2017年10月28日

天園ハイキングコース

天園ハイキングコース

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 建長寺の半僧坊から天園ハイキングコースは始まる。

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 建長寺で紹介した、海抜145メートルの勝上献展望台から。
 ハイキングコースはあまり展望はない。すぐそばに民家の屋根が見えたりする。鎌倉を守る城壁の上を歩いているようなものだ。

 ほとんど写真を撮っていない。ちょっとした高みを巻いてしまったのか、案内ではあるはずのものを見落としてしまったようだ。
 前に通ったとき、十王岩あたりで、鶴岡八幡宮を見下ろした記憶があるのだが、樹が茂ったせいか見えなかった。町並みがわずかに見えただけ。

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 十王岩を過ぎると地図にない道がある。戻っていくようだ。

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 通る人に訊いて確認する。指道標の一番上の字は左だが、なんか右のようにも見える。

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 もし雨が降ったら逃げ込めそうな所。

 途中の分岐から覚園寺の方へ向かう。分岐ははっきりしているので迷うことはない。

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 途中で紅葉の落ち葉を見つけた。

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 上を見ると少し赤みがある。

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 このハイキングコースの終点である。
 なお、分岐から大平山を目指すと最高点のあたりに達する。そこはゴルフ場である。その先は瑞泉寺に通じるが、通ったことはない。
 わたしが前にこのあたり(建長寺裏)を二度歩いたときは、道とはいえないような尾根道を歩いた記憶もある。住宅地に下りたかな。一度は別な道から登った。山の中を通ったのかもしれない。下草がなかったので通れた。小さな石像があって、道らしきものはあった。30年以上経つので詳しい記憶が無い。もちろんメインのコースは変わらないだろう。
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2017年10月25日

長谷寺(鎌倉)

海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)

 創建は鎌倉時代より古く、奈良時代といわれる。しかし、梵鐘など鎌倉時代の銘が多い。
 太平洋戦争終戦直後に、浄土宗から独立し単立となった。
 鎌倉の地は狭く、先に紹介した建長寺や円覚寺などは、谷戸(やと)といわれる、小さな谷に建立されている。そのため、門から奥まで、谷に沿って曲がっている。平地の寺院が幾何学的に配置されているのとは異なる。
 長谷寺は、門を入ると下境内で、庭園などがある。主要な堂宇は観音山の中腹の上境内にある。
 その堂宇は関東大震災で倒壊し、その後に再建された。だからどの堂も見るからに新しい。

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 長谷の駅から近い。門前の松の剪定中であった。赤い提灯には長谷寺とある。
 左の方から入る。

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 妙智池 入ると正面にこの池がある。

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 この階段を使わず、左の方から坂道を登ってこの上にいく。

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 その途中にひっそりと良縁地蔵。

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 その脇にひっそりと灯籠。

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 地蔵堂は新しい。見には行かなかった。
 さらにひと登りすると、上の境内に出る。

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 鐘楼
 1264年鋳造の鐘は宝物館にて展示。鐘楼の鐘は昭和59年に鋳造。

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 阿弥陀堂
 はじめにも書いたように堂宇は新しい。

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 阿弥陀如来座像 伝承では鎌倉時代に造立された。他寺にあったものを移したという。

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 観音堂

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 観音堂内には本尊の十一面観世音菩薩がある。このため、通称長谷観音といわれる。
 奈良時代の作と伝わるが、未詳である。室町時代までは遡れるようだ。木造では日本最大級という。

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 見晴台。よく紹介されている場所。鎌倉一望とは言いがたいが、名所だ。

 さらに眺望散策路がある。あまり行く人はいない。山登りになる。

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 こんな整備された道だ。紫陽花が多い。紫陽花の咲く頃は、入り口で待ち行列になる。

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 当たり前だが、見晴台よりよく見える。由比ヶ浜の海岸線が一望で、三浦半島も見える。

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 転輪蔵 経蔵である。一切経が収められていて、観音御縁日などには、回すことが出来る。

 下の境内に下りて案内図の右に方へ行く。

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 弁天堂

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 弁財天の洞窟がある。窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られている。

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 出世大黒天 有名らしいが…

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 和み地蔵 誰もがケータイを向ける。どんな話をしているのか。

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 放生池 案内図の右側の池である。
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2017年10月21日

建長寺

臨済宗建長寺派 大本山
巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)

 本尊が地蔵菩薩であるのは珍しい。
 建長5年(1253年)の創建で、鎌倉五山の第一位。
 鎌倉五山の第一位とは、禅宗寺院の順位であって、鎌倉寺院の順位ではない。

IMG_1213.JPG 案内図
 最初の門(外門)を通ると駐車場であった。この案内図は駐車場にあった。
 右側に赤い点線で囲まれて地域がある。修行道場で立ち入りは禁止である。
 
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 駐車場から総門を入る。

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 山門(三門)、円覚寺では山門を通るとき、中央に高い敷居があった。ここではそれを削って平らにし、通りやすくしてあった。

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 国宝の梵鐘、山門の脇にある。

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 この寺も柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。

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 この崇山門内は立ち入り禁止、案内図の赤い点線で囲まれた地域である。

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 仏殿前の柏槇
 開山禅師のお手植えという。樹齢は約七百六十年。

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 仏殿
 この前で僧侶が団体の参拝者に、説明をしていた。わたしが聞いたときは徳川将軍家との関係など話していた。
 仏殿は1647年に芝の増上寺から移築した。

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 仏殿に入る。
 本尊の地蔵菩薩坐像。

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 天井や周りの絵はかなり傷んでいるようだ。

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 法堂(はっとう)
 他宗派では講堂という。修行の中心の建物であったが、現在は修行道場は案内図の赤い点線内の地域になっている。まあ寺全体が修行場ではあるが。

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 法堂に入る。
 手前の釈迦苦行像(レプリカ)は2005年にパキスタンから寄贈されたもの。
 付け加えれば、釈迦は、苦行は正しい修行方法ではないと苦行をやめ、中道を進むことになる。

