2022年08月24日

松本5 あがたの森公園

あがたの森公園

 あがたといえば「県」という字が思い浮かぶ。
 調べてみたら、元は県神社(あがたじんじゃ)の森の跡であった。
 そこに旧制の松本高校ができた。何度も言うが日本登山のメッカであった。
 現在は「あがたの森公園」となっている。松本駅から東へ1.5キロ。 
 歩いていると、高校生らしき群れの中に入る。そしてその人たちは公園の入り口から吸い込まれる。
 地図で見ると、高校3校が近くにある。松本県ケ丘高等学校、エクセラン高等学校、松商学園高等学校。

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 あがたの森公園入り口、右には「松本等學校跡地」とある。

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 古い建物は閉まっていて、文化会館移転のお知らせがある。

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 重要文化財、旧松本等學校講堂

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 コーヒーショップがある。入らなかった。

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 進むと大木が目につく。右の方へ行く。

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 公園らしい明るい場所に出た。

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 庭園風になる。

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 橋の側に四阿がある。

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 四阿はかなり大きい、池もそれなりに広い。

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 平和の誓い
 タイミングが悪かった。午後遅くが良いか。

 公園の外へ出て、松商学園の南側へ行くと薄川がある。川に沿って歩く。
 川の向こう側は、地図では「アルプス展望のしののめみち」とあるが、古道なのか。
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 工事中ながら、水は清い。この上は右に曲がり、山間になるとはいえ、人家は多い。水質に気をつけているのだろう。

 途中で筑摩神社(つかまじんじゃ)が目に入った。重要文化財に指定された由緒のある神社であるが、残念ながら、わたしの興味は引かなかった。

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 正面から見て左側。

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 こちらが正面になる。

 神道は教えのない宗教とも言われる。訓戒を垂れることはないし、宗教人としての定まった規程はない。
 価値は人々が大事にしてきたという歴史のみだ。それ故、解説者がいないと価値や意味が判らない。一応正面から手を合わせてきたが、見ず知らずの人が手を合わせる、そこが価値かも知れない。
posted by たくせん(謫仙) at 15:09| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月21日

松本4 アルプス公園

アルプス公園

 松本駅から北へ三キロほど行くと、アルプス公園がある。道路では四キロくらいか。
   アルプス公案内 案内
 交通の便が悪く、バスの便は一日2便、計画的に行かないと難しい。涼しい時期なら、歩いてもいけるが……。わたしはタクシーを使った。着いたとき運転手は「こんな何もない山道ばかりですよ」という。「この公園は昔は牧場であった」ともいう。
 南入口から入る。かなり広い。
 ほとんど人はいない。マレットゴルフ場だけはパラパラと人がいた。
 
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 少し歩くと「山と自然博物館」がある。

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 展望台(無料)に上がり、そして小さな博物館(有料)を見学する。最後までわたし一人だった。
 展望台では安曇野が一望できる。また北アルプス銀座通りが見える。

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 南西方向

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 感覚的にはこちらが展望の正面。

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 西方向 目立つのが常念岳、その右が横通岳。その右は大天井岳など。

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 北西方向は、豊科か。

 下に降りて、博物館に入る。
   山と自然博物館 案内

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 デーラボッチのイメージ像、こどもの遊び場になりそうだが、今は禁止。コロナウイルス問題が収まるまでか。
 動植物や岩石の標本。また登山の歴史など。わたしは興味深かった。
 

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 この辺りはこども連れがちらほら。

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 判りにくいがミニ動物園がある。
 ここからは写真がない。疲れてきたのかな。小川に沿って、中央辺りの池に出る。
 ここからは本格的な山の中。公園の地図で見ると北東側半分である。約半周し東側の外に出る。広い道を歩いていると、紅葉を見つけた。

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 楓の若葉か。
 地図を見たりしたがバス路線もなく、タクシーも通りそうにない。
 また公園内に入る。小さいが谷側に降りる。高低差はかなりある。
 地図では、16ふれあいの水辺。こういう所は好きだが、なんと行き止まり。

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 谷の先には高い橋が架かっている。
 坂道を登って引き返す。高い橋の方向に向かって坂道を歩く。ここで「こんにちは」と挨拶する女性に出会った。「こんにちは」
 なんとかという小鳥の写真を撮りに来たのだが、全然姿を現さない。むこうでは声が聞こえました?
 谷底にしばらくいたのですが、気がつきませんでした。午前中には、博物館の方で鶯の声がしましたけど。 
 今日は無理かな。
 詳しそうなので、松元駅の方に行くバス路線のことを訊いてみた。
 それではわたしも谷に降りることは止めて帰ることにするので、車で送ってあげましょう。すぐそこの東入口駐車場です。
 先の高い橋を渡ったら広い駐車場だった。
 神奈川県からこちらに来て30年になるという。わたしは松本に一週間の予定というとびっくりしていた。いろいろ話をしていると、あっという間に松本駅に着いた。
 今回の松本旅行で、一番印象に残ったありがたいことだった。

 六時過ぎ、食事をしようと蕎麦屋に行くともう終わりです、と言われた。 
 「蕎麦が売り切れてしまったので、今日は閉めます」
 別の日にその店に入り、馬刺しと盛りそばを注文した。馬刺しが先に出たので、ゆっくり食べていると蕎麦が来た。
 半分残った馬刺しの皿を脇によけて、「伸びてしまいますから、こちらから先に召し上がってください」と言われた。
posted by たくせん(謫仙) at 14:11| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月12日

松本3 松本城(後)

松本城(後)

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 外堀である。外堀は東側だけが残り、南側と西側は埋められている。
 水は浅いが澄んでいる。昔からこんなに浅かったか。鯉が背びれを出して泳いでも水が濁る。

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 二の丸裏御門橋。この橋は通ることができる。二の丸の北端である。

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 松本は扇状地。松本城も全体的に土地が傾いている。そのため、堀も何カ所か区切り、水門で水を調節している。黒門前でも区切られていた。

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 巨木が多い。松本神社の前。ここは城の北側、わたしの背中は堀。

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 埋橋。この橋は通れなかった。老朽化している。

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 南側から。こうして二の丸から見ると内堀は庭の池のようだ。それゆえ、外堀が必要だったのかもしれない。

 入り口にあったそば屋で手打ち蕎麦を食べて、今度は総堀の跡をたどる。
 総堀はほとんど埋められ、地図東側上部ににわずかに残っているだけだ。かなり歩いたような気がするが、地図で見るとたいした距離ではない。

