2019年06月09日

京都8 大覚寺

大覚寺(旧嵯峨御所)

 弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山である。正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称する。
 嵯峨天皇(在位809−823)が離宮を建立した。離宮嵯峨院である。その離宮が貞観18年(876年)に大覚寺となった。
 代々天皇もしくは皇統の方が門跡(もんぜき=住職に相当)を務めた格式高い門跡寺院(もんぜきじいん)である。
 嵯峨天皇は、平安遷都した桓武天皇の息子であり、兄の平城天皇の次の天皇である。
 いけばな発祥の花の寺であり「嵯峨御流」の総司所(家元)である、というが、その方面に疎いわたしには、説明できない。

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 大覚寺門跡の総門の跡。現在はここから門までかなり歩く。400メートルくらいか。

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 大覚寺に着いた。 

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 宸殿(しんでん)まえの庭

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 宸殿牡丹の間、絵は近寄って見たいほど。
 正面
 以下の絵も宸殿の絵である。


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 左側はいま歩いてきた廊下。


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 村雨の廊下辺り、建物は心経前殿(しんぎょうぜんでん)であろう。記憶が曖昧。

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 心経前殿(御影堂)の西側。向こうに見える小さな建物が、勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)で、
大正14年に法隆寺の夢殿を模して再建。

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 この写真は、具体的位置を特定できない。

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 心経前殿前の庭。心経前殿は大正14年建造。
 正面の勅使門は修繕中。
 
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 五大堂(本堂)は堀をまたぐ。大沢池がよく見えるようにベランダが出ている。
 四角く、四方がこのような堀で囲まれている。
 この塀の右(外側)が大沢池である。

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 観光客が少ないためか、このような庭を落ち着いて見られる。

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 静かで熱い日差しも涼しく感じる。

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 この辺りであったか、渡り廊下を歩くとかすかに音がする。鶯張りのようだ。
 通りかかった若い僧に訊いてみたが、「たまたま今この寺にいるので知りません」、と言われた。末寺の修行僧らしい。

 一度入り口に戻り、大沢池に行く。

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 大沢池は境内にあり、人工の林泉である。時計回りに歩く。

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 放生池であるが、大沢池とは細い土手で隔てられているのみ。一部つながっている。

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 心経宝塔。1967年建立というから新しい。
 嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立される。

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 護摩堂は池の脇、火の心配はない。

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 庭湖石、この池の別名を庭湖という。中国の洞庭湖を模して造られた。しかし、どうだろう。当時の洞庭湖に似ているか。心象風景なんだろうな。
 わたしなどは、洞庭湖は江湖者という言葉の元になった湖、ということを思う。

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 右の大きな建物が五大堂。

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 これで大覚寺と分かれる。

参考 大覚寺境内ご案内
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2019年06月04日

京都7 天龍寺

天龍寺

 天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。
 寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。

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 京福電気鉄道嵐山本線で嵐山に行く。
 始発の四条大宮駅から終点嵐山まで7.2kmの、市街電車である。

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 天竜寺の門前には躑躅が咲いていた。ちょうど遅咲き躑躅の時期であった。
 ここから入ると、両側に多数の塔頭が並ぶ。

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 少し歩いて中門を振り返る。これは前日夕刻の写真である。
 この写真だと境内のイメージだが、その他は参道のイメージだ。

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 法堂(はっとう)
 まだ時間前なので寄らずに進んだ。公開日は限定である。

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 庫裏に向かう。わたしが二番目のようだ。

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 庫裏で拝観受け付け。
 ちょうど参拝時間となった。この庫裏をはじめ、多くの建物は新しい。明治以降である。例外的に、塔頭の中には古い建物もあるので、そういう興味をお持ちの方は、塔頭を訪ねるとよい。ただし公開しているかどうか。

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 庫裏前にも、ミニ庭園。左奥が大方丈。
 左手前(写真では見えない)に庭園入り口がある。参拝券は諸堂屋内と庭園の二枚になる。

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 中に入って大方丈を見る。
 廊下を右回りに裏に向かう。

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 広大な庭園が広がる。曹源池(そうげんち)庭園である。方丈の裏庭でもある。
 この辺りに来ると、西洋人に囲まれてしまった。日本語のガイド付きの団体である。

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 大方丈を回り書院に行く。書院は小方丈ともいう。床の間には「莫妄想」。この右にもう一カ所床の間があり、達磨の絵が画ある。

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 屋内の様子。見ると縦横に区切られていて、その襖を取り払っているのが判る。
 二カ所の床の間は襖で区切られた、別の部屋である。

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 屋内から見た曹源池。

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 書院から多宝殿に行く渡り廊下。茣蓙が敷いてある。

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 ここは後に通る道。この先に多宝殿がある。

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 渡り廊下の右側は、参拝コースではない。

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 多宝殿の内部正面。

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 多宝殿の内部左側。

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 蔀戸(しとみど)をあげてある。いにしえの雰囲気。

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 渡り廊下を戻る。

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 一度外に出て、庭園に入り直す。
 大方丈の前庭、枯山水庭園。この左側に門があるが、開けることはあるのだろうか。

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 曹源池はこの庭園の中心である。二枚の写真を合成した。
 開山である夢窓国師の作庭であり、1994年に世界文化遺産に認定されている。
 池の向こうは京都盆地の西の断層崖である。

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 池の向こう側の石組みにも、禅寺(臨済宗)ならではの解釈があるのだが、わたしでは理解出来ない。