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 天井画は新しい。小泉淳作筆の雲龍図。

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金ピカの唐門、この奥が方丈である。
禅寺にふさわしくないのは、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したものだから。

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 法堂を横から。

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 方丈庭園

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 少し戻って、案内図の左側の道をさらに奥へ行く。
 図の外になる。突き当たりから山登りになる。

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 寒山拾得(かんざんじっとく)
 山登りの前に、少し広いところがある。そこにある碑の一つ。

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 半僧坊
 階段の道を登ると、半僧坊大権現にいたる。建長寺の鎮守である。1890年勧請という。建長寺は何度かの火災で創建当時の建物を失っている。徳川時代に徳川家の援助で再建した。そんな歴史を思わせる。
 左上に天狗、その他あちこちに烏天狗の像がある。
 このあたりが建長寺の最上部か。

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 半僧坊からさらに登る。勝上献、海抜145メートル。

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 建長寺を見下ろす。右上の四角い建物は鎌倉学園。
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2017年10月17日

円覚寺

鎌倉 円覚寺
瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)

 久しぶりの鎌倉、何十年ぶりだろうか。
 今更紹介するのも無用の有名観光地だが、歩いた記録だ。
 北鎌倉の駅で躓いた。前の人に続いて出たらなんと臨時改札口。地図ではそのまま右に行けば円覚寺だが、仕切りがあって行かれない。そのため駅をほぼ一周してしまった。

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 いよいよ円覚寺、臨済宗円覚寺派総本山。そうは言っても臨済宗の特徴などは一切知らない。
 鉄道が境内を横切る。ここまで来てようやく思い出す。

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 入り口から総門へ

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 山門(三門とも)
 この山門が一番知られているか。

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 仏殿
 中心の建物である。関東大震災で倒壊し、昭和39年(1964)に再建された。

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 仏殿に入る。まずは敬意を表して合掌する。

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 天井には見事な龍の絵がある。

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 仏殿で金澤翔子さんの書に出会う。若い女性ながら豪快な字を書く。一度お会いしたことがある。藤沢秀行先生の書展を見に行ったとき、別室で個展を開いていたのだ。

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 境内では、柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。仏殿の前にも並んであった。おそらく開山時に植えられたもの。

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 この階段を上ると方丈。門は唐門(からもん)。

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 唐門の門扉

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 方丈前の柏槇(ビャクシン)。

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 方丈に入る。本来住職の住まいだが、多目的に使われている。

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 方丈庭園の一部。

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 方丈の外に出て、脇を通り上に行く。方丈庭園を脇から。右が方丈で、そちらから見るように設計されているはず。

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 妙香池(みょうこうち)
 2000年に、江戸時代初期の形に復元した。放生池(ほうじょうち)である。
 わたしは放生池を見る度に、そのために生き物を捕まえるのは目的に反するのではないかと愚考してしまう。

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 リスを見つけた。台湾リスかもしれない。

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 最後に高みにある鐘堂に登る。洪鐘といい国宝である。
 隣の弁天堂の脇で抹茶を頂く。

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 古い道、この左に新しい道がある。

 塔頭は十九ある。さすが大寺院。原則的に非公開である。
 今回は一眼レフカメラを持たずに行った。写真は全てiPadのカメラである。
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2017年06月01日

会津田島

会津8 会津田島

 5月3日、帰りも会津田島で東武鉄道の“リバティ”に乗り換える。
 すぐの電車もあったが、次の電車にすることにし、2時間ほど田島で過ごした。

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 この桜を見たために途中下車。駅の脇に咲いていた。
 この桜の下に蒸気機関車も展示されている。街も歩く。

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 “ちょっこぐら”とでも読むのだろうか。まずこの大通りを歩く。
 
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 7月22日から24日にかけて会津田島祇園祭が行われる。そのとき運行される本大屋台である。
 1981年に“田島祇園祭のおとうや行事”として、国の重要無形民俗文化財に指定された。

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 本屋台・中屋台・上屋台・西屋台の4つの大屋台から成る。というが、わたしはこの屋台を見て、初めてこの祭りを知ったので、詳しくはこちらをご覧ください。ウィキです。
 会津田島祇園祭

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 駅の南側を歩いた。橋に至る。川の上流を見るとずっと桜が見える。川はコンクリートの味気ない川だが、桜の並木を見て上流に歩いてみた。

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 川といっても水流はほとんどない。

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 八百メートルを超える桜並木だ。

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 途中にあった個人の庭。左下の砂礫は道である。

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 大きく横に張り向こう岸に届きそう。
 突き当たったので、別な道から引き返した。

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 花は白く、葉はすでに伸びている。本来の桜はこうなんだろうな。

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 レンギョウらしい、こんなに大きくなるんだ。

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 この丸形の屋根は田島駅である。駅の南側を三角形に歩いた。
 駅の北側には屋台会館がある。この文を書くために調べていて知った。

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 ここはそば屋であるが、実際に入ったのはこの向こう側の写真にはない小さなそば屋。
 満足できるおいしさだった。
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2017年05月29日

会津若松 余録

会津7 会津若松 余録
 順序は逆になったが、4月30日(日)は会津若松に1時半頃到着した。ホテルに荷物を預け、バスで県立博物館を目指した。停留所は鶴ヶ城三の丸口である。ここは月曜は休館のため、先に見ておこうと思ったのだ。

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 三の丸口の八重の像、女ながら鉄砲隊を率いた。先の大河ドラマ“八重の桜”で有名になった。

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 県立博物館、まるで無人の如し。中はけっこう充実していると思った。

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 廊下橋。三の丸口から入り、二の丸を過ぎると、この橋に出る。二の丸は右側。

