2021年02月10日

新譯漱玉詞

2010-3-6記
2021-2-10改訂

新譯漱玉詞
花崎采琰(さいえん)  新樹社   昭和33年(1958)
李清照 −詞后の哀しみ−で紹介した「新譯漱玉詞」である。
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 この出版社はすでに存在せず、おそらく二度と手に入らない本である。訳者は東洋大学倫理文学科卒業後、漢文検定に合格し中学校の教諭となっている。中国語は話せなかったのではないかと思われる。
 この本は当時(1987ごろ)としてはありがたかった。しかし、原文と意訳文のみで解説も読み下し文もなく、とても味わうところまでは至らない。翻訳のレベルは高くはないと思う。それゆえ復刻の可能性はない。
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  中身はこんな具合

 国会図書館にあるので、もし読みたければ、国会図書館でコピーを頼むのがよい。わたしは国会図書館で半分、もう半分は日比谷の都立図書館から借りてコピーした。
 末尾に論詞・金石録後序・打馬図経序の読み下し文と、易安居士年譜がある。
 李清照の伝記は「金石録後序」に頼るしかないが、これは李清照本人が書いたもので、客観性に多少の疑問があると思う。
 わたしは「金石録後序」の読み下し文をちょっと読んだが、意味が判りにくい。後に原文を手にして比べて見ると、漢文の解釈に間違いがあり、読むのをやめた。
 二カ所だけ紹介する。
   
   …………………………
 訳者読み下し文
余建中辛巳始めて趙氏に歸ぐ時。先君禮部員外郎丞相と作る。時に吏部侍郎と作る侯年二十一。太学に在りて学生と作る。

 拙の解釈。
余建中辛巳始めて趙氏に歸(とつ)ぐ。時に先君は禮部員外郎と作(な)る。丞相は時に吏部侍郎と作る。侯は年二十一、太学に在りて学生と作る。
 余は私。
 歸(とつ)ぐ。嫁入りは仮の家から実の家に帰るという考え方をした。
 侯とは夫の趙明誠を指す。二十一歳で太学生であった。
 先君とは、清照の実の父親を指す。
 丞相とは明誠の父親である趙挺之。後に宰相となった。
 意訳すれば、「わたしは、建中靖国元年に趙氏に嫁いだ。そのとき父は礼部員外郎であった。夫の父は吏部侍郎であった。‥‥」
 この文によって、建中靖国元年に趙氏に嫁いだことが決定できる。
 最後の易安居士年譜では「建中靖国元年辛巳、十八歳趙氏に嫁ぐ」としている。これは正しい。ところが序文では、元符二年としている。二年ずれているのだ。

 鳴呼、余自少陸機作賦之二年、至過キョエン知非之両歳三十四年之間、……紹興二年
という文が元文にある。
   陸機作賦    二十歳
   キョエン知非  五十歳
 ああ、わたしは、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、キョエンが非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間、‥‥‥紹興二年
 「18歳から52歳まで34年間‥‥‥」の意味である。
 序文にこれを、陸機作賦を十五歳とし、十三歳から四十九歳としている。
 紹興二年は数え49歳であり、ここらあたりから錯覚したようだ。
 興味のある人は、拙文 李清照年表 と比較してみて下さい。

 こんなわけで、レベルは低く他人に勧められる本ではないが、わたしにとって宝物の一冊である。
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李清照後主詞欣賞

2010-3-17記
2021-2-10改訂

李清照後主詞欣賞
佘雪曼   台湾大同書局   1982年
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 この書名は李清照と李後主、二人の詞の欣賞ということ。
 李清照の項で書いたように、わたしは台湾を旅行したおり、この「李清照後主詞欣賞」を買い求めた。三分の二は李清照の解説、三分の一は李後主の解説である。
  
 李後主とは南唐の三代目の李U。後主とは二代または三代で終わった王朝の亡国の王のことで不名誉な称号である。
 著者の名の「佘」はジャ又はシャと読む。名前にしか使わない文字だ。このことは去年の雲南旅行のおりに岡崎由美さんに教わったばかり。
 繁体字で金石録後序の解説もある。読めないとはいえ、先の「新譯漱玉詞」と比べてある程度推測できるところもある。
 金石録後序には本来はなかったであろう句読点があるため、文の区切りを間違えずに済む。また解説もあるため、「新譯漱玉詞」での疑問を考えることができた。

 わたしの「李清照年表」は数え年で、「政和甲午新秋三十一歳」なら元豊7年生まれ、建中靖国元年18歳結婚としたが、この本は同じく「政和甲午新秋三十一歳」から計算し、元豊6年生まれとしている。満年齢だ。宋の時代には満年齢で数えただろうか。
 年表の紹興5年のところに、「……紹興二年」の文があるが、その紹興二年を紹興4年の間違いとしている。そしてその時満52歳であると。
 しかし、元豊6年生まれでは、紹興4年は満50歳または51歳である。
 そのあと、
 紹興13年には存命、享年は六十以上だが、死去は不明。とある。
 なお附録に、張壽林が諸説を紹介しているが、読み切れない。いまでは、日本語訳された李清照も存在するので、これは無視していいだろう。

 李後主については、いろいろ資料があり、世に知られているため、わたしのようなの門外漢には疑問の余地はない。
 日本にも優れた李U詞の解説書があり、歴史にも登場するので、日本語以外すべて苦手なわたしはこの本は参考程度。
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2020年12月27日

千両かざり

千両かざり 女細工師お凜  (2009恋細工 改題)

西條奈加   新潮文庫   2020.10

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 江戸の時代、女性では職人になりにくく、才があっても難しい。そんな不自由な時代に、女の身で錺師(かざりし)をめざすお凜が、若くして錺職人の椋屋の責任者になる。
 四代目を継いだ義理の兄が、若くしてこの世を去り、遺言により三年後に五代目を決めるという責任を背負う。
 最初にしたことは、これも四代目の言いつけで、時蔵という錺細工の天才を迎えることだった。
 時蔵は自分独特の平戸という線細工の技能で、作りたいものだけを作り、周囲の職人には溶けこまない。職人ではなく、芸術家といえるかもしれない。
 天保の改革で金銀を使う細工が禁止になる。職人たちも熱がなくなってしまう。
 お凜には、お千賀という幼馴染がいた。ここから千両かざりの注文が来る。複雑な事情があるのだが、それはともかく。
 天才細工職人時蔵と、天才鑑賞者お千賀たちに囲まれて、お凜が技を習得し天才ぶりを発揮するが、最後は切ない。
時蔵とお凜という、方向性が違う二人の天才が共鳴して、千両かざりを作る様子がすばらしい。それを評価できるお千賀という三人目の天才がいる。しかも錺細工しかできない時蔵は、自分を天才だとは思っていない。

 いろいろな錺細工の蘊蓄があちこちにある。これだけでも興味を持って読んでしまう。
 天保の改革で贅沢品は禁止され、江戸の経済が疲弊してしまい、椋屋も倒産寸前になる。今のコロナウイルス下の日本経済を思わせた。
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2020年08月14日

2050年世界人口大減少

ダリル・ブリッカー  ジョン・イビットソン (共著)   文藝春秋   2020.2.25
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2050年、人類史上初めて、世界人口が減少する。
いったん減少に転ずると、二度と増えることはない。