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 黄菖蒲が咲いているように、かなり浅い。底がはっきり見える。
 道は北に向かってわずかな上り坂である。扇状地の特徴だ。

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 総堀の北の端を曲がると堀は終わり、凹んだ埋め立て地になる。そこには自噴井戸がある。ここもブラタモリで紹介されたところだ。
 松本の周りは高い山。その昔、山を目指した男の子は松本高校に集まった。そんな地形が、各地で水を湧き出させる。
 ブラタモリの松本編を見た人は、町中のあちこちの自噴井戸に驚いたかもしれない。
わたしも歩いていて、7カ所の自噴井戸を見た。2カ所で水の補給もした。

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 左の道とくらべ、これだけ凹んでいる。

 西へ歩く。総堀跡は土地が低いので判りやすい。

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 北馬場柳の井戸

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 水質に対する注意書きがある。ここ以外では見たことがない。

 外堀復元予定地で水質に問題あったという記事を見た。どのように埋め立てたのか気になるところ。市街地はビルが建ち並び、それも水質に影響しないのか。
 ここから西側の総堀の跡らしき道を歩く。

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 説明がないが、ここは総堀の跡である。ここもブラタモリで説明していた。

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 西総堀土塁公園。
 わずかに残された土塁の一部。説明がないと通り過ぎたであろう。延長約二キロ。
 総堀を掘ったその土で作った。往時にはこの上に塀があった。


 地図のはじめで説明した、女鳥羽川と総堀の境の土手は、狭いながら繁華街だったらしい。
 今は総堀は埋められているが、それでも旧土手道は、縄手通り商店街として、人気がある。

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 縄手通り入り口。

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 自動車は入れない。

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 時間が遅かった。

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 別な日の縄手通り。ここにも自噴井戸。肝心の賑やかな街の写真がない。残念。水をくむのは順番待ちだったのに。

 女鳥羽川の河原に降りる。かなり濁っている。上流には人家や農地があるのだ。
 この川は総堀の南側を横に流れている。かなり整形したと思われる。ブラタモリでは、本来、城の西側を流れていたのではないかという説を紹介していた。

 二百メートルほど下流に、南方から流入する水を見つけた。

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 まるで上水だ。自噴する水を集めたのか。
 濁った女鳥羽川に流れ出るが、対比が著しい。 
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2022年08月10日

松本2 松本城(前)

松本城(前)
 わたしはその日泊まるホテルに荷物を預け、歩いて松本城に向かった。二回に分ける。
 松本城は国宝である。よく俗称として烏城(からすじょう)と言われると記述されているが、過去の文献にはなく誤りという説がある。初出はなんと昭和41年。
 なお岡山城は烏城(うじょう)。

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 女鳥羽川(めとばがわ)を渡ると一応松本城のエリアになるが、知らないとわかりにくい。
 道は一応クランクになっている。大手門の跡であり、枡形虎口があったので道はずれているのだ。

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 女鳥羽川はそれほど広い川ではない。街中としては大きいか。

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 この図の左右中央の下に大手門。
 女鳥羽川が下辺に横に流れ、その北側の土手を挟んで、総堀があった。薄い青は埋められている。
 松本城は一応、本丸の周りを内堀。二の丸と三の丸の間を外堀としている。その周りにほとんど埋められている総堀がある。
 内堀・外堀・総堀さらに女鳥羽川も4番目の堀の役を担う。しかし、現在の内堀と外堀で半二重の内堀、そして総堀が外堀と見るのが自然だ。
 総堀は右上にわずかに残っている。青い部分。
 外堀は図でも判るように南と西が埋められている。現在復元計画中なのだが、どこまで進んでいるか。

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 大手門からまっすぐに外堀まで。右は堀。この左側は残念ながら埋められてしまっている。ただし、外堀が復元されたら、そば屋の位置は堀になるのかな。
 古地図では、ここには道はなく、右に回り太鼓門から二の丸に入ったようだ。
 現在はまっすぐに、この堀を越えれば「二の丸」地域。

 これからのことは、二日分の行程だが、説明は分けていない。

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 内堀の向こう側が黒門。威厳をもって客を迎える。

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 この道を通って入る。この道は橋ではない。左右の堀では水面の高さが違う。それにしてもかなり浅い。

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 内堀を渡り、入場料を払って、黒門を通る。

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 芝生は本丸の位置が示されている。正面に天守閣。
 かなり前だが、わたしは松本城に来たことがある。そのときは、手前辺りに有料ロッカーがあったが、ほとんどの観光客はロッカーを使わず、この辺りに適当に荷物を置いて天守閣に登っていた。わたしもそうした。今ではあり得ない。

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 赤い欄干の部分は三代家光を迎えるために建て増ししたが、ドタキャンされたという。
 ブラタモリの松本編を見た人は、この辺りの説明を思い出して欲しい。

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 ここから天守閣に登る。
 天守閣の階段は狭くて急で、係員が交通整理をし、「横歩きがよい」と歩き方を説明しているほど。上では写真どころではなかった。
 で、昔の写真で代用

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 下に降りればホッとする、ゆったりした空間。


 黒門から出ると、古図の右の方へ歩く。ここには博物館があったのに、引っ越し工事中で、すでに廃館。建物のみ。
 太鼓門の方へ進み、その先の二の丸御殿跡に行く。

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 二の丸御殿跡はこのように区割りされている。縄で囲まれているが、一カ所開いていて、中に入れる。律儀に誰も縄をまたがない。

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 戻って太鼓門から外へ出る。

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 枡形になってるので主要な門だ。

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 太鼓門を外から。
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2022年08月06日

松本1 碁会

 今年の5月に小林千寿六段主催の囲碁合宿で松本に行った。その後ひとりで松本市内を歩いた。
 有名観光地なのでいまさらだが、いくつか紹介する。
 まずは、松本美術館だ。
 後でホテルの人から、「開いていたンですか」とびっくりされた。つい先日まで、コロナウイルスの影響で、休館だったそうだ。
 この美術館はなんと言っても草間彌生だ。

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 本来、草間彌生の常設展があるらしいが、このときは、正倉院展でお休み。
 正倉院御物は、もちろん複製だが、かなり精巧で見て良かった。
 その後に駅前に集合した。アンティ・トルマネン初段夫妻も山形から駆けつけてくれた。ホテルのマイクロバスで会場つまりホテルに向かう。
 
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 ホテルから見た松本市。

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 ひときわ目立つのが常念岳。その右の常念乗越の常念小屋に泊まったことがあるが、いまは想い出。
 次の朝、朝食前に、近くの見はらし台まで登った。