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 少し進む。

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 正面が書院(小方丈)、右が大方丈。

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 書院の前から振り返る。

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 池の向こう側にも拝観コースがある。苔のびっしり覆った一画もある。
 前に来たときは、「猿に注意」の立て札があったが、今は見当たらないようだ。
 小倉山の亀山公園付近に猿が今でもいるのかな。亀山公園も渡月橋も昔は天龍寺境内だった。

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 赤花蝋梅というが、とても蝋梅には見えない。

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 北門から出て、竹林を歩く。

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 竹林を抜けると、すぐに大河内山荘庭園だ。
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2019年06月01日

京都6 大河内山荘庭園

大河内山荘庭園

 鎌倉時代の歌人藤原定家が、小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされるが、場所は特定されていない。
 その小倉山の南部に大河内山荘庭園があった。亀山公園(嵐山公園の一部)のとなりである。

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 突然、大河内山荘庭園の門に出会う。
 大河内とは往年の映画俳優、大河内傳次郎のことだった。こんなこともいままで知らなかった。
 造園家でもあった大河内傳次郎が、30年かけて作り上げた庭園である。

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 不鮮明だが、おおよその位置が判る。

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 緩やかな坂道を上ると開けた。右へ行くと、お抹茶席がある。入園料には「お抹茶」も含まれている。

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 庭園は山の斜面であり、ほとんどの道は、こうして石畳となっている。

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 中門

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 大乗閣
 ここが、生活の中心だったか。

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 大乗閣前の庭、ここでは珍しい芝生の広場だ。

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 嵐山を借景として広大な雰囲気がある。

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 大乗閣も新緑の中にある。

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 石畳の道を登っていくと、小さな堂の前に出た。
 形は大乗閣に似ているが、大きさは茶室より小さい。こもって思考したという。

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 周囲に展望はないが、植木は小さく明るい空間である。

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 少し暗い道を歩いて滴水庵に行く。

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 滴水庵
 茶室であるが、常識的な茶室よりかなり広い。

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 嵐峡展望台
 滴水庵のすぐ近くに嵐峡展望台があった。
 向かいは嵐山で、すぐ下の小枝の間から、亀山公園の道が見える。手に取るほど近い。

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 大悲閣の月見台はここより少し高そうだ。

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 嵐峡展望台から市内展望台まで、この山荘の一番高いところである。

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 市内や東山が一望できる。
 左にひときわ高いのが比叡山、緩やかなカーブを描いて、中央右に高くなっているのが大文字山。
 付け焼き刃の知識だが、両山ともホルンフェルスの山だ。熱による変成(接触変成作用)によって生じる接触変成岩。堅い。
 間の低い曲線は花崗岩。風化しやすくここまで低くなった。花崗岩は全体的に白く見え、これが真砂化して、黒い雲母は薄く剥がれて流れ、白い部分が砂となって残った。例えば白川の河底だ。
 東山のこの稜線から流された白い砂が、枯山水の庭に使われ、京文化を形づくった。
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2019年05月30日

京都5 亀山公園

亀山公園(嵐山公園亀山地区)

 京都の嵐山は有名だが、その辺りは嵐山公園と呼ばれる。その中に嵐山公園亀山地区と言われる地域がある。亀山公園と通称される。小倉山の最南部である。
 桂川(保津川、大堰川とも)を挟んで、嵐山の対岸である。

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 嵐山駅は、こんな着物柄のアートが迎える。

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 渡月橋に向かい、渡らずに保津川上流に向かう。

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 桂川の渡月橋から上流を保津川というようだ。

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 亀山公園は小高い山の上である。

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 ブラタモリで紹介された「嵐山公園 亀山地区 展望台」へ行った。
 前は保津川(桂川)の渓谷。
 左上が大悲閣千光寺。高瀬川開削などの角倉了以の寺。見えるのは月見台で、ここで日本で初めて算術書が著されたという。
 参考  雲外の峰−大悲閣

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 振り返れば京都市街が(わずかに)見える。

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 さらに奥に行くと、保津川を見下ろすようになる。保津川の川下りの舟が来た。小さくて見にくいが。

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 展望台の東側には、このような無粋な囲いがあって、大河内山荘の名がある。このときは、大河内山荘とはなんなのか知らなかった。
 トロッコ嵐山駅の方へ下る。
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2019年05月26日

京都4 伏見稲荷大社

伏見稲荷大社

 三日目(5月5日)は、午前中に伏見稲荷大社に参拝し、昼に解散する。
 伏見稲荷は全国の稲荷神社の総本山だ。この営業力には驚嘆する。
 全国至る所に分社がある。わたしの近所の民家でも、庭の片隅に稲荷社があったりする。
 
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 大きな鳥居の後ろに見事な楼門が見える。
 駅前からすると2基目の鳥居である。
 この日は、特別な行事があると見えて、神職は忙しそうだった。観光客も多かった。

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 楼門の左をいくと拝殿と本殿のわきを通り、奥社へむかう道だ。

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 本殿の奥側、この前に続きでもう一棟あり、両方で本殿である。

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 奥社へむかう鳥居の前の左右に狐がいる。
 あちこちにいる狐の銜えているのは、稲穂・玉・鍵・巻物のどれか。

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 本殿を半周するとはじめの写真では右手になるが、神楽殿。
 撮影禁止の立て札がある。禁止と言っても無理だろうな。囲いに入れば問題だが、遠くからでも撮れる。

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 約束の時間になったので、社務所の前に集合した。
 時間だが、行事があって待たされた。
 まず、玄関から入って二階に行き、お茶を頂きながら、歴史などの説明を受ける。
 例えば創建年が711年だとか。これをセブンイレブンと覚えてください。
 笑ってしまったが、しっかり覚えた。これで2011年に、創建1300年祭を行ったことが判る。
 とにかく平安遷都(794年)以前の、京都は秦氏の時代の頃である。
 池を見ながら最奥の社務所斎館にいく。
 斎館の前には池泉回遊式の庭園がある。制作年は2010年(併設の庭は明治期)。

 この庭園については「京の庭を訪ねて」の「伏見稲荷大社・社務所庭園」を参照してください。
   http://www.kyoto-ga.jp/greenery/kyononiwa/2015/09/post_12.html

 斎館は由緒のある建物である。
 そこで宮司さんを中心にして記念写真。

 社務所の見学を終えて一応解散し、有志でこれから千本鳥居の見学である。いわゆる千本鳥居はそこまでは高低差があまりなく楽に行ける。
 外国人就中西洋人にもっとも好まれるという千本鳥居である。だが中国語も多かった。

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 奥社に向かう階段を上がり右に曲がると、千本鳥居の前になる。
 ここでは大きな鳥居だが、少し歩くと小さな鳥居が隙間なく並んでいる。

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 このような小さな鳥居が延々と続く。令和の日付の鳥居もある。

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 途中の奥社奉拝所までで引き返したが(そのための帰り道まである)、ここまでを千本鳥居という。千本鳥居も実際には850基ほど。
 若いときに、この奥の稲荷山頂上まで行ったことがある。そこまで数えると一万基近いという。
 この日は人が多く、思うように写真が撮れなかった。まあ、社務所訪問が目的だったし…。
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2019年05月22日

京都3 下鴨神社と糺の森

下鴨神社と糺の森

 糺(ただす)の森に入る。

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 史跡 糺の森(再掲)
 糺の森は「鴨川をどり」でも背景となった。その背景は両側が小高く、谷のようなイメージだったが、実際の糺の森は平地である。一応原生林である。下鴨神社の鎮守の森化している。
 現在はおよそ12万4千平方メートルだが、往時は495万平方メートルあった。今の40倍である。
 現在およそ南北640メートル、東西150メートル。おそらく道路や馬場や建物などの森ではない部分を除けば、10万平方メートルもないだろう。案内の地図では、これで森が残っているの? と思わせるほど。

 地図から推測すると賀茂川と高野川に挟まれた三角形で、北は北山通りとすると、495万平方メートルに近い。現状では、まさに「史跡」である。むかしこの辺りに糺の森があった、という意味だ。だから現状は貴重な森なのだ。
 写真の鳥居は河合神社で、下鴨神社境内にある摂社。方丈記の鴨長明ゆかりの社である。
 鴨長明は下鴨神社の禰宜の鴨長継の次男であった。
 境内には鴨長明の庵が復元されている。いつでも家をばらして引っ越しできるように作られている。そして鴨長明は何度も引っ越ししている。

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 参道を下鴨神社に向かう。正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)という。書くとき、鴨か賀茂か気をつかう。
 左右が糺の森だが左数メートル先は、馬場であり、馬場の西側にも森がある。馬場の西側は少し厚みがある。
 右は森の向こうの道路を通る車がよく見える。そんな程度の幅である。
 馬場では、前日に流鏑馬(やぶさめ)が行われたはず。(あとで知った)
 原生林とはいえ、それなりの保存努力をして保っている。貴重な森だ。

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 最後の鳥居の前で神職が集まっている。

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 鳥居前の手洗舎
 船の模型に、石の手水場。いわれがあるのだが。

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 鉦と太鼓、何かの行事らしい。

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 楼門が近づいた。左にカメラを構えた人が並んでいる。

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 斎王代御禊儀がこれから行われる。葵祭に続く前儀であった。
 知らずに入ってびっくりした。こんな時写真が役に立つ。
 前日の5月3日に流鏑馬(やぶさめ)、4日の斎王代御禊、15日の葵祭に続くのであった。

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 門を入った正面はこの舞殿(まいどの)。

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 舞殿のとなりにあった。

 本殿の写真は撮り損ねた。
 儀式が始まった。一度門を閉じる。

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 先ほど見た太鼓などが入ってくる。

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 これでようやく、カメラの列が理解できた。
 禊の行事は見届けなかった。あまりに人が多く、あちこちを確認しながら歩くことができずず、京都府立植物園に向かう。
posted by たくせん(謫仙) at 09:43| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月20日

京都2 鴨川

鴨川

 二日目、午前中は自由時間で、午後は京都囲碁道場での囲碁研修である。
 早く言えば、京都囲碁道場の道場生との対局である。
 相手は小中学生だが、はっきり言って手合い違いで負けた。道場生は同じ段位ならわたしより2段くらい強い。基礎の出来具合が違うのだ。
 石田九段(強い方の石田)は基礎筋力と言っていた。

 午前中の自由時間に、宿から西へ鴨川まで行き、三条から鴨川に沿って北上した。

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 鴨川の両側は公園になっている。左岸つまり東側を歩いた。

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 反対側には、舞台らしき物が見える。

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 橋の無いところでも飛び石伝いに対岸へ渡ることができる。

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 何だろう、ユキヤナギが固まって咲いているよう感じだ。コデマリかな。

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 飛び石伝いに対岸へ渡る。中州により水の流れが大きく曲がり、水底も曲線の模様ができている。