 名門調査会社イプソスのグローバルCEOらが、世界各国にてフィールドワークを敢行。統計に加えた貴重な証言をもとに警告する。

 国連の予測では今世紀末、地球の人口は110億に膨れ上がるとしているが、多くの人口統計学者が人口を多く見積もりすぎだと指摘している。
 国連の人口予測は誤っている。その原因は都市化であり、女性の教育である。そして、結論は2050年に世界人口が90億人近くなり、減少に転ずる。
 目次を見よう、この本の言わんとするところが見える。

序章 2050年、人類史上はじめて人口が減少する
1章 人類の歴史を人口で振り返る
2章 人口は爆発しない--マルサスとその後継者たちの誤り
3章 老いゆくヨーロッパ
4章 日本とアジア、少子高齢化への解決策はある
5章 出産の経済学
6章 アフリカの人口爆発は止まる
7章 ブラジル、出生率急減の謎
8章 移民を奪い合う日
9章 象(インド)は台頭し、ドラゴン(中国)は凋落する
10章 アメリカの世界一は、今も昔も移民のおかげだ
11章 少数民族が滅びる日
12章 カナダ、繁栄する“モザイク社会”の秘訣
13章 人口減少した2050年、世界はどうなっているか

 30年後には、世界中が今の日本のような少子高齢化社会を迎えることになる。
 農村などでは、こどもは労働力の一部であり、育てる負担が小さい。しかも家族や縁者からこどもを要求される。
 都市では、こどもは負債であり、生活を圧迫する。しかもこどもを要請されることはほとんどない。宗教的束縛も緩くなる。そして女性の教育が進めば、こどもを産む以外の道を見つけ、少子化となる。一度こうなったら、後戻りはできない。

 わたしは紹介していないが「未来の年表」という日本の未来予測の本がある。その国際版みたいな本である。
 著者は次のように社会の変化を考えている。
人工置換モデル
第1ステージ 出生率も死亡率も高い
第2ステージ 出生率は高く死亡率は低い
第3ステージ 出生率も死亡率も低い
第4ステージ 出生率は人口置換率に等しく、死亡率は低い
第5ステージ 出生率は人口置換率を下回り、平均寿命は延び続ける

 人口置換率とは、人口を維持する、出生率である。社会を維持するには2.0と考えるが、少年時の事故も含めて2.1が最低。
 各国各民族を調べて、急速に第5ステージにむかっているという。
 若者であふれかえるバンコクが、出生率1.5で人口崩壊途中である。第5ステージだ。
 ステージの変化の原因は、都市化と、女性の教育や社会進出である。女性の地位向上である。

 日本経済についても、三度の失われた10年で30年停滞しているが、その理由は生産人口の減少と同時に消費人口の減少にある。停滞は当然なのだ。それなのに経済成長をしようと躍起になっている。日本が混乱しないのは、高齢化が始まるまでに豊かになっていたこと。
 ブラジルのスラム街の現況は読んでいて驚くほど。それでもテレビドラマの女性像が見本となってこどもの数は減っている。
 著者はカナダ人で、カナダが移民受け入れで成功しているのを体感しているので、移民こそが人口減に対する最良の対策であると言うが、それも今のうち。まもなく移民を送り出す国はなくなるだろう。さらに日本は移民先としては魅力がないので、それも難しい。
 マルサスの「人口論」やローマクラブの「成長の限界」は、このままでは…という限定の理論だった。出生率の低下を読み間違えたことにある。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 人口減少の流れが止められないのであれば、その現実を素直に受け入れ、人類の知恵で乗り越えたい。
 わたしは、たとえば数百年後に世界人口が数億になるころには、人々の意識が変わってくると思うのだが甘いか。日本でいえば、国産の食料で全国民を養える程度の人数になれば、落ち着くと思う。そうなって日本国民の意識が変わることを願う。
 それまで、国が保つだろうか。
 日本は豊かというのは錯覚ではないか。多くのこどもが貧しさに苦しんでいるように思える。世界最大の借金国家でもある。
 たとえば景気がよくなると、株価は上がる。ところが安倍首相は、膨大な金をつぎ込んで、株価だけをつり上げて、景気がよくなったように見せかけている。そのための借金による、予想される未来の生活苦からも出生率の低下を招いているだろう。
 気候問題や公害問題や貧富問題も加わっている。これらが解決しないと、人口問題の解決は難しいか。
 概ね、わたしなどが普段思っている考えていることを、具体例を示して書いているようだ。
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2020年07月14日

大江戸妖美伝

2010.12.6記
2020.7.14加筆

石川英輔   講談社   09.3

 大江戸神仙伝シリーズの七作目になる。単行本は06年2月に出ている。4年も知らなかったことになる。
        ooedoyoubiden.jpg
 速見洋介はいつもの如く現代から文政年間の江戸時代にタイムスリップ。粋な芸者いな吉との、春から初夏にかけての大江戸見聞録だ。
 今回の特徴は江戸の貧しい豊かさだ。矛盾するようだが、つまり江戸時代は、とくに文政年間は江戸時代の最も豊かな時代であった。それでも現代から見れば貧しい。しかし、誰もそれを苦にしていない。当然で、みんな等しく貧しいからだ。
 特に武士の貧しさは特筆される。決まった収入が米しかないのだから、増やしようがなく、内職で生計を立てていた。
 徳川270年間、反乱らしい反乱は初期の由井正雪の乱と天草の乱くらいなもの。文政年間になれば、実戦の経験のある武士は一人もいない。江戸の警察官で司政官にあたる与力同心も二十数名。信じられないくらい小さい政府(江戸奉行所)。御家人の貧しさも相当なもの。外泊もできない生活の息苦しさで、庶民は誰も支配者階級に憧れはしない。故に270年も政府が保てたのだ。
 当時の諸外国では反乱や革命がよくあった。支配者階級の豊かさは目が眩むほどで、比べて庶民の貧しさは信じられないほど。それでは反乱や革命が起こるのは当然だ。江戸では誰も、貧しい武士階級に憧れないので、反乱が起きようがない。一部には富んでいる武士もいたにしても。
 特に江戸の生活はリサイクルが完全で、いつまでも続けられる生活であった。
 現在、一億を超える人数なのに、まだ政府は人数が増え続けることを前提に政治をしている。増え続ければいつかは崩壊することが判りきっているのに。むしろ人口減少の兆しのある今は、人口が増えないことを当然として政策を立てるべきだろう。
 わたしなど今の生活に慣れて、いまさら江戸時代の生活に戻ることはできないが、初めからそのような生活であったら、それなりに幸せであったのではないか。世界中が江戸のような生活をしていたら、多くの動乱は発生しなかったであろう。
 歴史書に書かれたことは、その時代のとんでもない出来事ばかり。「人々が何事もなく平和に幸せに暮らした」、などということはほとんど書かれない。それゆえ、江戸時代を誤解する人も多いだろう。
 ただし、今から考えれば、異常で不幸なことも、常在すれば、それは滅多に記録されないだろう。だから幸せであったとは言い切れない。主人公は、生活に心配のない当時のエリートなので、それが見えていないと思える。
 そんなことを考えさせる江戸の生活事情を、小説の形で解説した江戸の案内書だ。
 そして、大事なことを見落としはならない。決して天国ではなかったことだ。
 過密地に行けば過密を褒め、過疎地に行けば過疎を褒めるような書き方が、引っかかる。
 地方から続々と若者を引き寄せながら、多くは若くして死んでいる。平均余命も短かった。健康に活きていた訳ではない。
 参照 本当はブラックな江戸時代
 そのようなマイナス面も承知で読んで欲しい。
 杉浦日向子さんは、 うつくしく、やさしく、おろかなり−私の惚れた「江戸」 と表現している。そう、愚かなところも見つめて、その上でよいところを見たい。
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2020年06月06日