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 その途中で見つけた藤によく似た花、蔓ではないので、藤ではなさそう。ニセアカシアと教えてもらった。
 多くの松が切り倒されて重ねられている。椎茸のホダ木には使えないし、山道の景観のためか。そう思っていたら、辺り一帯の松の木が松食い虫に荒らされていたのだった。

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 見晴台の景色。かなり広く見えた。

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 北アルプス。

 碁会2日目は、地元の囲碁会との合同碁会。会場に行くマイクロバスでなんと乗り物酔い。ウワー。もう写真を撮る余裕はない。

 両先生の指導碁は地元の方に譲り、わたしたちは対局に専念。わたしの二人目は中校生らしい女の子。なんと何にも話さない。終局寸前に相手が間違えて、大石が死んでしまった。それでも考えているので、「ここで終わりにしましょう」と声をかけた。少し感想も言ったが、それでも無言。
 昼休みになったので、小林先生のお嬢さんにそっと訊いた。
「あの子は話せないンですか」
「いえ、そんなことはない。普通に話してますよ。高齢の男の人相手なので遠慮したンじゃないかしら」
 午後、手空きのようなので声をかけた。
「もう一度、わたしと打ちませんか」
「イヤダッ」

 三日目は朝食の後解散。多くの人はゴルフに行き、わたしたち残り三人は皆に遅れて駅近くまで送ってもらう。
posted by たくせん(謫仙) at 15:03| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月26日

小田原 土塁

小田原 土塁

 土塁の前に小田原を潤した上水道を見る。

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 早川に堰を作り、一部を分流させた。
 右が城下への分流である。

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 取水口の様子である。現在はほとんど流れていなかった。

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 取水口から下流を見る。

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 ここから土手(国道)の下をくぐり、城下へ続く。
 写真を撮り損ねたが、狭い水路であった。
 この水路が江戸の上水道の原点という。

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 小田原城は総構(そうがまえ)で知られている。城下全体を守っている。秀吉の小田原攻めに備えた。これを知った諸将は、小田原の戦いの後、自らの城下にも総構を施した。
 会津では役に立たなかったことは前に書いた。守る兵がいなかったのだ。

 ところでわたしは何度か中国旅行をしているが、中国の城とはこの総構である。それはレンガや土の塀である。だから城とは総構の都市を指す。戦国時代の人も知っていたはずで、これまで総構の考え方がなかったのが、不思議に思えるほど。日本なりの事情があった。
(以下、グーグル地図を見ても判りにくいが、★印で検索すると出てくる)
 
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 国指定史跡 小田原城跡 総構 城下張出(平場)★
 小田原の前は海、後ろは丘陵。その丘陵に施した総構(そうがまえ)の一部である。
 城下張出(しろしたはりだし)とは、突出した部分で、総構に取り付く敵を横から攻撃した。

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 ブラタモリで見たような…、ここから堀を見る。

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 総構 城下張出(堀)
 調査の結果、総構の土塁の一部がある程度判ってきた。
 一帯は立ち入り禁止である。ポリの紐で囲っているだけなので不心得者は入ることができるが、あえて入る気はしない。このときはわたしひとり。

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 違った位置から。

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 大きく巻いて、下に降りて、脇から見る。
 民家が映り込むのは申し訳ない。

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 近くの畑であるが、ここは堀を埋めた。その跡が階段状の農地になっているが、判りにくい。

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 三の丸外郭 新堀土塁 ★
 ここは総構を構築する前からあった。総構ができて、その内側の堀となった。

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 段になっている。

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 一番上はこんな石がある。建物の礎石だろうか。

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 高低差はさほどではない。上からは見晴らしはよい。鎧武者が歩いて上るのは無理だが、もう鉄砲の時代である。
 見張りと砲台の役目であろう。

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 四角くへこんでいるのは建物の跡か。

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小峯御鐘ノ台大堀切東堀 ★
こみねおかねのだい

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 三の丸外郭 新堀土塁に隣接して総構の堀切がある。

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 この空堀の説明。

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 かなり急な空堀だが、秀吉の大軍を前にして、役に立ったのだろうか。
 秀吉には、一夜城を作る土木力があり、戦いに備えていても、戦闘のない十万を超える兵士がいる。その力で数ヶ月かければ、これら堀を埋めて崩してしまえるのではないか。
 そもそも秀吉の戦いは、兵を死なせない戦いである。戦闘はできるだけ避けた。兵糧攻めや水攻めである。そのためには金を惜しまない。
 それまでの戦いは遠征軍は補給が続かないため、短期決戦で乗り切ろうとした。しかし秀吉軍は補給は問題ないので、決戦はせず、にらみ合うのみである。却って籠城軍の方に補給の問題が生じる。
 こういう空堀は、短期決戦のときには役に立つだろうが、長期に渡ってにらみ合う場合は効果が薄い。もしかすると秀吉は、逆に城を包囲する堀として利用した可能性も考えられる。

 この右が、城山公園である。なんと立ち入り禁止になっていた。

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 大外郭堀 ★
 少し戻って西へ行くと、未調査の空堀がある。
 大外郭堀である。
 下は山道らしき道があるようだ。行きたいと思わなかったが、写真で見るときちんとした道がある。降りて見ておくべきだった。

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 堀の土を盛り上げた。

 引き返すと、森の中にも堀があると説明があるので入ってみた。

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 小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北の端か。
 これが堀の土を盛り上げたのであろう。この左が堀である。右側は民家である。
 
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 急な斜面の下は堀であるが、山道らしい。さほど深くはない。

 ここから民家の前の道に出た。
 一時間ほど山の中をさまよったような気になったが、地図で見ると、民家と畑の間にある細い藪を歩いていたようだ。(^_^)。

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 山ノ神堀切 ★
 未調査である。当然もっと深かったはず。

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 山ノ神堀切の向こう側、脇に詳しい説明がある。

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 先に触れた城山公園だが、立入禁止になっている。これもポリひもで囲んであるのみ。自由に出入りしている。
 禁止理由は、「先の台風で枝が折れたりしていて落下の危険がある」という。
 一目見て、こんな安全な山は滅多にないと思うが、実はここは山の中ではなく、住宅街の中の公園であった。
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2019年09月22日

小田原

 9月14日小田原に行く。

 小田原の手前の駅で、派手な衣装で派手なメイクの若い女性たちが乗り込んできた。衣装の背側には「疾風乱舞」の文字が躍っている。
 小田原の駅で、9月14〜15日の二日間、「第21回えっさ“ホイ”おどり」のイベントがあることを紹介していた。