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 加茂大橋の近くで、アオサギに会う。途中にも何羽かいた。写真はないがダイサギも近くにいた。

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この飛び石は、賀茂川と高野川の合流地点への、賀茂川の飛び石である。高野川にもある。
 「賀茂川」と書いたが、この右数メートルで合流して、その下流は「鴨川」となる。つまり上流が賀茂川である。いままで知らなかった。

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 合流点から北へ「糺の森(ただすのもり)」に向かう。

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 河合神社の手前から「糺の森」に入る。
 奥に見える鳥居は、河合神社の鳥居である。ここから糺の森を通って下鴨神社に行く。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 アマの段級位は各団体によって強さが違う。わたしは日本棋院の「幽玄の間」を基準にしているので、それほど甘い数字ではない。とはいえ、厳しくもない。一応全国に通じると思っている。京都囲碁道場は「幽玄の間」より厳しい基準ということである。
 なお、プロの場合は、強さより過去の実績の総和に近い。
posted by たくせん(謫仙) at 07:49| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月15日

京都1 東山地区

東山地区

 5月3日に京都に行った。5日までは千寿会の団体旅行である。
 初日の昼に先斗町に集合。令和初の「鴨川をどり」を見た。
 前に入ったお茶屋さんの「おかあさん」にも会えた。

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 まず、抹茶をいただく、そして入った席は「と−7」、七夕の席であった。
 そこを2時に出て昼食は、南禅寺にある順正。

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 庭園の中にあるような店だ。一人じゃとても入れない。団体で入れる店が、ここしか見つからなかったのだ。
 順正を出ればもう夕刻も遠くないが、東山界隈の散歩。まずは南禅寺である。

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 南禅寺の門。

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 琵琶湖疎水の水道橋。明治時代に琵琶湖疎水ができて、水不足の都市が水で潤うようになる。
 その変化の表れが造園である。枯山水の庭から水をふんだんに使った庭園へと変化した。この近くには、非公開の庭園が多くある。いずれも明治時代の資産家の別荘だったのだ。今でもその流れをくむ。

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 近くの高校。 かなり優秀なようだ。五月だな。

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 禅林寺(永観堂)は素通りした。

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 永観堂も南禅寺もかなり前に見たことがあるが、全く記憶にない景色だった。

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 哲学の道は名前が有名であるが、ブラ歩きを楽しめる人でないと、面白くないだろうな。
 琵琶湖疎水である。鴨川や白川が南に向いて流れているのに、この小川は北に向かっている。

 この日の宿は、民家を改造した家である。東山駅に近い。家を借りたので、すべてセルフサービス。8月24日まで予定で埋まっているという。千寿先生が早いうちに見切り発車で部屋を確保しておいたのだった。
posted by たくせん(謫仙) at 18:37| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月11日

鴫山城趾と旧南会津郡役所

鴫山城趾と旧南会津郡役所

 会津線経由で東京へ帰ってくる。線はどうなっているか知らないが、電車は会津田島で乗り換え、特急で北千住まで。ここでも前に書いたような理由で、運賃計算は簡単ではない。

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 この電車は、会津田島と会津若松の間。

 さて、田島では、前回とは違った方向に歩いた。駅から右手の方である。前回は左手の方へ歩いた。
 ここで鴫山城趾の文字が目に入る。前回は気がつかなかった。iPadの地図でも出てくるのだが山の中。

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 観光地図によくあることだが、南北が逆転している。そのため位置関係に錯覚を起こす。このときも、地図の駅から北側ばかり注意していたが、実は南側である。南北は割合理解しやすいが、東西は何度も錯覚する。
 ついでに言うと、距離も錯覚しやすい。AB間を20分で歩いた。ではBからCまで30分で歩けそうだ。と思っていると、それは2時間かかった。なんてことが若いときはよくあったのだ。

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 愛宕神社の鳥居、神社は山頂にある。
 ここでも熊の出没注意。
 奥を見るとまさに城趾、言われないと気づかないほど。

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 大門の石垣、真新しい。

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 御平庭

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 上千畳はこんなところ。こうして説明がないと、ただの空き地。公園として整備はしている。

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 西側ルート、城趾の一部である。

 鴫山城は南北朝時代にはあったらしい。
 1598年に上杉景勝の会津移封に伴い、上杉家執政直江兼続の実弟・大国実頼が二万一千石で城代となった。
 その後、徳川三代将軍家光の時、1627年に一国一城令により廃城となった。
 参考http://www.aizu-concierge.com/map/spot/10653/ 南会津鴫敷山城趾
 こんな案内図があったら、もう少し歩いてみたかった。

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 旧南会津郡役所。福島県指定重要文化財である。
 ここに向かったとき、左の建物から出てきた女性が挨拶をする。それだけだが、ほっとする。
 ここから見ただけで、和洋折衷の様式だと判る。
 受付の方が、館の説明をしてくれた。館はロの字の形で、中庭があり、手前の部分だけが二階建てである。
 入り口と二階ベランダは円柱であり、ステンドグラスも使われている。明治十八年のころでは最新様式であったであろう。

 見終えて駅の方に向かうと、途中に目立たないが料理屋の表示がある。
 説明には、正確ではないが、次のような意味の文がある。
   ゆっくり作りますので、お急ぎの方は向きません。
   中に犬がいますので、苦手な方は、教えて下さい。