須弥山と極楽

2007.4.2 記
2020.6.6 加筆

      定方晟   講談社   昭和48年
「倶舎論」の須弥山(シュミセン)世界を解説している。宗教書ではないので、わたしのような素人にも判りやすい。
      shumisentogokuraku.jpg 

1 人間は宇宙をどうとらえたか
 古代社会では様々な世界観が考え出された。
 下の図はわたし(謫仙)がこの本を元にして書いてみた図である。
 まずこの地上世界の形だ。図の比率は不正確だが、イメージだけ。
 風輪の上に水輪が乗り、同じ太さの金輪がその上に乗る。その金輪上の表面に須弥山をはじめとする地上がある。
 金輪の一番下が金輪際である。落語などで、「金輪際いたしません」などと謝るあの金輪際である。
   (以下数字の単位はすべて由旬)



 さて、問題は円周の10の59乗である。原典は無数。これは無限大の意味ではなく、具体的な大きさを現す。
1光年が約10の13乗キロ(10兆キロ)であることを思えば、宇宙の中に入りきれないことが判る。実にバランスが悪い。おそらく考えた人は、具体的な形をイメージせず、やたらに大きい数字を並べたに違いない。
 金輪の上の表面は、たらいのような形をしている。
 中心に須弥山(しゅみせん)があり、その周りを七重の山が塀のように囲み、外側の海は塩水で、円形の鉄囲山(てっちせん)がその縁である。断面図で見ると、水面上はどの山も正方形である。



 図は大きさのバランスを無視している。
 南の贍部洲(せんぶしゅう、閻浮提(えんぶだい)ともいう)が、我々の住む世界である。
 中心付近に雪山(ヒマラヤ山脈)がある。言うまでもなく、インドの形がモデルであることが判る。三角形に近い。
 大きさは三つの長辺がそれぞれ2千由旬である。これによって諸説ある由旬の長さが推定できる。

2 仏教の地獄と天界
 地獄は「ナラカ」あるいは「奈落」といわれている。
 まず八熱地獄が贍部洲の下にある。あるというが、これは贍部洲よりはるかに大きい。
 一番下の無間地獄は特に大きく、二万由旬の立方体である。
 矛盾もあるようだが、ともかく地獄の説明はバカバカしいほどに詳しい。これは仏教ばかりではない。あとは略して、天界の話にしよう。
 上の図から判るように、須弥山は8万由旬の立方体を二つ重ねた形をしている。そして、下半分は水面下にある。水面上の部分を詳しく見る。



 仏教では、世界はこのように考えられていた。今から考えるとお笑いだが、インドではすべてこのように、数字的に整然と考える習慣があった。たとえば苦しみは四苦八苦と言うように。口伝によって伝えるときに、伝えやすいという利点がある。
 次は天界である。天は魔法の絨毯のように、須弥山の真上に浮かんでいる。そしてそこに住む有情も天という。◯◯天と言ったとき、場所か有情(神)か判断できなければ、意味を取り違えることがある。



 須弥山の頂上も天である。そこには帝釈天などが住んでいる。
 夜摩天は、つまり閻魔である。ここは死者の国であった。だが、後に閻魔は地下の国に行く(左遷かな)。死者の国が地下に移ったと考えるのか。
 有頂天まで行かなければ有頂天にはなれない。地上にいながら有頂天になる人がいるがめでたい事だ。(^_^)。
 こんな知識は、「へエー」で終わってしまうが、本を読んでいるときに必要になることがある。たとえば「百億の昼と千億の夜」など。参考にしていただければ幸いである。
 もう一つ大事な話がある。他化自在天から三層上に、大梵天があり、風輪から大梵天までを、小世界という。
小世界が千個集まって小千世界になる。(別名千世界)
小千世界が千個で中千世界(別名二千世界)
中千世界が千個集まって大千世界となる。(別名三千世界)
有頂天の広さは大千世界と同じである。
 俗謡に
   ♪三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい
という、あの三千世界である。
 風輪が1000×1000×1000個集まるのは、どのくらいの広さであろうか。想像もつかぬ。
 まるでパソコンの説明の数字を見るように二進法の世界であった。なお、数字の「0」を発見したのもインドであるといわれている。
 これでもかなり説明を端折っているのだ。説明の大きさの中に入るのかどうか、考えるのも面倒になってきた。

3 極大の世界と極微の世界
4 仏教宇宙観の底を流れるもの
5 西方浄土の思想
6 地獄はどう伝えられたか
7 仏教の宇宙観と現代
など省略するが、解脱について一言触れておく。

 輪廻という思想がインドにはある。人は死んでも生まれ変わって、生きていく。それは人に生まれるとは限らない。虫けらに産まれ、踏み潰され、他の虫や鳥に食われたりする。そうして様々な生を無限に繰り返すことを意味する。この世界も消滅生成を繰り返している。それは恐ろしいことであった。そこから逃れるのが解脱である。
 輪廻の思想を持たない日本人は、すでに解脱している。
 最近キリスト教が、人を救うと称しているが、その前に、人は罪があって罰を受けるという考え方のない日本人には、救われる必要性がない(^。^))。そこへ無理矢理キリスト教徒のやった罪を、人類全体に押しつけて、そこから救うという。
 輪廻の外にいる人を輪廻から解脱させる。罪のない人を罪から救う。日本に宗教は根付かないわけだ。だから他人の宗教心を理解できない、ともいえる。そうではなく、日本には、自分でも気づかないそれなりの宗教心がある、と言う説もある。
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2020年05月22日

宇宙叙事詩(上・下)

2007.7.24 記
2020.5.23加筆

光瀬龍 文  萩尾望都 画  早川書房   1995

 光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を萩尾望都が劇画化し、そのあとにこの作品が出た。これは二人の幻想的共作である。
 劇画というより絵本というべきであろうか。
 今までの劇画とは異なり、幼児の絵本のように、見開きの画の中に文をいれて、絵物語となっている。
  jou.jpg  ge.jpg

 この本は1995年発行の文庫版であるが、わたしは文庫になる前の本を見ている。
 もう一度読もうと思ったが、題名を思い出せない。北千住の中央図書館の係りの方に調べていただいた。
 話の内容からどうもこれらしいとなったが、庫内に見あたらない。そこで梅田の図書館に文庫本があることを調べてくれた。
 そして借り出したのが本書である。
 記憶とはかなり異なり、疑問を持ちながら読んでいたが、読み終わって間違いないと判った。記憶とはいかに曖昧なものか。
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     上
  宇宙船乗りの歌が聞こえる
  ルシアナ
  テラリアは遠く
  星と粘土板
  たそがれの楼蘭
  廃墟の旅人
  遠い決別
  ある記録

     下
  惑星アルマナ
  アヨドーヤ物語

 最後のアヨドーヤ物語が中編、それ以外は短編といってよかろう。

 青春の夢を追い求め翡翠座イオへの探検に旅立った夫を追いかけて異国の星に赴いた妻。

 凍土の平原に広がる惑星ルシアナの廃墟で探検隊員の前に夜毎に現れる謎の美少女。

 火星の東キャナル市に惑星探検の宇宙船建造を命じる地球政府。繰り返し、ついに火星の物資は底をつく。それでも作らねばならぬ火星人の苦しみ。その宇宙船が飛び立つ日、愛する男を奪われた女たちの決断は。