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 酒蔵、市内には酒蔵(酒の醸造所)が多い。

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 野口英世青春館。一階は喫茶店である。

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 野口英世青春館の前の通りは歩道を広くして、車は一方通行。
 まっすぐ行くと会津若松駅前に出る。まだ歩道を広げる工事中のところがある。
 この百二十メートルほど南に野口英世像がある。そこは外堀だった。

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 七日町駅、バスの停留所でもある。この道の向かいに阿弥陀寺がある。

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 阿弥陀寺は、会津軍の墓地である。長い間埋葬が許されなかったが、ようやく二カ所に埋葬が許された。
 市内64カ所に集めて埋葬した。という記録もある。
 
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 ここにまとめて葬られた。

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 ここには大仏があったが、第二次世界大戦のとき、軍に供出させられた。今は台のみ。

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 御三階(ごさんがい)、城内にあったものをここに移築した。
 唐破風の入り口は付け加えたもの、元は本丸の玄関。二層と三層の間にも部屋があり、4階建て。
 向こう側の本堂が出来るまでは、これが阿弥陀寺の本堂だった。
 城内では再建の予定がある。“おさんがい”と言っている。

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 御薬園
 会津藩の薬草園である。江戸時代にここで朝鮮人参の栽培に成功している。今では庭園が有名だ。
 中心となるお茶屋御殿が、工事中であった。
この写真の中央の建物が楽寿亭。島にある。今は橋が架かっているが、昔は船橋だった。

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 戊辰戦争当時の刀傷とあるが、ここでは戦闘は行われていない。

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 楽寿亭をお茶屋御殿側から。
 この当時かなり雨が降ってきて、傘を差した状態で撮っている。見事な大木もあったが写真にない。

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 秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの重陽閣がある。希望すれば中も案内してもらえたが、大雨になったので、遠慮して見学をやめにした。

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 長い間、朝敵扱いされた会津は、松平容保の孫の勢津子さまが秩父宮さまに嫁ぐことで、心の重荷を下ろしたという。天皇家と親戚になったわけだ。そのためにこうして記念している。

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 明治6年に、若松の豪商など多くの人が、官有の御薬園を買い、松平家に献上した。会津戦争が終わって間もない時である。全くの不人気というわけではなかった。
松平容保一家は明治16年から数年間ここに住んでいた。

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酒蔵末広
 酒造工程の見学が出来る。最期の回に間に合った。試飲もできる。四合瓶を買い求めた。

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 石部桜、樹齢六百年といわれるエドヒガン。江戸時代からすでに名木として知られていて、囲いもあった。


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 石部桜は大河ドラマ“八重の桜”のオープニングでも使われたことでさらに有名になった。
 散り終わる寸前であった。写真では花は判別できない。
 
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 旧滝沢本陣、参勤交代や領内巡視の際の、歴代藩主の休憩所。若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにある。
 会津戦争のおり、ここまで来て指揮を執るつもりだったが、まもなく城に帰った。
 白虎隊もここで命をうけて、戸ノ口原戦場へと出陣した。

城の外側も歩いた。

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 三の丸口から堀の外側を南に行く。八重桜が満開だった。

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 内堀。堀の幅は矢の届かない距離、しかし鉄砲や大砲は越えてしまう。

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西出丸
 今では駐車場になっている。

 北と西には出丸、東には二の丸・三の丸があるが、南にはない。
 南には湯川があり、その間には外堀があり三重の防御とした。
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2017年05月26日

会津武家屋敷

会津6 会津武家屋敷

 会津武家屋敷というが、家老西郷頼母の屋敷を再現したものが半分。旧中畑陣屋を移築した建物や、くらしの歴史館などが半分である。

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     案内図

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 城の北側、北出丸停留所のそばに、西郷邸があった。今ではこの石碑のみ。外堀の中である。

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 ここから入る。

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 入って左に折れ西郷邸に行く。

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 西郷邸の塀に沿って入り口に向かう。

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 門の脇に西郷四郎の像がある。姿三四郎のモデルである。得意技は山嵐、西郷頼母の養子となった。

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 表玄関である。ここから右は領主などの“お成りの間”。写真では見えないが左に塀が有り、その左には家族や西郷邸使用人の玄関があった。

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 こうして賓客を迎えた。

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 ここが領主などの部屋。廊下の向こうは次の間で有り、一の間はその奥になる。

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 玄関を入ったとなりの部屋“使者の間”で有り、領主などはこの廊下を通ってお成りの間(一の間など)に行く。

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 案内図、上が玄関、左の黄色い部分がお成りの間である。

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 裏庭から

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 図では青い部分、当主の部屋である。

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 左が子ども部屋、右が女中部屋、案内図では右の方。この右が次の奥玄関。

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 奥玄関、この右に台所がある。台所以外は火は厳禁なので、風呂の湯も、台所で沸かして風呂場まで運んだ。

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 中の口玄関、家臣たちの出入り口である。右の塀を隔てて、はじめの表玄関が並んでいる。

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 片長屋、第二資料館としている。戊辰戦争で西郷頼母が登城のおり、女たち21人は足手まといにならないよう自刃した。新政府軍が入ってきたとき、死にきれなかった女が介錯を頼んだという。
 後ろの屏風が逆になっているのが、決意を表している。

新政府軍が会津盆地に入ったのは、8月23日の朝。
自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
西郷は8月26日に容保の使者として城を脱出。
開城は9月23日
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。
 西郷頼母は松平容保が京都守護職に就くのを反対している。それもあって一時家老職を解かれている。会津決戦にも反対した。新政府軍が容保親子の首を要求したため、それを拒否し、会津戦争となった。

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 旧中畑陣屋

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 旧中畑陣屋を裏から

 ここの土産物屋ですてきな茶筒を見つけた。買おうと思って蓋を開けたら、中蓋が開けにくい。プラスチックで、それはいいのだが摘むところが無いのだ。残念だがこれでは使えない。