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 ホテルに荷物を預け、小田原城へ向かう。

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 お堀の外側を正門の方へ歩いて行くと、様々な衣装の人たちに会う。その人たちは、この「学橋」から入っていく。
 わたしは少し先の馬出門から入る。

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 この辺りに来ると、あの歌をアレンジした、歌声が繰り返し流れてくる。
♪えっさほいさっさ
♪えっさほいさっさ
♪えーさ、えーさ、えっさほいさっさ

「えっさ“ホイ”踊り」はこの歌を基調にした踊りだったのだ。

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 馬出門から馬屋曲輪へ

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 住吉橋

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 銅門を通ると、ここが第二会場だった。

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 100チームを遙かに超える予定表があるが、1チームが2回ないし3回出ているので、チーム数は判らない。50チーム以上と思える。4年前に50チームを超えたという。

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 銅門に上る。

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 木立の向こうが二の丸跡で、第一会場。
 
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 第一会場には屋台が多く、テントの向こうに舞台が設置されている。
 お堀端通り会場(15日のみ)と栄町会場もあるが、様子は判らない。

 イベントはここまでにして、天守閣へ向かう。

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 イヌマキの巨木の脇を通り

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 常磐木門

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 新しくなった天守閣
 城が大きいのに天守閣は三層なので、小さく見える。しかし、各地の天守閣と比べると、小さくはない。
 手前の広場は本丸の跡。

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 手前の松に気をとられたが、向こうの巨木は何だろう。写真を見て気がついた。

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 天守閣に入る。模型があった。これで見ると昔は学橋はない。

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 手前の鉄塔が建っている山が一夜城の石垣山。
 実際には築城は約八十日かかったらしい。それを隠していたのが通説らしいが、本当に北条方は気づかなかったか、疑問に思っている。

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 真鶴半島、その向こうに霞んでいるのは伊豆半島。
 大島ははっきりしなかった。

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 遊園地の近く。天守の裏の方の石垣や土塁。

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 正面とは趣が異なる。

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 北入口の道の脇、よくぞここまで育った。


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 城内の郷土文化館前のクスノキ
 郷土文化館の見学者はわたしひとり。

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 市中も歩いた。ここはかまぼこ通り。趣のない街だった。
 昔はこの通りが繁華街だったのではないか。工場は残っても販売所は移動したか。
 浜が近い。浜は砂ではなく小石の浜であった。

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 これは実用の鐘であったが、わびしく立っている。
 昔日の大手門に近い辺り。本来の位置からここに移した。

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 山王川
 この川に沿って歩き、途中から駅に向かう。
 途中は細い道が不規則に通る。古い区割りだが、家は新しい。
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2019年07月21日

奈良12 余録

奈良余録

 まとまった量はないが、残った写真を並べてみます。

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 円窓亭
 博物館の南、浮見堂の近く。

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 荒池から鷺池へ行く。鷺池を横切って浅茅が原・浮見堂がある。

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 元興寺に行く途中の街角。

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 入江泰吉記念奈良市写真美術館。新薬師寺の近くにある。

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 下の禰宜道(ささやきの小径)の古藤。
 春日大社の神官の通勤路であった。

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 春日大社に参拝した。

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 境内の大杉、樹齢は約千年。
 根元にあるのは岩本神社、これ以外にも垣内に十五神社あり、若宮辺りにも15社
 全部併せて春日大社である。わたしのような不信心者には理解不能。法人格は別々だろうか。

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 若宮神社への道。奥からから春日大社方向を見る。

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 周辺には大木が多い。

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 東大寺戒壇院の庭。

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 戒壇院の四天王像には圧倒される。厳しく整って、個性がある。
 塑像である。前に見たときと比べて埃が目立つ。
 戒壇院を管理している女性に訊いてみた。
「国宝なので、触ることはできないンです。うっかり触って剥がれ落ちたら大変です。風を当てることもできません。乾燥して、目に見えないほど小さな部分が吹き飛ぶかもしれません。だからいくら埃がたまっても、そのままにしておくように言われています。大仏の様な金属なら掃除できるのですけど」
 あちこちの塑像を見るとき、いつも埃がたまっているのを納得した。

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 春日野園地。若草山下の広場は、東大寺南大門の東、百メートルほど。
 鹿には煎餅より若草が似合う。

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 帰りに見つけた出店。中国語と日本語を並べている。ビールの文字が楷書体にないので明朝体を使っている(^_^)。

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 郡山城を目指す。

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 天主台が復元補修されている。戦国の世にこの城を作るとき、石の地蔵まで石垣に使っている。

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 逆さの石地蔵が、わずかに見える。いかに急造だったか判る。

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 今でも堀の石垣を補修している。

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 歩いて大池に来た。

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 グーグル地図の写真だが、大池から見た薬師寺。
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2019年07月18日

奈良11 唐招提寺

唐招提寺

 薬師寺を出て、唐招提寺に行く。
 鑑真和上(がんじんわじょう)で名高い寺である。

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 この道を通り北へ五百メートルほど歩くと、唐招提寺につく。

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 門にも円柱が使われている。

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 金堂
 国宝である。重厚で質素なイメージがした。鑑真没後に建てられている。
 ここでは若い中国人らしき人が多かった。中国人は仏閣には興味がないと聞いていたが、意識が変わったのか。例外か。

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 ギリシャの宮殿のような円柱が特徴である。
 もちろん木の柱である。

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 経蔵
 日本最古の校倉、宝蔵とともに国宝。

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校倉造りの建物が二棟並んでいる。向こうが宝蔵で、その先を右に行くと、新宝蔵がある。
 新宝蔵はかなり充実している。ガイド(?)がいて、説明してくれた。
 開館期間が限られる、というより、夏と冬は開館しないので、見たい人は確認してください。正月は開館します。

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 礼堂と東室が続いている。
 僧坊であった。北と西にもあったが、現在は東だけが残っている。

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 鑑真和上御廟

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 御廟前

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 戒壇であるが、台の上の建物は火災により焼失、1978年(昭和53年)に宝塔が築かれた。インド様である。

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 金堂の前面、八本の円柱が目立つ。

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 時間がなく、ここまでで終わりにしたが、講堂や鼓楼なども他にもいくつか見たいところがあった。
 急ぎ足のため、写真を撮り損ねたところが多く、自分ながら満足できない紹介になった。この寺も前回見た記憶と一変している。いかに記憶とは曖昧なものか。
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2019年07月14日

