2024年08月20日

民主の国とは

 幸福な監視国家・中国 の続きを、加筆して独立させた。

 以下はわたし(謫仙)の考えていたことである。
 中国といえば共産主義国家と思う人が多い。だがそれは違う。支配する中国共産党は、組織の看板として共産主義を掲げているだけだ。
 中国共産党が共産主義になれない理由は判っている。
 共産主義にはまず民主化しなければならない。民主化が共産主義のスタート台だ。これができていない。そして国民の生活を支える経済力だ。
 日本はすでにそこから踏み出している。第一歩は、国民皆健康保険だ。第二歩は年金だ。それから失業保険。これら社会保障はソ連と向き合っていたころ充実させた。そして経済力が勝るため、ソ連を遙かに凌駕する共産主義政策となった。
 最近ではベーシックインカム(ベーシックインカムとは)が考えられている。しかし、そのマイナス面もあり、導入は当分ないだろう。
 将来生産は全てロボット化して、失業率が3割を超えるようになると、導入が必要となろう。もっと前かな。
 専制主義→ 資本主義→ 社会主義→ 共産主義、だが、自称「共産主義国」はいまだ専制主義のままである。共産主義社会は視界にも入っていない。
 西方極楽浄土や天国では、資本主義が機能しているとは考えにくい。共産主義に思える。当然ながら名前は異なるだろう。このことから共産主義は実現不可能に近い理想社会と思える。

 警察は無犯罪を目指し、消防は無事故を目指す。達成するのは不可能だが、無駄ではない。
 多くの人は自由平等を目指す。達成するのは不可能だが、その運動は無駄ではない。
 共産主義は社会の目指す理想でもある。しかし不可能ではないか。不可能であっても目指す意味はある。目指す努力を怠ると、専制主義に逆戻りしてしまう。

 漢民族の支配者は4千年(実際は3千年程度ではないか)の帝国主義思想に支配されていて、帝国主義の範囲でしか考えられない。民主でも法治でも、帝国主義の範囲内での話になる。
 もっとも台湾や香港や華僑は西洋的な民主を考えることができる。
 中国ではしばしば、警察組織が、反社的組織と親しく思えることがある。そのため地元警察は信用できなくて、中央に訴え出ることがある。
 ただし、中央政府も信用されているわけではない。

 現在では中国外の西欧的な市民社会にも、非民主の陰が忍び寄っている。民主疲れとでも言うか。負担軽減(つまり利益)を求めすぎてしまうのだ。原因はソ連が崩壊し、非民主国との競争の必要度が低くなったことだ。
 日本の総選挙では表面だけでも一千億円以上かかる。選挙を止めれば一千億円が浮く。全てにそう考えると、経済的負担は軽くなるが、国家機能に大きな傷ができる。民主化していない中国ではこの傷が大き過ぎるように思える。

 日本でも、国民の生活を支える経済力に陰りが出ている。放漫財政のためだ。企業の体力が弱くなると、株価は下がる。これを強引に株価だけ上げても体力は回復しない。原因と結果を取り違えたのが、現状ではないか。
 かつてインフレ率2%を目標にしていたが、仮にそれが正しいにしても、2%は経済を健全にした結果としてそうなるべきで目標ではない。
 インフレ政策の目的は、借金(国債)の事実上の返済だ。

 医者が熱を出している病人の温度計を37℃にしても、いや体を冷やして体温だけを正常にしても、病人は回復しない。病人を回復させた結果、体温が正常に戻らねばならない。

 間接的ではあるが、
 サピエンス全史 ホモ・デウス 続き に続く。
posted by たくせん(謫仙) at 08:01| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月09日

グイン・サーガ・ワールド1

2011-6- 記
2024-07-08 追記

グイン・サーガ・ワールド 1
栗本薫ほか   早川書房   2011.5
 2009年に亡くなった栗本薫の代表作、グインサーガは未完のままになってしまったが、そのグインワールドを書き継ごうという人たちの、その外伝集の第一巻だ。

     guin11.6.27.jpg
 表紙の絵を久しぶりに加藤直之が描いている。初期辺境編は加藤直之だった。懐かしい。
 グインの豹頭が、なんとなく人らしい表情なのだ。呪縛が解けると人頭に戻る感じがする。他の人の豹頭は豹の頭をくっつけた感じで、(豹頭の)人らしい感じが弱い。

 ドールの花嫁 栗本薫
 遺稿発掘とある。若き日に途中まで書いて止めてしまった。若き日のナリス。
 その当時書いていた本編とはずれが生じたらしい。わたしには判らない微妙な差だ。
 文体が少し古く、初期のグインサーガを彷彿させる。

星降る草原 第1回  久美沙織
 草原の鷹スカールの、出生の秘話である。その母の数奇な運命を語る。
 小説道場で著者の名を知ったが、投稿は記憶にない。異常な愛を語ることができる。わたしには苦手な話だ。

リアード武侠傳奇・伝 第1回  牧野 修
 今日は特別な日だ。
 出だしの第1行がこれだった。これだけで栗本薫ではない、と思ってしまう。
 栗本薫なら、「今日は特別な日であった。」であろう。たったこれだけで、違和感が生じる。
 講釈師のような立場の語り手は、講談調でリアード武侠を語るが、いきなり現代口語が挟まってしまう。わざと入れたと思いたいが、読んでいて、いきなり調子が崩れてしまうのだ。その前に、講談調の文も調子が悪い。そのためいまひとつのめり込めない。そしてミステリー事件が起こるが、このミステリーは成立するのか。違和感が消えない。

宿命の宝冠 第1回   宵野ゆめ
 三話の中でこの小説が一番栗本薫に近い。栗本薫を詐称したら気がつかないであろうと思うほど。できは判断できないが、わたしの好みに合う。
 沿海州の男装の姫が中原を巡ってから、故国の危機を知り帰ってくる。しかし、素直には帰れない事情がある。語り手はパロからきた世間知らずの青年。
 これだけは続けて読みたいと思う。

日記より
 夫君今岡清さんが発表した、栗本薫の日記の一部だ。
 最初は中学一年。それから作家としてデビューするころまで。異様な精神状態を感じさせる不思議な文章である。

エッセイ
 そして今岡清さんが栗本薫を語る。
 文を書くことにとりつかれ、死の瞬間まで書き続けた、栗本薫のすさまじいと思える精神状態。これでよくあの大人の物語を書けたと思う。特に死の床に伏してからの、精神も病んでいたのではないかと思えるほどの異常な行動や言語。それを暖かく包む今岡清さんの感性。これで栗本薫は大人なのかと思えるほどだが、妙に納得できる話だ。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
2024-7-8 追記
 本編も語り継がれていた。130巻以後148巻まで出ている。
 著者は「五代ゆう」と「宵野ゆめ」の二人。宵野ゆめさんは体調が悪くなり、最近は五代ゆうさん一人で書いている。
 これだけ長いと、あちこちにある伏線が、正しく回収できているのか心配になる。(というような意味の著者のぼやきがあるほど)

 宵野ゆめさんは文体も栗本さんに似ている。五代ゆうさんは描写力がある。ありすぎる。そこが栗本さんに似ている。
  ↑ 気がついたと思うがこの文、わざとおかしく書いた。本文中に、このようなアレッと思わせるところが何カ所かある。

 久し振りに続きを読んだので、全体を整理してみた。
posted by たくせん(謫仙) at 08:03| Comment(2) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月08日

グイン・サーガ118 クリスタルの再会

07-12-26記

    栗本薫   早川書房     118巻 クリスタルの再会
 この物語も118巻まで来た。本来100巻の予定であったが、終わらずに続いている。当分終わることはないであろう。
 ほとんどの本は図書館から借りて読むわたしが、この本だけは今でもお金を出して読む。
       guin118.jpg
 初期は擬古文というこった文体で綴られていたが、今では普通の文体になってしまっている。また初めのころは度量衡などが定まっていなくて、矛盾が生じたりしたが、まもなく統一された。
 一度設定した都市が、話の都合によって移動したりしたこともある。もちろんSFといえども許されるはずがない。
 SFを知らない人は、もともと荒唐無稽だから、と考えるが、SFだからこそそのあたりは厳格に考えるものなのだ。
 ある条件を設定したら、たとえば重力が半分になったらなどと決めたら、最後までそれで通さねばならない。重さは半分になり、人間の体は現在の体格を維持する必要がなく、骨はカルシウムが溶け出し……、なとど矛盾しないようにするのだ。
 都市の移動の問題では、ファンレターで指摘し、愛読者プレゼントを頂いた。
 毎回3人に出していた愛読者プレゼントも今ではなくなった。

