2019年12月18日

丕緒の鳥

十二国記 丕緒(ひしょ)の鳥
小野不由美   新潮社   2013.7.1
2013.7.21記

 この本は十二国記シリーズの12年ぶりの新刊である。
 わたしは2008〜2009年にかけてシリーズをまとめて読んだので、12年ぶりの実感はないが、古くからのファンは待ち遠しかったであろう。
 王や麒麟の話ではなく、一官吏の希望を書いた4編の短編集である。
 表題作は、陽子が慶国に新王として登極したときの、即位の礼で行われる「大射(たいしゃ)」の話。大射とは鵲(かささぎ)に見立てた陶製の的を射る儀式。自分の希望を託して、その的を作る男の苦悩。

「落照の獄」は、衰えていく柳国で、いわゆる極悪人が誕生した。これは国の衰えを意味するが、民はこれまで途絶えていた死刑を要求する。
 死刑がなかった国で死刑にすれば、国の衰えを加速させる。これがこの世界の摂理だ。一度死刑にすると、同じような悪人が出れば死刑にすることになろう。しかも防犯の効果はない。しかし、死刑にしなければ、国の衰えを止めることができるのか。民の要求に応えられないことも衰えを加速させないか。そうして担当官が悩み果てる。

「青条の蘭」は、山のブナが枯れていく。これを防ぐために、標仲は何年もかかって調べ、青条の蘭が防ぐことを知り、王宮に届けようとする。結局途中で倒れて、庶民に託すことになる。
 国土が荒廃していくのに、ブナの枯れ木(石化する)で金儲けができると喜ぶ人がいる。
 福島の原発事故を思わせた。

「風信」では荒れた国で、暦作りをしている、一見浮き世離れをした男たち。どんなに荒れた国でも、農民は食糧を作らねばならない。そのためにも暦は必要なのだ。燕の雛が増えていることで、復興する未来を予測する。

 四編全て、己の役割を全うすべく煩悶し苦しんで一途に生きる男を描く。
 驚くのはディテールの描写で納得させられること。それが緊張感をもたらす。
 わたしの好きな金庸小説では、「大勢の男が山の中で武術の訓練をしていますが、どうして生活しているのですか」「それは訊かない約束です」
 ことが起こればそれはあちこちに波及する。十二国記では、その波及を考えて登場人物が苦悩しているのだ。訊かない約束などなく、それこそ語りたいところ。
 十二国という大きな嘘を成り立たせるのは、ディテールの描写で納得させることなのだ。
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華胥の幽夢

   十二国記 華胥の幽夢(かしょのゆめ)
   小野不由美   講談社   01.9
2008.11.19記

 十二国記シリーズの中編集である。
 いつもの長編とは違うが、それぞれに珠玉の味わいがある。
     kashonoyume.jpg

 表題の華胥の幽夢は、王が善政を敷こうと試みるが、人間洞察力がないため、却って悪政になってしまう話だ。
 たとえば減税。減税は庶民にとっていいことのようだが、国を維持する費用も事欠き、国が荒れてしまう。
 悪徳高官を一気に辞めさせたが、それに連なる官吏がそろって辞めてしまい、国の機能が麻痺し、仕方なく復職させることになる。悪徳高官を王が認めたことになってしまい、庶民に怨嗟の声が起こる。
 犯罪は厳罰だが、それが高じて、些細なことでも死罪にするようになり、暴君と同じことになる。
 王は「華胥の夢」を信じてその路線を進むが、どうやらそれは、その路線を進む先の「理想の国」ではなく、「こうなって欲しいと思う国」で、現実はますます理想から乖離していく。
 結局滅びることになる。

 新興の戴国の台麒(麒麟)はまだこどもであった。南の漣国に使いにいくが、その漣の王は普通の農民であった。仕事は農業、王はお役目。仕事は自分で選び、王は天に命じられてする。そして自分の生活費は農作業で稼ぎ、公務は国の税で行うという人だった。農作業をしているときに、台麒と初対面の会話をする。その廉麟(漣の麒麟)は台麒のお供にまで自ら給仕する美少女だった。
 そして、台麒は何もできないような自分が仕事をしていることを悟る。
 このような話が五編。

 このように国により全く事情が異なる。いままで紹介した長編の諸国も、国や王のありようがあっと驚くほど違う。それでいながら全体が統一されている。わたしは、この全体が整合性を持っていることを高く評価する。
posted by たくせん(謫仙) at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

黄昏の岸 暁の天

  十二国記シリーズ  黄昏(たそがれ)の岸 暁の天(そら)
小野不由美   講談社
2009.1.14 記
   
 この本はこのシリーズの初め、「月の影 影の海」の次に読んだ。だが、紹介文も書かないままだった。再読してみると、今までに紹介した物語の後に来る話であった。
 再読して、その宗教問答の深さに気が付く。
 それは唐突として出てきたわけではない。シリーズ全体にその哲学が流れている。普通シリーズものだと、その回だけの設定でもっともらしくなるが、別な回では別な哲学で矛盾することが多い。長くなると人格まで変わったりすることもある。
 このシリーズは一貫している。そこに作者の力量が伺えるのだ。
 載の国に新王がたち、幼い泰麒が泰王に従った。だが二人とも行方不明となる。そこからこの物語が始まる。

    tasogarenokishi.jpg

 戴の女将軍李斎が慶の国に援助を求めて駆け込んだ。利き腕の右手を失い命も危うい状態であった。
 李斎の話で、戴の様子が判った。
 泰王が登極して半年後、地方に反乱が起こり、泰王が親征し行方不明となる。その知らせに衝撃を受けた泰麒は突然姿を消した。だが白雉が鳴かないので、王は生存している。
 そして前泰王の時代に、現泰王の同僚であった阿選が偽王となる。王と麒麟がいない戴は荒れていく。そして阿選はそれに輪をかける人物だった。不穏な動きがあると、捜索などせず、その村を全滅してしまう。そうして民が減っていき国は荒れていった。もともと戴は北の国、一冬毎に村が減って行く。
 国を救うには王と麒麟の帰還が必要であった。そのために残された臣には手段が無かった。それで李斎は慶の陽子に助けを求めたのであった。
 だが、景王陽子が軍を起こせば、慶が滅ぶ。それがこの世界の理(ことわり)である。しかも慶も建国したばかりで余力はない。
 陽子は、各国に呼びかけた。雁の延王と延麒、範の氾王と氾麟、漣の廉麟が駆けつけて、戴の泰麒を探すことになる。範の鴻溶鏡と漣の呉鋼環蛇などを使って、なんとか探し出す。
 その途中で、陽子たちは前例のないことをやろうとするとき、蓬山の璧霞玄君玉葉に判断を仰ぎに行く。
 この世は天が定めた。世界は天の定めた理を持つ。その窓口が玄君であった。

 李斎の言葉 …は省略
「…玄君を介して天の意向を問う、ということですか」
「では、天はあるのですか」
「では、天はどうして戴をお見捨てになったのです?」
「…天の神々がおられるなら、なぜもっと早く戴を…助けてはくださらないのですか」
「…だから、わたしは罪を承知で景王をお訪ねしたのです」
 陽子や李斎たちは雲海を越えて行く。四日で蓬山に着いた。
 そして蓬山に行くと、玄君は知っていた。
「…ならば戴で何が起こったか、それだってご存じだったはずだ」
 そんな力があるのなら、次の王を定めるのに、なぜ二ヶ月もの、死に直面する苦労して蓬山に昇山させるのか。天意を諮るためなら、雲海を越えて来ればいいのではないか。事前に決まっているのなら、昇山の必要もないはず。現に陽子は昇山していない。昇山の途中で死んだ者たちは、なんのために死ぬ必要があるのか?