2018.1.5 追記
 後で思ったが、中蓋などどうでもよかった。使わなければいい。ただ、あのゴテゴテした飾りは好みに合わない。
 帰ってから、100均で好みの茶筒を見つけた。満足している。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 会津藩は将軍家の守りを自認していたため、領民に対しては過酷であり、全く人気が無かったという。軍備を整えるのは平時でも金がかかるのだ。
 戊辰戦争のおりも、多くの民は協力を拒否したらしい。現在、会津の民が松平容保や白虎隊を自慢(とは言いすぎか)するのはおかしいはず。
 愚直に朝廷の守護をして朝敵といわれたが、賊ではないはず。会津戦争などの戦いの様子は郷土の誇れるところであった。
 いま冷静に考えて、苛政もあったが、それを乗り越えて郷土の誇りとしよう。という状況と思える。
 次回に述べるが、明治初期にも松平容保を支持する人は多くいた。明治維新の後、会津からは新時代の優れた人材が続出している。教育に力を入れた結果である。

 インターネットなどで調べるのであるが、諸説ある。意見の表明とはことなり、歴史的事実は? と訊かれると、判らないとしか言いようがない。
 苛政と書いたが、他藩と比べたわけではない。そんな時、わたしの考え方に合致する意見を採りやすい。
 常にそんなことを考えながら書いている。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

ウィキ の「会津戦争」によれば、
(出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2012年6月)) という注釈付き



会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て従来から主張していた和議恭順を藩主・松平容保に勧めるが、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。

しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な租税を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く、逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。

 とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼び捨てにした。

また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも、領民たちの恨みを深くした。

そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、反発するどころか、歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。


 とあり、その説明では、


会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた。

江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで会津藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにも殆ど現れなかった。

『斗南藩史』でも会津領内では藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれた農民など領民の立場からしてみれば、長い間の施政に対する領主への不満に加わったとして会津藩や藩士がほとんど支持されていなかったことなども敗因の一つであると指摘されている。



 会津戦争の鶴ヶ城 に続く
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2017年05月23日

飯盛山

会津5 飯盛山
 会津若松市は観光地を巡って循環しているバスがある。
 まちなか周遊バス、左回り“ハイカラさん”、右回り“あかべぇ”である。一周55分。30分ごとに通る。1日乗車券(500円)を買えば何度でも乗り降りできる。なお1回だけは210円。
 これ以外のバスもある。わたしはこのまちなか周遊バスを使った。
 市内は片道通行が多く、工事中もあって、バスの駅(観光案内所)の説明図と実際の通行路が違うので注意。印刷されたカラーのバス路線図で、現在の通行路を確認する。裏には時刻表がある。
 会津若松駅前の、ハイカラさんの第一便は8:00。あかべぇの第一便は9:15。

 5月2日、晴れたので飯盛山に向かうことにする。あかべぇは待てないので、駅前から歩いて飯森山に行く。約2キロメートルなので、30分ほど。

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 駅前から東へまっすぐに歩くと、飯盛山の前に出る。バスなら5分。

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案内図、楽な参拝順路を行く。

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 白虎隊記念館の前を通り厳島神社の鳥居で右に曲がる。

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 厳島神社は小さい。

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 戸ノ口堰洞穴
 猪苗代湖の西岸戸ノ口から水を引いた。トンネルの水道である。

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 あの白虎隊20名は戸ノ口原の戦に敗れ、この洞穴を通って、ここまで来た。洞穴の長さは約150メートル。

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 水神社、この水道を守っている。

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 水の少ない会津盆地を潤す。

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 この階段を上れば栄螺堂(さざえどう)だ。

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 栄螺堂、この狭い建物に、登りと下りの二重の螺旋階段が組み込まれている。全体像が特異な形をしていることで栄螺堂という。正式名称は三匝堂(さんそうどう)。個人の所有物。

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 宇賀神、来歴も諸説あり、わたしには意味不明である。

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 ここを上がれば白虎隊十九士の墓に至る。

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 白虎隊十九士の墓所。20人が自決しようとしたが1人は助けられた。

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 そばにある慰霊碑

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 ローマ記念碑
 昭和3年、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたローマ市から寄贈された。柱はポンペイの廃墟から。

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 自決の場、この少年の見ている方向に鶴ヶ城がある。自決のとき、まだ城は落ちていなかった。
 通説では、戸ノ口原の戦に敗れ、疲れた身体で水道を通り、城の煙を見てこれまでと思った。
 実際は、城が落ちていないことは知っていたが、圧倒的な兵力の差があり、生き恥をさらすのを望まず、自決したという。その前に城に戻るか玉砕するかで激論があったという。

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 ちょっと見ただけでは、鶴ヶ城の建物はどこにあるか判らない。城の樹木に阻まれてこの写真では判別できない。城まで2キロほどだが、当時でもはっきりは見えなかったのではないか。見慣れているし、城の樹木の位置で、建物の位置は一目で判ったはず。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 
 白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。五隊で合計343名である。白虎隊は本来予備軍だが、全兵力が出払い、援軍要請に対してこの少年部隊しか残っていなかった。
 装備も旧式の銃であり、火縄銃よりましという程度。官軍の新式銃の前になすすべもなかった。
 ローマ記念碑も、イタリアでは話もないのに、こちらから要請したとか。
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2017年05月20日

麟閣

会津4 茶室麟閣

 麟閣(りんかく)は鶴ヶ城公園の東南の隅にある。前回紹介した荒城の月碑の近くだ。千利休の子、千少庵が建てたと言われる茶室である。
 戊辰戦争後、城下に移築され保存されていたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内に移築復元した。

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 お堀に沿った盛り土の上から麟閣を見る。
 遅咲きの桜があちこちで咲いていた。

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 出口の隅で枝垂れ桜が満開だった。

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 この入り口から入る。

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 最初に目に入る茶室、寄付(よりつき)。
 茶道に暗いので、寄付と待合と茶室の区別を知らない。