 さて、実は今回設定上の大問題(?)が発生した。
chizuguin.jpg
 一行が馬車と騎馬で右の湖の近くミトから国境の町サラエム向かっている。目的地はパロの都クリスタルだ。

p20
 …グインだけでも、船でランズベール川をさかのぼって、クリスタルに近づいたほうが……
 ここでは「さかのぼる」のではなくて「下る」とすべき。
p66
 ミトからランズベール川の下流をめざし……
 地図を見ると判るように「ランズベール川の上流」とせねばならない。ミトからサラエムに向かったので、このあたりは上流かあるいは中流であろう。ここでは単なる勘違いと思っていた。そして、p20の「さかのぼって」が気になりだした。
p76
 ランズベール川にそってのぼるようになり……
 とあり、ここで、作者の単なる勘違いとはいえない、と思えるようになった。
p132
 クリスタル・パレスの真後ろを流れるランズベール川もこのあたりまでくると、かなり幅の広い川となり、最終的には自由国境地帯の山中の湖に流れ込んでいる、ということだった。
 ここまでくると、作者はイーラ湖から山中へランズベール川が流れていると思っていることが判る。
 実は以前にも同じ記述があった。この地図が間違っていると考えるべきか。山中の湖にと言っているのでわたしは作者の勘違いだと思うが。
 ここ10巻ほど、登場人物の長広舌が気になる。回想も長い。今回はいつも口数の少ないヴァレリウスまで長広舌になっている。作戦的に長く喋っていると考えたいが、どうもそうではない。まるで人格の変換が起きたようだ。
 そのため内容がかなり薄くなっている。この10巻を3巻程度に縮めたら、普通の流れになったか。
 もうひとつ挿絵画家の問題。この画家は美人と言うと巨乳にしてしまうのだ。ほっそりとしたリンダまで巨乳。バランスがとれず醜い。115巻では男の恰好で傭兵稼業をしているリギアも巨乳にしてしまった。それで鎧を着る傭兵稼業ができるか!
 本文での描写力は相変わらず。この描写力があるから長くなってしまうのだ。
 小説は描写すること。美しいといわずに、どのように美しいのか、それを描写するのが小説である。というだけあって、描写力はずば抜けている。この描写力が仇となることもあるようだ。

   ……………………………………………………
 第97巻当時の紹介文
 今回は久しぶりに気持ちよく読めた。
 曖昧だったマリウスとオクタヴィアの関係を、お互いが納得して別れた。その納得の仕方が納得できたのだ。
 そもそも、オクタヴィアが皇族の身分にしがみつくのを、マリウスが、それを捨てろと言ったのが発端だった。反発すると、なんとマリウスは王子の身分を捨ててしまった男であったのだ。そこにマリウスの言葉の重みがあった。
 それで、オクタヴィアも皇族の身分を捨てて、二人で夫婦となって旅に出た。そして、それなりの幸せを得ることができたのだ。
 子供ができたり、その他の事情があって、オクタヴィアは皇族に戻ることになるのだが、そのとき、王子であることを捨てた夫が、皇族に戻ることをいやがることが理解できなかった。宮廷人たちもそうだ。マリウスが出て行ってしまって、そのことにオクタヴィアは気が付いたのだった。
 幸い、父の皇帝はマリウスの歌を初めて聞いて、そのことを理解したので、オクタヴィアは肩の荷を下ろすことができたのだ。
 マリウスたちがサイロンに戻って来たときに、その歌を披露させるべきだったが、その機会がなかったのはオクタヴィアのミスと言うべきか。
 本来、二人の発端はそうでも、それなりの事情によって戻ったのであって、夫はそれを理解し、協力しなくてはいけない。だがマリウスはそれができない人であった。だからこそ、王族の身分を捨てたのだ。
 今回はその再確認でしたね。
   ……………………
 黄金の輝き
 わたしはとても貴重な思い出がある。いまとなっては、それが本当にあったのか定かでない。
 あるクラシック歌手が、唱歌を歌っていた。そのとき、わたしのまわりにある諸々が黄金に輝いたのだ。その輝きは、歌声が止むと消えてしまった。そのとき、わたしは涙を流して感動した。
 それからクラシック音楽に興味を持ったが、あの感動は二度と味わえなかった。
 ある時、クラシック歌手が演歌を歌ったことがある。日頃「演歌は音楽にとって有害だ。法律で禁止すべきだ」と言っているクラシック界の人の歌は、と期待した。それがあまりの酷さに愕然としてしまった。
 演歌歌手より見事に歌って、その上で、「クラシックはもっと素晴らしい、皆さん聞いて下さい」と言うのを期待していたのだ。
 だが日本語の発音さえまともにできない歌手に演歌は無理だった。わたしの同僚でももっとうまい。
 それ以来、クラシック音楽への興味は全く消えてしまった。

 吟遊詩人マリウスは、まわりを黄金に輝かせることのできる歌手なのだ。そしてわたしは、マリウスの歌うシーンがあるたびに、涙を流して感動したことを思い出す。
 皇女オクタヴィアは、自分と娘マリニアを置いて出て行ってしまう夫マリウスに、失望したり弁護したりするが、やはり聡明な女であった。マリウスの生き方を納得することができたのだ。それもすべて、あの歌の魅力を知っているからではないか。
   ……………………
 今回は「マリニアちゃん」「勝ち組」という言葉があって、違和感を覚えた人がいる。
 もともとこの物語は擬古文の世界であった。
「…マリウスを伴っては、はかが行かぬ」と。
 それがいつの間にか普通の文体になっていった。この文体では皇族といえど、私生活では「マリニアちゃん」はあり得ると思う。
 だが、勝ち組はどうか。
「勝ち組」の意味をどう取るか。わたしは勝ち組の意味を、
 負けたのに、目をつぶってその現実を見ず「俺は見なかった、そんなことはない。勝ったんだ。絶対に勝った」と叫んでいる人たちの意味ととっているのだが。
 いまだ第二次大戦は「本当は日本が勝った」と言っている人がいるのだ。
逆に「負け組」は、負けた事実をしっかり見て再出発をする、「真実を見ることのできる人」の意味にとっている。

  …………………………………………………
 第83巻当時の紹介文
 この個人では世界最長の物語、全100巻を目指して、ようやく第83巻まで出た。約22年かかっている。
 外伝も16巻出ている。このまま100巻で完結するかどうかで、ファンはかまびすしい。
 一説に、「とても終わりそうもない。100巻は経過点で、最終的には全200巻を目指している」という。
 物語の特徴は、正義とは悪とはなにかが、絶えず問われることだ。昨日まで正義だったものが、今日は悪になる。
 人が変わる場合もあるが、人は変わらず世間が変わることもある。国により、時代により、立場により、入れ替わる正邪の概念をしめし、決して一方的に決めつけない。
 アメリカ育ちの過去のSFは、宇宙時代でも腰に拳銃をぶら下げていて、銃のうまい方が正義という、現在のアメリカの正邪の概念をそのまま引き継いでいることが多い。
 しかし、アポロ計画の宇宙飛行士が、拳銃は持たなかったように、航空機では武器の持ち込みが禁止されているように、おそらく武器を持ち込むことはなかろう。
 日本のSFはここから出発したため、わたしには日本のSFの方が優れているように思えた。また、グインサーガはこの象徴のように思えた。
 実際には外国のSFも同じように進化しているはずだ。
 現在、東方キタイの国のヤンダルゾックという竜王が中原への侵略を計画している。これをいかに防ぐかが、登場人物たちの主な関心事である。
 このキタイの、旧都がホータン、新都がシーアンという。漢字で書けば「和田」「西安」となるのだろうか。思わず笑ってしまう。
posted by たくせん(謫仙) at 07:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グイン・サーガ122 豹頭王の苦悩

2008-8- 記

グインサーガ122   栗本薫   08.8
 王妃シルヴィアの病に悩み乱行を知ったとき、自分の力では王妃を救えないと悟り、別離を決意。別れの挨拶をして部屋を出る。

 それが、ケイロニア王グインが、その王妃とこの世であいまみえた最後であった。

 いやあ、なんとあっさり決めてしまったことか。グインではなく著者の話ですが。ここで話を聞いて、別れるならもう一冊くらいかけて別れを決意すると思うが、今回はたった3ページで決めてしまった。
 もっともそこに至るイントロで二冊近くかかっているので、それを考えると不自然ではないか。

 この巻ではローデス侯ロベルトの存在が輝く。盲目であり次男でありながら、兄の死で当主になったという。頭脳明晰で人の弱さを理解でき、シルヴィアの事を理解できるたった一人の人物である。宰相のハゾスが策を弄するのを批判し正しいと思う道を示すが、それでも最大の協力者となる。だからハゾスは苦悩を打ち明けることができたのだ。
「私は、もともと、なんでもよく出来る兄の下に生まれ、ローデス侯家の厄介者で終わるはずでしたからね。…略…。ですから、私にはシルヴィア姫のお気持ちもよくわかる気がするのです。―良くできたきょうだいを持って、おのれは何にもできぬとそしられているものの気持ちが」
 まさに哲学者だ。ケイロニアの苦悩、ハゾスの苦悩を引き受け処理をしてしまう。この人の存在でケイロニアは救われたのかも知れない。
 病の身とはいえ傑出した英邁なる皇帝アキレウス、軍神にして人情のわかるグイン王、各国の宰相では最も優れていると思える宰相ハゾス、軍事的には無力ながら心の支えとなるロベルトなど、優れた人物の多いケイロニアのたった一つの問題が王妃シルヴィアであった。
 この問題は終わったわけではないが、一時危機を回避した。
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グイン・サーガ129 運命の子 