 心ない地球人の干渉が引き起こした、異星の悲劇。

 アトランティス王国滅亡の陰に隠されたヴァーラタ国の悲劇的終末。
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 特に「廃墟の旅人」を取りあげよう。

   天山山脈の北に不死の都があるという。
   遠いむかし、
   天から光り物が飛んできて砂漠へ落ちた。
   一人の神人があらわれ、
   近くの町に入った。
   それからその町はしあわせに満ちたという。


 その豊かな町では城門を閉じる必要もなく門の鎖は緑青をふいていた。
 王宮では王女の結婚式が行われていた。
 そこに白馬に乗って入ってきた美しい異国の娘がいた。サテンの帯に黄金の太刀をつり、五弦の月琴を背負っていた。
 式を主催する神官に言う。

……、不死の国があると聞いてやってきた。わたしは阿修羅王だ」
 神官の言葉を制して言う。
「帰って天帝につたえるがよい。生も、死の一つの象(かたち)。死もまた生のひとつの相(すがた)に過ぎない。人の情も夢も、限りある生命なればこそ。その生命が永遠ときそい合って何を得んとはするか」
 悲しみと怒りが広場を閉じた。
「この町を時の流れから切り離し、終わることのないくりかえしの中に封じこめるとは。こは永遠に似て永遠にあらず。ただ色褪せた昨日があるのみではないか」


阿修羅王は黄金の太刀をふりおろす。
一瞬にして城邑は消えた。
さえぎるもののない砂漠に……
白馬に身をゆだねた流離の娘がひとり、闇に消えていった。
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2020年05月18日

百億の昼と千億の夜

     光瀬龍   ハヤカワ文庫   1973.4

2007.4.7 記
2020.5.18 加筆
 
 わたしはこの本によって、SFに目覚めた。
 それまでも古典的な「冒険科学小説」は読んでいたが、この本はその壁を打ち破った。
       hyakuokunohiru.jpg
 日本のSFは発足当時からこれだけレベルの高い小説を提供していたのだ。
 野田昌宏さんはアメリカの初期SFを収集しているが、「ほとんどは屑だ!」と喝破した。それがレベルが高くなって読むのに耐えるようになった頃、日本のSFが始まった。そのため、助走なしにいきなりハイレベルの小説が書かれた。
 この本はその象徴と思っている。
 いま再読してみると、時代を映しているところがいくつかある。
 なお、著者は学校の理科の教師であり、科学的知識は素人ではない。
 漢語を仮名書きにしているところがある。当時、漢字制限が強く、その範囲外の漢字は使いにくかったのか。また、できる限り和語はひらがなにしている。
 コンピューターが登場するが、この記録はロッカーにパンチカードで収納されている。また、カタカナ書きである。当時は平仮名や漢字は表現できなかった。その影響か、漫画や小説では、コンピューターの言葉はカタカナで表現されることが多かった。
 ちなみにわたしが初めてコンピューターに触れたときは、入力はパンチカードであった。紙テープなども使われていた。記憶はオープンリールの磁気テープが多かった。これらは業務用である。
☆「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
 1由旬が100万光年と説明している。これは誇張しすぎ。
 現在では由旬がある程度判っていて、約7キロメートルである。人の住む世界がインド亜大陸の形をしていて、その大きさが記されていることから推測した(須弥山と極楽)。そして須弥山の高さが8万由旬である。

 さて、物語は天地創造から始まる。
 寄せてはかえし
 寄せてはかえし
 かえしては寄せる波の下で、生命は誕生し育っていった。
 そして人が誕生し、文明が発生する。
 プラトンがアトランティス王国の記録を見る。
 その都はオリハルコンで飾られていた。そして、
 大西洋に没したといわれるその王国の最後の司政官オリオナエこそプラトンであった。
 その王アトラス7世は惑星開発委員会の計画に沿って、王国の引っ越しを命ずる。だがそれは不可能であり、王国は滅亡する。

 釈迦族の王子シッダルタは4人のバラモン僧(目犍連・須菩提・摩訶迦葉・富楼那)に導かれ出家した。
富楼那(フルナ)が出家に反対する老ウッダカに説明する。
「梵天はこの長大無辺な宇宙をその手に観照する。万物流転の形相はすべて天なるものの意志、すなわち梵天王の意志である」
 そして、兜卒天に住む梵天に会いに行く。ここでは弥勒菩薩が五十六億七千万年後に衆生を救うために修行をしているはずであった。
 だがそこは荒れていてとても浄土といえるところではなかった。原因は阿修羅との戦いであった。
 シッダルタは阿修羅王との会見を望み、会見することになる。
 シッダルタと阿修羅王を逢わせたのは、世界を滅ぼそうとする四人の波羅門僧の失策であった。

 わたしはこの会見シーンをもう一度読みたくて、この本を買ったといえよう。

「悉達多(しっだるた)太子か」
 はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅(あしゅら)王か」
 少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
 少年と呼んだほうがむしろふさわしい引きしまった精悍な肉づきと、それに似つかわしい澄んだ、黒いややきついまなざしが、太子の心をとらえた。
「阿修羅王に問いたい」
 少女は、ふとかすかに眉をひそめた。その、あどけない面だちに、浮かんだものは、ひどくひたむきな心の働きと、それにふれたすべての人々を亡ぼしてしまうかと思われるようなくらい情熱だった。
「波羅門(ばらもん)の説くところ阿修羅王は宿業によって、この兜卒(とそつ)天浄土に攻め入り、帝釈天の軍勢とすでに四億年の永きにわたって戦っていると聞いた」
「そのとおりだ」少女は唄うようにいった。
「阿修羅王よ」
 少女はふたたびかすかに眉をひそめた。見入るときにわずかに眉をひそめるのが、この美しい少女のくせらしかった。少女はだまって首にかけた瓔珞(ようらく)をもてあそんだ。それは何かの骨片を銀の糸でつなぎ結んだものだった。小さな乾いた音が、木鈴の鳴るように太子の耳にとどいた。
「なに故に梵天(ぼんてん)王のしろしめすこの天上界に攻め入ったのか。そののぞむところは何か。そして阿修羅王よ。王はどこからやってきたのだ。王の棲む世界はいずこにあるのだ」
 太子は砂の上に腰をおろし、上体を真っすぐにのばして少女をにらみつけた。
 少女は少し困ったように片方のくちびるの端に微笑を浮かべた。小さなくちびるから真白な糸切歯がのぞいた。
「阿修羅王よ」
「悉達多太子!」
 とつぜん、少女の声は天地の声になった。
 どっと吹きつけてくるはげしい風の中で、少女の髪がほのほのようになびいた。少女の怒りと悲しみが目のくらむようなすさまじい火花となって散った。
「太子! 弥勒に会え! 五十六億七千万年ののちに、お前たちを救うであろうといわれるその弥勒に会え!」
 太子は思わず砂の上に身を投げた。合掌する手が自分でもぶざまなほどふるえた。


この場面は、興福寺の阿修羅像を彷彿させる。
対話はまだ続く。
この世界の荒廃は戦争が原因ではない。戦争は、この世界はなぜ荒廃するのかという、危機に対する梵天の無策に対する攻撃であった。

「梵天王は今こそ転輪王の意図を知ることだ」
・・・
「梵天王があなたの言葉を聞こうとしなかったわけは?」
「わからぬ。これだけは言えると思う」
「思考コントロールを受けている、と」
「そうだ。初めてあなたと意見が一致したようだ」
・・・


 そして弥勒に会いに行くのたが、それは単なる像であった。
 ここに救いがあると勝手に信じた人が弥勒の救いを人に語ったのであろう、という。

 エレサレムではイエスが処刑されようとしていた。イエスのうさんくささを見抜いたユダの告発によるのだったが、処刑後、暗闇となりイエスの遺体は行方不明になる。
 そして…
 3905年
 砂漠と化したトーキョーに、シッタータの記憶を持つ者・オリオナエの記憶を持つ者・アシュラの記憶を持つ者、三者が集まった。
 そこでイエスなどの地球文明を破滅させた者たちの襲撃をうける。
 この後、三人は、ナザレのイエスを追い惑星開発委員会のあるはずのアスタータ50へ行くが、そこはすでに滅んでいた。そこで弥勒=大天使ミカエル=アトラスと戦うことになる。
 そこを抜け、転輪聖王のいるアンドロメダ星雲に行く。復元できたのはアシュラ王だけであった。
 ここから世界を支配していた転輪聖王の組織はすでに崩壊していた。
 二千億光年の宇宙全体が崩壊しようとしていた。
 アシュラ王はたった一人で残される。

さて、前に書いたこと。
「兜卒天は夜摩天より16万由旬の上層に位置する。千六百億光年とでも言おうか。」
について。
 この広大な世界を(外から)管理する転輪聖王がいるところが、230万光年の距離にあるアンドロメダ星雲というのは近すぎ。そして仮に千六百億光年としても、下に書いたような、はるかに大きな世界が二千億光年の宇宙に入ることはできない。
 というわけで、1由旬が100万光年とするのは無理がある。1由旬約7キロメートルでよかった。
 ただし、当時は由旬の定説は見たことがない。またビッグバンの思想はなかったので、宇宙の大きさが二千億光年ということは問題ない。
 なお、結論が判りにくいが、仏教の宇宙論ではこの宇宙そのものが、滅んでは再生を繰り返している。その一回分(1大劫)の物語と考えたい。

参考
地上〜須弥山頂上        8万由旬
地上〜兜卒天         32万由旬
地上〜色究竟天 1677億7216万由旬


 天とは場所のことと同時にそこに住む者も表します。
 色究竟天は有頂天ともいいます。なかなか有頂天にはなれませんハイ。
 最後の数字はパソコンのプリンターの説明で見たことがあるような……。いま、インドのソフト技術が力を得ているが、こんな昔から二進法の数字の考え方を操っていたんだな、と妙に感心する。続きを読む
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2020年03月26日

楽園の真下

楽園の真下
荻原 浩   文藝春秋   2019.9

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 どんな生物も繁栄しようとしている。遺伝子を世界中に広げようと格闘している。
 考えるまでもなく、人類だって増えようと一所懸命だ。食料の安定供給ばかりでなく、病原菌やウイルスなども役に立つのは利用し、害する者は駆除しようとする。生態系を壊してまで、独占しようとする。そしてついには戦争という共食いをしてまで、子孫を増やそうとする。
 この本はそんな生物の姿を象徴するような話である。わたしにはホラーのように思えた。初期のSFにこのような話がなかったか。
 ちょうど今、コロナウイルスの蔓延で、世界中が大騒ぎしている。感染地域の拡大。感染者が爆発的に増え、死者も多い。それが原因で一定地域を封じ込め、あちこちの国で鎖国状態になっている。
 コロナウイルスにとっては、遺伝子の拡大に大成功したといえよう。しかし、このやり方は人類を敵にし、いずれ滅びることになろう。

「日本で一番天国に近い島」と言われた亜熱帯の孤島である志手島。人口は約二千八百人。昔は流人の島であり、今は海洋観光を中心とする島である。
 ここで奇妙な現象が起こっていた。入水自殺者の増加である。そして17pもある巨大なカマキリが見つかった。
 その記事を書こうとして、志手島へ渡ったフリーライター藤間は、島で野生生物を研究している女性准教授の秋村と調査を始めた。

 秋村は生物の不思議な話をする。寄生して宿主の脳まで乗っ取ってしまう例のいくつか。乗っ取られた宿主は、寄生した生物のために、嫌いな水場に近づいて水の中に入って死ぬ例など。
 生物の絶滅を危惧し保護するのも、増えすぎたといって駆除するのも人間のエゴ。

 調査が進むと、驚愕の事実が判明するのだが、単なるフィクションとは思えないリアルな恐ろしさがある。こういうプロットのSFは好みだが、このストーリーは敬遠してしまう。
 人ほどもある巨大なカマキリが登場する。食物の乏しいこの島では、巨大カマキリの餌は少ない。結局共食いで成長することになる。
 ラスト近くで巨大カマキリとの格闘が延々と続く。しかし真の敵は巨大カマキリではなかった。
 結局この島は封鎖され、精密検査を受けて安全が確認された人だけが、島を出ることを許された。
 コロナウイルスの感染者と同じように。
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2020年03月09日

「ニセ医学」に騙されないために

「ニセ医学」に騙されないために 新装版

名取宏   内外出版社   2018.11
    科学的根拠をもとに解説

同じ本の新装版である。
著者名をハンドルネームNATOROMU からペンネーム名取宏に変更した。
出版社も変えている。
 前に紹介した、 医師が教える最善の健康法 でも、次の考え方で一貫している。
 現代の標準医療が絶対に正しい保証はない。何十年か経ったとき、間違いを指摘されるかもしれない。しかし、現段階では、「世界が認めた 論文に基づく 科学的根拠あり」が最善と考えられるのだ。

 前回読んで、書き残したことを追加する。
 がんの痛みに対してモルヒネを使って、痛みを和らげるが、ある医者は、モルヒネを使うと「リンパ球がすべて破壊される」と主張して、モルヒネ使用に反対している。しかし、医学的な根拠は一切示していない。リンパ球がすべて破壊された例はない。
 さらにがんの痛みは治癒反応だと主張し、死ぬ気で一週間痛みを我慢すればガンは消えると主張している。
(要約している)
 これだけで、わたしでもニセと判る。むかしモルヒネなどがなかった時、みんな痛みを我慢していたのだ。しかし、がんは消えない。治っていないのだ。

 あるがん患者の話、がんと診断されたが、気功師が「医者なんかに任せていたら殺される」といわれ、信じてしまった。気功でがんが治るといわれた。ところがだんだん痛くなる。我慢できなくなって、気功師に連絡したところ、「病院に行け」と言われた。
 こんなニセ医学が結構流行っているのだ。
 著者とて全てに通暁しているわけではない。ニセ医学に対する、姿勢・考え方の解説だ。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「ニセ医学」に騙されないために
メタモル出版   NATROM   2014.6
    危険な反医療論や治療法、健康法から身を守る!