 ガラスの障子戸はかなり空けにくい。壊れているのかと錯覚するくらい。
 そこは民家の入り口のようであった。靴を脱いでスリッパを履いてあがる。ご夫婦で、趣味でやっているような感じである。他にも客が3人いた。
 日本的料理だと思って入ったのだが、イタリア料理であった。わたしはイタリア料理は暗いので、お勧めの料理を訊く。
 喫茶店で休むような感じで、料理を待った。
 昔は旅館を営んでいた。その当時の台所を利用して、イタリア料理店を始めたという。
 パスタを中心とした料理なので、高価なものではない。
 おとなしい犬が寄ってきて、足下にしゃがみこむ。触っても動かない。ぬいぐるみを置いたようだ。いつの間にかいなくなっていた。
 次に行く機会があったら、駅の北側(裏側)を歩いてみよう。
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2018年10月01日

大川ダム

 東京から会津若松までは、新幹線で郡山まで行き、乗り換えて会津若松に行くのが早い。
 わたしは前回も今回も、浅草発の東武伊勢崎線で行った。
 ふしぎなことに通した切符はない。わたしが買ったのは、北千住から西若松まで、東武伊勢崎線から東武日光線・東武鬼怒川線を通り、会津鬼怒川線・会津鉄道線の終点まで。そこが西若松である。電車は会津田島で乗り換えて、会津若松まで直通である。
 会津若松駅で、西若松から二駅の会津若松までの乗り越しを精算する。とにかく会津鉄道線の運賃は電子化されていないのだ。

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 旧白川街道を歩いた次の日、大川ダムに行った。ダム湖は若郷湖という。

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 会津鉄道線はこんなかわいい電車が通る。
 PASMOで若松駅から乗った。会津鉄道線に入ると車掌が来る。
「どこまで行きますか」
 iPadで「芦ノ牧温泉南」を出して「ここまで行きます」
「えっ、何もありませんよ」
 駅があるのだから、道路はあるだろう。もちろんiPadで確認済み。
「ここから、大川ダムまで歩こうと思っていますが」
 距離は1.5キロメートルほど。
 そこで、西若松から芦ノ牧温泉南までの切符を買い、「会津若松から西若松までは、帰ったとき精算して下さい」ということになるのだ。

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 無人駅である。降りたのはわたしひとり、乗った人はいない。

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 駅前は小さな集落であるが、それぞれの家はかなり豊かに思える。そして新しい。
 もとの集落はダム湖の底になり、ここに新しい集落を作った。狭い農地なので、農家ばかりではないだろう。

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 駅から百メートルほど歩くと、鉄道を跨ぎ、地図の道に出る。
 時々ダム湖が見える道をダムに向かう。

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 熊に注意の標識をみて、自動車道を歩いていたら、大きな(小さな?)木が電線に引っかかっている。先の嵐で落ちてきたのか。

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 ダムが近づいたら、近道らしき道が見えた。歩いてみたら大川ダム公園に降りることができた。

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 この曲線は流れてきた樹木などを止めるためのもの。専門の業者が処理をする。

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 大川ダム管理支所であるが、大川ダムの説明案内の展示室もある。
 
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 ダムの上を歩こうととしたが交通止めであった。スズメバチが巣を作っているという。

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 水力発電にも使われているが、あまり高くはない。

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 ダムから流れ出た水は、ここで直角に方向を変えて会津盆地に向かう。

 大川ダム公園の中を通り大川ダム公園駅に行く。公園内では作業をしている人の他は誰にも会わなかった。
 途中で道は分岐する。iPad地図では、どちらが駅への道か判らない。

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 この太陽光発電の記憶があったので、分かれ道では右の山側の道を選択した。駅からのこの写真では、左端に見える道である。

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 小さな駅舎があるが、ここも無人駅である。この左側つまり山側にも太陽光発電の設備が広がっている。あたりには人家はない。ここでも利用者はわたしひとりであった。
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2018年09月22日

旧白河街道

旧白河街道

 白虎隊は滝沢本陣から出陣し、白河街道を通って、猪苗代湖に近い戦地に向かった。今では新しい道がある。
 この道は一応地図には載っているので、歩いてみようと思う。
 飯盛山下で昼食を摂り、訊いてみた。
「この旧道は歩けますか」
「石畳の道はありますけど、熊が出没するので、今では通る人はいませんよ」
「歩いてみたいのですが、バスは通っていますか。帰れますか」
 親切にもバスの時刻表を調べてくれた。
「全部歩くと、帰りが大変ですが、途中の金堀までならバスがありますよ。2時間くらい」
 旧滝沢本陣から緩やかに登り始める。

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 この地図にはないが、滝沢峠を過ぎてまもなく金堀であり、山を巻いて滝沢本陣に帰るバスの通る道がある。

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 ここから左の旧道に入る。

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 広い歩きやすい道である。

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 出会い頭に熊に遭遇しなければよいが……、遠くに見えたなら熊の方が隠れると聞く。だから熊に対する恐怖心はない。

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 舟石
 神が天下ったとき乗った舟が石になったとか、説明板にあった。さらに唄も。会津盆唄らしいが聞いたことがない。検索でも出てこない。

〽 ハァー恋(鯉)の滝沢 舟(鮒)石超えて 親は諸白 子は清水

 意味が判りませんが。諸白とは上等の酒です。
 金堀からさらに猪苗代湖の方に行くと、強清水(こわしみず)といわれるところがある(行政上の地名ではない)。そこには清水が湧き出ている。
 むかし樵の親子がいて、実直な父親が湧き水を飲むと諸白であり、ぐうたら息子が飲むとただの清水だったという伝説がある。