09-10- 記

運命の子 グインサーガ129
栗本薫   早川書房   09.10

 著者2009年2009年5月29日に亡くなってから、127巻「遠いうねり」、128巻「謎の聖都」、129巻「運命の子」と三冊目だ。
 127巻の時は亡くなって間もなくだったが、それから二冊。長編小説さえ書きためる著者の速さに驚かされる。
 古い話だが、坂田栄男が「作家なら年に一冊くらい長編小説を書いたらどうか」という意味の発言をしたことがあるという。並みいる作家は顔を見合わせたが、川端康成は「年に一冊、そんなにかけますか」と言ったという。簡単に長編一冊というが、年に一冊書くのは大変なことなのだ。
 それを栗本薫は十日もかからず一冊書いてしまう。ワープロの普及もあり、内容の濃さも違うので、一概には言えないが、脅威の速筆である。このシリーズも、亡くなるとき間もなく発行される127巻に続き、二冊分も書き残している。聞くところによれば、まだ半冊分くらい残っているらしい。
 130巻も出るのではないか。小説の残された半冊分と梗概のような今後の予定などあれば載るのではないかと思われる。
        unmeinoko129.jpg
   
 さて、この巻は、スカールとヨナが、次代のリーダーとなるであろう運命の子スーティとその母フロリーを、ミロク教団から助け出そうとする話だ。まだ話は終わっていない。
 それ以外に、この巻はもうひとつ重要な意味がある。外伝第一巻、「七人の魔道師」の巻でもあるのだ。サイロンに病が猖獗するが、なんとか治まった。本伝の話と外伝の話に齟齬があると思われたが、なんとか形を付けた。七人の魔道師が書かれた1981年からすでに30年近くたつ。平仄が合わない部分があるにしても、ここまできてようやく、七人の魔道師にたどり着いた。
 これからこの物語が新しい展開をする予感かしたところで、未完のまま終わることになる。

 千人をはるかに超える登場人物にそれぞれ個性を持たせ、正邪は定かではなく、いろいろ謎を秘めて、未だ全体像が見えてこない物語だ。
 前後矛盾したり、(個人で書いた)世界一長い小説と自慢したり、内容が薄すぎる巻があったり、文体が変わったり、問題もいろいろあることはあるのだが、とにかく長い間楽しんだ。わたしは第10巻から買い始めた。
 挿絵画家もいろいろ変わった。最初の加藤直之と最後の丹野忍がいい。天野喜孝は絵が汚く美人が美人にならないので嫌いだった。
 丹野忍はこの表紙のように、普通の油絵として美術館に飾っておきたいような絵だ。
posted by たくせん(謫仙) at 05:47| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グイン・サーガ130 見知らぬ明日

09-12- 記

栗本薫   早川書房   09.12
       guin130.jpg 
 ついに未完のまま最終巻となった。わたしは1〜9巻までは妹の本を借りて読んだ。第10巻から買い揃え、121巻持っていることになる。
 そしてその中には二冊持っている巻がある。一冊は読者プレゼントで頂いたもの。栗本薫のサイン入りである。
 それ以外に外伝もある。外伝は何冊になるだろう。

 外伝第一巻にサイロンの危機が書かれている。はじめ100巻で終わりにすると言っていたが、100巻を越えても、とてもサイロンの危機になりそうもなかった。ところが129巻になって、そのサイロンの危機が現れた。ようやくたどり着いたのだ。
 その間予定外の話も挿入されたと思うが、なんとか一周したように思う。そうして、続編とはいえ、また新たな物語が始まる。
 ゴーラ王の意外な行動は黒龍戦役の再現となるのか。パロの二粒の真珠の成長物語でもあるように、次のこどもたちの成長物語となるのか。
 いろいろ推測されるが、ともかくこの物語は終わった。
 小説とは自分の創造した世界を物語ること、という著者の面目躍如たる小説であった。これだけの長大な物語で30年も楽しませてくれたのだ。冥福を祈ろう。

 最後であるが、ある苦情を申し上げたい。
 グイン・サーガで言った川の話の再現である。
chizuguin2.jpg
 ユノから真っ直ぐに下りてくるあたりなので当然クリスタルの東である。
P124 イラス川とランズベール川、クリスタル市から流れ出てくる二つの大河を、
 地図でも判るように山間部から流れ出た川は、クリスタルを通ってイーラ湖に注ぎ込む。「クリスタルに流れ込む二つの大河を」とすべき。
P127 イラス川を渡ったらもうちょっと下流へ−場合によっては自由境地帯までも下りてみたほうがいいかもしれん。
 自由境地帯は川の上流、下りるのではなく登る。
P128 ランズベール川にそって下流に向かっておけ…
 これも上流であろう。
 この記述から、川の上下を誤解していることが判る。

 もうひとつ、これはカバーの絵だ。いくら女剣士といえ、乳房をそっくり再現させたような鎧があり得ようか。画いたのは丹野忍。絵はうまいのだが、こういう非常識なところがある。リンダやリギアを巨乳にしたりした。
 この物語でわたしの最も好きな登場人物は、魔道師宰相ヴァレリウスである。まだまだ引退はできそうもない。

 グインサーガ これは《異形》の物語であった。
posted by たくせん(謫仙) at 04:00| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グインサーガ全130巻を読み返す

2017-  記

栗本薫   早川書房
 約2年かけてグインサーガ全130巻を読み返した。
 1979年(昭和54年)9月の第1巻『豹頭の仮面』以来、2009年(平成21年)5月26日、著者が亡くなるまで、30年間にわたり執筆されて、いまだ未完である。
 わたしは第10巻が出た頃に知り、一気に10冊読み、以後は出版の日を待ち焦がれて本屋に通った。
 外伝も22巻あるが、今回は本伝130巻だけを通して読んだ。

 地図上の問題
 グイン読本にカラー地図がある。前に紹介した地図を再掲する。
chizuguin-2.jpg

 海や湖や川は青、海岸部や盆地など低い土地はみどり、高くなるにつれて茶色が濃くなってくる。つまり普通の地図と同じなのだ。地図を見慣れない人でも判ると思う。登山地図になれた人には当然で何の疑問もない。
 ここでは、イーラ湖を底とするパロの盆地、オロイ湖を底とするクムの盆地があり、流れ込む川はあっても、そこから流れ出す川はない。
 ダネイン大湿原も盆地より高いところにある。
 イーラ湖に接続するランズベール川がある。パロの盆地がみどり、少し東に行くと、薄い茶色、そして川はたんだん細くなり濃い茶色のアルシア連山あたりで消える。どう見ても、アルシア連山から流れ出し、イーラ湖に流れ込むように見える。
 しかし、本文の記述は、イーラ湖から流れ出し、下流のアルシア連山の山中に消えると一貫している。水の流れの方向、上流下流の記述も、一貫している。
 アルシア連山の裾野は、イーラ湖より低いところにあることになる。
 わたしは今まで間違っていると書いたが、記述が一貫しているなら、むしろカラー地図が間違っていると考えねばならない。地図作者が誤解したといえる。ただ著者も目にしたと思うので、地図作者を責めるわけにはいかない。
 読み落としていたが、ダネイン大湿原は中原では最も低い土地にある、という記述があった。そうなるとこれもカラー地図が間違っている。パロの盆地の水はランズベール川で排水され、ダネイン大湿原にも排水されていることになる。
 草原地帯は少し高いところなので、ダネイン大湿原から流れ出るアルゴ川は大峡谷になっているのかな。もっとも草原の民は自由に移動しているので、切り立った崖ではないだろう。
 それよりここもカラー地図の間違いと考えた方が早い。
 おそらくパロの盆地は地図よりかなり高く、ダネイン大湿原や草原はかなり低いと考えるところだ。

 もう一つ。
 実際には30年130巻にわたって書かれた。主人公が何巻も登場しないこともあり、5年ぶり10年ぶりに登場する人物もいる。そんなとき読者は「この人誰だっけ」「あの当時の細かいことは忘れた」という状態になる。
 小説ではさりげなくそのあたりを説明している。会話であるとか、立場の違う別な人の述懐だとか、今までのあらすじ風の説明とかで、久しぶりの登場人物やその当時のことなどを読者に思い出させる。これが実に巧みである。
 巧みではあるのだが、今回のように一気に(と言っても2年)130巻を読むと、しかも2度目なので、その人や過去のことを覚えている。そうなると、前に読んだところをもう一度読んでいるような錯覚に陥る。この巧みさは長い間の連載の時は生きるが、一気読みでは逆効果でいらいらするほど。今までのあらすじ、過去の説明ばかりで、いっこうに話が進まない、という状態になる。これは意外だった。
 考えてみれば、初読当時もけっこうだれた感じがしていた。いつまで経っても話が進まない。どこかにそんなことを書いた記憶もある。
 このことで、十年後二十年後の三度目読みはないとみて、本の処分を決意した。

 未完で作者が亡くなった。この先の梗概のようなメモなどを期待したが、なかったらしい。
 その後、グインサーガワールドとして、他の作家がグイン世界を書いている。わたしはその第一巻を読んだが、第二巻以後は読んでいない。機会があれば…と思っていたが、なぜか積極的になれないのだ。本屋でも見ないし…、などと自分で自分にいいわけをしている。
posted by たくせん(謫仙) at 03:56| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グイン・サーガ 外伝1 七人の魔道師