「ニセ医学」とは、医学に見せかけておきながら、実は医学的な根拠がまったくない医学のことをいう。
 ちまたに氾濫する「ナントカ健康法」、わたしでも一目で偽物と判るのがほとんどで、読む気がしない。わたしのブログでは、半信半疑というか、ほとんど信じがたいがどうだろうか、という本を何冊か紹介してある。
 そんなふうにおかしいと疑問を持ったら、確認するために調べるが、頭から信じてしまったら、いかに反論しても受け付けなくなる。
 また健康なときなら冷静に判断できても、苦しいときには藁をもすがる思いで試してみたりする。
 そんな人に対するアドバイスやニセ医学に対する反論をあげている。

 臨床の現場では、医療制度や医療機関の事情、製薬会社の思惑、個々の医師の能力不足により、必ずしも医学的に正しい診療が行われないこともある。
 ときどき、論文の誤りが報じられることがある。だからといって医療を頭から信用しないのはもっと問題なのだ。
 医療者に認められていない治療方法は疑え、というのが中心で、偶然うまくいった治療法を勧める例に用心しろといっている。
 標準治療を否定して「これだけで治る」と謳ってるものは、冷静な時なら疑える。
 何でも効く薬はあり得ないので注意したい。一部にしか効かない、では市場が狭く儲からないので何でも効くようにいう。
 ガンは治療するな? 病院の出産は不自然? 気功でガンが消える? こんな一度は聞いたことがあるような内容から、わたしのような素人では聞いたこともないような話まで、けっこう判りやすくなぜニセなのか説明している。
 
 そんなこんなのニセ医療を見分けるトレーニングになるだろう。健康なうちに読んでおきたい。
 健康なら「ニセ医学」への懐疑心を持てるし、科学的なものの見方ができる。
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2020年03月07日

未来職安

未来職安
柞刈湯葉(いすかりゆば)   双葉社   2018.7

 毛色の変わった近未来小説だ。
 間違っても、未来をこんなに楽観できないが、それができたと仮定したSFだ。
 平成より少し先の未来。といっても、主人公の女性はこの社会で生まれて、26年かたっているので、……いつなんだ。

 日本国民の99%が働かない消費者、1%がエリートの生産者という不思議な世界。
つまり、生産などが無人自動化され、ほとんどの人が働かなくてよい社会だ。
 生活基本金が支給され、ギリギリの生活ならできる。1%の人は働いて収入があるが、基本的に労働の必要はない。しかし、豊かな生活ができるので、希望者は生産者になる。
 主人公は、ひとりの人がいるだけの私設職安に就職するが、ほとんど仕事らしい仕事はない。
 紹介する仕事と言えば、一例をあげると「監視カメラに映るだけの仕事」、これがなぜ仕事かと言えば、監視カメラに写ると、プライバシー保護のためにその映像を使うことができなくなるため。などと、仕事といえるかどうか微妙な仕事ばかり。
 未来の仕事コメディと言うべき小説である。世界観や小ネタを楽しむ。小ネタがけっこうリアルなんだ。(^_^)
 鋭い推理や緊張感などを期待してはいけない。

 わたし的には、舞台設定の近未来が引っかかった。世界が全てが順調にいったとしても、そんな世界が近未来にできるはずがない。
 たまたま、同時に「未来の年表」を読んでいた。このまま無策でいった結果の、近未来の日本の悲惨な様子を克明に描いている。ちょうどその時代なので、あまりに能天気な話に思えた。
 遠未来のおとぎ話にすればよかったかな。それにしては社会や生活にリアル感がある。
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2020年01月30日

不便で素敵な江戸の町

不便で素敵な江戸の町

永井義男   柏書房   2018.5

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 まえに 本当はブラックな江戸時代  を紹介したが、著者はそれでも、素敵な江戸の町として、江戸を紹介している。
 現代人が江戸時代にタイムスリップすると、どういうことになるかという、実験的な小説である。元大学教授と若い編集者が見聞する江戸の暮らしぶりには、戸惑いや感激が多くある。数日の江戸行きにそれなりの準備をして行く。
 少し都合がよすぎると思うが、それを現実的に書くと一冊に収まらなくなりそう。
 石川英輔氏の大江戸神仙伝シリーズはよいところを中心に紹介しているが、こちらは即物的リアリズム、直面する悪いところが目立つ。
 江戸の塵芥・し尿処理にかんする小汚さや臭さの描写などは、石川氏の本にはほとんどない。
 この辺りは著者の年齢が原因かな。石川氏は江戸的な戦前を体験しているのだ。抵抗感が比較すると少ない。
 各所に江戸の絵が出てくるが、小さくてわかりにくい。しかし、絵の説明とその蘊蓄はいい。その蘊蓄がこの本の中心で、登場人物は狂言回しのようなものであるから。
 いままで江戸時代はそれなりに理想化されていたが、現代人がいきなり江戸時代に行ったら、とても生きていけないだろう。
 それでも昔、つまり平安時代などと比べたら、かなりよくなっているはず。そんなことも思わせる。だから準備をして不便なりに工夫すれば、なんとか暮らせる「素敵な江戸の町」なのだ。
 現代が医学が発達し、江戸以前とは比べものにならない。ドラッグストアの薬があれば、それだけで名医になれる。
 自然の中のキャンプのようなものであろう。数日なら楽しいが、一生ではわたしなどとても耐えられない。
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2020年01月23日

医師が教える最善の健康法

医師が教える最善の健康法
世界が認めた 論文に基づく 科学的根拠あり

名取宏   内外出版社   2019.6

 医療の世界は、素人にはわかりにくい。それでニセ医療が流行る。
 著者は、そのような事例を取り上げ、「真実はこうと思える」医療を取り上げている。
 「真実はこうと思える」とは、「世界が認めた 論文に基づく 科学的根拠あり」ということである。これとて、絶対に正しい保証はない。何十年か経ったとき、間違いを指摘されるかもしれない。しかし、現段階では、「世界が認めた 論文に基づく 科学的根拠あり」が最善と考えられるのだ。

 テレビや雑誌で紹介される健康法の多くは、世界が認めていなくて、信用できる論文がなく、従って科学的根拠がない。健康本でも、そのようなものが多い。
 この本はきちんと根拠を示して、健康法を説いている。
 エビデンスという言葉がある。科学的根拠の意味であるが、エビデンスといわれて、すくに意味が判る人は少数ではないか。これからは増えてくるだろう。

 さて、全体的にはそうなのだが、個々の事例では必ずしも正しいとは限らない例がある。そのような例があることを認めた上で、それを一般例にすることを否定している。それはあくまでも例外なのだ。
 投薬するのも、副作用を承知の上で、利があると考える。絶対に安全とは思っていない。

「昔は食べ物もロクになかったし、ワクチンや抗菌薬もなかった。でも健康に活きていた」という人もいる。
 だが昔は大勢のこどもが死んでいる。平均余命も短かった。健康に活きていた訳ではない。
 糖質制限食にはリスクがある。「糖質制限食が様々な病気を予防する」という主張に臨床的な証拠はほとんどない。という。

 当ブログ主食をやめると健康になる
 その本で、わたしが疑問に思ったこと
 なぜ糖質制限なのかについては、農耕以前は肉食系であったろうという。
 チンパンジー・ゴリラ・オランウータンなど、類人猿が草食系であることを考えると、説得力に乏しいが、人類だけが例外ということもあるし、数百万年のうちに変わったとも考えられる。
 糖質食は農耕が始まってからで、まだ一万年ほど。人類の身体はまだ糖質食に合っていない、というのは説得力があるが、一万年では絶対変わらないともいえない。
 昔は肉食なので寿命が短かった。現代は糖質食なったので寿命が延びた。ともいえるではないか。


 糖質制限食に対して、本書の名取宏氏は
現代は、歴史上で最も平均寿命が長い時代です。現代の食事が最適とは限りませんが、そこからあまりにも外れた食事はリスクが高いと私は考えます
 わたしなど、この意見に賛同する。

 たまたま成功した一例をもって、標準治療を否定してはならない。たまたま成功した一例も本当にそうなのか、ここでも科学的根拠が必要なのだ。

 この本では、これが絶対だというような強い主張はない。これこれで根拠がありません。と言う話が多い。
 確実なことだけに限定すると、このくらいのことしかいえない。しかし、無駄な健康法をやらないですむだろう。
posted by たくせん(謫仙) at 10:00| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

白魔のクリスマス

薬師寺涼子の怪奇事件簿
田中芳樹   祥伝社   2018.12

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 相変わらずの毒舌が健在だ。
 新潟の水沢市に、国家戦略特区があり、大金が投入され、できたのはなんとカジノだった。
クリスマスに開所式典を開く予定なのに、大地震が起こり、雪崩も起こり、施設が破壊する。吹雪になり、一万五千人が雪に閉ざされる。吹雪の合間に、土部首相は各国の大使を置き去りにして、ヘリでアメリカ大使と逃げ出す。もちろん停電である。外へ出ることは論外。
 そこへ熊形の雪の怪物が現れ、強盗も現れ、パニックになる。
 いつものごとく、お涼と泉田のコンビは、お由紀たちと一緒に解決する。
 お涼パワーが炸裂し、お由紀は対立しているようでいて、大人の対応で協力する。
 土部首相が、アメリカのカジノ資本のために大金を投じて、オトモダチと一緒にそのおこぼれを貰おうとして、国費を損耗している。しかし、地元の警察などの活動など読んでいると、まだまだ日本の底力はそれほど落ちていないと思える。

 ただ解決編があっけない。この程度のことで、あの大騒動が起きたのかという、物足りなさがある。
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2020年01月13日

ダーティペアの大跳躍

ダーティペアの大跳躍
高千穂遙   早川書房   2018.12

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 11年ぶりのシリーズ8作目。
 銀河系最強最大の広域犯罪組織ルーシファの一味を追い詰めたケイとユリが、爆発に巻き込まれ異世界に入ってしまった。知らない星域ではなく異世界。
 そこでも似たような組織があって、従来のように事件が起こり、解決する(?)。
 しかし、今回はふたりともあまり活躍していない。敵方もあまり組織が整っているようには見えないし、ふたりがいなくても、なんとかなったような気がする。
 事件解決より、異世界から戻ってくることが、心を占めているような感じた。
 いままでは、最後にやむを得ず、その星を滅ぼしてしまうのだが、今回は「やむを得ず」的な感じがしない。
 美女が暴れて、人がゴロゴロ死んでゆく。これが必然だったか。そんな疑問がよぎる。そうなると、爽快感がいまひとつ。

 わたしは登場する人物や組織や怪物などのネーミングが引っかかった。読みにくい、覚えにくい。ボボアダク・ドビビータル・ジャババーガ・バププロア、などなど。そのため名前とならず、記号になってしまう。
 今回の紹介文は辛め。おもしろかったンですけど。
posted by たくせん(謫仙) at 12:38| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月04日

残業税 マルザの憂鬱

残業税 マルザの憂鬱
小前 亮   光文社   2019.3

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 ブラック企業と残業税調査官の頭脳戦といいたいが、今回の中心のテーマは、悪徳法律事務所に勤務する元マルザや、私学の先生、大學の研究者など、一見残業としては首をかしげるような、例外にしたいような職種の残業問題だ。

介護職に就く夏目健人は元フリーター。最悪の労働条件だった会社が大手に買収されて待遇も向上し、ほどほどに満足して働いていたのだが……。残業すればするほど税金が増える「時間外労働税」が導入された社会。介護や教育など、長時間労働の現場で働く人々に起こる様々な事件と、彼らのために奮闘する残業税調査官たちの活躍を描く、話題のお仕事ミステリー第三弾!

 従業員を下請化して長時間労働を強いるブラック企業。
 大学の研究室で、研究の中心人物が、報告書や残業管理に追われて、研究に没頭できない。優秀な助手に過大な負担を強いる結果となる。
 連作短編の形をとっている。だから、主人公は誰か、という問題がここでもある。
 わたしは主人公のはっきりした、視点の定まっている話が好きだ。主人公は残業税でも、その視点であればよい。
 話ごとに主人公が変わっていると落ち着かない。
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2019年12月29日

残業税 マルザ殺人事件

残業税 マルザ殺人事件
小前亮   光文社   2017.8

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 残業税の続編である。たたし、主人公などは変わっている。
 残業税調査官が北軽井沢で死体で発見された。「残業税には欠陥がある」という言葉を残して。
 国税局の大場莉英に上司から調査の命令が下る。
 このあと、県警・警視庁・国税庁が、それぞれの立場から調査を行う。全面的に協力というわけではない。大場莉英などの行動が捜査の邪魔と考えることもある警視庁。
 大場莉英の比率が小さく、誰が主人公か判らなくなりそう。もう少し視点を定めて欲しい。少なくとも、大場莉英の視点を多くして主人公と判るように。
 砧が莉英に言う。
「私たちの目的は、脱税を取り締まることじゃない。適正な課税をおこなうことなの」
 目的と手段を取り違えると、脱税を見つけて多額の追徴を獲った人が偉いと思ってしまう。脱税者がいなくなるようにするのが仕事なのだ。

 前作で働き方改革を話題にしたが、少しづつでも進歩しているのだろうか。
 中心が殺人事件捜査になったので、私的には減点。小説のできは良いと思える。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
追記
 ある書評で、次のように言う人がいた。
 こういう「働かせない」社会ってつまらないだろうな。気持ちが元気だと働けるもの。まぁ、限度はあるだろうけど。働きたい人には働かせて、収入や待遇に区別つけてくれればいいのに。

 多くの人がこう思っているだろうな。わたしも趣旨は賛成だが、内容が問題。
まぁ、限度はあるだろうけど。
 そう、その限度が最長8時間なのだ。だから残業は限度超過なのだ。

働きたい人には働かせて、
 そうなると、残業をしたくない人にも強制するのが問題なのだ。

収入や待遇に区別つけてくれればいいのに。
 小説では名目だけ役職者にして、残業代を払わずにすます企業が、問題になっている。事実上残業が強制になる。その事実上強制を防ぐためだ。
 また、収入で区別しているようで、他のことでも差別することになる。残業代だけで終わる企業はない。
 目的は、長時間働かせてはいけない、のだ。働いてはいけないのではない。
 だから、長時間働きたい人は起業すればいいのだ。起業すれば仕事はいくらでもある。それならいくら働いてもかまわない。起業すれば、わずかの収入でいくら働いても、社会は許す。家族は……
 この小説は、形だけの起業で実態は従業員、も見つめている。

     人を雇用するときの制限 

が、一日8時間なのだ。ここを勘違いしてはいけない。
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残業税

2017.12.2記
小前 亮   光文社   2015.8

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 残業は犯罪である。
 このことをわたしは当然だと思うのだが、多くの人は「そんな馬鹿な…」と思うのではあるまいか。
 三六協定という、使用者と従業員の契約があった場合、使用者は罰を免れる。従業員に残業をさせる企業(使用者)は、その協定を監督署に届け出ているのだが、ほとんどの従業員はその協定を知らず、協定書に署名捺印した従業員の代表でさえ、その内容を詳しくは知らないのが普通である。
 この小説は、労働者を守るためにその残業に税金を賦課する。残業すると労使共に税金を払う必要がある法律が施行され、働き方が変わって行く。もちろんサービス残業は犯罪である。
 税を免れようと企業(使用者)はあの手この手で脱税を企む。脱税を防ごうとする残業税調査官と企業の戦いである。
 主人公の残業税調査官の相棒は、機密的な内容でも人前で大声で話す無神経な人物。読んでいてやりきれなかった。