 陽子は言った。いま分かったことがあると。
「もしも天があるなら、それは無謬ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、過ちを犯すであろう」
「だが天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであるならば、必ず過ちを犯す」
「人は自らを救うしかない、ということなんだ」

 玄君は泰麒を救う方法を教え、「天にも理があり、これを動かすことはできない。是非を問うても始まらない…」と諭す。

 この問答、まさに宗教問答ではないか。おそらくヘブライクリスト教の教徒はこれを認めないだろう。だが仏教徒ならよく判るのではないか。

 そこまでして、泰麒を探し出したが、泰麒は無力であった。李斎はいつの間にか戴を救うのではなく、泰麒を救うことが目的になってしまっていて、それが自分を救うことであることを知る。
 泰麒を救うため、また蓬山に行くが玄君でも救えないため、西王母にすがることになる。
 玄君は美人なのに、この西王母は凡庸な顔立ちだった。
 西王母と李斎の会話。
泰麒は「…もはやなんの働きもできぬ」
「それでも−必要なのです」
「なんのために?」
「戴が救われるために」
「なぜ、お前は戴の救済を願う」
 李斎は言葉につまる。親族をはじめ友人知人はほとんど死に絶えた。
 この根本的な問題は、誰も答えようがない。答えがないのだ。

 泰麒が回復した後、李斎と泰麒は皆に感謝しながら、ひっそりと戴へ向かう。

 読み返すだけの価値のある本だった。
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図南の翼

小野不由美   講談社
2008.10.15 記

 十二国記の何作目に当たるのだろうか。四百二十頁あるので少し厚いが一冊で完結。
        tonannotubasa.jpg
 大陸の北西の国「恭」では王が斃れてから二十七年が経っていた。この世界の律では、王がいない国は治安が乱れ、災厄が続き、妖魔が徘徊する。そして年ごとに酷くなってくる。首都も例外ではない。首都の豪商を父に持つ十二歳の女の子珠晶は、常に護衛が従い、鉄格子で妖魔が入れないようにしてある家に住む。王が立てば解決するものをと思い、言うが相手にされない。
 ある日家出をした。黄海(と呼ばれる島)にある蓬山に行き、麒麟に天意を訊くため。
 この世界の律では麒麟が王を決める。そのため王になろうとするものは、苦難の旅をして昇山する。
 黄海に渡るまでも大変な旅だが、そこから先、蓬山に至る一ヶ月半の旅は地獄を行くような苦難の旅だった。大勢の人が旅立った。珠晶は幸い優れた案内人であり護衛である人を雇うことができた。しかし、案内人を雇わない人もいる。
 妖魔に襲われ次々と死者が出る。珠晶はそれを悼むが、当の案内人は、「今回の旅は犠牲者が少ない。だから王になる人物がこの中にいるのではないか」と思っていた。そして珠晶の可能性が大きいと。
 珠晶は多くの危機を忍耐力と機知で乗り越える。案内人に教わったことの意味を悟り、置き去りにされた人たちを助けに行き、大人の集団を見事に指揮して切り抜けたりする。
 蓬山に近づくと、麒麟が迎えに来た。そして珠晶が王だと判る。

「−だったら、あたしが生まれたときに、どうして来ないの、この大馬鹿者っ」

 恭国に供王が即位した。

 この話、矛盾がない。このようなプロットを決めると、当然このようなストーリーになる。もちろん別なストーリーでもよいが、このストーリーは自然で無理がない。災難の数々。案内人の非情な決断。珠晶の心情。人々の狡さと無力さ。
 珠晶は自分を強運の持ち主と自覚しているが、案内人の教えの答えばかりでなくその意味を悟り、機転を利かして危機を回避し、努力を惜しまず運に頼らない。それが運を招く。

 乗る動物は馬ばかりでなく、騎獣がいる。?虞(すうぐ)・駮(はく)・孟極(もうきょく)など、動物名で固有名詞ではない。このネーミングがいいではないか。読むのは大変だけど。
posted by たくせん(謫仙) at 09:04| Comment(4) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

風の万里 黎明の空

小野不由美   講談社   
2008.11.17 記
十二国記シリーズ

 この本は上下二冊。華胥の幽夢と併せて三冊を、旅行中に一気に読んでしまった。とにかく読まずにいられない。読み終えて、旅の途中で読む本がなくなり、本屋に駆け込んだ。

        kazenobanri.jpg
 このシリーズ、表紙の絵から、子供向けと軽く考えると手強さに驚くであろう。全体の整合性といい、難しい漢字の多用とその的確な使い方といい、複雑なストーリーといい、各国の多様性といい、かなり手強く、その気になって読まなければ読めない。
 わたしの好きなSFである。しかし、どこにもSFの文字はない。SF扱いされていないのであろうか。他で紹介している武侠小説もSFだが、そちらは整合性のないのが大きな欠点。それはともかく、それも誰もSFとは言わない。もう「SF」は死語なのかな。小説はすべてSFといえなくもないので、いちいちSFと断らないとか。
   …………………………

 陽子は慶国の王になったものの、前王の時代の官僚によって、政治への参加を阻まれる。実際、判断を求められても、この国の様子を全く知らないので、判断しようがない。結局高官に任せることになる。評判は芳しくない。特に麦州侯を罷免したのは失政であった。
 そんなある日、麒麟に後を任せて、国を学ぶために王宮を留守にしてしまう。
 そこで陽子は、芳国の元公主(姫)で両親を殺され国を逃げ出した祥瓊と才国で苦しんでいた鈴に出会う。
 慶国の暗部ともいえる和州は、和州侯に人をえず、多くの庶民が重税や圧政に苦しんでいた。それが許されたのは国の高官と癒着していたからである。陽子はそのことを知る。
 和州で反旗を翻し成功すると、それに乗じて国政にも乗り込み、一気に悪徳高官を退けてしまう。そして、罷免してあった前の麦州侯を国政のトップに据えて、綱紀粛正を命じる。
 祥瓊は、父が暴君であり国が荒んでいて、簒奪者に殺されるほどの王であったことを理解し、そのことを知らなかった自分を恥じる。
 鈴は弟のような友の病を治すため、陽子にすがろうとしていたのであるが、友は殺され、その仇を討とうとしていた。そして知らずに陽子に協力し、仇を討つことができた。
 王宮に戻った陽子は、政治を改革し、行き場のない祥瓊と鈴にも協力を求める。