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 客はこの門を通って、腰掛待合(写真なし)に行くことになる。

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 こちらは中心となる建物
 左の女性がのぞき込んでいる部屋が鎖の間。右が麟閣。

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 説明図 横1000ピクセル

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 普通の茶室とは異なり、控えの間もある。鎖の間といい、茶室につけられた書院的一室。ここから麟閣に行く。

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 茶室麟閣の躙口(にじりくち)。

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 入り口にあった受付の後ろの建物で一休みし、お茶をいただき、外へ出る。
 出口の枝垂れ桜を下から見る。
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2017年05月17日

鶴ヶ城

会津3 鶴ヶ城(若松城)

 5月1日、雨の降る日であった。
 会津若松といえば鶴ヶ城。戊辰の戦役で新政府軍の猛攻を受けた。

   ♪二十日籠りて城落ちぬ

と歌われたが、実際は一ヶ月の籠城で落ちなかった。結局降伏する事によって、戦は終わった。取り壊されたのは明治7年である。石垣は残された。
 昭和40年9月に天守閣が再建され、会津若松市のシンボルとなっている。

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 地図の外側に大きく外堀があったが、外堀は埋め立てられて今はない。
 北口から入ると北出丸を通り、椿坂を通って管理事務所に至る。
 西出丸からは梅坂を通り、二の丸からは廊下橋を通っても、やはり管理事務所の前に出る。
 今は“旧表門”から入場券売り場に行き、天守閣に上れるが、本来の登城の道は南に下り、表門から本丸に行ったのであろう。

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 椿坂
 さくらまつりの表示があるが、もう普通の桜は散ってしまった。いわゆる葉桜である。
 傘を差しての登城となった。

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 椿坂の突き当たり、この辺りの石垣は、きちんと整形された石で組み立てられている。

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 ここを曲がると、天守閣は近い。

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 上の石垣の内側にはこのような階段がついている。“武者走り”という。

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 鶴ヶ城(若松城)の天守閣の石垣は傾斜が緩い。

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 旧表門を通って、天守閣に入る。

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 天守閣は最上階しか展望がきかない。
 真ん中辺りの手前の山が、飯盛山である。

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 本丸跡、藩政の中心部である。天守の東側。

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 南走長屋、このような構造は他の城では見たことがない。天守の南側。
 中程の門が“鉄門”といわれる表門である。

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 天守の西側、桜の木に囲まれている。何だったのだろう。

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 登城の道である。天守の北側、武者走りが見える。

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 天守閣内は一方通行で、下りるときは南走長屋を通って外へ出る。
 出口より表門(鉄門)を見る。

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 真ん中辺りがもう一つの出口。南走長屋を通らずに出たい人はここから。

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 荒城の月碑。南東の隅にある。
 昭和22年に、作詞者土井晩翠夫妻を迎えて、除幕された。荒城の月碑は鶴ヶ城・青葉城・竹田城址の三カ所にある。

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 本丸側から天守を見る。
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2017年05月13日

塔のへつり

会津2 塔のへつり

 会津線の途中に“塔のへつり”という駅がある。塔の岪(へつり)という観光地があるのだ。途中下車して見に行く。駅から300メートルほど歩く。

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 “岪”はちょっとお目にかかれない珍しい字だ。へつりとはこの地方の方言で、危険な崖の意味だという。

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 塔の姿ははっきりしない。説明板がないと判りにくい。

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 この吊り橋を渡って、向こう岸へ行く。

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 削られてへこんだ部分は人が通れる。

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 下流方向、谷の深さが判る。

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 危険というほどではないが、気をつけて通る。

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 対岸つまり、向こうからこちらに渡ってきた。

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 上へ行く。

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 虚空像菩薩

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 茸の傘を思わせる。
 それほど広いところではないので、時間はかからない。戻ることにした。

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 ちょうど桜が満開だった。

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 土産物屋の飾り。何軒か店がある。
 昼時なので、ある店で、(会津の)名物だという、“ソースカツ丼”を食べてみた。ご飯の上に申し訳程度に薄くキャベツの繊切りを載せ、とんかつを載せ、ソース(市販のとんかつソース)をかけただけのもの。うわー二度とごめん。これなら普通に別々に出せば良い。ソースの量だって自分で調整したいし、キャベツも食べたい。
 キャベツが少なくて済む、使う食器が皿一枚省略できるか。まさか。なんかのいきさつがあったんだろうな。お新香が多種で、汁はかけそば。
 会津市内にもあるメニューだが、二度と食べる気がしない。
 トンカツそのものはおいしかったので、この出し方はもったいない気がした。
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2017年05月10日

会津鉄道会津線

会津1 会津鉄道会津線
 何年ぶりだろうか、会津若松へ二度目の旅である。
東武鉄道の新型車輌“リバティ”で、北千住から会津田島まで3時間ほど。そこから会津鉄道会津線に乗り換える。

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 まだリバティが運行して10日しか経っていない。会津田島ではみんながカメラを向けている。

 乗り換えて、“塔のへつり”で途中下車して2時間ほど過ごし(後述)、再乗車して会津若松に向かう。

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 特別列車である。2輌のうち1輌がお座敷車輌で、こうして靴を脱ぎ、布団に腰掛け、車窓を眺めながらの旅になる。4月30日、日曜日ではあったが、5月1日2日は平日なせいか、この車輌の乗客は5人だった。
 「お座トロ展望列車」というのがこれか。1輌はお座敷だったが、もう1輌はトロッコだったのか。そのようには見えなかったが。

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 会津線はかなりの高地を走る。だが山岳列車ほどの勾配はない。トンネルが多く、線路は直線が多いので、案外速い。45キロメートルの区間を70分。列車によって異なる。

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 沿線はあちこちで桜が満開であった。駅ではこうしてこの特別列車の写真を撮る人が大勢いる。
 外装の絵と桜が重なっておもしろいのかな。
 なおほとんどの駅は無人駅である。