奈良10 薬師寺

薬師寺

 薬師寺は飛鳥の地に建立(698年ごろ完成)されたが、平城京遷都(710年)に伴い現在地に移された。
 南都七大寺の一つである。
 戦国時代の1528年に戦災に遭い、東塔以外は焼け落ちてしまった。
 1967年(昭和42年)に白鳳伽藍の復興が発願された。1981年(昭和56年)に西塔が再建され、2017年(平成29年)に食堂(じきどう)が再建され、堂宇がよみがえった。
 現在は傷んだ東塔の解体修理に取り組んでいる。

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 白鳳伽藍の北に玄奘三蔵院伽藍があり、広大な地域である。
 西ノ京駅で降りて、北受付から入る。
 南門が本来の正門であり、西ノ京駅からは、裏から入ることになるので、紹介の順序が普通とは逆になる。

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 案内に沿って、東僧坊を抜ける。

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 東僧坊を南側から見る。

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 食堂(じきどう)。金堂の北側にある。
 ここは2017年(平成29年)にできたばかり。本来は食堂だが、再建した現在は、名は食堂でも多目的な用途に使うと思われる。今は田淵敏夫の「仏教伝来の道」の絵画が展示されている。
 遣唐使が船出して帰ってくる。その日本の各地の様子である。

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 大講堂
 最大の建物である。仏道修行の場であり、金堂より大事な場所である(はず)。

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 金堂
 薬師寺の名のもとになった、国宝の薬師三尊像を納める。
 薬師如来の両脇に日光菩薩・月光菩薩がいる。

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 鐘堂は目立たない。
 普通は高いところにあるが、ここでは、地面と同じ高さにある。

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 東塔、現在は解体修理中。

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 東回廊、東塔の東側にある。

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 東院堂
 鎌倉時代の建物で国宝である。
 中の聖観音菩薩も国宝、白鳳時代。

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 東院堂は中に入って見学ができる。
 この日は高校生らしき一団に説法をしていた。

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 東院縁起

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 竜王社
 西には若宮社、南門の外には八幡宮や稲荷神社もある。

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 南門、堂宇の配置から考えて、この南門が本来の正門であろう。
 中を通り、北に戻る。

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 中門
 南門から入ると、中門の向こう正面が金堂である。

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 中門
 中に入ると、左右に三重の塔がある。

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 中門の仁王

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 三重塔、各階に裳階(もこし)があり、六重にも見えるが、裳階は小さい。
 フェノロサに「凍れる音楽」と激賞されたとか。もっとも出所は不明らしい。薬師寺の説明にはない。

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 こう見ると三重であることがよく分かる。

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 金堂にも三重塔と同じく裳階(もこし)がある。

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 大講堂を南側から。これにも裳階がある。

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 振り返って、金堂と西塔。

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 北受付の出入り口から出て、北側の玄奘三蔵院伽藍の地域に入る。

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 空間たっぷりの敷地だ。

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 玄奘三蔵院
 中に大唐西域壁画殿があり、平山郁夫の三蔵取教の旅の絵がある。

 こうして見所たっぷりの参拝であった。
 寺全体を作り直したと言っても過言ではない。前回見たときから残っているのは東塔と東院堂だけだろう。
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2019年07月09日

奈良9 白毫寺

白毫寺・新薬師寺

 新薬師寺に参拝して、さほど遠くない(1キロくらい?)、白毫寺(びゃくごうじ)に参拝した。
 高円山のふもとにあり、境内からの展望はよい。
 伝承によれば、白毫寺の地には奈良時代に志貴皇子の山荘があったとされ、没後に寺になった。鎌倉期に再興され白毫寺となる。

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 この突き当たりが白毫寺の入り口。

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 タクシーで来た二人は、元気に階段を上っていった。
   ながめのよい花のてら 白毫寺

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 山門

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 山門を通りさらに上る。参拝受付はこの上。

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 本堂
 戦国時代に戦災に遭い、江戸時代の初めに復興された。
 装飾のほとんどない簡素な建物である。装飾は写真に見える程度である。

 写真はないが、本堂の裏手に宝蔵があり、自由に見ることができる。優れた像が多い。

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 奈良市一望と言いたいが、どこだか判らない。

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 狭いながらも石庭がある。

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 十王地蔵。この右に小さな石像が続く。

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 石仏の道

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 不動明王は、かなり欠けて形が定かでない。
 右の小さな像は、新しくはっきりしている。

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 失礼ながら、ほとんどは見るべきほどのものはない。こう考えるとき、わたしに宗教心がないことを自覚する。

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「白毫寺」と名付けられた大椿。樹齢約五百年と推定されている。

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 石仏の道の終わり、この階段の上右に大椿がある。

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 天然記念物の五色椿

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 白・紅・紅白などに咲くという。

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 近くに別な椿がある。

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 いくつか落花していたが、形の整ったのはこの一輪のみ、写真では真っ白に潰れてしまった。
 大きな八重椿である。
 最後の一輪か。上の写真の左の樹に咲いた花と思える。

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 志貴皇子をしのんだ万葉歌碑

  高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに

 さほど古いとは思われなかった。

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 今回の旅行で、イチハツ・アヤメ・カキツバタ・ハナショウブの区別がつくようになった(と思う)。

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 満足して長い階段を下る。

 知っている人には余計な説明だが、白毫とは何か。
 仏には身体時特徴として三十二相 (三十二相八十種好 )が備わっている。そのうちの一つで、額の白い毛である。巻き毛になっていて、光を放ち世界を照らす、第三の眼のような枠割りをする。
 他には、指の間に水かき(のようなもの)がある。
 頭の中央が大きく盛り上がっている。(ヘアースタイルではない)
 足裏には太陽の印がある。(仏足石にある)
 舌は長広舌である。(長く広いの意味で、おしゃべりの意味ではない)
などだが、どうでも良いようなものもある。
 三十二相八十種好から「相好を崩す」という言葉が生まれた。
 古代インド人は何でも数字でまとめることが多い。記憶のためであろう。たとえば苦しみは四苦八苦のように。32相80種好も、無理矢理数合わせで、これだけ思いついたようなもの。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 白毫寺への道の途中で新薬師寺に参拝する。
 新とは「霊験あらたか」の意味。創建は747年で、大寺であったが、落雷や台風で、多くの堂宇を失い、今の本堂だけが残っている。
 南門から入った。

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 本堂、創建当初の建造物。国宝である。
 中には中心に円形の土壇があり、薬師如来座像(国宝)と、外側に向って十二神将が安置されている。
 前に来た記憶では、土壇には薬師如来だけかな。四方の壁に十二神将が中を向いて安置されていた。移動したのか、記憶違いか。

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 地蔵堂
 鎌倉時代の建物。中は見なかった。

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 ここから庫裏に行く。

 このほか、鐘楼、南門が鎌倉時代の建物。
 東門は南門より古く、いずれも質素な作りだ。なんと写真がない。

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2019年07月06日

奈良8 元興寺とその周辺

元興寺とその周辺

 奈良の古地図を見ると、4大寺が目に入る。
 東大寺・西大寺・興福寺・元興寺(がんごうじ)などである。
 元興寺は今は大きくはない。
試しにグーグル地図で、元興寺と元興寺町を検索してみるとよい。百メートルも離れていてびっくりする。元興寺町は元興寺の南大門のあったあたり。
 元興寺の旧域は南北に約五百メートル・東西に約二百五十メートルあったという。

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 東門、重文である。もと東大寺にあった門を、1411年に極楽坊の正門として移築した。
 1977年、名も元興寺極楽坊から元興寺に改めた。最近のことである。
 元の元興寺は飛鳥寺を移築した。その一部が残って極楽坊となった。元の元興寺とは異なる寺といえるだろう。そして名を復元した。

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 極楽坊、国宝である。本堂として使われているが、僧坊を改造した建物。

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 法輪館、仏像などの収蔵室である。二階からとなりの建物へ行くと、灯籠の絵の展示場がある。多くの著名人の名が見られる。

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 極楽坊を横から

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 右 極楽坊。左 禅室。
 禅室は極楽坊の後ろに続く。注目すべきはこの屋根瓦である。日本の瓦ではもっとも古いといわれている。
 禅室は戸で塞がれていた。

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 浮図田
 境内に積み上げられていた石を、1988年(昭和63)、現在の形に並べなおした。

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 ここを歩くと身が引き締まる想いがする。

 続いて、寺の周辺を歩く。
 緩い坂道が多く、道も狭い。もと元興寺の境内や周辺で、元興寺の建物の形に添って道ができて、複雑な形をしている。古い街でもある。以下説明はなし。

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 駅近くの商店街に戻ってきた。

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 商店街にサテライト放送局がある。
 今の道の混み具合を放送していた。
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2019年07月04日

奈良7 歌姫

歌姫

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 水上池の西側。細い堤で南北に区切られ、その北側の池である。
 平城宮の北に東からウワナベ古墳・コナベ古墳・水上池と並んでいる。
 水上池の北にはヒシャゲ古墳があるが、整備されていないので、ほとんど見えない。二重堀の大きな古墳だ。

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 ヒシャゲ古墳
 南西の隅っこを見ただけだが、一周すれば何か見えるのかもしれない。この辺りには古墳が群れている。

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 ハシガミ池の東側を通る。

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 個人の家と思うが、品のある小径だ。

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 歌姫は観光地ではないが、一帯は開発が規制された里山があり、古い農村風景を残しているので、静かに見させていただく。

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 グーグルカメラも入らない細い道だ。迷路のようで迷いそうになる。

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 添御縣坐神社
 この町の心の中心であろう。
 右側の道は歌姫街道といわれる重要路だった。奈良と京都を結ぶ。

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 この神社も由緒のある神社だが、知らなかった。写真を整理していて知る。

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 少し歩くと狭い農地がある。

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 この先をさらに行くと、広い畑地に出る。

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 主要路の歌姫街道さえ狭く単車線だが、歌姫町を出ると二車線になる。この丁字路の手前右側は町外である。(この写真はグーグル地図より)

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 このバス停は町外にある。ここが終点だ。折り返しの場所が町内では作れないのだろう。ただしバスには乗らず、西大寺駅まで歩いた。
 平城駅を目指したのだが、ケータイの地図の見方を間違えた。まだ慣れていない。
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2019年07月03日

奈良6 平城京跡遺構展示館

平城京跡遺構展示館

 東院庭園から北へ歩くと遺構展示館がある。

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 推定宮内省
 
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 こうして建物の跡に、柱の位置を示す刈り込んだ樹が植えられている。

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 復元された推定宮内省の門。

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 中の建物は壁は一部分しかない。雨風には困っただろう。
 大極殿さえ前方は壁がない。

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 遺構展示館内には、こうして当時の基壇を見せている。
 三重になった柱の跡まで判る展示もある。
 館内での写真はないが、禁止ではなかったらしい。結構見所がある。

 最後になったが、平城京跡は世界文化遺産に登録されている。
 決め手となったのは大量の木簡である。書かれた文字は当時の様子を表している。
 ここらは田圃であったことから判るように低湿地である。湿地に埋まった木簡は腐らず千年前の姿を保つ。
 保管するにも水の中であり、空気にさらすとすぐに朽ちてしまう。
 平城京跡資料館で、その様子がよく判るように展示されている。

 このあと北上し、歌姫まで行った。
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2019年07月01日

奈良5 平城京跡東院庭園

平城京跡東院庭園

 朱雀門の内側を東に行く。

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 赤字の部分4カ所が復元されている。他は遺跡であり、現状は野原や田圃である。
 右下の東に突き出た部分が東院である。

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 歩く人は滅多にいないような道を歩く。他に整備された路がある。

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 東院庭園に来た。正面が庭園入り口。ここは宮域が東に突き出た所。
 右手が東院南門である。

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 東院南門内、西の方向、つまり入ってきた道である。道の突き当たりが東一坊大路。

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 東院南門、門外の東の方向、ここは宮外であろう。

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 庭園を入ると狭いながら、浄土庭園のような庭園がある。当初は中国式で、第二次の頃に和風庭園に変えた。

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 庭園の門から入って、左回りに見ていく。

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 四阿のように壁がなかったらしい。展望台のようなものか。

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 水はきれいとはいえない。

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 板塀の向こうは宇奈多理神社である。といっても参拝はしなかった。
 宇奈多理神社は式内大社らしいが、起源ははっきりしない。

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 振り向いたのだが、意外に広く感じる。

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 せっかくここまで再現しながら、水質がどうも……。

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 ほぼ一周した。形から考えて、当初からこのような形であったのか、疑問が起こる。
 宇奈多理神社に敷地の一部を侵食されたか。
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2019年06月27日

奈良4 平城京跡朱雀門

平城京跡朱雀門

 大極殿を見て、南に行く。

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 大極殿院南門
 工事中の様子をこの台の上から見ることができる。