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 こんな休憩所もある。それなりに人が整備している道のようだ。芭蕉の句碑もあるが、芭蕉はここを通っていない。
 ここには明治の初めころまで茶屋があった。

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 まもなく最高点を超える。急に道が草深くなった。

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 振り返る。この道を歩いてきた。この先には「私有地」の文字が見えるが、全く利用されていない。通る人も少なそう。交通止めの表示も倒れたまま、長いときがたっているようだ。

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 戦死十八人墓
 慶応四年八月二十三日、つまり新政府軍がここを通って会津盆地に入った日である。この日の戦いで、この近くで死んだ会津兵の墓。

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 金堀の集落が見えてきた。ここまで一時間半。

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 バス停留所。金堀は終点で、若松駅に引き帰す。
 この日は水曜日、かろうじて、14:00のバスがある。
 まだ二十分の余裕があった。もし山道で二時間以上かかっていたら、次のバスまで二時間以上待つことになる。それなら歩いて帰ることになるか。

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 目の前には田畑が広がる。稔りの秋を控えている。

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 山側は蕎麦畑で花が咲いていた。
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2018年09月15日

会津戦争の鶴ヶ城

会津戦争の鶴ヶ城

 昨年の春に行った会津若松に、今年の九月も行ってきた。団体で東山温泉に二泊し、その後ひとりで駅前のホテルに三泊した。

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 ひとりになってから訪ねた御薬園のガイドから、会津戦争の話を聞くことができた。
 会津武家屋敷で書いた疑問の答えである。
 新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
 西郷の家族の自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。

 答えは「入っていた」のである。

 小田原城は町全体を囲む堀をもって戦ったため、豊臣秀吉軍も落とすことができなかった。のちに大阪城も外堀を構え、秀吉は「この掘がある限り大阪城は落ちない」と、豪語したという。江戸城も鶴ヶ城も真似て外堀を構えた。
 鶴ヶ城の外堀は、今では埋め立てられてしまったが、会津戦争当時はあったのだ。
 その外堀が役に立たず、その日のうちに無抵抗で破られてしまった。その理由である。

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 当時会津軍は各地に散っていた。8月21日の母成峠の戦いで敗れ、最後に残された少年の予備軍である白虎隊まで投入したが、それも一撃で敗れ、23日には新政府軍は城下に突入した。
 白虎隊とは、数え16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。現代なら中学生だ。
 外堀で戦うにも、もはや兵はいない。その日のうちに外堀の内側まで入られたのである。
 城の中に残っていたのは、女性・老人・怪我などで戦えない男・城主守護役の白虎隊員や白虎隊にも入れないこどもだけであった。
 本来ならここで落城である。しかし、落ちずに一ヶ月後に降伏することになる。
 鶴ヶ城が落ちなかったのは、攻める新政府軍の事情もあったにしても、この人たちで一ヶ月も保ったのだから奇跡的である。

 会津城下の庶民は、疲労と食料不足で疲弊していた。会津藩は将軍家の軍として平時から強力な軍を保持していた。そのため酷税であったので、戦になっても庶民の支持はなかった。庶民は新政府軍の侵入を喜んだともいう。会津藩が斗南に移るときも、見送る庶民はひとりもいなかった。

 この会津藩の武士をどう評価したらいいのか。
 建前と本音が違う時代に、建前を愚直に貫いた精神は尊敬に値する。
 朝敵といわれながら、実は天皇が信頼するたった一人の武士が、会津藩主松平容保であった。勤王であるにもかかわらず、将軍にも裏切られて、佐幕派の象徴になった。その精神は下級武士にまで及んでいた。その精神は明治時代を支える柱の一本であったといえよう。
 ただ、そのために犠牲にされた庶民には、違った評価があると思う。
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2017年11月22日

鎌倉補遺

鶴岡八幡宮
 1191年に現在の姿となった。鎌倉の心の中心である。
 実朝殺害の象徴であった大銀杏は今はない。

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  歌あはれ その人あはれ 実朝忌   裸馬

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 現在の社殿は1828年の造営。

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 鎌倉国宝館
 ほとんど人影がない。

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稲村ヶ崎

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 稲村ヶ崎は新田義貞の故事で知られたところ。
 
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 源氏山の山道を下りてきた。

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 途中に太田道灌の墓(首塚)があった。英勝寺の管轄。

 さらに下ると寿福寺の前に出た。

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 ひっそりとして参拝者はいない。

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 門から参道を見る。突き当たりが寿福寺。

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 鎌倉駅の裏側から始まる商店街、お成通り。一駅分歩いた。

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浄妙寺 由緒のある寺らしいのだが。

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 あちこちの寺で芙蓉が咲いていた。写真では陰影が潰れやすい。

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 腰越漁港、江の島はすぐ近く。

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 江ノ島電鉄の腰越駅前。

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 片瀬漁港 海の詩像
 目の前は江の島
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2017年11月18日

瑞泉寺

錦屏山瑞泉寺(きんぺいざんずいせんじ)

 永福寺跡をみて、瑞泉寺へ。開山は夢窓国師と伝わる。
 花の寺として有名らしい。

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 永福寺跡から少し歩くとこの道に出る。突き当たりが瑞泉寺の前門である。
 紅葉ヶ谷(もみじがやつ)と呼ばれる谷戸(やと)にある。

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 ここで拝観受付。
 正面が登り口になる。
 この寺は見たことがあるはずだが、全く思い出せない。

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 ここから登り始める。

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 ピントが合わず判りにくいが、左が古い参道、右が新しい参道。

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 山門 かなり高みにある。

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 門前に「吉田松陰留跡碑」がある。
 吉田松陰はここに住んだことがあるのか。

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 植え込みなど、どこか纏まりがない。

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 周りが整っていると、侘び住まい、と言う言葉を思い出す。

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 本堂の裏手。

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この左が、この寺象徴の岩庭。

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 岩庭 鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園

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 岩庭 水はかなり汚れているように見えた。

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 この岩庭は夢窓国師の作として、国の名勝に指定されている。昭和45年に発掘復元した。
 これがわたしの記憶に合致しない。
 記憶では、花など全くなく、水も苔もなく、まるで月の世界を思わせるような、厳しいイメージであった。夢窓国師の作ということは覚えている。
 今では見る影もない。花もしろうとが適当に植えたようで、庭園のイメージではない。
 おそらく時間の経過で、記憶が変わってしまったのだろう。自分に興味の無い部分は忘れてしまい、印象深かったところだけを覚えているのだと思う。

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 このように所狭しと花木が植えられている。
 普通にある本堂の前の広大な空き地がこの寺にはない。寺というより庵のイメージがする。適度に市街地から離れ、修行するのにふさわしいのではないか。

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 この寺の住職は歌人という。
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2017年11月14日

明月院

福源山明月院(ふくげんざんめいげついん)

 紫陽花で知られた明月院である。
 1160年に前身の明月庵が創建されたと伝わる。史実は明らかでないが、1380年に禅興寺が創建され、その塔頭となるのでその前である。そのとき名前も明月院と改めた。
 山内上杉家の祖、関東管領・上杉憲方(1335−1394)は密室守厳を開山として、明月院を創建した。
 本体の禅興寺は明治初年頃に廃絶し、明月院のみが残っている。

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 入り口から入ると、この橋を通って参道にいく。脇に総門がる。

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 紫陽花の木が多く、花の時期の見事さが想像できる。
 突き当たりは山門である。

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 小さな山門を通る。

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 悟りの窓
 方丈の裏手が、丸窓に見える。裏の庭園は菖蒲の時季など、特定の時季しか見ることはできない。

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 方丈の前は枯山水の庭園になっている。なぜかマッチしない。
 紫陽花の時、菖蒲の時など、この寺の時季は、梅雨時とはいわないまでも、水の豊富な時季であることが心の中にあり、ここだけ枯山水に違和感を感じてしまう。
 枯山水は、水が無い所で水を表現する様式と考えているので、水の豊富な所だと無理しているような感じなのだ。

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 明月院やぐら
 かなり大きい。上杉慶方の墓と言われる宝篋印塔が祀られている。

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 開山堂(守厳堂)
 開山の密室守厳像が祀られている。
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2017年11月10日

報国寺

功臣山報国寺(こうしんざんほうこくじ)

 臨済宗建長寺派の寺院。境内に竹林があり、「竹の寺」ともいわれている。
 竹林があまりに有名だが、小庭園も劣るものではない。

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 報国寺への道は気持ちのいい歩道がついている。まもなく右に曲がり細い道を山門に至る。

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 山門は質素で趣がある。山門前から庭園が始まる。

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 山門を入ると庭園の中を歩く。見過ごしがちだが、この枯山水の庭もいい。

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 右側の石段は帰り道にした。

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 この階段を上がると、本堂前に出る。

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 本堂で合掌し、本堂裏の竹の庭へ行く。

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 ミニ庭園

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 わずかに石段を登る。

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 孟宗竹の竹林が広がる。
 この日はどういうわけか着物姿が多かった。駅近くで着物を貸し出ししているので、そこで着替えて来たのか。

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 ここで茶を頂く。茶の申し込みは庭園入り口で。

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 竹林を一周すると、右手奥に狭いながら普通の庭園がある。

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「やぐら」といわれる横穴がある。やぐらの多くは墓である。報国寺の開基である足利家時や永享の乱で自刃した足利義久のものだと考えられている。やぐらの中には多数の五輪塔が置かれている。ここは立ち入り禁止。

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 山茱萸と黄色の彼岸花かな(?)。小さいながら美しい庭園である。

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 着物姿のふたりはいつも同時に自撮り棒を構えていた。

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 帰りはこの石段を下った。
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2017年11月07日

永福寺跡

浄土庭園の永福寺跡(ようふくじあと)

 永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂ともいわれた。
 源義経や藤原泰衡をはじめ、奥州合戦の戦没者の慰霊の為に建てられた寺で、建久3年(1192年)に本堂が完成した。応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。

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 南に(左)阿弥陀堂、中央に二階大堂、北に薬師堂。回廊で結ばれ、南北に翼廊があり、先端は釣殿となっている。
 浄土庭園である。中央が狭くなったひょうたん型の池があり、池の中央の狭い部分には橋がある。庭石があっても樹木はない。
 2017年6月つまり今年、整備が完了し公開された。
   http://www.bukenokoto-kamakura.com/yofuku-ji/cg.html にCGにより復元された永福寺の姿がある。

 十円銅貨の図である宇治の平等院も浄土庭園である。両翼のある鳳凰堂の前に池、そして前庭には樹木はない。
  http://www.byodoin.or.jp/ja/guide.html 平等院

 他には平泉の毛越寺(もうつうじ)も浄土庭園だった。

 鎌倉宮から少し歩く。

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 この道を行くと、「永福寺跡へ近道」の表示がある。

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 この道を通る。

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 狭くなってきた。右はテニスコート。この一部も永福寺の池の一部であると思われるが、調査は済んでいない。
 近道といってもほとんど変わらない。

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 敷地であり、建物の跡は基壇を設けて判りやすくしている。
 右手が池である。

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 水草が繁茂しているが、浄土庭園の特徴である池がある。

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 近道をせずに来るとこの先に出る。むしろそちらの方が近いか。地図では遠そうだが。
 この右がテニスコートで、池はそこまで広がっていたかもしれない。(未調査)

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 中央の二階堂の跡である。この名から地域名も二階堂となった。

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 ここが池のくびれているところで橋があった。

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 堂と池の間には樹木はない。

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 壇の隙間の向こうが北の釣殿の跡である。

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 ここから池に水が流れ込む。昔は遙かに水量が多かったという。

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 西北の高みから。

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 池の反対側から。堂は南北に連なり、東に池がある。東から西に向かって遙拝することになる。

 浄土庭園は、いわゆる日本庭園とは異なり、独特の雰囲気や表情をもつ。枯山水とも異なる。余計な飾りはないようでいながら、かなり手をかけている。
 浄土式庭園は、極楽浄土(西方)の阿弥陀が中心となるのが普通。ここでは南の堂が阿弥陀堂である。
posted by たくせん(謫仙) at 09:24| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

佐助稲荷神社

佐助稲荷

 源頼朝が挙兵の際に、翁姿に身を変じた神霊が夢枕に立ち、平家討伐をすすめたと言われる。佐助とは頼朝のこと。この故事から出世稲荷とも。

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 大仏の見学後、佐助稲荷へ向かう。

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 大仏トンネル脇の階段を上る。この上もしばらく急な階段を上るので、途中で立ち止まってしまう。
 ここから大仏ハイキングコースに入る。

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 上に上がれば、こんな穏やかな道だ。

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 佐助稲荷への分岐からまもなく、この下りになる。かなりの急坂である。

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 わずかな距離とはいえ、滑りやすく登山道の鎖場のようだ。手すりにつかまって三点確保でゆっくり下る。

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 佐助稲荷の本殿の前に出る。鳥居から中には入れない。

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 たくさんの狐と絵馬が並んでいた。

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 ここからは石段の道だ。下の建物は拝殿である。

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 グルーブの参拝者に出会う。

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 霊狐泉
 一瞬、令狐冲と読んでしまった。(^_^)

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 さらに参道を下る。

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 下社の前にこの表示がある。

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 下社
失礼ながら、わざわざ見に行くほどのところでない。その近所に行ったら立ち寄りたい。
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2017年11月01日

鎌倉大仏

大異山高徳院清浄泉寺(だいいざんこうとくいんしょうじょうせんじ)

 大仏の製作は、1252年に始まったという。何年かかったか。
 当初は大仏殿があった。大風と地震と津波で何度か倒壊している。1486年には露座であったことが判っている。というように、初期のいきさつはかなり曖昧である。
 関東大震災で基壇が1メートルも沈下した。近年基壇を免震構造にして、大仏も補強している。

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 こうして観光客が多い。

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 仁王門には大異山とある。地図には高徳院、清浄泉寺の名は知らなかった。 

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 仁王像、向かって左側。

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 阿弥陀如来座像(国宝)

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 像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)

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 横から見ると、頭部がかなり前に出て、少し下に向いている事が判る。
 また、数本の横線が見える。重ねていったのか。

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 大仏の前方。

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 胎内に入ることができる。そのための窓か。わたしは胎内には入らなかった。

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 観月堂
 大仏の後ろの塀の外側にある。この堂は2012年に寄贈され移築された。

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 与謝野晶子歌碑
歌碑も大仏の後ろの塀の外側にある。ほとんど人がいない。あれほどの人数が大仏を見ているのに。

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 与謝野晶子歌碑は見にくいので、その説明。

 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな

 なお、「釈迦牟尼」とあるが、上にも書いたように鎌倉大仏は「阿弥陀如来」である。阿弥陀は「量りしれない寿命を持つ」の意味で、西方極楽浄土に住む。ついでにいうと、東方は浄瑠璃浄土(浄瑠璃世界)で、薬師如来が住む。
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2017年10月29日

覚園寺

鷲峰山覚園寺(じゅぶせんかくおんじ)

 天園ハイキングコースに続いて覚園寺にいく。この寺は古都鎌倉の面影をよく残しているといわれる。

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 案内人に案内されて、丁寧な説明を受けた。写真は禁止なので、いわゆる観光客は少ない。
 1830年に火災で伽藍を失い、関東大震災でも被害を受け、一時は荒れたという。1950年以後に復興した。
 ここも谷戸(やと)に沿って、堂宇が並ぶ。

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 この門から境内に入るが、左の方に自動車でも入れる道がある。

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 愛染堂
 この前で、案内の時間まで待つことになる。見学時間は50分程度。

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 こうして待っている参拝希望者。
 待っている間に前回のグループが出てきた。十人ほど。わたしの回も十数人だった。
 この寺は昔は4宗の修行場だったが、政策により明治以後は真言宗となる。
 薬師三尊像は見栄えがある。十二神将像、阿弥陀如来坐像など。また黒地蔵が知られているが、現在は地蔵堂が修理中で、鎌倉国宝館にある。それは後日に見てきた。
 照明は暗くほとんど自然光の中で見るので、悪天候の時は拝観中止になる。わたしの回は三時の最終回だった。
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