飛狐外伝全三巻
金庸 訳 阿部敦子 徳間書店 01.11
2008.9.7記
2019.8.16追記
この小説は雪山飛狐に続くが、雪山飛狐が先に出た。雪山飛狐の少年時代である。プロットには一致しない部分があるが、新聞小説を本にするときも、そのままにしたという。
初めて読んだのは2001年、もう7年になる。再読した。当時は本の紹介しかしていないが、今回は少し詳しく書いてみよう。
![hikogaiden1.jpg](https://takusen2.up.seesaa.net/go/hikogaiden1.jpg)
清の乾隆帝の時代。まず、「書剣恩仇録」で、カスリーが死んで、紅花会が紫禁城を騒がしたときから、6年くらいたったころ、山東武定の商家堡で物語が始まる。そこで胡斐(こひ)が登場し、一波乱あって胡斐が大きく成長するきっかけとなる。ここでの諸々は本題への伏線となる。
4年後、広東仏山鎮で、鳳天南一族の悪事に苦しみ死んだ農民の仇を討とうとする。この小説は、逃げる鳳天南を追う胡斐の話ともいえる。
時はカスリー(香妃)が死んで10年後である。この時、胡斐は18歳。
一面識もなかった農民のために…、これが「侠」だ。
ふつう武侠小説といっても、武の小説で、侠の小説は少ない。この小説ではこの「侠」の部分を強調して書いてみたという。侠はある意味で私設警察に近い。その人の考え方でどうにでもなる。日本でも侠客といえば、建前は「侠」でも、実体は「ならず者」だったりする。
武侠小説は、実体はならず者小説でもある。
鳳天南はその地方一帯の実力者で、地方官では手が出せない。今日的に言えば警察も手が出せないほどのヤクザ組織。もっとも軍と対抗できるほどではないので、地方官が言い訳ができるように、表面的にはもっともらしくする。
胡斐は義憤を感じて、一面識もなかった農民を助けようとして、鳳天南の縄張りを荒らすが、若さ故の甘さがあり、助けることができず、鳳天南には逃げられてしまう。
北京では乾隆帝の私生児福康安が、在野の武林の抹殺を図り、福府(福康安の邸宅)で武林の掌門を集めていた。武林掌門人大会を開くという。ここに鳳天南が来るはずと、胡斐は北京まで行くことになる。
その間にいろいろな話がある。実の親を母の仇と狙う少女円性の話や、田帰農の毒で目が見えなくなった苗人鳳を治すため、毒手薬王のところに急行する話が柱。鳳天南の話は隅に追いやられているが、忘れたわけではない。毒手薬王の少女弟子程霊素はいろいろと胡斐を助ける。
その武林掌門人大会は、武林の勢力争いで自滅するよう仕掛けたものだったが、胡斐たちは見破り、大乱闘になったりして大会を壊してしまう。鳳天南はその場で死ぬ。
表面的にはこのように話が流れるが、著者によれば、続編の「雪山飛狐」の本当の主人公は亡くなった胡一刀であるという。胡斐が生まれた頃に亡くなった胡斐の父親である。だから胡斐の性格描写はあっさりしている。それを細かく書いたのがこの外伝だ。
胡斐は父の武技書を受け継ぎ刀法を身につけ、父の仇を捜し父の死の真相を知ろうとする。様々な登場人物が、胡一刀の故事にからんでくる。胡斐に恋して犠牲となる少女程霊素の操る毒も、胡一刀の死に関係があるのだった。
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初めて読んだとき、次のように書いている。
第2巻 愛憎の父娘
この中に気になる文があった。
「…負けたら、……をさせていただきます」
この言い方があちこちに出てくる。お互いに譲り合っている場合ならかまわないが、そうではない。
本来「勝ったら…をさせて頂きます。負けたら…を致します」と言うべきところである。
賭は勝った方が我を通し、負けた方が譲るものだが、これでは逆になってしまう。
言葉は変化するので、今の時点では間違いと言い切れないが、この言葉が出てくるたびに、前後を読み返して、「いただく」のか「いたす」のか意味を確認している。
この話、今回は全然引っかからなかった。この使い方を目にすることが多くなり、抵抗感が薄れたし、ここでは話の流れで、意味がはっきりしているからだ。前は「意味はこういう意味なのになぜわざと逆にいうのだろう」と念のため「わざという」理由を確認したのだ。
江戸の時代劇でも商人が多く使っている。してみると商人言葉が始まりか。
射G三部作といわれる作品群があるが、書剣恩仇録・飛狐外伝・雪山飛狐をもって、反清三部作と名付けたい。
主人公の胡斐は「こひ」と読む。「こい」ではない。わたしはこの本を再読するまで「こい」と記憶していた。甲斐武田の「斐」だったからだ。
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2019.8.16追記
いままで何度も読んでいるのに、記憶にない文がある。もちろん覚えていないという意味でなく、当然覚えていなければならない状況である。
文庫本第一巻 P70 苗人鳳は、
その隙に逃げようとする人足の後頭部を掴むと、気合いもろとも抛り投げる。人足は糸の切れた凧のように、数十丈もすっ飛んだあげく、雪の上にしたたか叩きつけられた。 いままで読んでいたときは、数十丈がどんな距離か判らず、漠然と遠くへ投げたと思っていた。
ところが当時の丈は、ほぼ日本と同じである。約3メートル。すると三十丈でも90メートルである。人足なので、六十キロくらいあるだろう。それをこんな距離を投げたのだ。もちろん筋肉の力ばかりではないにしても。
ここには出てこないが、それなら、幅跳び百メートル高飛び三十メートルは軽い軽い、ということにならないか。
文庫本第一巻 P401
袁紫衣は白馬の鞍を軽く叩き、胡斐を振り返ってにっこりすると、キリッと手綱を引き絞った。白馬は助走もつけず、いきなりひらりと飛び上がると、十余輌の塩車を飛び越え、北に向かって、駆け出すや、たちまち影も形も見えなくなった。 ここでいう塩車がどんな車か知らないが、古い言葉に「驥服塩車」(きふくえんしゃ)がある。これと同じなら、馬に引かせるほどの車である。かなり大きい。幅1メートル以上はあるだろう。十余輌なら十余メートル。二十メートルもあるか。
袁紫衣の白馬は助走なしで、十余メートル飛び超えたのだ。馬まで内力があるのか? 袁紫衣の軽功によるのか。
その後を読むためには、知っていなければならないのだ。それを意識していなかった。
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あらすじなどはこちらに
雪山飛狐・飛狐外伝