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 朝堂院跡
 近鉄の電車が通る。その向こうに朱雀門が見える。
 朝堂院は、役人の仕事場である。両脇に建物があり、真ん中は広場であった。朱雀大路の延長のようなものである。

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 振り返ると、南門の覆いと大極殿が続いて見える。

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 朝堂院地域への門の位置。

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 この絵の一番手前にいる。

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 第一次と第二次は、位置はこのように並んでいる。第二次の時には、第一次の地域には建物はなかったと思われる。

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 朱雀門も近い。

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 今回は朱雀門を見ようと思って平城京跡へ行った。
 広い野原の中にぽつんと朱雀門がある姿を想像していたが、人気観光地になっていた。

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 朱雀門の外側は広場になっている。朱雀大路である。幅は「約70m」、と説明にある。約74メートルだったようだ。
 なお、門前の広場は、大路を含めて、東西約260メートル、南北約140メートルとみられる。

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 この絵は何だろう。古い絵があったのかな。現代の絵だろうな。
 門前広場の使い方である。記録には「天皇まで見に来た」とあるらしい。

 門前の「平城京いざない館」は充実している。
 https://www.heijo-park.go.jp/area/suzakumon/izanaikan/

「天平うまし館」で食事をした。カフェもある。

 VRシアターがある。見たと思うが記憶がない。

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 遣唐使船に乗る。二本の帆柱、甲板上には三室ある。後が遣唐大使の部屋で個室。中が賄い部屋、火も使えた可能性がある。前は雑居部屋。甲板下が荷物だが、多くの乗組員は荷物の間などにごろ寝したようだ。

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 こうしてたっぷりスペースをとっている。
 この芝生のさらに左が朱雀大路だ。

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 朱雀門を朱雀大路側から。

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 朱雀門の中側の東に、兵部省や式部省の建物跡がある。部屋のしきりと柱の跡が示されている。小さな建物であることよ。


 余談だが、「約70m」の表記にはいつも気になる。約なので70メートル前後だが、考えられる範囲は、69.5メートル以上、70.5メートル未満である。これより大きければ「約71メートル」となる。これが数字「0」の力だ。
 これが「約七十メートル」なら許容範囲は、65メートル以上〜75メートル未満で考えられる。
 実際にそこまで厳密に考えて書いたか疑問だが、新しく約74メートルと数字が出たので、訂正してほしい。
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2019年06月25日

奈良3 平城京跡大極殿

平城京跡大極殿

 電車で西大寺まで行く。そこから平城京跡まで歩く。
 わたしの知っている知識では、広い野原のなかに、区画の目印があり、近鉄奈良線が横切り、その南に朱雀門ができた。
 その朱雀門を見たいと思ったのだ。
 平城京跡の北西の外れまで来たら平城京跡資料館がある。そして平城京跡の地図があった。

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 これを見ると朱雀門ばかりでなく、いろいろなものができている。
 まずは平城京跡資料館に行く。

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 まだ時間前でもあって誰もいない。

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 左が入り口だが閉まっている。

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 辺りを三十分ほど散歩して、資料館に戻る。

「まだ時間前ですが、入って構いませんよ」と言われ入った。
「よかったらご案内します。ボランティアのガイドがいますから」
 ガイドをお願いして、二人で話しながら館内を歩く。
 暫くすると、二人の先生と小学生の団体が入ってきた。そちらも別なガイドが説明している。

 奈良時代は70年と言われるが、はじめは第一次大極殿(だいごくでん)で、一度遷都するも戻って来て、第二次大極殿を第一次大極殿跡の東側に建てた。
 この遷都の時、柱や屋根はもちろん、敷石まで運んで組み立てたという。
 戻って来たときも同じだ。建築の材料は簡単には手には入らないということだ。
平城京遷都 710年
   平城京(第一次)     〜740年
   恭仁 (くに) 京    740〜744年
   紫香楽 (しがらき) 京 744年
   難波京       744〜745年
平城京遷都 745年
   平城京(第二次)     〜784年
   長岡京       784〜794年
平安京遷都 794年

平安京遷都まで84年間を総称して奈良時代という。
平城京にしたところで、まず大極殿ができて、それから徐々に形か整ったであろう。京として計画通り完成したのかどうか。
 だから紫香楽 (しがらき) 京などは、大極殿だけ引っ越しして、街ができないうちに次に引っ越しただろう。約5年である。結局大極殿を建てる材料とともに平城京に帰ってきた。
 そんな話を聞いて、資料館を出た。

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 第一次の大極殿(だいごくでん)が見えてきた。

 復元事業情報館に入って、説明を見る。釘を使わず、材木を組み合わせる具体的な模型なども展示されている。手に取って組み合わせてみる。これだからこそ、簡単に引っ越しができるのだ。

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 仮の塀、この塀の内側が大極殿院。左の灰色の覆いは、工事中の大極殿院南門。

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 大極殿(だいごくでん)はこのアングルの写真が多い。
 最重要な建物で、国家的儀式などを行う。
 2010年(平成22年)に復元した。

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 脇から。入り口はこの面の左の方。
 屋根の二層部分は意外に小さいと思った。

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 入り口指示。

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 濡れ縁から。遠くに見える丸い植木は、ここに建物があって、その柱の位置の印。北側つまり裏側なので、内裏などがあったようだ。

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 大極殿の前の写真はこれしかない。

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 高御座(たかみくら)

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 屋根の上の真ん中にある飾り。
 屋根の左右は定番の鴟尾である。靴を横にしたような形だ。

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 天井

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 部屋の敷石

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 柱や壁は礎石の上

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 昔のまま復元したのでは、建築構造上の安全性を満たせない。基壇内部に免震装置が導入されている。

 
 余談だが、資料館には碁を打っている姿があった。奈良時代には碁は盛んに打たれていた。その盤面はよくできているが、よく見るとなんだかおかしい。イメージで言えばヌキ跡ような形なのに閉じていない。では何でそこに石がきたのか。(^_^)
 そうはいうものの、こういう展示にしては形がよくできている。よくできているから違和感が生じたのだ。
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2019年06月22日

奈良2 興福寺

興福寺

 博物館のとなりの興福寺に行ってみた。
 中金堂の建設で賑わっていた。しかしとても見学の雰囲気ではなく、宝物殿は見ずに退散した。阿修羅に会いたかったが、この雰囲気では見る気が失せた。雰囲気に飲まれて、国宝館を忘れてしまったのだ。

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 案内する地図がHPにもないので、南円堂の近くにあった地図を示す。
 なんと2010年の案内図らしい。
 寺全体を作り直ししているようで、地図が間に合わないのか。
現在、中金堂は完成したが、回廊は工事中で南大門はなかった。北円堂は見なかったが、回廊が計画されている。

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 東金堂は覚えている。

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 これは何度見ても良い。

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 東金堂と五重塔。
 この前は広い土地だったが今は中金堂回廊の工事中。

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 中金堂は完成した。中はピカピカの仏像など。他の大寺でも創建当時はこんな雰囲気だったのかな。

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 回廊の基礎工事中。
 すでに基壇は整い、礎石も埋め込まれている。
 基も礎もできていた。

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 中金堂正面、わたしの背後に中門の基礎があり、その先に南大門ができるはず。

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 南円堂もとなりの建物は記憶にない。
 整備図では西金堂があるはずだが、地図では興福寺興善院がある。塔頭かな。どうも西金堂の雰囲気ではない。
 見る気力がなくなって、あちこちの大事なところを見ないで引き上げた。

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2019年06月18日

奈良1 奈良国立博物館庭園

奈良国立博物館庭園 茶室八窓庵

 奈良国立博物館は久しぶりだ。新館ができたことも知らなかった。
 今回は「曜変天目茶碗」が展示されるので見に行った。
 曜変天目茶碗は中国からの輸入品だが、中国にはなく、日本に3点あるのみ。「曜変」も「天目」も日本で作られた言葉。5月の連休前後に、3点ともそれぞれの場所で展示されるので話題となった。
 この博物館で見られるのは、大阪の藤田美術館所蔵の曜変天目茶碗だ。
 中国では完全な品はないが、破片が見つかっているという。
 見学者は行列となり、二十分ぐらい並んだ。

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 わたしの知っているのは、「なら仏像館」の部分だけだった。

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 新館の南側に茶室八窓庵を中心にした、庭園がある。新館の見学が終わり、庭園に行く。

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 この飛び石を通り、庭園内へ行く。
 新館はこうして浅い水に囲まれている。

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 ちょうど躑躅が咲いていた。右端に八窓庵の一部が見える。

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 庭園に入ると左手にこの古木がある。

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 説明は覚えていない。

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 「奈良の八重桜」もしくは「奈良八重桜」という栽培品種。遅咲きであるとはいえ、5月9日では遅すぎた。「奈良の八重桜」といえば次の歌を思い浮かぶ。

  いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな(伊勢大輔)

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 茶室は池の向こう側であり、池を半周する。

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 ここを通れば、近道なんだが(^_^)

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 腰掛待合かな。橋を渡る前に一休みして服装など整え、亭主の迎えを待つ。

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 八窓庵
 静かな落ち着きのある建物だ。
 曜変天目茶碗を見るために並んでいた人たちは、どこに行ったのだろう。わたし一人で庭園内を歩く。

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 わたしの好きな道だ。池の突端に来た。

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 八窓庵は竹垣で囲われている。

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 ここが八窓庵の中門か。

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 八窓庵を外側から。

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 八窓庵から離れる。この石塔、いわれはあるのだが、記録を撮り損ねた。

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 館内に戻る。
 地下回廊のレストランで昼食とし、なら仏像館へ行く。
 となりの青銅器館も充実していた。青銅器館のガイドと話し込んだ。

 昔、台湾では、商(殷)の時代のきれいな青銅器が1個あれば、それだけで一品展が開けた。天目茶碗1個で、これだけの人が集まるようなものだ。
 しかし、ほとんどは偽物であった。骨董品のプロには製作来歴が判っている品が多い。そんな時青銅器を見たプロは「眼福であった」と言って去る。決して偽物とは言わない。
 台北故宮博物院の毛公鼎のような、中国最高の宝といわれている品まで偽物説がある。鑑定は難しい。それでも今は進歩した。
 こんな話をして、博物館を後にした。
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2019年06月13日

京都9 二尊院・祇王寺・化野念仏寺・清涼寺

二尊院・祇王寺・化野念仏寺・清涼寺

 二尊院
 嵐山の近くは名所旧跡が多い。二尊院は大きな寺である。

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 総門
 小倉山の下を歩いて、二尊院に行く。

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 紅葉の馬場
 総門を入れば、伽藍のある地域まで、まっすぐな道がのびでいる。
 新緑が輝いている。紅葉も映えるであろう。

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 紅葉とは異なり、新緑は毎年輝く。
 本堂の裏ではタゴガエルの声が響いていた。
 普賢像桜があった。初めて聞く名だ。八重だが、花びらが百五十〜百六十枚もあるという。

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 本堂の前の勅使門
 簡素で優雅である。総門も簡素だった。

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 祇王寺

 平家物語の祇王が出家した寺である。明治初年に廃寺となったが、再建した。
 今は大覚寺の塔頭(たっちゅう)となっている。
 今回の旅行で「塔頭とは」と聞かれ、答えに窮したが、「会社でいえば子会社」で理解してもらえるだろうか。境内にあることが多いが、こうして遠く離れた所にもある。
 囲碁でなじみの本因坊も、寂光寺の境内の塔頭であった。今はない。

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 小さな寺で住職もいないが、苔の庭は手入れが行き届いている。

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 小さな庵に入ると、仏壇には、祇王や清盛などの像が安置されている。

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 化野(あだしの)念仏寺

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 賽の河原
 明るい光の下では、かわいさが先に立つ。
 前に来たときは、鬼哭啾々として、身が引き締まった記憶がある。
 この落差に戸惑った。
    一重積んでは父のため 二重積んでは母のため

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 清涼寺

 五台山清凉寺という。
 五台山清凉寺といえば、清朝の三代目順治帝が出家した寺として知られている。本当は病死だが、出家したという俗説があるのだ。その寺と関わりがあるのかな。
 ここは光源氏のモデルといわれる源融ゆかりの寺だ。
 霊宝館が春期特別公開されていた。二ヶ月間である。写真はないが、見てよかった。
 寺は嵯峨釈迦堂といわれるように釈迦像が高名である。

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 仁王門
 塔のような門に圧倒される。

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 庭の不思議な形の樹木。わたしには禅寺を思わせる。

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 本堂(釈迦堂)はかなり大きい。
 清凉寺の前身である棲霞寺の寺域は嵯峨天皇の仙洞「嵯峨院」の一部であった。その大覚寺まで直線距離で五百メートル弱である。
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