 この巻は陽子の正念場である。政治改革を実行でき、ようやく国の体制ができた。それまではいつ倒れるか判ったものではない状態だった。この世界は意外に国(王朝)の寿命は短い。慶国も短命の女王の時代が続いたので、新しい王である陽子に失望する人が多かったのだ。
 最後の言葉の要約だが、
 わたしは、叩頭されることが好きではない。礼典などの儀式のとき以外は伏礼を廃す。他者の前で毅然と首を上げよ。災難に挫けず、不正があれば正すことを恐れず。慶の民はそんな不羈の民になって欲しい。すべての人は己の王となれ。
 和州の民が奴隷化し、己を失い無力となって、どんな理不尽なことにも、頭を下げることによって処置しようとするのを、知ったゆえの言葉である。
posted by たくせん(謫仙) at 08:18| Comment(6) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東の海神 西の蒼海

  東の海神(わだつみ)西の蒼海
   小野不由美  講談社  1994
2008.10.1記

 十二国記シリーズの三作目になる。大陸の東北にある雁(えん)国の建国物語。
 今回は感想より、ストーリーの紹介になってしまいました。
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 雁は梟王が国を崩壊させて自滅。王がいない国は年ごとに荒れていくのがこの世界のならい。三十年で荒廃の極に達した。三百万の人は離散し、田畑はほとんど焦土となり、残った国民は飢えていた。そこに延王がたった。王はなにもせす、残っていた宮廷の金目の物はすべて売り払い、食料の購入に充てた。そうして二十年。ようやく田畑は緑を取り戻したところである。人口は三十万ほどになった。それでも本来の十分の一である。
 国は九の州に分割され、西の元州だけは州侯の宰相に人材を得て、なんとか酷く荒廃せずに済んでいた。経済力軍事力では国王をはるかに凌ぐ。しかも国庫は梟王が任命した高官によって蚕食されていた。
 王は麒麟が選び、人の力で決めることができない。そのため元州の宰相「斡由(あつゆ)州侯の息子」は王の上の位(上帝)を望んだ。王を有名無実にしようとしていた。
 建国から二十年、国の制度が形を整えた。高官は反乱しないように形だけ置いてあり、高官に妬まれない身分の低い者に実権をもたせ、ようやく運営していた。これから機能してくるかというところ。そこに元州の反乱である。
 元州の欠点を見抜き、元州の庶民を味方にし、元州の兵も寝返らせ、戦わずして勝つ。孫子というより、豊臣秀吉のやり方に近いか。
 これが、梟王に任命された邪魔者を取り除く、始めとなるはずである。国庫を蚕食した奸臣を追い、私蔵した物は取り返す。その力がようやくできたのであった。

 この話は悪王によって国が滅んだが、まだその時の形だけは残っている、その国を再興する話である。
 新王は莫迦のふりをし、情報を集めている。国庫を蚕食する高官には、あとで取り返すが今は預けておくと一切無視し、ただし国政の実権は取りあげる。もっとも国土は荒廃して税収もないので、奸臣には実権は魅力ないので、それで治まっている。この延王、けっこう辛抱強い。
 戦のやり方も、遠征した国軍はほとんど農民で、武器も持たず、堤防を築かせる。雨期が近づいていた。それで元州の農民を守るためでもあり、それを知った元に徴兵された兵たちも脱走して、国軍に加わる。堤防は同時に城を水攻めにするためだ。高松城の水攻めを思わせる。
 決定的な差は守将「斡由」に人望がなかった。それの象徴が王をそのままにして上帝となろうとしたことだ。王になろうとすれば麒麟に拒否される可能性がある。そうなることに耐えられない人物だった。死刑も自分の口からは言い出せない。部下が気を利かして死刑にすると、だまって褒美を与える。
 結局、実際に軍が戦う前に勝負がついてしまった。
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風の海 迷宮の岸

小野不由美   講談社  
   十二国記シリーズ
2008.10.13 記

 北東の戴の国には王がいなかった。泰麒(戴国の麒麟)が誕生し、黄海の蓬山で育ち、王を選ぶ話である。
 この世界の国を成り立たせるシステムを説明しているといったらいいか。麒麟の意味、黄海の蓬山の意味、あるいは国の意味など。なかなかこった作りである。
        kazenooto.jpg

 泰麒は、幼いころ親からも阻害され、幼児ながら鬱屈していた。黄海の蓬山に来てようやく心の安寧を得たが、そこは麒麟を養育するところ、成長すれば出ていかねばならない。
 泰麒はこどもで麒麟の自覚がなかった。戴の驍宗と李斎が狩りに連れて行き、饕餮(とうてつ)と睨み合うことになり、使令にしてしまう。饕餮は麒麟が折伏できる妖獣ではなく、使令にはならないと言われていた。それを使令にしたので、世話をしていた仙女たちを驚かし、自らも麒麟であることを自覚する。
 驍宗や李斎との別れの日が来た。驍宗が好ましく思えたが天啓がない。それなのに別れの辛さで驍宗を王としてしまった。そして新しい土地、戴の国に赴くが、天啓がないにのに王としたので、まわりを騙した自覚から鬱屈した生活をしている。
 そんなある日、延麒(えんき)によって、天啓の意味を知る。何かはっきりしたしるしがあることもあれば無いこともある。この人と離れたくないと王にしてしまったのも、それも天啓の一形態だと。
 こうして麒麟と王が戴の国を治め始めた。

  饕餮(とうてつ)という動物が出てくる。古代中国の銅製品によくある獅子のような想像上の動物だ。ウィキの引用だが、
 饕餮(とうてつ)とは、中国神話の怪物。体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになった。一説によると、蚩尤の頭だとされる。

 蚩尤とは何者ということになるが、ここでは説明はしない。
 ついでに言うと、麒麟は麒麟ビールのマークでおなじみ。
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月の影 影の海

  小野不由美   講談社   1992.5
2008.8.13記
 十二国記シリーズの始まりである。当初は十二国記とは言っていない。

 舞台のモデルは中国。しかし、現実の中国ではなく、封神演義や西遊記などの幻想の中国。神仙思想の世界である。
 難しい漢語やありえない読み方などを多く使い、ふりがな無しには読めない。
 同じような文(文体は違う)の作家に宮城谷昌光がいる。宮城谷昌光はうまく翻訳できないという仮面を被り、日本語に訳さない漢文読み下し文のような文を書く。実はそれが創作文なのだが、その仮面は薄く、誰でもその奥が見えて、その漢語の知識は後にはイヤミに近くなる。その漢語は他に使い道がなく、憶えようがない。
 小野不由美は逆に仮面を被らず、「わたしってこんな凄い漢語を知っているのよ、読んで読んで」と言っているようだ。漢語の雰囲気をつくるのに苦心しました、と白状しているようで、親しみが持てる。
 庭院に「おくにわ」と仮名をふる。政には「まつりごと」と仮名。鬣に「たてがみ」。憶えていれば役に立つ知識だ。
 耳障りなときは「耳障り」。当たり前だが、多くの人が「耳障りのよい」と意味不明の文を書くのだ。
 ついでに言うと、岡崎由美に代表される金庸小説の翻訳者グループは、漢語が多いのに見事にこなれた日本語になっている。
 小野不由美は日本語の語りは現代的なので、現代人がコスプレで古代を演じているようだ。物語もそのような物語。