2008-7- 記

    栗本薫  早川書房   1981.2
 古い本だが、読み直した。
 この外伝の設定と、現在進行中の本伝の設定との間にはかなりの齟齬か生じている。それがどうなるかで、ファンの間で、論争が楽しまれている。
 今回の再読で、わたしもいくつか気がついた。
 日本のヒロイックファンタシィは、この本によって始まったと言っても過言ではない。
 いろいろな意味で、記念碑的な物語である。

 ケイロニアの首都サイロンに起こる怪事の数々。
 これには、600年に一度の星々の会があり、そのエネルギーを利用しようとする魔物たちの暗躍があった。
 そのエネルギーを利用するにはケイロニア王グインが必要であった。グインはその信管であったのだ。
            
 著者は本伝で「南無三」という言葉を使ったことがある。
 読者から、これは仏教用語で、ここで使うのはおかしいという話があった。
 これに対し、この場面ではこの言葉がふさわしいと、説明していた。

 これはどうか。
 本書「七人の魔道師」は、600年に一度の星々の会があり、グインはそのエネルギーの信管であることが物語の根元である。しかし本編では、この時代に火器は存在しない。

 火器のない時代に「信管」で意味が通じるだろうか。
 「引き金」ならば、日本語に翻訳した(?)とき、一番ふさわしい表現だったと、することかできる。(「南無三」のように)
 だが「信管」という漢語を使った以上、火器がなくてはならない。

外伝は この世界はメートル法の世界であった。 
本伝は メートル法ではない。

外伝 ケイロニアの皇女(グインの妻)は、グインを拒み続ける。
本編 つねに側でかまってもらいたがる。

等々、齟齬とその解決策を楽しめる物語である。
posted by たくせん(謫仙) at 02:50| Comment(2) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

グイン・サーガ 外伝22 ヒプノスの回廊

2011-2- 記

 グインサーガ外伝22 ヒプノスの回廊  
栗本薫   早川書房   11.2

        hipunosuno.jpg

 著者の死去によって中断してしまった「グインサーガ」の別巻22であり、文字通り最終巻である。なお、他の作家がグインの世界を書き継ぐ計画があり、5月にもその第一号が発行される予定である。
 わたしはそこまでつきあえるかなあ、と思っているが、図書館にあれば読みたい。それはともかく。

 この本はいままで収録されなかったものを集めて、これでグインサーガの全ての作品が本になった。
 表題作におけるグインの故郷の星のありようが、違和感がある。「新・魔界水滸伝」のような国を考えていたのだが、これではなぜグインが生まれてきたのか納得がいかない。これを書いた当時はそう考えていたのか。それともこのような夢を見ただけの仮の姿か。

 「氷惑星の戦士」というグインとは異なる短編もある。グインに先行する小説であったという。これでは大きな物語にはできないので、あらためてグインサーガを考えた。
 となると、違和感があるものの、グイン世界の一部として集めたことになる。
 全部で6編

 表紙の絵であるが、このてのアンバランスな絵が多くなった。臀部付近だけを露出し、それ以外は全て隙間なく覆う。こんなスタイルはあり得ないだろう。
 ビキニでもいいし、全裸でもいい。「フェラーラの魔女」スタイルならかまわない。しかしこのスタイルはまるで覗き。画家のセンスを疑う。
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2023年06月01日

サピエンス全史 ホモ・デウス 続き

 サピエンス全史 ホモ・デウスの続き ではあるが、民主の国とは の続きでもある。

ホモ・デウス 下
 本の話は他で読んでいただくとして、ここではわたしが気にとめたことだけにする。
 以下のように、この本はわたしの意見に共通するところが多い。もしかしたら、多くの人がそんな感想を持ったのではないか。

88ページ
……、自由主義は、競争相手の社会主義やファシズムからさまざまな考え方や制度を採用した。とくに、一般大衆に教育と医療と福祉サービスを提供する責務を受け入れた。とはいえ、自由主義のパッケージの核心は、驚くほどわずかしか変わっていない。自由主義は依然として個人の自由を何よりも神聖視するし、相変わらず有権者と消費者を固く信用している。

94ページ
 もしあなたが国民保険サービスや年金基金や無償教育制度を高く評価しているのなら、……マルクスとレーニン(……)によほどたっぷり感謝する必要がある。

 自由主義は、社会主義との競争で、「一般大衆に教育と医療と福祉サービスを提供する責務を受け入れた。」が、社会主義国がほぼ消滅しても、それは取り消さなかったのだ。
 では社会主義国が消滅しなければ、もっと充実したかといえば、それは怪しい。経済力とのバランス問題だ。経済力のない自称社会主義国ではこの社会主義的制度は不可能であろう。
 多くの思想や宗教哲学は、その成立年代の生産方式や生産力と結びついている。パソコンやインターネットのなかった時代に成立した思想に、現在の生き方を求めるのは、無理があろう。社会主義は蒸気機関やようやく電気の用いられた時代の哲学で、そのままでは現代では通用しない。自由主義社会のように現代的にアップする必要がある。

89ページ
 中国は依然として共産主義であるというのが建前だが、実際には大違いだ。中国の思想家と指導者のなかには儒教への回帰という発想をもてあそぶ者もいるが、それはおおむね便利なみせかけにすぎない。

 いまだに中国を共産主義だと思ってる人が大勢いる。中国の悪いところを指して、「これだから共産主義はダメなのだ」と。
 しかし、わたしは中国を共産主義国だとは思っていない。
 古代中華の象徴として、「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」という言葉がある。
 政府高官は刑罰を受けないという特権だ。これを現代でも実行している(と思われる)。だから賄賂は当たり前。賄賂ではなく、自分の領土からの税収くらいに思っているようだ。
 大夫は礼によって規制される。人格優れた人が建前だ。だから刑罰は不要。しかし、トップの疑念を招けば、つまり人格が疑われれば処罰の対象となる。証拠もなく疑念だけで処罰されるのだ。
 この思想は孔子の時代の思想で、清の時代になっても科挙の中心科目だった。
 もっとも科挙に合格するような人は、かなり頭のいい人だ。だから政治においてもかなりのことはできよう。しかし、孔子の時代の政治思想が今でも優れているとは思わない。
 科挙はなくなったが、精神はほとんど変わっていない。中国共産党は共産主義を自称しているが、儒教思想は抜けきれていない。そもそも中国の経済力では共産主義は無理だ。
 さて、共産主義社会になるとどうなるか。おそらく誰も共産主義のことなど気にしなくなるのではないか。
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2023年05月31日

サピエンス全史  ホモ・デウス

2021.5.10 記

 初めて読み終えてない本の紹介をする。
 間違いがあるかもしれない。非難する人がいるかもしれない。

 わたしは宗教を信じない。しかし、バカにはしない。
 漱石の草枕。
 人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
 そう、この世を作ったのは神ではない。これは十代の頃から思っていたが、わたしの考えをはっきりさせたのは、宮本武蔵の五輪書である。
 神仏を尊びて、神仏を頼らず
 そうだった。宗教には頼らない。しかし他人の信仰心は尊重する。静かに、宗教規律を守って生活している人に対しては、尊敬心もある。ただ他人を攻撃したり、しつこく勧誘する人には怒りを覚える。だから、宗教による戦いは理解出来ない。

  2021.5.10.2.jpg 2021.5.10.1.jpg
 先日、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史−文明の構造と人類の幸福」と、その続編とも言える「ホモ・デウス−テクノロジーとサピエンスの未来」を途中まで読んだ。そして投げ出した。
 まわりくどく、何を言っているかさっぱり判らないのだ。整理して、全部で四冊を二百ページほどにしたら、少しは判るかもしれない。
 「サピエンス全史」が人類の過去、「ホモ・デウス」が人類の未来を語る。
 ネットで、その要約や、書評などを読んで、ようやく大意をつかんだ。

 現人類が、架空の話を作ることができることが、他の人類を滅ぼし勝ち残った理由だという。
 他の人類が架空の話を作ることができないと、どうして知ったのかは判らないが、架空の話、たとえば神を偽造したり、言語だけでも意味を伝え、噂話を確かめもせず信じる。貨幣制度など、虚構に類する実態のない概念を理解できる。
 その架空の力で大人数をまとめた。そして国家を作った。
 確かに国家を作ったのは現人類だけだ。他の生き物で、言語を持つと言われる生物も国家は作れない。
 生物は、階層化される。
   神
   支配者層
   一般の人
   家畜(一部の人も含まれる)
   他の生命

 そして、将来は、次のように分類されると予想する。
   アルゴリズムと、アルゴリズムを操る神となる支配者層
   家畜(ほとんどの人はここに分類される)
   他の生命

 支配者層以外のほとんどの人は家畜に分類されるのだ。
 現在でもAIに支配されている人が多い。さらに進むと、衣食住からさらには恋人や結婚相手までAIに支配されるだろう。インターネットがないと何もできない。アルゴリズムの奴隷になるのだ。
 神とは、AIやAIなどの情報を支配する人たちだ。

 もはや、この状態は宗教ではないか。ここで最初の述懐か出てくることになる。

参考 https://note.com/nogacchi/n/n0a09f10fa38e
ホモデウス図解 神になろうとするサルたち

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
以下ほとんど不要の駄文

 翻訳物は、回りくどくて意味が判りにくいという話。わたしの頭が足りないだけではないだろう。

ひとりの男が…
 前後の文を見て、あれ、この文脈だと、一人でなくても、女性でも当てはまる話ではなかろうか。と考え込んでしまう。
 
「…誰だか知りませんが、一人、または複数の人間と連絡していたのを見つけたんです!」ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団p504
一人、または複数の人間、これ以外の状況はあるのか。

 この本では、
 1943年にドイツのある男の子が父親にきいた。
 1943年でないといけないのか、女の子や母親では該当しないのか。
 男の子に限定した意味は何か。
 これが伏線だと思って気をつけていると、何の関係もない。だったらなぜ男の子と限定したのか。

 このような本は、結論ばかりでなく、結論にいたる道筋も大切だが、それでも冗長すぎる。
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2023年04月18日

薬屋のひとりごと

2023.4.4  記
2023.4.18  追記

日向夏   主婦の友社   2014.9

   2023.4.4..jpg

 小説 薬屋のひとりごと を読んでいる。
 異世界ものというのだろうか、仮想の国が舞台である。
 意外な話が伏線となっていて結構おもしろい。作者は日向夏、推理作家だとか。
 花街育ちの猫猫(マオマオ)は、さらわれて、宮廷の下女にされてしまう。年季が明けるのを期待して、医薬に詳しいことを隠している。
 ことの始まりは、皇帝の多くのこどもたちが短命であり、今も苦しんでいるこどもがいたこと。この子を密かに助けたことが知られて、毒味役に採用される。
 毒味役をやりながら、みずから薬を作り、多くの人を治療をする。その過程で、王宮や貴族の陰謀に巻き込まれてしまう。

 中華王朝風の架空の時代。日中混合で迷うことが多い。
 たとえば登場人物名が、猫猫(マオマオ)、李白(リハク)、羅漢(ラカン)、羅門(ルォメン)。わたしには判りやすいけど、どうだろう。
 碁や将棋も出てくる。将棋のコマは、角行や竜王。日本将棋のようだが、成り金・成り銀という言葉には、作者は将棋を知っているのかな、という疑問が生じた。日本将棋ではなく、架空の将棋というゲームであるならかまわない。そのような説明がさりげなく欲しい。
 碁では珍瓏と書き、かなは「ツメゴ」とある。珍瓏(ちんろう)と詰碁(つめご)は異なる。似ている部分もあるが、それは一部分。それで、碁も知らないのかなと思うが、碁を知っている人でも誤解している人がいるので、こちらはなんともいえない。
 こんなふうに碁や将棋に関しては、微妙なずれがある。この世界ではそういうゲームと考えるか。
 医薬医療に関してはかなり詳しい。もしかしたらプロから見れば怪しいところがあるかもしれない。しかしそれはかまわない。それは正しいという設定の小説だからだ。
 逆にいえば、設定以外では正しく書く必要がある。(わたしは古いSFファンなのだ)
 弁髪ではなく、将棋の成立年代や、サツマイモ(コロンブス以後の情報)などが登場したりするので、モデルは明朝かと思う。
 大陸の中央にありながら、よく海の新鮮な魚が登場する。海は近いのか。早馬で運ぶとあるが、距離感が合わない。
 漫画でもこうか? 漫画なりの変更が加えられたりしてないのかな。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
2023.4.18 追記
 第4巻で碁を打つ場面あった。棋譜にとってある。それを第6巻で再現する。紙束があり、一手づつの棋譜が書かれている。
 途中で失着があり、そこで終わっている。
 羅漢(ラカン)と猫猫(マオマオ)が棋譜どおりに打ち、終わってから羅漢が一人で打ち、ヨセに入り、
「あとはよせだけだ」
 手を止めて、
「もう勝敗は決まっている。五目半のこみを入れて、黒の一目半勝ちだ」
 棋譜どおりに打つのはともかく、続きを打って、勝敗を言うのは、プロ級の高手ではないか。これは日本ルールである。しかも少し古い。
 日本では、昔はなかったコミが、1934年に導入されたときは2目半であり、それから順次4目半、5目半、6目半、と改正された。
 五目半だったのはおおよそ1964年から2002年までである。
 計算方法の違いもあるが、中国ルールでは一子二子と数えた。現在のコミは3+3/4子(7目半に等しい)とする。コミの採用は日本より遅い。一子は2目であり、半目は1/4子と表現する。だから昔は半目はなかった。これもこの世界のルールがこうだと割り切ろう。
 著者は「ヒカルの碁」で碁の知識を得たのかな。「ヒカルの碁」では五目半で通していた。

 第8巻では碁の大会があるが、周辺の話ばかりで、打ち碁の話はかすめる程度。

    思わぬところで碁の考察
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2023年03月19日

幸福な監視国家・中国

2022.10.23 記
2023.3.19 一部独立

梶谷 懐, 高口 康太    NHK出版   2019.8

     22.10.22.jpg
 この本はコロナ・ウイルス騒ぎ以前に書かれた。それ故に現在ではかなり様子が変わったと思われる。故に細かいことは書かない。
 わたしが読みながら感じたことである。だからいつもの本の紹介とは違う。

 幸福論ではない。ここでいう監視国家は、「1984年」とは少し異なる。
 たとえば暴力が支配する地域があったとしよう。その地域の至るところに監視カメラが備えられれば、そこに住む人々は幸福感を味わえる。そんな意味合いだ。
 中国では法整備が追いつかず、民間(?)でダイナミックに事業を展開してしまう。中国の急成長はそれに由来するところが大きい。時の権力者の資金源になるため、違法でも保護される。そして、国際社会でもルールを無視して勝手に展開する。 
 それがここに来て、停滞してきた。国内では共産党内の派閥争いで、旧権力者の保護による有力企業が打撃を受けている。習近平は国の経済より、権力争いを優先して、他派閥資金源の世界的企業に圧迫を加えている。
 国際社会ではルールを守らず退場を余儀なくされている場合もある(アメリカの株式市場など)。コロナウイルス問題もあり、見通しは明るくない。
 この本が書かれた当時はイケイケの中国経済だったが、現在は暗雲が垂れ込めている。こんなわけで、内容は興味深いが、全てを信用できるわけではない。
 この本ではかなり誤意見が見受けられる。特に大企業を民間企業とするあたりだ。ほとんどは半国策の会社であろう。その時代の有力政治家の派閥資金源になっている。
 自由意見を言えるだけの環境にいない人に世論調査をしても、ほとんど無意味だ。逆に自由意見を言えないことが垣間見える。
 そんなわけで、監視社会が中国で受け入れられた社会土壌など、参考になる。
 将来に対する展望は希望があるのだが、それもコロナ・ウイルス騒ぎや、国策企業への圧迫などで、かなり狂ったのではないか。習近平派閥の資金源企業がすぐに育つかどうか。

民主の国とは に続く。
posted by たくせん(謫仙) at 08:28| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年11月22日

中国共産党の歴史

中国共産党の歴史
高橋伸夫   慶應義塾大学出版会   2021.7

 この本、内容は素晴らしい。漠然としか知らなかった中国共産党の歴史を克明に書いている。
 たとえばわたしは、戦前の中国共産党は、名前ばかりでほとんど力がなかった、と思っていた。ところが、1925年1月の党員は994人だったのが1927年春には5万7967人になっている。
 本拠地で共産党を支えた財力は、半分近くが麻薬だったという。
 長征(あの大敗走)のころでは軍30万〜40万で、貴州省の戦いで約三万人になった。
 毛沢東軍以外にも各地に小さな共産党軍がいた。
 あるいは内部抗争のすさまじさ。
 これらを書いてあるページを示したいが、探せなかった。このような断片的なことは、ここに書いてもあまり意味がないので、ここまでとする。

 戦後では、胡錦濤の一期目は前の江沢民に支配され、二期目は習近平に掣肘を加えられ、ほとんど活動できなかったという。
 先の共産党大会で、胡錦濤が資料を開くことも妨げられ、追い出されたシーンがあったが、この本を読んで納得した。

 内容はいいのだが、日本語がはっきりせず、印象が薄い。
 まず、縦横ともいっぱいに文字が入り、改行が1ページに2回か3回で、だらだらと続く。思わず読むのをためらう。また余計な修飾が多い。

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 序文を読んだとき、外国語の翻訳かと思った。しかし、著者は日本語を母語としているはず。文章はまず英語または漢語の論理構造で作り、頭の中で翻訳して書いているようだ。
 例を挙げる。最後のページである。

 習近平政権は、二〇一九年末に武漢からやがて中国全土へと拡散した新型コロナウイルスを、世界全体へと拡散させた後に封じ込めた。だがこの「成功」は大きな代償も伴った。

@習近平政権は……封じ込めた。 の間が長すぎ。これでもこの本では短い方だ。
A拡散させた後  拡散方法は書いてない。主語を勘違いしたか。翻訳ミスか。わたしは「拡散してしまった」と思う。「拡散させた」とは思わない。
B封じ込めた。  「封じ込めようとした。」であろう。
Dこの「成功」は  中国語では“成功”とすることばであろう。「成功と称する」の意味。

 他にも「AはBではなくCである。」これが多行に渡ると、どこまでがAで、どこまでがBで、どこまでがCか、判然としなくなる。自分の知識で補うことになる。
 代名詞の使い方が一定していない。無生物主語も多い。たとえば、
膨大な資料は研究者の心を折る。 これは「研究者は膨大な資料を見て心が折れる」の方が良いが、正しくは研究者とは自分のことだから「膨大な資料を見て心が折れた」で良いはず。
posted by たくせん(謫仙) at 09:43| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年11月04日

みをつくし料理帖

16.4   記
22.11.4追記

みをつくし料理帖  天の梯(そらのかけはし)
田 郁(かおる)  ハルキ文庫   2014.8

     15.4.28-1.jpg
 みをつくし料理帖はこの第10巻をもって完結した。
 澪(みを)は享和2年の大阪の大水害で、幼くして親を亡くし、料理屋「天満一兆庵」の女将である芳(よし)に奉公人として引き取られる。
 ある洪水の後、汁物の味が変わって、料理人たちが原因が判らず困っていたとき、澪は水の味が変わったことを指摘する。それで主人の嘉兵衛に見込まれ、女ながら料理人の修行をすることになる。
 あるとき店は火事になり、大阪の店は再建せず、嘉兵衛とその妻芳と澪は江戸の支店に来るが、嘉兵衛の息子佐兵衛は店をつぶして、行方不明であった。心労で嘉兵衛は亡くなる。
 澪(みを)は小さな店「つる家」で料理人として働き、芳と一緒に生活を続けた。
 医師源斉の言葉「食は人の天なり」を励みに、人々が健やかに生きることを目指して、料理を作る。
 こうして6年、幼なじみの野江が吉原にいることを知り、四千両を工面して救いだし、佐兵衛を料理人に戻して、江戸に天満一兆庵を再興させ、自分も医師源斉に嫁ぎ、ともに大阪に行き、新しい人生をはじめる。
 その後、料理屋「みをつくし」を開店することになるはず。付録にある11年後の料理番付が暗示している。

 超あらすじはこんなところだが、江戸の人の暮らしぶりや人情などかなり細かく描写されている。澪の料理の工夫ぶりも細かい。しかも架空の料理ではなく、小説の話をまとめたレシピまでついている。
 最終話になり、ページが残り少ないのに問題解決の先が見えず心配したが、違和感なくまとまっている。話は始まりから終わりまで一貫して練られているので、読後は爽やかで後味が良い。

 あちこちで涙が止まらなくなった。
 たとえば、つる家には下足番となった十三歳の“ふき”がいる。ふきは七歳の弟健坊が奉公先の登龍楼に戻るのをいやがったとき、心を鬼にして「登龍楼に戻れ」と叱るあたり。
 住む家もなく、二人で生きるすべもなく、幼い二人が生きてゆくために、ふきは苦渋の決断をしなければならなかったのだ。
 その前に、健坊の初めての藪入りの時は、ふきは健坊をふきの奉公先つる家に連れてこず、登龍楼ちかくをふたりでうろうろして白玉を食べただけ。
 つる家の皆は、ふきが健坊を連れてくると思っていたので残念がったが、ある人が、「そりゃあ、連れてくることはできないだろう」と、ふきの心情を喝破するところとか。
 わたしはどうも、無力であるが故に選択肢がなく、無理を強いられる話に弱い。

 心残りは、二人の少年(太一と健坊)が将来どうなるのかが、はっきりしないこと。サブキャラとはいえ、感情移入してしまった。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
20.9  追加
 後にドラマ化されたが、澪の料理に特化して、味が薄くなった。まさに料理帖だ。多くの登場人物が問題をかかえたままで終わってしまい、物足りなかった。
 また映画化もしたが、この長い物語を一本の映画にまとめることは無理で、かなり省略して、設定も変えて、表面だけをさらったような感じで、見るのが辛いほど。原作を読んでいた故であろう。だから原作を知らなければ、それで良しとしかもしれない。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
22.11.4追記
 さらに、ドラマの続編が作られていた。
みをつくし料理帖スペシャル前編 心星ひとつ 2019
みをつくし料理帖スペシャル後編 桜の宴   2019
 かなり、原作に近い事情や心理面まで踏み込んでいて、ようやく纏まった感じだ。
 澪の想い人・小松原との恋の行方や、幼なじみ・野江との今後を占う吉原・桜の宴で、采女宗馬と再び対決するエピソードを描いた続編。
 ただし、結論までは至っていない。さらに続きがあるのかな。
 黒木華の演技はこの物語にうってつけだ。顔つきも江戸時代らしい雰囲気で、グッと唇をかみしめる表情がいい。
posted by たくせん(謫仙) at 13:58| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月30日

賢い人ほど騙される

賢い人ほど騙される
  心と脳に仕掛けられた「落とし穴」のすべて
Suspicious Minds - Why we believe conspiracy theory
ロブ・ブラザートン(訳 中村千波) ダイヤモンド社  2020.7

     2021.12.30.jpg
 なぜ人は陰謀説を信じてしまうのかという内容で、興味深いと思えるのに、題名がおかしい。
 グー翻訳してみたら、「怪しい心」とでも言うのか、そして副題が「陰謀説を信じる理由」
 ついでにアマゾン書評をみたら同様の評価があって、帯の「悪用厳禁」もミスリード、と。
 中身とは意味ずれているようだ。

 陰謀説といえば有名なのは、
「ケネディ暗殺はアメリカCIAの… 」
「アメリカ同時多発テロはアメリカ政府の計画」
「爬虫類型宇宙人が人間を支配している」
「アポロの月着陸は捏造で、スタジオ撮影」
 アメリカ以外にもあるが省く。全て架空の真犯人が判るはずがない。もちろん証拠もない。
 証拠もないのに言う。「証拠を残さないほど巧みなのだ」
 なぜこんな話を信じてしまうのか、人の脳の仕組みから解説している。
 ひとつ例をあげよう。
 川に木が浮かんでいる。簡単に近寄る人と、ワニかもしれないと用心する人がいる。どちらが生存率が高いか。このように用心する心が生き延びて、陰謀説を生むことになる。〜のようだが、もしかしたら〜。

 この本はコロナウイルスパンデミック発生以前に書かれている。そして、内容はコロナウイルス陰謀説にも当てはまる。
「オバマ大統領が、武漢の研究所に作成依頼をしたウイルスが、漏れてしまった」
 これなど陰謀説の作成者の姿が思い浮かび、笑ってしまう。
 なんで、武漢の研究所に依頼するのだ、どうやって大金を払い、ウイルスを受け取るのだ。
 ワクチン製造薬品会社によるウイルス作成説もある。よくも全社員がいつまでも秘密を守れるものだ。
 ワクチン毒薬説もある。「2年後に死ぬ」など、まさか。

 実はわたしも薬品類は基本的に毒だと思っている。用量を間違えると危険だ。だから医師や薬剤師の厳重な管理の下で利用するのだ。素人判断で利用してはならない。薬局で売っているのは毒性が弱く、多少誤用してもなんとかなる。
 ワクチンは弱い毒で、それで耐性を獲得して、本物の強い毒に備えている。しかし、ワクチン毒薬説はそんな意味ではなかった。

 本の内容はいいと思うが、原文がまずいのか、訳者の日本語力が足りないのか、いささか読みづらい。
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2021年03月25日

ヤマンタカ

ヤマンタカ 大菩薩峠血風録
夢枕 獏   KADOKAWA   2016.12

    2021.3.25.jpg   
 あの有名な中里介山の「大菩薩峠」の改作版とでも言うのだろうか。
 大菩薩峠は、初めの部分を読んだが、その後は読んでいない。あまりおもしろいとは思わなかった。名作と言われるのに、読み終えた人はほとんどいないのではないか。
 何度も映画化されている。
 大菩薩峠のストーリーは支離滅裂。その理由が原作のうち三分の一をカットして、カットしたためのつじつま合わせをしないで、単行本にしたためという。しかも未完。
 この大菩薩峠のはじめの部分の、御岳神社の奉納試合とその前後を、夢枕獏流に改作した。
 名作(?)をいじるな、という声があるかもしれないが、わたしには名前のみの名作に息を吹き込んだと思える。
 音なしの構えに形をあたえた。そして真剣の恐ろしさを巧みに表現している。道場の木刀でも死ぬ場合があるが、真剣は次元の違う恐ろしさがあって、真剣勝負の強さは道場での強さとは違う。
 人を切った経験のある人の強さ。沖田総司はその真剣に淫している。
 机竜之助は普通(?)の剣豪のように扱われている。これはちょっと不満。もっと神秘性を持たせて良い。

 題のヤマンタカであるが、「夜摩天を降す者」で、正しくはヤマーンタカ。
 梵名のヤマーンタカとは『死神ヤマをも降す者』の意味で、降閻魔尊ともよばれる。日本では「大威徳明王」。六面六臂六脚で、神の使いである水牛にまたがっている姿で表現されるのが一般的である。本体は文殊菩薩であるという。
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2021年02月11日

李清照

2006-5-20記
2021-2-10改訂(「たくせんの中国世界」から「雲外の峰」に移す)

李清照 −詞后の哀しみ−
李清照の悲しさ 李清照と宋詞 詞について 武陵春 文学 家庭環境 生涯

参考: 李清照 その人と文学  中国の女詩人  新譯漱玉詞  李清照後主詞欣賞
★李清照 年表

 絵には見えないが 賛 があり、その賛を書いた人は夫である趙明誠。
  政和甲午新秋徳父題於帰来堂 と記す。
     image3.gif
       易安居士三十一歳之照
 政和甲午  政和4年(1114)
 易安居士  李清照の号
 徳父    趙明誠の号
 帰来堂   趙家の図書館
 この絵は後世の模写である。菊の花を持っているが、原画は蘭の花を持っている。
   …………………………
   李清照の悲しさ
 詞人李清照は北宋の官の娘として生まれ、その官としての特権に疑問を抱かず一生を終えたようだ。
 18歳のとき太学生の趙明誠に嫁いだ。後年そのときを振り返り、李家も趙家も貧しかったと言っている。しかし、宋代は史上もっとも官吏の給料が高かったことで有名であり、義父はそのときすでに大臣で翌年には宰相となっている。
 夫の趙明誠はエリートの学校である太学で学んでおり、すでに金石学で名をあげていた。父の李格非は高官ではないが、名文家として高名であった。いずれにしても貧しいはずがない。
 北宋の滅びるときに、李清照は百万冊といわれる書物を失っている。買い集めた書画骨董のうち、良い物だけを選びに選んで、舟十数艘で建康(南京)まで運んだが、結局それも失ってしまった。これらを得るにはどれほどのお金が必要であろうか。
 余談ではあるが、本の溢れかえる現代でも、司馬遼太郎氏が持っていた本は三十万冊といわれている。
 李清照についての疑問はまだある。李清照が嫁いだ翌年、父の李格非は元祐姦党として弾劾される。この時、李清照はときの宰相に人の心をふるわせる手紙を書いて父を救ったという。
 北宋は王安石の新党と司馬光の旧党の争いによって自滅を早めることになるが、李格非は旧党であり、義父の趙挺之は新党であった。
 そして元祐姦党を弾劾したのは宰相となった趙挺之であった。ときの宰相とは義父なのだ。もう一度いうと嫁入りの翌年である。敵対する家に嫁に行ったわけだ。
 趙明誠が子供の時「詞女之夫」という謎の夢をみて、長じて詞女の夫となる話が伝わっているが、前後の複雑な事情を覆う作り話であろうと思われる。
 李清照はそれぞれに悲しんでいるが、特権を当然と考えて、それが不十分であると嘆く姿に同情心はわかない。特権を「自分は恵まれている」と思うことができれば、決して悲しみの人生ではなかったはずだ。それに気がつかないのが、李清照の最大の悲しさであろうか。
 多くの詞を填した(詞を作った)が、漱玉詞一冊のみが伝わっている。評価は詞后。詞帝李後主に対す。
 李清照は再婚している。王安石も寡婦の再婚を勧めているように、当時では非難されることではない。井上祐美子の小説に、この李清照の再婚を扱った短編小説がある。創作部分がほとんどのようだが、一読を勧める。

   如夢令 李清照


  昨夜雨疎風驟  昨夜、雨は疎にして風驟く 
  濃睡不消残酒  濃い睡りにも残酒は消えず
  試問捲簾人   簾を捲く人に問うてみれば
  却道海棠依舊  却って海棠は舊に依ると道う
  知否      知るや否や
  知否      知るや否や
  應是緑肥紅痩  應に是れ緑肥え紅痩せるべし

   …………………………
   李清照と宋詞
 わたしが李清照の名を知ったのは1983年のことであった。
 ある日、台湾のかわいいガールフレンドから手紙が届いた。その手紙の中に李清照を紹介してあった。
 そのガールフレンドは間もなく高校受験の準備に入り、音信不通になってしまったが、わたしは李清照に興味を持った。それまでは、人並みな漢詩の知識しかなかったわたしは、宋詞の世界に強烈な印象を受けた。
 唐詩は、恋をうたっても、政治演説のように建前を描写してしまうようだが、詞は和歌のような心を打ち明ける恋の歌なのだった。
 恋愛の歌も当然多いが、国を恋し、故郷を恋し、芸術を恋し、酒に恋し、花鳥風月に恋する、そんな印象がした。
 当時はめぼしい資料もなく、やっと見つけた本は、当時としてはありがたかったが、原文と意訳文のみで解説も読み下し文もなく、とても味わうところまではいたらない。しかもわたしにも判る間違いがあり、物足りなかった。
 その本のまえがきの一部を紹介する。

 新譯漱玉詞 昭和三十三年 花崎采琰(さいえん)
 詞は晩唐五代の頃からさかんになりはじめるが、このころの作品は多くは宴席の楽しみのために‥‥、こさめのふるたそがれ、‥‥、ゆく春をおしみつつものおもいにしずんだり、あかつきの鶯、ありあけの月にきぬぎぬのわかれをおしんで、‥‥などという情景がもっとも多く‥‥。
 ‥‥南唐の天子、李後主は、このような宴席のたのしみのうたにとらわれることなく、その滅びゆく國家への愛惜と身世のかなしみを、そのままことばにうつして詞をつくった。‥‥ほんとうの意味の文學作品であった。‥‥
 ‥‥北宋のおわり南宋のはじめにかけて一人の天才的な閨秀詞人があらわれた。それが李易安居士清照である。詞というものは男性がうたってもわざわざ女性の身におきかえて作られるように、本来は女性の立場にたっているものである。‥‥
 詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、‥‥‥‥
 中田勇次郎しるす

 なお花崎氏は昭和六十年(1985)三月に「中国の女詩人」を発行している。この中でも十頁にわたり李清照を紹介している。新譯漱玉詞より正確である。
 その後、わたしは台湾旅行のおりに、中国語の「李清照李後主詞析賞」を買い求めた。この本と前述の本を較べることによって、少しは理解できたが、どうしても判らない部分があり、長い間そのままになっていた。
 ところが新世紀に入って、インターネット上で李清照に関する優れたサイトを見つけることができた。
 碇 豊長 「詩詞世界」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/
 碇氏にメールで問い合わせたりして、いくつかの長年の疑問が氷解した。
 そこで、屋下に屋を架すようだが、ここに李清照についてのいくつかを書くことにした。

   …………………………
  詞について
 次の詞を「武陵春」と書いてあるが、正しくは詞牌といい、その下に小さく書き加えた「春晩」が題である。ただし、ほとんどは詞牌のみで題名は書かない。
 そもそも詞は替え歌のようなもので、詞牌はその曲である。それに各人がいろいろな詞をつけて歌った。それゆえ詞牌のイメージと詞のイメージが合わないので、知らずに読むと疑問に思う。
 中には本来のイメージによって作られた詞があるが、それを本意などという。
 詩は士大夫のもの、詞は庶民のものといわれ、詞は庶民に親しまれたが、芸術作品とはみなされなかった。それを五代に南唐後主李U(いく) が格調の高い詞を作って芸術作品とした。そして宋代に花開いたのが宋詞である。
 唐代の李白が作った詞が伝わっているが、その真贋は疑わしい。
 李清照は多作したが、現在伝わっているのは五十数首だけである。テキストによって多少の差がある。
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塵は香りて    花が散って地上の塵と交じり
物は是人は非ず  物はそうでも人はそうではない。
         物は昔のままでも人は変わりゆくの意味。
事事く休し    万事休す
双渓       浙江省金華県にある川。清照は夫の死後、金華県にいる弟を頼った。
さくもう舟    足の速い小船という。
擬        計画する。

   …………………………
   文学
 李清照は自ら易安居士と号し、また易安室とも署名した。北宋の歴城(現在の山東省済南市)の人である。歴城の西南「柳絮泉」に家があったことが判っている。
 歴城は古くから絵のような景色で知られ、文人才子の集まるところであつた。有名な千仏山と大明湖があり、名勝古跡も特に多い所である。
 清照は北宋の元豊七年(1084) の生まれで、南宋の紹興21年(1151)以降六十歳ないし七十歳で亡くなった。
 その文才は並はずれており、著作もかなり豊富である。ただほとんど伝わっておらず、残っているのは少ない。
 南宋「楽府雅詞」の「李易安詞」23首
 明末「漱玉集」の17首
 晩清「漱玉詞」の50首
 趙万里編集「漱玉集」の60首
 中華人民共和国時代「李清照集」78首
、そのうち35首は疑問があるらしい
 人民文学出版社の「李清照集校注」は、比較的完備された全集で、李清照が遺した詞・詩・文のほとんどを網羅している。もちろん著作の全貌には遠く及ばないが、多才多芸な作家であることを知るには十分であるという。

 評価をあげてみよう。
 同時代の王灼
 …本朝の婦人ならば、まさに文采第一と推すべし
 朱熹は(朱子学の朱子ですね)
 本朝の婦人の能文はただ李易安と魏婦人あるのみ
 明の楊慎は
 衣冠のうちに在らしむれば、当に秦七、黄九と雄を争う