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 こうした景色の良いところに出ると、しばらく停まってくれる。

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 トンネルに入ったら車内の照明は行灯スタイル。

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 ダム湖である若郷湖(わかさとこ)。阿賀川(阿賀野川本川)の上流にある。1987年(昭和62年)に竣工した。
 前回、バイクでこの橋の上を通ったときは、中程で身体がふるえた。

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 こちらは谷が深い。
 こうして駅以外でも停まるため、時間はかかる。この線はこうして車窓の景色を楽しむ旅だ。
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2017年04月19日

醍醐寺2004年

醍醐寺(だいごじ)
 醍醐寺は世界文化遺産である。桜の名所でもあり、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地として知られている。
 応仁の乱でほぼ全焼しているが、秀吉の頃から再建されている。
 東山のさらに東にあり、京都駅からは山科で乗り換えて、南北に走る地下鉄東西線で醍醐駅まで行き、東に向かって、800メートルほど歩く。まっすぐな道ではない。
 大きく上醍醐と下醍醐に分かれる。
 総門から入った辺りは三宝院などある地域。まずは上醍醐を目指す。

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 場所は特定できないが、枝垂れ桜である。もちろん秀吉の時代の桜ではない。
 総門を入った辺りは桜並木でもある。

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 場所は判らない。
 まず奥へと行った。三宝院の前を通り、仁王門を通ると下醍醐。金堂や五重塔を過ぎる。

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 上醍醐登山口とある。門の名はないようだ。図には載っていない。
 
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 弁天堂
 弁天堂を過ぎると、上醍醐への山道。

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 山道を登る。案内図ではとなりのようだが、説明では一時間とある。直線距離で1.3キロほど。

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 上醍醐不動の滝

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 登山といっても過言ではないだろう。文字通りの入山である。(^_^)

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 整備された歩きやすい道だ。

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 如意輪堂 1613年再建(重文)

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 開山堂 1606年再建
 醍醐寺は874年に、上醍醐に始まる。907年に上醍醐の伽藍が完成した。

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 薬師堂

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 准胝堂(じゅんていどう)
 1968年に再建した建物。2008年8月24日落雷の火災により焼失した。今はない。

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 下醍醐に下る。

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 観音堂、昭和5年の建立なので、この地域では新しい。元は講堂であった。

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 伝法学院、修行道場である。
 仁王門では、10人を越える修行僧の群れに出会った。

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 五重塔
 951年建立、京都最古の木造建造物という。その頃下醍醐の伽藍が完成した。
 応仁の乱でも、この塔だけは火災を免れた。

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 金堂 1600年建立(紀州湯浅から移築) 国宝である。

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 三宝院は1115年の建立。
 唐門 国宝 2010年7月に修復されている。これは修復前の姿である。

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 襖絵、夜桜か。

 三宝院は庭園が良い。一人でゆっくり見ることができた。しばらくしたら係の女性が、「説明いたしましょうか」と言うのでお願いした。

 雨月茶屋で一休み、食事もしたかな。その近くで、初めて水琴窟の音を聞いた。

醍醐寺は真言宗醍醐派総本山
上醍醐のある醍醐山頂は標高450m
境内面積は200万坪(6.6平方キロメートル)以上という。
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2017年04月02日

姫路城1984年

姫路城1984年
 姫路城は、別名の白鷺城で親しまれている。1993年にユネスコの世界遺産に登録されている。
 江戸時代初期に建てられた天守や櫓などの主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。建て直したものではない。
 現在の規模になったのは、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政による。
「姫路城跡」として国の特別史跡にも指定されている。
 2009年6月〜2015年3月にかけて、大天守保存修理工事が行われた。
 この写真はその修理の前である。といっても変わるわけではない。

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 ここから姫路城に入る。

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 大手門、戦の備えというより、権威を示す門構えだ。

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 三の丸跡、三の丸広場。

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 三の丸広場にはほとんど人がいない。

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 天守に近づく。姫路城は大天守と小天守3棟を四角く連ねた連立天守である。

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 姫路城の縄張りは複雑。天守閣までかなり距離がある。
 この日は天守閣に登ることができなかったので、内堀の外側を左回りに一周した。
 裏側は石垣ではなかった。

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 五位鷺のようだ。昔から鷺が多かったらしい。

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 一周して、ホテルに引き上げる。

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 元日の朝、天守閣を目指す。

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 左の方から、ジグザクに登っていく。天守閣に背を向けることもある。

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 鉄砲狭間の階段。

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天守閣の下を回り込む。

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 天守閣の下を一周して出入り口に至る。

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 天守閣の西側西の丸跡など。

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 南側。三の丸広場と、その向こうの大通りは姫路駅の方角。

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 東南の方向。下の広場は備前丸跡。備前丸は姫路城の本丸にあたる。

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 三国堀は写っていないが、その向こうに天守閣。

 こう見てみると、天守閣に至る道は複雑で、攻めにくい。しかし、三の丸や西の丸に敵兵が満ちて、天守閣で守るようでは、負け戦で籠城戦にもならない。援軍が来るまでの時間稼ぎくらいか。
 現実的には、敵軍が山陽道を通るのを防ぐのが目的。常に大軍を擁したので、藩の経済的負担は大変だったらしい。
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2017年03月23日

高山1979年

高山1979年

 初めて飛騨高山に行ったときである。駅でもらった観光案内を見ながら歩いた。
 今となってはどこをどう歩いたか、はっきりしない。

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 まず、見に行ったのが飛騨民族村。高山駅から南へ下り、陸橋を渡る。

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 飛騨民族村へは1キロ半ほど歩いただろうか。
 合掌造りの家がある。

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 一階が住まい。2階3階は養蚕のための屋根裏のようなもの。