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  左手では剣訣を作っているのが中国的(^。^))。右手は不自然。

 高校生の陽子が、学校から拉致に近い形で十二国に連れ去られる。十二国は虚海に囲まれた幾何学的模様の大陸と島で、十二の国があり、虚海の東の果てに蓬莱即ち倭つまり日本があるという。
 ここでは国王は神になり、失政がない限り、死ぬことはない。そして新しい国王は麒麟(きりん)によって指定される。麒麟は宰相となり国王と生死を共にする。麒麟のような半獣は人の姿をしたり獣の姿をしたりする。
 陽子は麒麟によって王と指定されたのだが、そのことを知らないのだ。到着と同時に麒麟は囚われの身になり、陽子は事情が判らぬままひとりになる。そこで絶えず妖魔に襲われ瀕死の重傷を負い、死を覚悟したりする。また何度も騙されたり、何日も食べるのものがなく飢えたりして旅を続ける。
 普通、陽子のように十二国に来た人は言葉が通じないが、陽子は通じた。このことなどから自分が特別な人であることを少しづつ自覚することになる。
 結局、東の慶国の王になる。王の名は景王である。ここでは戴国の王が泰王、巧国の王が塙(こう)王、雁(えん)国の王が延王と、日本語読みで同じ音になる(雁をエンと読むのは日本語にはないが、現代中国語読みはyanイェン)。現代中国音では、慶はqing、景はjingで読み方が違う。昔は同じだったらしい。
 この話はシリーズとして長く続く。

 著者は1960年生まれ、この本が発行された当時は32歳か。書いたのはもっと前だろう。才気渙発な若手のイメージ。いい方に流れている。悪い方に流れると旧仮名で文を書いたりするのだが、そんな経験もありそうな感じがする(^_^)。
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2019年12月17日

魔性の子

小野不由美   新潮社   2012.7
2013.6.17記

 書き下ろしと書いてあるが、解説は平成3年(1991)に書かれている。どこか誤植かと思っていたら、新版だった。元は1991年9月発行。実際は十二国記より先に書かれた。十二国記の序に相当する。なお十二国記は、初めから十二国記という名があったわけではない。のちにその名をつけた。

 十二国記は、現実世界の日本と異世界の十二国を巧みに組み合わせて書いているが、中心は十二国であり、現実の日本は十二国から見た日本である。
 それに対して本書は、十二国記の日本の部分を、現実の日本からの視点で書かれている。
 それは不思議な恐怖の世界になる。これだけ読むとホラー小説だが、わたしは十二国記を先に読んでいて、アニメも見ているため、ファンタジーとして読めた。

 10歳の頃に1年間神隠しにあった高里という高校生がいた。神隠しの間のことは覚えていない。それからいろいろと不思議な事件が起こる。ここで既読感が生じた。
 事件は高里を守るために「異世界からきたもの」による。しかし、高里はそれを知らない。周囲は確信が持てないものの高里を疑っている。それがいじめに近くなると「異世界からきたもの」が高里の知らない間に排除しようとして事件をおこす。だんだん規模が大きくなり大量殺人になっていく。
 そうして高里は神かくしのときのことを思い出して、自分の世界は十二国の異世界であることを知る。

 高里は、嘘を付いてはいけないと祖母から厳しく躾けられていて、人を疑うことを知らない。「洗面台の水を零したのは誰か」と言われて正直に「知らない」と答える。ところが弟が「兄がやった」と言ったため疑われる。形だけでも謝ればよさそうだが、それでは嘘をついたことになるために、謝ることができない。雪の中に立たされて、神かくしになる。
 このあたり、わたしがもっとも共感したところ。

 風の海 迷宮の岸 の裏の話といえよう。
posted by たくせん(謫仙) at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月08日

水底の橋

鹿の王 水底の橋
上橋菜穂子   角川書店   2019.3

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 鹿の王と同じで、ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ここでも万葉仮名問題がある。
 オタワルの天才医術師ホッサルは、祭司医・真那の招きに応じて、恋人ミラルとともに清心教医術の発祥の地、東乎瑠(ツオル)帝国の一地方、安房那(アワナ)領へと行く。
 ここで土毒などの治療方法をめぐって、争いが起こる。三種の治療方法のどれを使うか。
   オタワルの医術
   清心教医術
   清心教医術の古流
 この三種は、宗教の禁忌を巡って、相容れない部分がある。
 ところがそのうらに次期皇帝争いがあった。有力候補がある薬を使うと、皇帝の資格がなくなる。しかし、それ以外に助ける方法はない。そこから土毒を使った者が推理されるが複雑。そこに次期宮廷祭司医長の争いも絡む。
 人の命と医療の在り方を考えさせる。一般論ばかりでなく、目の前の患者をどうするか。それも親しい人である。この問題は現代医療でもあるだろう。
「水底の橋」の意味が気になるが、はっきりした説明はない。
posted by たくせん(謫仙) at 07:26| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿の王

鹿の王    2017.8.11 記
上橋菜穂子   角川書店   2014.9
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 征服者の帝国東乎留(ツオル)の人の名前は、漢字を使って難しい読み方をする。万葉仮名的な使い方もする。被征服者の名前はカタカナ。この書き方は必要があったんだろうか。
 東乎留(ツオル)とあればこの国は漢字を使う国である。国名は「ツオル」でもなく「tuoru」でもなく「東乎留」と漢字でなければならない。この場合の漢字とは、いわゆる「漢字」である必要はなく、表意文字を使っていると言う意味である。ツオルと読めても、他の文字ではいけない。それにしても小説として、何でこんな難しい読み方をせねばならないのか。人の名も同様である。しかも他国から来た人は、カタカナ名のままである。
 たとえば「山犬」という字にオッサムとかなをふる。このような例が多い。自国語の文字ならこのような無理矢理の読み方はしない。もしかしたら、文字のない国が漢字の国を征服して、自国語に漢字を無理矢理あてたとか。
 他の国は文字がないか、あっても表音文字ということになる。
 しかし、「山犬」という漢字が必要なら読み方は「やまいぬ」に、「オッサム」と読ませたいならカタカナにすべき。一二の例外はあっても良い。

 戦士ヴァンが囚われていた岩塩鉱を犬が襲い、囚人も奴隷監督も謎の病死をするが、戦士ヴァンだけ助かる。ここから物語が始まる。そして逃亡生活。そういう少数民族や動物の、帝国東乎留(ツオル)との戦い(戦争とは限らない)。
 東乎留では天才医師ホッサルが、岩塩鉱の謎の死の原因解明と、その後の治療に当たる。
 細菌とウイルスの差が判りかけ、その対策を研究している。注射や顕微鏡などが発明されている。そのなかでの医師と病原体との戦い。
 この二つの戦いと共生がこの物語のテーマである。

 ファンタシィではあるが、推理小説のように謎が絡む。それがかなり複雑でありながら、メインではない。読者を迷わすための意味のない複雑さに思える。
あとがきに、
「生物の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」
「それって、社会にも似ているなぁ」
 この事実を小説化したともいえるのだ。
 ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ネタバレだが、事前にウィキなどであらすじや登場人物の説明を読んでおくとよいだろう。