 この中で、ある女性は形だけの管理者になるが、税金逃れのためであり、実質は毎月200時間もの残業に苦しめられ、ついに他殺に近い自殺をしてしまう。
 毎月200時間残業。わたしはこのような企業を知っている。賞与もかなり出ていた。実体は残業代を一部しか支払わず、残りをまとめて賞与として出していたに過ぎない。
 この小説ではさらに悪質で、税理士の指導のもと、労働者に夢を与えて、そのためならサービス残業も仕方ない、と思うように教育する経営者。公的には残業時間が判らないようにしてあるのだ。
 経営者(容疑者でもある)の世論操作で世論に叩かれながらも、働く人を守るべく奔走する調査官。ついに真相が明かされると、世論は一斉に経営者を叩く。
 労働者の教育と、権利意識を高めなければ、この戦いは永遠に続きそうだ。

 いま国会で働き方改革の議論をしているが、それを先取りしたような話だった。
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2019年12月27日

本当はブラックな江戸時代

本当はブラックな江戸時代
永井義男   辰巳出版   2016.11

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 かなり前だが、あるグループで、江戸から明治になり、生活は却って苦しくなった、社会は悪くなったという人が多かった。わたしは、かなりよくなったと思うと言ったのだが、賛同者はいなかった。
 多くは時代劇の影響であろう。杉浦日向子さんは、「お江戸でござる」でよい部分を多く取り上げていたので、その影響があったのかもしれない。
 だが、いろいろ考えてみると、明治時代の方がいいことがほとんどであると思える。
 たとえば犯罪だが、江戸は犯罪の少ない町のように言われているが、本当は多かった。ただ南北の奉行所が受け付けなくて、あるいは町民が届けず、自分たちで処理したため、公の記録に残らず、少なくみえるのが実情らしい。
 現在でも、ある権力者は、いくつかの犯罪の証拠をもみ消そうとしているように思える。報告の受け取りを拒否して、無かったことにした権力者もいる。
 指摘されて、急いで書類をシュレッダーにかけて、書類は無かったことにしている人もいる。
 江戸の犯罪も、そうして無かったことになっている例が多いらしい。

 この本はそんな江戸の錯覚されている部分に焦点を当てている。
 目次を見よう。
第一章 江戸はブラック企業だらけ
第二章 安全ではなかった江戸の町
第三章 食の安全・安心などはなかった
第四章 きたくて残酷だった江戸の町
第五章 高い識字率のまやかし

 企業の休日は年2日だけであり、藪入りという。
 大店では関西の本店で採用され、江戸に来て、9年目でやっと休暇が出て家に帰れる、初のぼりという。
 奉公している間は結婚できない。独立出来るころは四十代になっていよう。
 店の主人の言うことは絶対であり、そして多くの人は若いうちに死んでいる。
 他に就職先がないからである。失職すると乞食になることが多い。
 女性なら吉原などに売られ、ほとんどは若いうちに死んでいる。
 
 現在、田舎には病院が少ないが、病人が少ないのではない。
 江戸町奉行所の警備役も24人しかおかず、犯罪が頻発すると、「自分たちで犯人を捕まえろ、殺しても構わない。結果を届け出よ」という通達を出すだけ。
 だから24人で済んだのは、犯罪が少ないのではなく、警備をしなかっただけなのだ。

 食べ物にしても、旬の食べ物を…と言うが、それしかなかったのだ。そして、米だけでおかずはほとんどない。魚など庶民の手に入る頃には腐り始める。

 トイレは汲み取り式であり、夏など強烈な匂いがしたであろう。ゴミも収集されたようだが、それまでに生ものは腐り始める。運河はゴミで埋まって、舟が通れなくなるほど。もちろん水は汚れている。

 識字率が高かったというが本当か。豊かな家や商人は文字を習ったが、多くはせいぜいひらがなカタカナくらいである。10歳を過ぎれば仕事に就くので、学ぶのはその前の2〜3年である。しかも下級武士社会の教養もこの程度であった。
 一部を除けばそれほど高くはない。それでも外国と比べるとましではあるが。

 江戸時代は社会的弱者には冷酷だった。
 これらの原因はほとんどが「貧しさ」からきている。衣食住が最低限でなんとか生きていた。
 トイレ事情とか、識字率とか、外国の庶民と比べると良いようでも、全体的には威張れるほどではない。
 蟻地獄のごとく、全国から若者を吸い上げながら、多くは独り身のまま、老いる前に死んでしまう。
 過去の時代だから劣悪は当然で、「江戸はユートピアではない」ということ。
 現在、日本の教育は劣化していて、先進国では最低と言われている。もはや先進国ではない、という人もいる。この本に書かれていることは、現在も一部分当てはまるかもしれない。
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2019年12月18日

白銀の墟 玄の月

十二国記シリーズ  白銀の墟(おか) 玄(くろ)の月
小野不由美   新潮社   2019.11

     19.12.18.1.jpg 
 十二国記シリーズの18年ぶりの長編新作。途中2013年に短編集「丕緒の鳥」がある。
 全4巻で2巻くらいかけて長々と伏線を張るので、なかなか話が進まない。しかもこの間、厳しい戴国(たいこく)の説明が続く。
 驍宗(ぎょうそう)が登極から半年で消息を絶ち、泰麒(たいき)も姿を消した。偽王がたつ。王不在から六年の歳月、人々は極寒と貧しさを凌ぎ生きた。
 白雉(はくち)は落ちていない。つまり王はどこかで生存しているはず。
 片腕の女将軍、李斎は国王(驍宗)を探し続けていた。
 そして、この荒廃した戴国に泰麒が戻ってくる。そして行方不明の王が見つかり、国の復興を目指すまで。これから偽王との戦いだ。
 この間の李斎将軍やその協力者の苦労の物語。暗い話が続き、やっと希望が見えて、本題に入ったなと思うところで終わりである。
 大勢の登場人物も難しい名前で誰が誰だか判らない状態。そして多くの人がほとんど報われない非業の死を遂げる。なんともやりきれない。この世界の舞台設定からそうなるらしい。一気に読みたくなる爽快感や高揚感がない。
 本筋からずれた、枝葉や末節にページを割きすぎていると思う。
 歴史とはそんなものかもしれない。しかし本来このシリーズは、こんな重苦しい話では無かったはず。大変な苦労があるが、それを乗り越えて、こんなによい国になりました、となるファンタジーのはず。

 難しい漢字を使い、無理矢理読ます。これは相変わらず。
「墟」の字の読みも、キョ あと であり、意味は「おか」だから、「おか」という読み方もあるのだろう。
「践祚」と言う言葉が何度も出てくる。「せんそ」とかなを振ったり、「そくい」とかなを振ったりする。「そくい」なら即位でよくないか。だから、践祚だけだと「せんそ」なのか「そくい」なのか判らない。
(ちなみに今上天皇は、践祚と即位を区別せず、2019年5月1日を即位の日とするらしい。10月22日に即位の礼を行っているので、この日が即位の日ではないかと思うが。
 昭和天皇は、践祚が昭和元年12月25日、即位は昭和3年11月10日、と別の日としている)
 これが最終になるらしい。この後短編集を予定しているという。

 なお、シリーズの過去に書いた文を読み返し、訂正もしている。
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