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 古民家らしく、木製の車輪が並んでいた。

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 円盤状の板もある。

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 右端の小さな家は水車小屋だったか。

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 高山陣屋
 飛騨が徳川幕府の直轄地となってからは、江戸から来た代官や郡代が、ここで飛騨の政治を行った。この役所は陣屋と呼ばれ、城ではない。残っているのは高山だけという。

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 形はきれいに残っている。

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 倉庫。かなり広い。

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 宮川にかかる中橋
 宮川の朝市で、珍しくアケビを見つけた。
「わーおいしそう。これください。おいくらですー?」
「値段のつけようがないので、差し上げますよ」
 大勢歩いているが、これを欲しがったのはわたし一人だけとか。
 無料でもらったのに、喜ばれた。

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 古民家の頭上、見事な木組みである。

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 別な家だがこれも古民家。

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 照蓮寺、尼さんが福来博士(文学博士)の説明をしてくれたが……。
 福来博士は月の裏側の写真を撮ったと言っていた人物。

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 国分寺の塔、ここは入らなかった。

付録
 白川郷まで足を伸ばした。数コマの写真を載せておきます。

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この谷間の風向きを考えて家の向きを決めている。そのため位置によって少しづつ向きがずれる。
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2017年03月14日

壺阪寺1977年

壺阪寺1977年
 壺阪寺は高取町にある。明日香村の南である。

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 人形浄瑠璃『壺坂霊験記』で有名なところ。
 浪曲でも、「妻は夫を労りつつ夫は妻に慕いつつ〜」 と、ちょっと日本語としておかしいが。
 盲目の沢市と妻お里の夫婦愛の奇跡の舞台。
注:寺の名は「阪」、浄瑠璃は「坂」を使っている。

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 現在はこんなに余裕はなさそう。びっしりと建物が建っているようだ。

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 思えば初めて牡丹を見た記憶がある。

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 匂いの花園、盲人のために香りの強い花ばかり集めたという。

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 この椅子は座ると歌が流れる。
 今でもあるのかな。検索すると全体的に当時なかったような物ばかり。

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 五百羅漢。高取城趾への途中にある。壺阪寺の所属らしい。

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 高取城趾は石垣のみ残っている。典型的な山城で、城が壊れると江戸幕府に許可をもらう前に修理をすることができた。他の城では許可をもらってからにしないと、お家取りつぶしにあったという。規模はかなり大きかった。
 
 壺阪寺からとは別な道を高取町に下った。2キロ以上あったかな。細い登山道である。しかもその道は城趾でもあった。
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2017年03月09日

明日香1977年

明日香1977年

 明日香村(あすかむら)といえば、日本古代史の地である。
 奈良県の中央付近にあり、中央集権律令国家の誕生の地であり、飛鳥時代の宮殿や史跡が多い。
 いまだ村であるのは、村全体が史跡であり、開発が制限されているからだ。
1977年5月、そのときは、まだ村についての詳しいことは知らなかった。わたしが初めてカメラを持ったときだった。
 岡寺駅で降りて、バスで村役場近くまで行った。その近くの民宿に泊まった記憶がある。
 第一の目的は岡寺(龍蓋寺りゅうがいじ)であった。この寺には掌にのるほどの小さな観音像があるはずだった。しかし、それは京都博物館に貸し出されていて、見ることはできなかった。後に京都博物館で見ることができた。
 いま岡寺を検索しても、この像の話が出てこない。どうなったのだろう。

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 岡寺は少し登る。

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 仁王門、西国七番霊場岡寺。

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 ここも岡寺と思うが記憶にない。上記の観音像がなかったのですぐに退散した。今ならじっくり見るだろう。見所は多いようだ。
 小さな寺だという記憶がある。とんでもない、大寺らしい。当時は寺や宗教に対する知識がなかったのだ。

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 石舞台古墳
 バスに乗って石舞台古墳へ。封土がなく、石が露出している。蘇我馬子の墓ではないかといわれているが、被葬者は不明である。
 最大級の方墳であり、天井石は約77トンもある。
 当時は農地の中にぽつんとあって、訪れる人もほとんどいなかったが、今では整備された公園になっている。

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 川原寺(かわらでら)跡。国の史跡に指定されている。礎石を見ると、大寺院であったことを実感する。
 向こうの寺は弘福寺(ぐふくじ)で、川原寺の金堂かあったところ。

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 川原寺(かわらでら)は、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であった。
 向こうに見えるのは橘寺。
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 川原寺跡のすぐ近くに聖徳太子ゆかりの橘寺(たちばなでら)がある。

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 橘寺の本尊は本堂に聖徳太子、観音堂に如意輪観音。

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 天武天皇9年(680年)4月に火災に遭っている。つまりこのときには寺があった。
 史実としては、橘寺の創建年代は不明である。
 この寺には五重塔の心柱の礎石がある。このとき心柱は礎石の上に乗っているだけと知った。それまでは地中に埋まっていると思っていた。

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 有名な亀石。製作意図は不明で、未完成説も有力。

 以下の石は猿石と呼ばれている。

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何のために作られたのだろう。
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2017年03月05日

室生寺1977年

室生寺1977年

 室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある山岳寺院で、真言宗である。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。機会があったらシャクナゲの時季に行ってみたい。
 室生口大野からバスに乗って山に登る。バスの時間はたいしたことはないが、このとき乗り物酔いで目的地の少し手前で降りた。

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 仁王門から入る。

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 金堂へ階段(鎧坂)を上る。全体的に山の中腹にあり、坂道と階段が多い。

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 金堂
 雨が降ってきた。こうなるとカメラを出すのも面倒になる。
 中には国宝や重文の像が並んでいるが、記憶にない。暗くて見えなかったか。

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 屋外にある五重塔では最も小さいという国宝の五重塔(平安時代初期)。法隆寺五重塔に次ぐ古塔でもある。
 1998年に台風で一部破損した。もちろん修理された。いまの写真を見るとイメージが一新。まるで新品のようだ。
 特徴は小さいこと以外に、屋根の大きさが一層目と五層目であまり変わらないこと。にもかかわらず、塔身は上層がかなり小さいこと。

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 奥の院への長い山道の途中。

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 門から出て、室生川の下流方向。

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 同じく上流方向。

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 小雨になった。
 バスで山を下りる。

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 駅の近くにある大野寺の弥勒磨崖仏。

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 川の向こう側であり、像ははっきりしない。晴れていればきれいに見えたか。
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2017年01月18日

江の島

江の島
    2016.12.17.chizu.jpg  横千ピクセル

 今更江の島もないが、前回見てからのあまりの変わりようにびっくりして、載せることにした。
 名前は「江の島」と「江ノ島」の両表記がある。

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 小田急江ノ島線で片瀬江ノ島まで行く。

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 江の島弁天橋。これは歩道であり、左には車道の江ノ島大橋がある。

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 弁財天仲見世通り。狭いとはいえ、この島の中心的存在である。

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 瑞心門を前にして、江島神社の辺津宮にお参りせずに右へ行く。岩屋へ向かった。本来の参道は左に行く。

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 人通りの少ない道だ。

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 江島神社の奥津宮

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 江の島は南側は岩礁が入り組んでいる。大正時代の関東地震のとき、島全体が2メートルも隆起した。

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 稚児ヶ淵辺りから富士を見る。近い。

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 ボートが多い。
 1910年(明治43年)に逗子開成中学校の生徒12人の乗ったボートが転覆し、全員死亡という事件があった。「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」で歌われている。
 最後にこの歌詞を載せておく。
「真白き富士の嶺」と書く例もあるが、本来は「根」であった。
 12人は学校の許可なく乗り出したが、冒険を後押しする雰囲気があって歌になったとか。

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 岩屋への道はきれいに整備されている。道というより橋だ。これには驚いた。

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 わたしの記憶はこのような道で、洞窟には入れなかった。
 この廃道は途切れている。
1993年(平成5年) - 22年にわたり閉鎖されていた岩屋が調査・整備の後、有料観光施設として再開された。
 と藤沢市の説明があるので、わたしが前に行ったのは、その前ということになる。

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 第一岩屋の入り口近く。与謝野晶子の歌碑。
 
沖つ風 吹けばまたゝく 蝋の灯に
志づく散るなり 江の島の洞
  晶子


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 この奥で小さい蝋燭が手渡される。

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 小さな風よけに絵が描いてあったが、写真でははっきりしない。

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 第一岩屋の最奥

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 第二岩屋へ

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 第二岩屋の入り口

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 天井は電飾である。

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 第二岩屋の最奥

 これから植物園に入り、江の島展望灯台に上がったりしたのだが、写真はない。


   七里ヶ浜の哀歌 (真白き富士の根)
1.眞白き富士の根 高フ江の島
  仰ぎ見るも 今はなみだ
  歸らぬ十二の 雄々しきみ霊に
  捧げまつる 胸と心
2.ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
  風も浪も 小(ち)さきうでに
  力もつきはて よぶ名は父母
  恨みは深し 七里ヶ濱邊
3.み雪は咽(むせ)びぬ 風さへさわぎて
  月も星も 影をひそめ
  み霊よいづこに 迷ひておわすか
  歸れはやく 母の胸に
4.御空にかヾやく 朝日のみ光り
  闇(やみ)にしずむ 親の心
  黄金(こがね)も寶も 何しに集めん
  神よ早く 我もめせよ
5.雲間に昇りし 昨日の月影
  今は見えぬ 人のすがた
  悲しさ餘りて 寝られぬ枕に
  響く浪の おとも高し
6. 歸らぬ浪路に 友よぶ千鳥に
  我も戀ひし 失(う)せし人よ
  つきせぬ恨の 泣く音(ね)は共々
  今日もあすも かくて永久に
 
posted by たくせん(謫仙) at 11:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月11日

城ヶ島

 12月16日17日、三浦海岸で一泊の碁会があった。17日の昼に解散し、わたしは足を伸ばして、城ヶ島を一周してきた。
 三崎口からバスに乗り、三崎港で降りる。そこで昼食。バスでは遠回りなので、船で城ヶ島に渡った。

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 船に乗ろうとすると、その近くに三崎館本店という、なにやら床しいような場違いなような家がある。料理屋だ。

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 2分ほどで城ヶ島に着いた。富士山がはっきり見える。

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 歩き出す。時計逆回りに海岸を行く。度重なる海底の隆起と褶曲、そして火山の影響も有り、海岸線は複雑になっている。

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 狭い道を行く。両側は閉まっている店が多い。季節外れかな。

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 城ヶ崎灯台の前にこの像がある。

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 ここには行かなかったが、なにやら洋風。

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 城ヶ崎灯台、東京湾の入り口にあたる。海面から灯火まで約30メートル。中には入れない。

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 こうして複雑な地形をしている。地層は何重にも積み重なって、曲がりくねっている。
 曲がり具合を写した写真がないのが残念。
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 馬の背洞門が見える。

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 馬の背洞門から上がる。ここでも何層もの地層が見える。

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 馬の背洞門は自然の彫刻。上は通れない。通ってはいけない。
 南東へ城ヶ島公園までは見晴らしのきかない道が続く。

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 城ヶ島公園の一番東にある安房岬灯台。

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 公園の見晴台から、北西を見ると、島の南西側が樹木に覆われていることが判る。
 島の北東側つまり海峡側の平地はほとんどが埋め立て地だ。民家などが集まっている。白秋が三崎に住んでいたころとは、かなり趣が違うだろう。

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 城ヶ島大橋は、下を船が通るため橋桁はかなり高い。

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 有名な北原白秋の詩碑である。

作詞:北原白秋
作曲:梁田貞
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ


この上の2行が刻まれている。
なお、「通り矢」は今は埋め立てられてしまった。三崎側に地名が残っている。
posted by たくせん(謫仙) at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする