テキストによって多少の差がある。
塵は香りて 花が散って地上の塵と交じり
物は是人は非ず 物はそうでも人はそうではない。
物は昔のままでも人は変わりゆくの意味。
事事く休し 万事休す
双渓 浙江省金華県にある川。清照は夫の死後、金華県にいる弟を頼った。
さくもう舟 足の速い小船という。
擬 計画する。
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文学
李清照は自ら易安居士と号し、また易安室とも署名した。北宋の歴城(現在の山東省済南市)の人である。歴城の西南「柳絮泉」に家があったことが判っている。
歴城は古くから絵のような景色で知られ、文人才子の集まるところであつた。有名な千仏山と大明湖があり、名勝古跡も特に多い所である。
清照は北宋の元豊七年(1084) の生まれで、南宋の紹興21年(1151)以降六十歳ないし七十歳で亡くなった。
その文才は並はずれており、著作もかなり豊富である。ただほとんど伝わっておらず、残っているのは少ない。
南宋「楽府雅詞」の「李易安詞」23首
明末「漱玉集」の17首
晩清「漱玉詞」の50首
趙万里編集「漱玉集」の60首
中華人民共和国時代「李清照集」78首、そのうち35首は疑問があるらしい
人民文学出版社の「李清照集校注」は、比較的完備された全集で、李清照が遺した詞・詩・文のほとんどを網羅している。もちろん著作の全貌には遠く及ばないが、多才多芸な作家であることを知るには十分であるという。
評価をあげてみよう。
同時代の王灼
…本朝の婦人ならば、まさに文采第一と推すべし 朱熹は(朱子学の朱子ですね)
本朝の婦人の能文はただ李易安と魏婦人あるのみ 明の楊慎は
衣冠のうちに在らしむれば、当に秦七、黄九と雄を争う …………………………
家庭環境
父は李格非、字(あざな)は文叔という。進士に合格し、官は礼部員外郎となる。
文章で蘇軾に知遇を得ている。「後四学士」といわれた。
贈賄全盛の時代に贈賄を拒否し、実力で官になろうとする人だった。また栄利は求めなかった。
元祐年間(1086〜1093)に旧派が王安石の新法を覆したことがある。
崇寧元年に蔡京は、新法を覆した人たちを元祐奸党として弾圧した。
その時李格非は罷免されている。
深い学問のある学者であったが、著作はほとんど失われ、「洛陽名園記」のみが伝わっている。
当時の有力者たち(皇帝・蔡京・司馬光など)が民家を壊して庭園を造ることに対して、「洛陽の盛衰は、天下治乱のきざしなり」と批判している。間もなく金との戦争でこれらの庭園は消失した。
散文が出色だったが、詩詞にもすぐれていた。それらの才能は李清照に伝わったといわれる。
母は漢国公王準の孫という。文化的素養は深かった。当然、李清照にも影響は及んだであろう。
このように李清照は文学的雰囲気が濃厚な家庭で育ち、豊富な歴史と文学資料の中から栄養を吸収した。
なお、何人かの姉妹と弟がいた。
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生涯
中国では一般に女性を教育することは少ない。その中で李清照は子供のときから文藝に親しみ当時の詞も険韻を好んだという。険韻とは韻が限定されて相当する文字が少ないもの。当然難しい。これで腕を磨いた。
数え18歳の時、趙明誠に嫁ぐ。趙明誠は子供のとき、謎の夢を見たという。
あるとき、本の夢を見て目を覚ましたとき、「言と司が会う、安の上すでに脱す、芝芙の草を抜く」という言葉だけを憶えていた。
父はこう解釈した。
言と司が合えば 詞
安の上を脱せば 女
芝芙の草を抜けば 之夫
故に「詞女之夫」 となる
後に夢のお告げのとおり詞女李清照の夫となった。
こんな伝説が作られるほどの夫婦であったということであろう。
新婚時代の苦しい生活の話もあるが、それはお金があると金石書画を買い込んだため。金石書画を買うお金はあったのだ。決して貧しいわけではない。
間もなく趙明誠は出仕し、家を空けることが多くなる。その出張先に詞「酔花陰」を送った。感激した趙明誠は三日かけて、五十数編の詞を作ったが、その中に李清照の詞の一部を使った。友人の陸徳夫に見せると、「この三句がすばらしい」と褒めたが、それが李清照の詞を使った部分だった。
このころ政界は新派と旧派のあらそいがあり、その争いに巻き込まれる。実父は旧派である。夫の父は新派で、旧派の弾圧に力を注いだ。
李清照が21歳の時、義父の趙挺之が亡くなり、趙一族は追放され青州に帰ることになる。それからの10年が最も幸せだったのではないか。夫婦揃って金石書画の収集研究に没頭した。
その後、趙明誠は莱州と青州の郡守となった。このころが水滸伝の時代である。43歳の時、靖康の変があり北宋が滅んだ。
北方は金となり、宋は南に逃れ南宋となるも定まらず、皇帝さえ流浪の生活を送る。李清照も流浪の生活となる。
46歳の時、夫趙明誠は亡くなり、玉壺事件が起こった。趙明誠の生前に張飛卿がa(みん=玉に似た石)の壺を持ってきた。そして没後に趙明誠が「金」に玉壺を贈ったとデマが流された。趙明誠は建康(南京)の知(長官)として金と交渉し、そのときaを贈ったらしい。玉なら問題だがaなら問題は小さい。李清照はaであると主張しているところを見ると、贈ったことは事実のようだ。
このころ金は江南まで来ており、建康は最前線である。間もなく李清照は残っていた蔵書二万巻も全て失うことになる。
このころの流浪の様子は、拙文の年表を見て頂きたい。
49歳の時、ようやく南宋の都が杭州に定まった。それまでは皇帝も転々としていた。
李清照は再婚することになった。結婚相手は張汝舟である。張汝舟の目的は李清照の財産であった。
再婚と同時に李清照の財が張汝舟に取りあげられ、あっという間に婚姻は破綻した。約百日間であった。
李清照から離婚を申し出たが、当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。
紹興四年(はっきりしない)ころ「金石録後序」を書いている。それによって、李清照の半生が判る。これ以外には「打馬図序」などがあり、江南の生活の様子が書かれている。このころ鋭い評論も書いている。
晩年ははっきりしない。亡くなった年さえ判っていない。68歳ごろと思われる。