参考 失われてゆく、我々の内なる細菌 には、 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。 という。
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2019年11月28日

死を恐れずに生きる

   駒田信二  講談社   1995.5.25
               2019.11.28 追記

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 2019/11/28追記
 いまもう一度読みたいと思っている本がある。駒田信二の「死を恐れずに生きる」だ。死の直前に書かれている。
 その本の中で、特に儒教思想に対する反発は同感する。
 駒田信二は中国系の軟文学で有名だが、漢文学者である。
    島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授を歴任(ウィキによる)

 ちかごろ武侠ドラマ以外にも、中国の時代劇テレビドラマを見ることが多い。この中でもどうしようもない違和感は、この儒教思想である。
 皇帝は全世界を統べるという思想なので、外国の王さえ地方に派遣した臣下の扱いである。そして、臣下は熱心な協力者となる。
 まるでミツバチやアリの役割分担のようだ。各家庭でもそのミニ版である。
 その正反対にいるのが駒田信二であり、その思想はこの本に濃縮されている。
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1995.5.25記

 死の一週間前までに著者の語ったものをまとめ出版したという。平成6年80歳である。

          sioosorezuni.jpg

人と争うな、競うな、偉くなるな、出世するな、ということだけは娘たちに伝えたい…。
つまらぬ野望など抱かず、のびやかに彼女らの人生をまっとうしてほしいと願う著者が語る真摯な生き方。


第一章 「死」と向き合って考えたこと
第二章 人間のあり方を見つめ直す
第三章 いつも精神を自由にしたい
終章  残された「生」を精一杯生きる

「生きる自由のない時代」に何度も死と対峙した著者が、その体験談を話し、自らの諦念を語る。
 懲罰出征されて戦地へ送られる。懲罰出征とは、「どうも言動が怪しいようだが証拠がない。無理に徴兵して戦地へ送ってしまえ」という出征である。
そして、位が上だという理由で散々に殴られる。高校(現在の大学)教員は位階は高いのだ。
 反発して、軍人勅諭さえ覚えなかったら、中国では共産党のスパイと間違われた。日本兵なら軍人勅諭が必ず言える時代である。そして重慶の刑務所に入っていた。後に重慶で、その刑務所に入っていたが命が助かった、という話を現地の中国人に話すと、みな涙を流して喜んでくれたという。
 若いときにそんな体験をした著者は、また中国思想にも詳しい。儒教のいかがわしさにも敏感で、
 儒教に根ざした思想は持ちたくはない。権力の側に立って仁政を施すといっても、所詮目の位置は下に向けられているのです。慈悲の衣をまとっていても傲岸不遜さが見え隠れするこのような考え方をわたしは信じません。

 そのような考え方でその後の人生を生きた著者の、「人と争うな、競うな、偉くなるな、出世するな」という思想に、わたし(謫仙)はもっとも同調する人生を送っているような気がする。
 どうも父親の在り方が似ているようなのだ。家族を犠牲にして、ひとりだけいい思いをしようとする父親の姿はそっくり。それに対する反発心。

 人間万事塞翁が馬という言葉がある。この「人間」を「じんかん」と読む人はどれほどいるだろうか。読み方は「にんげん」でいいが、意味は「じんかん」で「人の世」や「世間」の意味である。そう考えると意味がまるで違って見えないか。
 聖徳太子の憲法の中に、「以和為貴」という言葉がある。これはどう読むか。「和を以て貴しと為す」が普通であろう。
 しかし、イワイキと読む。なぜなら「和を以て貴しと為す」というのは平安時代になって考え出された読み方。聖徳太子のころはそのような読み方はなかったのである。
 ではイワイキで意味が通じたか。結局、同時の為政者は倭語や朝鮮語と同時に漢語を普通に使っていたのではないかと思われる。
 こんな蘊蓄も好きだが、特に著者の文章に対する考え方が好きなのだ。点の打ち方に神経を使っている。「私はそのとき泣いた」と「私は、そのとき、泣いた」では読み方が違うはず。点や丸は書いた人の鼓動という。
 日本語を美しく書きたいものです。
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2019年11月24日

倚天屠龍記

2008年8月2日 記
2019年11月24日 訂正追記

   倚天屠龍記 全五巻
   金庸   徳間書店   2001
 時代は元順帝(在位1333−1368)の至元二年(1336)、南宋が滅びて五十余年後。神G侠侶の最後の年(1259)から77年後である。
 その前に神G侠侶から三年後、冒頭で郭襄が江湖をさすらい楊過の行方を尋ねて少林寺に行く。少年張三豊や覚遠と再会する。そして三人は少林寺を出る。そして一気に年月を飛ばし、太極拳の始祖張三豊の九十歳の誕生日を巡る話になる。
 張三豊は伝説上の人物で、実在は疑わしい。しかし、相当するモデルがいたことが知られている。太極拳はかなり後にできたので、始祖説はもちろん怪しい。ただ太極拳の原型は張三豊の頃といわれている。

 張三豊の九十歳の誕生日以後に生まれた張無忌が大人になって活躍する。となると、張三豊は百十二歳を過ぎてしまうか。最期は駆け足で、明朝成立までを説明するが、それは物語のその後であろう。
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 主人公がなかなか決まらない。なにしろ普通の小説なら終わってしまうころ、第一巻約400頁のうち、340頁目で、ようやく呱々の声をあげるのだ。
 主人公だと思っていた張翠山は、第二巻目の104頁で自決してしまう。
 そこでようやく、張翠山は主人公ではないと判る。そして子の張無忌が主人公らしいと気づくことになる。
 波瀾万丈の生涯で、半ば偶然のようにして武技を身につけるのは、いつものパターンである。とにかく、あっちで騙され、こっちで騙され、騙され続けた。これはこども時代に孤島で育ち、友人がいなかったせいか。この主人公は指導者として優れているとはいえないが、多くの協力者をえて、明王朝成立の礎を築く。そこでも朱元璋に騙されて、朱元璋が明朝皇帝となる。
 張無忌は優れた人物ではないが、いい友人となる人物と評価されている。

 倚天剣と屠龍刀という武林の宝がある。屠龍刀を手に入れれば、武林の盟主になれるという。武林の有力者が血眼になって探している。そのためには家屋敷さえ燃やしてしまう者がいる。鉄でさえ豆腐のように簡単に切ってしまえる名刀だ。
 倚天剣と屠龍刀を作ったのは、襄陽城の戦いで戦死した郭靖・黄蓉夫婦。将来モンゴルに対する反乱が起こることを予想し、そのために作った。倚天剣は娘郭襄に伝え、屠龍刀は息子郭破虜に伝えた。郭破虜は戦死し、屠龍刀は江湖をさまよう。郭襄は四十歳の時、出家して、峨嵋派を興す。そして倚天剣は峨嵋派に伝わる。
 郭靖夫妻は戦死し、屠龍刀を持っている者もいっこうに芽が出ない。そのことを考えれば、屋敷を焼き払ってまで、手に入れるほどの物かと思う。結論を言ってしまえば、屠龍刀には岳飛の遺書(兵法書)が入っていた。これが手に入っても普通の人には使い道がない。江湖の人間ではまず役に立たない。倚天剣には武術書、これは江湖の人にはのどから手が出るほど欲しい物。
 屠龍刀は何度か火に入る。しかし中の書(絹布)は何ともない。楊過の持っていた玄鉄剣が材料だ。加工するときは、特殊なやり方で溶かした。炉に入れても溶けないのはともかく、中の物(絹布)が無事だった理由の説明はない。この玄鉄は熱を伝えないのか。赤熱はするのだ。