   …………………………
   家庭環境
 父は李格非、字(あざな)は文叔という。進士に合格し、官は礼部員外郎となる。
 文章で蘇軾に知遇を得ている。「後四学士」といわれた。
 贈賄全盛の時代に贈賄を拒否し、実力で官になろうとする人だった。また栄利は求めなかった。
 元祐年間(1086〜1093)に旧派が王安石の新法を覆したことがある。
 崇寧元年に蔡京は、新法を覆した人たちを元祐奸党として弾圧した。
 その時李格非は罷免されている。
 深い学問のある学者であったが、著作はほとんど失われ、「洛陽名園記」のみが伝わっている。
 当時の有力者たち(皇帝・蔡京・司馬光など)が民家を壊して庭園を造ることに対して、「洛陽の盛衰は、天下治乱のきざしなり」と批判している。間もなく金との戦争でこれらの庭園は消失した。
 散文が出色だったが、詩詞にもすぐれていた。それらの才能は李清照に伝わったといわれる。
 母は漢国公王準の孫という。文化的素養は深かった。当然、李清照にも影響は及んだであろう。
 このように李清照は文学的雰囲気が濃厚な家庭で育ち、豊富な歴史と文学資料の中から栄養を吸収した。
 なお、何人かの姉妹と弟がいた。

   …………………………
生涯
 中国では一般に女性を教育することは少ない。その中で李清照は子供のときから文藝に親しみ当時の詞も険韻を好んだという。険韻とは韻が限定されて相当する文字が少ないもの。当然難しい。これで腕を磨いた。

 数え18歳の時、趙明誠に嫁ぐ。趙明誠は子供のとき、謎の夢を見たという。
 あるとき、本の夢を見て目を覚ましたとき、「言と司が会う、安の上すでに脱す、芝芙の草を抜く」という言葉だけを憶えていた。
 父はこう解釈した。
   言と司が合えば  詞
   安の上を脱せば  女
   芝芙の草を抜けば 之夫
   故に「詞女之夫」 となる
 後に夢のお告げのとおり詞女李清照の夫となった。
 こんな伝説が作られるほどの夫婦であったということであろう。

 新婚時代の苦しい生活の話もあるが、それはお金があると金石書画を買い込んだため。金石書画を買うお金はあったのだ。決して貧しいわけではない。
 間もなく趙明誠は出仕し、家を空けることが多くなる。その出張先に詞「酔花陰」を送った。感激した趙明誠は三日かけて、五十数編の詞を作ったが、その中に李清照の詞の一部を使った。友人の陸徳夫に見せると、「この三句がすばらしい」と褒めたが、それが李清照の詞を使った部分だった。

 このころ政界は新派と旧派のあらそいがあり、その争いに巻き込まれる。実父は旧派である。夫の父は新派で、旧派の弾圧に力を注いだ。
 李清照が21歳の時、義父の趙挺之が亡くなり、趙一族は追放され青州に帰ることになる。それからの10年が最も幸せだったのではないか。夫婦揃って金石書画の収集研究に没頭した。
 その後、趙明誠は莱州と青州の郡守となった。このころが水滸伝の時代である。43歳の時、靖康の変があり北宋が滅んだ。
 北方は金となり、宋は南に逃れ南宋となるも定まらず、皇帝さえ流浪の生活を送る。李清照も流浪の生活となる。

 46歳の時、夫趙明誠は亡くなり、玉壺事件が起こった。趙明誠の生前に張飛卿がa(みん=玉に似た石)の壺を持ってきた。そして没後に趙明誠が「金」に玉壺を贈ったとデマが流された。趙明誠は建康(南京)の知(長官)として金と交渉し、そのときaを贈ったらしい。玉なら問題だがaなら問題は小さい。李清照はaであると主張しているところを見ると、贈ったことは事実のようだ。
 このころ金は江南まで来ており、建康は最前線である。間もなく李清照は残っていた蔵書二万巻も全て失うことになる。
 このころの流浪の様子は、拙文の年表を見て頂きたい。

 49歳の時、ようやく南宋の都が杭州に定まった。それまでは皇帝も転々としていた。
 李清照は再婚することになった。結婚相手は張汝舟である。張汝舟の目的は李清照の財産であった。
 再婚と同時に李清照の財が張汝舟に取りあげられ、あっという間に婚姻は破綻した。約百日間であった。
 李清照から離婚を申し出たが、当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。

 紹興四年(はっきりしない)ころ「金石録後序」を書いている。それによって、李清照の半生が判る。これ以外には「打馬図序」などがあり、江南の生活の様子が書かれている。このころ鋭い評論も書いている。
 晩年ははっきりしない。亡くなった年さえ判っていない。68歳ごろと思われる。
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2021年02月10日

李清照 その人と文学

2010-03-20記
2021-02-10改訂

李清照 その人と文学
徐培均   訳 山田侑平   日中出版   1997.6
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 原書は1981年、約40年前だ。解説文ともかく、詞の翻訳は大変な労力であったと思う。
 原文は簡体字だ。それを繁体字にもどし、解説文は日本の字にする。また詞の仮名遣いは歴史的仮名遣いとし、解説は新かなづかいだ。
 はじめに凡例として、参考にした中国における李清照ものの一覧を上げている。26冊、 それ以外にも多く出ているという。
 その中に、わたしの紹介した、「李清照後主詞欣賞」も上がっている。ところが著者が余雪曼になっている。余ではなく佘(ジャ)であることは前に書いた。
    
 この本は最近手にしたのだが、わたしが李清照に対して知りたいことは網羅していると思う。この本と前記3冊を合わせて、「李清照 −詞后の哀しみ−」を書き改めた。
 目次

 凡例
第一章 傑出した女流詞人
第二章 家庭と環境
第三章 南渡の前
第四章 南渡の後
第五章 「詞は別に是れ一家」
第六章 詩、散文その他
結語
 後記

 靖康の変で北宋が滅ぶまでが、南渡の前であり、南宋に変わり、江南などを流浪したのが、南渡の後である。
 こうして、詞ばかりでなく、生活や環境や歴史まで書かれていて、いままであいまいに理解していたことがはっきりした。特に再婚の事情がはっきりした。やはりわたしには日本語にかぎる。再婚説は誹謗中傷で実際は再婚していない、という説も強かったのだ。

 訳者はあとがきで、「…李清照の詞は所謂読み下し文にするには不向きだといえる。比較的自由な口語訳をしたいという誘惑にも駆られたが、…独りよがりの訳では原詞の境地を打ち壊すだけであることは目にみえているため、やはり読み下し文に止めた。…」と書いている。
 わたしも賛同する。原文中国読みでは、中国語をしらない日本人には無理だし、口語意訳文では、本当のよさは伝わりにくいと思う。こんなとき、西洋の詩を訳した先人の苦労を思う。その点、中国詩は漢字という助けがあるだけ、日本人にも伝わりやすい。

 なお、前に誕生その他の年月のことを書いたが、この本では、元豊七年誕生としている。そして60ないし70歳で亡くなった。紹興4年に金石録後序を書き終えていた。
 元豊七年誕生説は、わたしの年表と同じであった。
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中国の女詩人

2010-3-10記
2021-2-10改訂

花崎采琰(さいえん)   西田書房   1985(昭和60年)
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 翻訳のレベルは「新譯 漱玉詞」より高い。何よりも、ほとんど日本人に知られていない、中国の女流詩人を紹介したところに価値がある。
 古くは周の詩経から、漢の蔡文姫・王昭君・虞美人・卓文君、唐の武則天・楊貴妃・魚玄機、宋の李清照、近くは秋瑾。全部で180人弱の女詩人を紹介している。
   
 当時わたしは李清照の名や「詞」を知ったばかりだった。しかし、近くの図書館にも資料はなく、調べようがなかった。そんな時この本の広告を見てすぐに注文した。
 紹介文は李清照を中心にしていたので、その李清照の名に飛びついたのだ。
 B5版452頁、自費出版。
 その中に10頁にわたり、李清照とその詞「一翦梅」「酔花陰」「如夢令」を紹介している。その中の一場面。
 夫の趙明誠と本の整理をしていたとき、李清照が暗記しているある文を言う。趙明誠が、その文がどの本の何頁の何行目に書かれているかを当てる、というもの。そのようにして、どちらが先にお茶を飲むのか賭けたという。いかにも学者夫婦らしい話がある。
 この本に過去の出版として新譯漱玉詞の名があった。そこで新譯漱玉詞を欲しいと、著者の花崎さんに問い合わせをした。
 すでに著者の手元にも2冊しかないので…、と丁寧な毛筆の返事を頂いた。それで国会図書館に出かけた。
 だから新譯漱玉詞よりこの「中国の女詩人」の方を先に読んだ。

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 この本は詩人を紹介している文があるが、詞詩は原文と訳文のみ。新譯漱玉詞と同じやり方だ。ただし訳文は全部かな書きである。できる限り和語にして、漢語はカタカナ書き。紹介文の漢字はルビが多く読みやすいと思う。

      以下は、本の話。
 この本の印刷は東京だが、組版を札幌で行っている。当時、すでに活版はほとんどなく、タイプレスタイプ全盛の時であった。
 進んでいる会社は、更にコンピュータ処理に変えており、写植やタイプはまもなく姿を消す。しかし、中国の詩となれば、難しい漢字が多く、写植やタイプでは対応できない。地方に僅かに残っている活版の会社に頼まねばならない。そんな時代背景が思われる。いまならばパソコンで簡単にできる。
 花崎さんは、大学生のころから漢詩に親しみ、この原稿を書き始め、途中戦争にあったりして中断したり、推敲を重ねたりして、五十年以上たってようやく脱稿したという。この本の発行時は八十歳を越えていた。
posted by たくせん(謫仙) at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする