会津7 会津若松 余録
順序は逆になったが、4月30日(日)は会津若松に1時半頃到着した。ホテルに荷物を預け、バスで県立博物館を目指した。停留所は鶴ヶ城三の丸口である。ここは月曜は休館のため、先に見ておこうと思ったのだ。

三の丸口の八重の像、女ながら鉄砲隊を率いた。先の大河ドラマ“八重の桜”で有名になった。

県立博物館、まるで無人の如し。中はけっこう充実していると思った。

廊下橋。三の丸口から入り、二の丸を過ぎると、この橋に出る。二の丸は右側。

酒蔵、市内には酒蔵(酒の醸造所)が多い。

野口英世青春館。一階は喫茶店である。

野口英世青春館の前の通りは歩道を広くして、車は一方通行。
まっすぐ行くと会津若松駅前に出る。まだ歩道を広げる工事中のところがある。
この百二十メートルほど南に野口英世像がある。そこは外堀だった。

七日町駅、バスの停留所でもある。この道の向かいに阿弥陀寺がある。

阿弥陀寺は、会津軍の墓地である。長い間埋葬が許されなかったが、ようやく二カ所に埋葬が許された。
市内64カ所に集めて埋葬した。という記録もある。

ここにまとめて葬られた。

ここには大仏があったが、第二次世界大戦のとき、軍に供出させられた。今は台のみ。

御三階(ごさんがい)、城内にあったものをここに移築した。
唐破風の入り口は付け加えたもの、元は本丸の玄関。二層と三層の間にも部屋があり、4階建て。
向こう側の本堂が出来るまでは、これが阿弥陀寺の本堂だった。
城内では再建の予定がある。“おさんがい”と言っている。

御薬園
会津藩の薬草園である。江戸時代にここで朝鮮人参の栽培に成功している。今では庭園が有名だ。
中心となるお茶屋御殿が、工事中であった。
この写真の中央の建物が楽寿亭。島にある。今は橋が架かっているが、昔は船橋だった。

戊辰戦争当時の刀傷とあるが、ここでは戦闘は行われていない。

楽寿亭をお茶屋御殿側から。
この当時かなり雨が降ってきて、傘を差した状態で撮っている。見事な大木もあったが写真にない。

秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの重陽閣がある。希望すれば中も案内してもらえたが、大雨になったので、遠慮して見学をやめにした。

長い間、朝敵扱いされた会津は、松平容保の孫の勢津子さまが秩父宮さまに嫁ぐことで、心の重荷を下ろしたという。天皇家と親戚になったわけだ。そのためにこうして記念している。

明治6年に、若松の豪商など多くの人が、官有の御薬園を買い、松平家に献上した。会津戦争が終わって間もない時である。全くの不人気というわけではなかった。
松平容保一家は明治16年から数年間ここに住んでいた。

酒蔵末広
酒造工程の見学が出来る。最期の回に間に合った。試飲もできる。四合瓶を買い求めた。

石部桜、樹齢六百年といわれるエドヒガン。江戸時代からすでに名木として知られていて、囲いもあった。

石部桜は大河ドラマ“八重の桜”のオープニングでも使われたことでさらに有名になった。
散り終わる寸前であった。写真では花は判別できない。

旧滝沢本陣、参勤交代や領内巡視の際の、歴代藩主の休憩所。若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにある。
会津戦争のおり、ここまで来て指揮を執るつもりだったが、まもなく城に帰った。
白虎隊もここで命をうけて、戸ノ口原戦場へと出陣した。
城の外側も歩いた。

三の丸口から堀の外側を南に行く。八重桜が満開だった。

内堀。堀の幅は矢の届かない距離、しかし鉄砲や大砲は越えてしまう。

西出丸
今では駐車場になっている。
北と西には出丸、東には二の丸・三の丸があるが、南にはない。
南には湯川があり、その間には外堀があり三重の防御とした。