 この中に庶民の歌が出てくる。それを「戯れせんとや生まれけん……」といったうまい訳をしている。この訳者はかなり日本古文に造詣が深いと思われる。

 ここは本の紹介のみ、以下あらすじなどは別に書きます。

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 次の言葉は、使い方が気になった。訳者は飛狐外伝と同じらしい(倚天屠龍記は訳者が2人なので、違うかもしれれない)。
 第一巻P207 張翠山が女に「お名前をうかがってもよろしいですか」と訊く場面がある。
 返事はないのだが、それはともかく、返事をしたとして、次のような会話が予想される。
「訊いてもいいですよ」
「あなたのお名前はなんとおっしゃるのでしょうか」
「教えられません」
「訊いてもいいですよ、と言ったではありませんか?」
「訊くのは構いませんが、教えるとは言っていませんよ」
ということになりそうだ。
 何を言いたいかというと、「訊いてもいいか」と問いながら、それで訊いたつもりでいる、不思議な言葉だと言いたいのだ。
 平成語ではないが、昭和も後半になって、多く使われるようになった政治言葉と記憶している。
 昔の江南でこんな言い方をしたのだろうか。金庸の原文はどうなんだろう。

 誰だったかある作家が、電話で言伝(ことづて)を頼んだら、「お名前をうかがってもよろしいてすか」と訊かれ、「名前を訊かずに、どう伝えるんですか」とあきれていた。
 わたしもある受付に訊かれ、「訊かずにどう名簿をチェックするの」と思わず訊いたことがある。
 おそらく訳者にとっては、これが普通の言葉で、疑問に思わなかったに違いない。婉曲的な言い方らしいが。
「謝りたい」、この後はなく、謝らないで終わる。
「注意したい」、注意致します、と言ってもらいたい。

参考:たくせんの中国世界−倚天屠龍記
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2019年08月16日

飛狐外伝

   飛狐外伝全三巻
   金庸  訳 阿部敦子  徳間書店  01.11
2008.9.7記
2019.8.16追記

 この小説は雪山飛狐に続くが、雪山飛狐が先に出た。雪山飛狐の少年時代である。プロットには一致しない部分があるが、新聞小説を本にするときも、そのままにしたという。
 初めて読んだのは2001年、もう7年になる。再読した。当時は本の紹介しかしていないが、今回は少し詳しく書いてみよう。
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 清の乾隆帝の時代。まず、「書剣恩仇録」で、カスリーが死んで、紅花会が紫禁城を騒がしたときから、6年くらいたったころ、山東武定の商家堡で物語が始まる。そこで胡斐(こひ)が登場し、一波乱あって胡斐が大きく成長するきっかけとなる。ここでの諸々は本題への伏線となる。

 4年後、広東仏山鎮で、鳳天南一族の悪事に苦しみ死んだ農民の仇を討とうとする。この小説は、逃げる鳳天南を追う胡斐の話ともいえる。
 時はカスリー(香妃)が死んで10年後である。この時、胡斐は18歳。

 一面識もなかった農民のために…、これが「侠」だ。
 ふつう武侠小説といっても、武の小説で、侠の小説は少ない。この小説ではこの「侠」の部分を強調して書いてみたという。侠はある意味で私設警察に近い。その人の考え方でどうにでもなる。日本でも侠客といえば、建前は「侠」でも、実体は「ならず者」だったりする。
 武侠小説は、実体はならず者小説でもある。
 鳳天南はその地方一帯の実力者で、地方官では手が出せない。今日的に言えば警察も手が出せないほどのヤクザ組織。もっとも軍と対抗できるほどではないので、地方官が言い訳ができるように、表面的にはもっともらしくする。

 胡斐は義憤を感じて、一面識もなかった農民を助けようとして、鳳天南の縄張りを荒らすが、若さ故の甘さがあり、助けることができず、鳳天南には逃げられてしまう。
 北京では乾隆帝の私生児福康安が、在野の武林の抹殺を図り、福府(福康安の邸宅)で武林の掌門を集めていた。武林掌門人大会を開くという。ここに鳳天南が来るはずと、胡斐は北京まで行くことになる。
 その間にいろいろな話がある。実の親を母の仇と狙う少女円性の話や、田帰農の毒で目が見えなくなった苗人鳳を治すため、毒手薬王のところに急行する話が柱。鳳天南の話は隅に追いやられているが、忘れたわけではない。毒手薬王の少女弟子程霊素はいろいろと胡斐を助ける。
 その武林掌門人大会は、武林の勢力争いで自滅するよう仕掛けたものだったが、胡斐たちは見破り、大乱闘になったりして大会を壊してしまう。鳳天南はその場で死ぬ。

 表面的にはこのように話が流れるが、著者によれば、続編の「雪山飛狐」の本当の主人公は亡くなった胡一刀であるという。胡斐が生まれた頃に亡くなった胡斐の父親である。だから胡斐の性格描写はあっさりしている。それを細かく書いたのがこの外伝だ。
 胡斐は父の武技書を受け継ぎ刀法を身につけ、父の仇を捜し父の死の真相を知ろうとする。様々な登場人物が、胡一刀の故事にからんでくる。胡斐に恋して犠牲となる少女程霊素の操る毒も、胡一刀の死に関係があるのだった。

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 初めて読んだとき、次のように書いている。

 第2巻 愛憎の父娘 
 この中に気になる文があった。
「…負けたら、……をさせていただきます」
 この言い方があちこちに出てくる。お互いに譲り合っている場合ならかまわないが、そうではない。
 本来「勝ったら…をさせて頂きます。負けたら…を致します」と言うべきところである。
 賭は勝った方が我を通し、負けた方が譲るものだが、これでは逆になってしまう。
 言葉は変化するので、今の時点では間違いと言い切れないが、この言葉が出てくるたびに、前後を読み返して、「いただく」のか「いたす」のか意味を確認している。

 この話、今回は全然引っかからなかった。この使い方を目にすることが多くなり、抵抗感が薄れたし、ここでは話の流れで、意味がはっきりしているからだ。前は「意味はこういう意味なのになぜわざと逆にいうのだろう」と念のため「わざという」理由を確認したのだ。
 江戸の時代劇でも商人が多く使っている。してみると商人言葉が始まりか。

 射G三部作といわれる作品群があるが、書剣恩仇録・飛狐外伝・雪山飛狐をもって、反清三部作と名付けたい。
 主人公の胡斐は「こひ」と読む。「こい」ではない。わたしはこの本を再読するまで「こい」と記憶していた。甲斐武田の「斐」だったからだ。

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2019.8.16追記
 いままで何度も読んでいるのに、記憶にない文がある。もちろん覚えていないという意味でなく、当然覚えていなければならない状況である。

文庫本第一巻 P70  苗人鳳は、
 その隙に逃げようとする人足の後頭部を掴むと、気合いもろとも抛り投げる。人足は糸の切れた凧のように、数十丈もすっ飛んだあげく、雪の上にしたたか叩きつけられた。
 いままで読んでいたときは、数十丈がどんな距離か判らず、漠然と遠くへ投げたと思っていた。
 ところが当時の丈は、ほぼ日本と同じである。約3メートル。すると三十丈でも90メートルである。人足なので、六十キロくらいあるだろう。それをこんな距離を投げたのだ。もちろん筋肉の力ばかりではないにしても。
 ここには出てこないが、それなら、幅跳び百メートル高飛び三十メートルは軽い軽い、ということにならないか。

文庫本第一巻 P401
 袁紫衣は白馬の鞍を軽く叩き、胡斐を振り返ってにっこりすると、キリッと手綱を引き絞った。白馬は助走もつけず、いきなりひらりと飛び上がると、十余輌の塩車を飛び越え、北に向かって、駆け出すや、たちまち影も形も見えなくなった。
 ここでいう塩車がどんな車か知らないが、古い言葉に「驥服塩車」(きふくえんしゃ)がある。これと同じなら、馬に引かせるほどの車である。かなり大きい。幅1メートル以上はあるだろう。十余輌なら十余メートル。二十メートルもあるか。
 袁紫衣の白馬は助走なしで、十余メートル飛び超えたのだ。馬まで内力があるのか? 袁紫衣の軽功によるのか。

 その後を読むためには、知っていなければならないのだ。それを意識していなかった。

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あらすじなどはこちらに 雪山飛狐・飛狐外伝
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2019年07月22日

世界の囲碁ルール

        6月29日記
        7月22日訂正
世界の囲碁ルール
 王銘琬   日本棋院   2019.4

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(本の紹介で、書評ではありません。感想も入れてありますが)
 この本はわたしの予想とはかなり違った。
 世界の囲碁ルールではなく、「囲碁ルールの世界」というべきだろう。
 中心となるのは、いわゆる日本ルールと中国ルールの話である。

 日本ルールといえば地を数える、中国ルールといえば石を数える、といわれているが、それは誤解で、両方とも地を数えている。その数え方が違うのだ。
 日本ルールでは最後にアゲハマを盤上に戻す。結果、盤上の石数は同数か黒が1目多い。判っているのでいちいち数える必要はなく、地だけ数えればよい。
 中国ルールではアゲハマのかわりに、石全体を数えて地の差を数える。

 昔、切賃というルールがあった。
 最後に生きるための2眼(2目)を残さねばならない。石群ごとに2目必要になる。
 最後まで打って石を数えればよいが、それは面倒なので地を数え、そこから生きるための2目を引く。それを切賃という。
 つまり石数を数える便宜的な方法である。この切賃のあるルールが、石を数えるルールだ。日中ともに古い碁にある。
 ところが現在は、中国ルールといっても、生きるための2眼まで数える。つまり、地を数えるに等しい。
(これらの話は、中国ルール側で逆に考えても、成り立つように思える。「日本ルールも石を数える」に等しい)

 王銘琬先生は台湾で育った。台湾では碁会所によって、日本ルールだったり中国ルールだったりする。それどころか人にもよる。いちいち、対局前に確認しなければならない。それはアゲハマを戻すか確保するかの差になる。だから環境がよければ日本ルール、悪ければ中国ルールだ。
 環境が悪いとは、たとえば、まわりで遊んでいる子供がアゲハマをひっくり返す。あるいは遊びのために持って行ってしまう。しかも賭碁が多い。こんな環境では中国ルールだ。
 ところが日本では賭碁は滅多になく、碁の環境が整い楽しみで打っている。楽しんで打つ環境では、日本ルールが優れている。

 ここで、中国ルールの場合、最後に黒が打った場合は黒は1目減らす。これを「収後」といい、結果は日本ルールと同じになる。全く問題はない。
 現代の中国ルールは「収後」を廃止した。そのため、日本ルールとは差が生じるようになった。

 これら以外の差は、混乱を防ぐための便宜的なルールだ。
 例えばセキの扱いとか、スミの曲がり四目とか。
 昔は、「取らず三目」というルールがあった。日本ルールの不合理さの象徴といわれている。しかし、かなり前に改訂されて現在は存在しない。このことは日本でもあまり知られていない。日本国内に限らず、世界に向け強く発信すべきだ。

 滅多に起こらない特殊ケースは、ルールで説明できなくてもよいではないか。
(重要な対局のためには、ルール化してほしい。できれば世界共通に。わたしなどは問題の意味さえ理解出来なくて、一度も体験したことがないので、ルールで説明できなくてもよいにしても)

 今、囲碁AIが碁界を席巻しているが、これは中国ルールで開発されている。囲碁AIには日本ルールは理解が難しいらしい。
 日本ルールは相互の合意によって終局とする。合意を取ることがAIは苦手なのだ。
 中国ルールは最後まで打つことを前提にしている。そのため、終局の合意を求めてパスすると、中国ルール育ちのソフトは、パスできず自滅する話は興味深かった。
 日本ルールで開発すれば問題ないと思える。
(王銘琬先生は、情緒的に考える傾向もあるようだが、アマには判りやすい説明だ)

 連続3回パスで終局とするのが論理的。劫立てでパスすることがあるので、連続2回では問題が起こる可能性があるのだ。
(日本棋院「幽玄の間」では、連続2回で終局できるようになっている。問題が起こったという話は聞かないにしても)

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 わたしは今までいろいろと、碁のルールの疑問を取り上げてきた。それらの集約的なルールの考え方の本であった。

中国の碁のルールの変遷   http://takusen2.seesaa.net/article/199633254.html
中国の碁のルールの変遷 追記 http://takusen2.seesaa.net/article/377295340.html
還珠格格の碁 http://takusen2.seesaa.net/article/196216473.html
還珠姫の碁  http://takusen2.seesaa.net/article/198636016.html
時間切れ負け制の終局問題 http://takusen2.seesaa.net/article/178300376.html
アジア大会で時間切れを狙うプロ棋士がいた
      http://takusen2.seesaa.net/article/170248272.html
終局の仕方 http://takusen2.seesaa.net/article/132071655.html
中国ルール http://takusen2.seesaa.net/article/132154166.html
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2018年03月17日

明日は、いずこの空の下

明日は、いずこの空の下
上橋菜穂子   講談社   2014.9
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 「守人」シリーズや「獣の奏者」で知られた著者の、ファンタジーさながらの、エッセイである。
 香蘭女学校のイギリス研修旅行の話、文化人類学を専攻して、オーストラリアでアボリジニと生活したフィールドワークの様子。また、好奇心旺盛な母との二十回に及ぶ外国観光旅行など、すべてユーモアでくるんで語られる旅の思い出話だ。
 慣れぬ外国だ。当然困ったことや苦しんだことがあった。それが著者の筆で語られると、わくわくするような素敵な話に変身する。
 たとえば、フロントという言葉がある。その失敗談からフロンティアという言葉に言及する。開拓する辺境ではない。領土を広げていけば、当然そこで異民族と衝突する。そこで葛藤が起こる。その異民族と接触する最前線がフロンティアである。というような話をし、「出会いの場」になって欲しい、「道を浮かびあがらせるものは剣ではなく灯であってほしい」と結ぶ。
 そんな話を読んでいると、著者の小説が、異民族との接触の話であり、武器を取った戦いがあり、それを鎮め平和を求めて努力する人がいる、フロンティアの話であることを思い出す。
 この本で語られる筆者の行動があってこそ、あのファンタジーが生き生きと語られたのだと感じる。
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2018年02月25日

金春屋ゴメス

金春屋ゴメス
西條奈加   新潮社   2005.11
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 近未来の日本の北関東から東北にかけて、一万平方キロの鎖国状態の「江戸国」が出現。競争率三百倍の難関を潜り抜け、入国を許可された大学二年生の辰次郎。身請け先は、身の丈六尺六寸、目方四十六貫、極悪非道、無慈悲で鳴らした「金春屋ゴメス」こと長崎奉行馬込播磨守だった! ゴメスに致死率100%の流行病「鬼赤痢」の正体を突き止めることを命じられた辰次郎は――。

 というのが宣伝文句だが、内容はむちゃくちゃで面白い。このゴメスの登場のときの様子と、やることなすことがマッチしなくていつまでも疑問がつきまとう。
 登場したときは話の通じない、極悪非道の暴力団の親分並み。それなのに、腕っぷしといい、博識といい、推理力といい、常識といい、全くもって天下一品なのだ。こんな人がなぜあんなむちゃくちゃな登場の仕方をするのか、という疑問だ。

 今更文明国の民がそこへ行きたがるか疑問だが、江戸時代は、懐かしいような、生活は苦しいけれども不幸でもないような、不思議な魅力がある。これはあまたの小説で、いいところを掬い上げたのを、読んでいるからだ。
 江戸時代へのタイムスリップというやり方もあるが、この小説では同時代の鎖国地という設定である。
 著者は、このような、江戸時代ではあるが、ある一点を異世界にするという仮定を好むようだ。わたしの好きなSFである。
 解決策は外国(例えば日本)にあるのだが、それを取り入れない。嫌なら外国に行けばいい、江戸には江戸のやり方がある。この言葉に尽きるようだ。
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2018年01月27日

アイスマン。ゆれる

アイスマン。ゆれる
梶尾真治   光文社   2008.3
   2017.12.25.jpg

「アイスマン」とは月下氷人のこと、縁結びの神、転じて仲人に使われる。主人公の愛称である。
 祖母からの形見分けで貰い受けた文箱があった。その中には《傀儡秘儀 清祓へ》の古文書が入っていた。その他、おまじないの小道具も入っている。そのおまじないは男女の仲を取り持つ。
 主人公がそのおまじないをすると、男女が相思相愛の関係になるが、思わぬ事態となる。
 それから15年。30歳を過ぎた。
 仕事と恋と友情の悩みで揺れる3人の女性。そして主人公には、病弱な母親の世話の悩み。さらにあのおまじないの後遺症の問題があった。三回目には死を迎える可能性が高いのに、親友におまじないを依頼される。
 悩みは誰もが抱えるような悩みだ。しかし、主人公は人情味はあるが、なかなか思い切れない性格。それだけの事情があれば主人公でも断れそうなもの。でも断り切れず心が揺れる。それを陰から見守る母親と大叔母がいる。
 ラストは意外性があり、著者らしい、切なさほろ苦さのあるハッピーエンド。

 この本を読む前に、翻訳物の超長編を読もうとした。ところが100ページも読むと読むのが嫌になってきてやめた。やたらに長いのに意味不明。このエピソードは伏線なのか、そんなにいろいろと伏線を張られても覚えられない。必要なのか。そんな疑問が続くのだ。
 その点この本は無駄がなく、必要な話ばかり。だから読みやすい。
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2018年01月16日

怨讐星域

怨讐星域
梶尾真治   早川書房   2015.5
   2017.11.21.jpg

 地球が太陽フレアに飲み込まれてしまいそう。
 それに気づいた某国の大統領は家族や有力者たち三万人で、密かに地球を脱出し、172光年の彼方にある、地球によく似た星まで行こうとする。
 残された人たちの中に天才がいて、ジャンプ(ワープ)する機械を発明し、ジャンプして先回りする。これは危険が伴って、無事に着いた人は数えるほど。
 ここで疑問がいくつか浮かぶ。
 
 172光年を旅行するのに宇宙船は1Gで加速を続け、中間点で逆に1Gの減速をして、常に1Gの圧力がかかるようにしている。これでエネルギーは足りるのか。
 わたしには計算できないが、1年間1G加速し、その後は加速はやめて自転で1Gにして、最後に1年かけて1Gで減速すれば200年ほどで到達できるようだ。
 問題はそのエネルギーだ。宇宙船全てをエネルギーに変えても無理と試算した人がいる。化石燃料ではない。宇宙船内の物質をエネルギーに変換してである。わたしには検証できない。
 船内は人は数代にわたる。その生活物資は船内でリサイクル生産するが、船の燃料は尽きているようだ。
 その巨大な宇宙船が、よく一財団で秘密裏に製造できたもの。
 172光年も彼方に、地球によく似た星がよくも見つかったもの。
 ジャンプ装置が短期間でよく製造されたもの。
 これらの疑問はできたと仮定して、SF世界が展開する。

 ジャンプした人たちが、裏切られた怨みを飲んで、復讐を合い言葉に一から文化文明を築く。しかし、代が進むとその意識は観念的になっていき、心の中で怨みはなくなる。
宇宙船内でも世代交代し、それなりの生活をしている。捨ててきた人たちのことなど、ほとんどの人は気にかけていない、知らないだろう。
 この両者の生活ぶりを交代での連作短編集である。わたしの知っている伝統的なSFである。
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2018年01月10日

猫の傀儡

猫の傀儡
西條奈加   光文社   2017.5
   2017.12.26.jpg
 江戸時代の「我が輩は猫である」だ。
 猫が多くて、通称猫町に暮らす野良猫のミスジは、憧れていた順松の後を継いで傀儡師となった。町内の猫の相談相手となる。
 人間相手の事件だと、猫だけではどうにもならない。人間の傀儡を操って解決することになる。
 暇で、勘がよくて、数寄心の持ち主で、猫好き。こんな人物を傀儡にして使う。
 猫の世界でも、人の世界のような組織があるのが可笑しい。猫情もあれば知識もある。
 小さな事件を解決していくうちに、それを通した大きな事件を解決してしまう。
 話は主人公ミスジの視点で進んでいく。話があちこちに飛ぶ猫の話を、上手く誘導したりして、探偵よろしく事件を推理したり。
 傀儡に選定された阿次郎は、頼りない男のようだが、江戸っ子らしく、やるときはやる人物。

 これは続きが読みたくなる話だ。
posted by たくせん(謫仙) at 14:12| Comment(2) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする