2017年06月29日

虹のジプシー

虹のジプシー
式 貴士   CBSソニー出版    1980.11
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 ある日、地球の周辺に、月のように地球が出現した。
 それが毎日増えていって、数百の地球となった。大きさも地理も地球と同じ。人々はその状態に慣れていった。
 主人公の流水五道(つるみごどう)は恋をして、心中しようとして、不思議な宇宙生命体に助けられる。宇宙生命体は猿の姿をしていて、孫悟空と名乗った。そして流水はいわゆる超能力者にされて、憧れの貴美子の幻影を追うように、空に浮かぶ地球のいくつかを遍歴する。

 先に紹介した「もしも月がなかったら」に似たプロットである。「もしもこんな地球があったら」という小説である。
 いきなり人の消えてしまった地球。ソ連に支配されている日本。誰もがコスプレをしているような世界。国境のない戦争のない、10歳のとき三分の二は生殖不能にされて人口調節をしている世界。その他。
 十年ほどかけて、地球TからYまでをえて、最後に行った地球で自分の居場所を見つけたとき、空の地球は消えていた。
 さて、ここでいくつかの地球が元の地球と同じように重力があるとなると、すべての地球は他地球の重力の影響で、メチャクチャになっているはずだ。「もしも月がなかったら」を読んだばかりなので、この本を読んでいる間、頭の中で重力問題が離れなかった。
 ファンタシィと同じような、科学性を無視した小説として読むことになる。
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2017年06月20日

もしも月がなかったら

もしも月がなかったら ― ありえたかもしれない地球への10の旅
ニール・F・カミンズ   東京書籍   1999.7
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 SF的科学書とでもいうのか。イフ・ワールドの世界である。
 もし月がなかったら、地球はどうなっていただろうか、という科学的考察をしている。
 この内容を用いて小説にすればSFになる。小松左京の小説は科学的説明が、このレベルになっていたと思う。
 普通の小説はここまで厳密ではない。

1章 もしも月がなかったら?
2章 もしも月が地球にもっと近かったら?
3章 もしも地球の質量がもっと小さかったら?
4章 もしも地軸が天王星のように傾いていたら?
5章 もしも太陽の質量がもっと大きかったら?
6章 もしも地球の近くで恒星が爆発したら?
7章 もしも恒星が太陽系のそばを通過したら?
8章 もしもブラックホールが地球を通り抜けたら?
9章 もしも可視光線以外の電磁波が見えたら?
10章 もしもオゾン層が破壊されたら?

 たとえば月がなければ、1日は8時間になっている。潮汐はほとんど無い。風が強く、会話も聴力より視力が用いられる。
 そうなると…と、いろいろと影響を及ぼす。あることが変わると、それが原因となって、思いもよらない結果となるのだ。生物の進化の様子もだいぶ異なり、もし人が発生したとしても、人の生き方は現代とは全く違った生き方となる。
 現在の地球が、奇跡のような偶然のバランスを保っていることを知ることになる。

 若い頃はこんな話に夢中になったものだが、今では少し敬遠気味。もし人が百メートルを9秒で走れたら、8秒で走れたら、7秒で走れたらと、いくらでも仮定は設定できる。
 おもしろい話だが切りがない。だから、それらが小説と結びついて、おもしろい小説になった時は読む。今回は小説ではないが一応全部読んだ。最後の、
10章 もしもオゾン層が破壊されたら?
また、この本にはないが、地球の温度が2度高くなると?
 など、現実的な問題となってマスコミを賑わしている。

 この「もしも……だったら」という問いは、あまり意識しないが、常に考えていることでもある。
 もしも大金持ちになったら、もしも失職したら、もしも断水したら、もしも停電になったら、もしも電車が止まったら、もしも……、というように。
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2017年06月12日

宗教なんかこわくない!

宗教なんかこわくない!
橋本 治   マドラ出版   1995.7
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 少し古い本である。1995年といえば、地下鉄サリン事件のあった年である。サリン事件の余波の中で書かれている。
 この題名は、「宗教は怖い」と言う人がいたことを前提にしている。宗教とは怖いものだろうか。

  宗教とは、この現代に生き残っている過去である。

 わたしは、「神仏は尊し、神仏を頼まず」で一貫している。
 悟りとは「修行などしても無意味であることを知ること」と思っている。無意味ではあるが、修行することを馬鹿にすることはない(神仏は尊し)。ただ、わたし自身はすでに悟っているので、宗教の修行はしない(神仏を頼まず)。
 インドでは輪廻転生の思想があった。それは永遠の苦しみであった。解脱とはその苦しみから逃れること。つまり“転生しない人”になることである。
 日本人には転生の思想はない。だから日本人は“転生しない人”になっている。すでに解脱している。だから解脱のために修行する必要はない。
 こう考えるわたしの心に響く本であった。

 むかし、宗教は怖いものだった。神罰は恐ろしい、仏罰も恐ろしい。だから、宗教は国家権力より上にあるのが普通だったのだ。
 しかし、日本では織田信長の比叡山焼き討ちにより、宗教は怖いものではなくなった。江戸時代に、仏教は檀家制度で為政者の下に組み込まれた。役所仕事の下請けになった。もはや仏教は宗教としての力はなく、国を動かす力はもちろんない。
 明治維新後は国家神道が強制された。
 現在、憲法では、信教の自由・強制されない自由がうたわれている。
 宗教には2種類ある。社会を維持する宗教と、個人の内面に語りかける宗教だ。
 社会を維持する宗教とは、たとえば五穀豊穣を願うような宗教である。
 個人の内面に語りかける宗教とは、(たとえば)仏教とキリスト教である。出家者が多くなれば国が滅びる。消費するだけだからだ。滅びないためにはそれなりの生産力が要求された。

 この本は「生き方は自分で考えよ」というのが主題だが、自分で考えられない人は他人の考えたことに従うようになる。たとえば釈迦やキリストの考えに従う。釈迦やキリストの言葉を疑問に思わない人は多いだろう。あるいは社会や会社のリーダーに従う。
 信用できる優れた人を選び従う事も一つの方法だ。
 現代は現代なりの、日本なりの問題がある。そんなとき新たに解釈して「こう生きよ」と言い出したのが新興宗教だ。自分で考えられない人はその言葉に従ってしまう。
 わたしは解脱していると言ったが、能力に限界があり、劣悪な選択をしているかもしれない。
 日本人は織田信長以来、宗教が怖くなくなったはず。それでオウム真理教を考えてみると、矛盾だらけに気がつく。
 この本は宗教の本ではなく、オウム真理教の矛盾をあぶり出す本である。だから仏教やキリスト教には深入りはしていない。

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 たとえば、仏教に仏罰という概念はない。仏罰を説くのは間違いである。しかし、日本の仏教は有りもしない仏罰を説く。そんな仏教を対象にして語っている。
 仏罰はない。では破戒者はどうなるのか。ただ破戒者は立派な仏教者になれないのだ。
 学校に行っても、怠けていては学問が身につかないのと同じ。
 仏教僧侶は葬式を職業としているようだが、実は釈迦は「葬式は在家の方だけでして、出家者は関わるな」と言っている。そもそも職業をもっていては、出家者ではない。
 わたしの友人には、各種の○○教徒がいる。その人たちの態度はわたしよりよほど規律正しく、人として優れている。だから、尊敬こそすれ怖いことはない。
 あらためて宗教とはなにかを考えさせられた。

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 かなり前だが、この本の題名と同じ論理で、「国を思うて何が悪い」という本があった。
 これは「国を思うのは悪い」と言った人がいたことを前提にしているはずだ。しかし、そんな人がいるのかねえ。
 その「思いかたが悪い」と言った人が大勢いることは知っている。しかし、「思うのが悪い」と言うのは想像できない。キリストやローマ法王なら言ったかなあ。お釈迦様は言わないだろうな。
(実際は、“思う”かどうかではなく“思いかた”を論じている本である。だから題名が間違っているというべきか)
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2017年06月06日

囲碁AI新時代

囲碁AI新時代
王 銘琬   マイナビ出版   2017.3
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 AI囲碁の典型的な打ち方の紹介とその解説の書だ。
 昨年囲碁ソフト AlphaGo (アルファ碁)がイセドル九段に対し4勝1敗で話題となった。
 さらに昨年末にはMaster(マスター、AlphaGoの改訂版)が登場し、一流棋士に30戦全勝。
 国内でもデープゼンが登場し趙治勲九段と五分(1勝2敗)に渡り合っている。
 この一二年で、一気に10年と予測された時間を縮めてしまった。
 王銘琬九段も囲碁ソフトの開発には協力していたので、この方面に詳しい。
 各ソフトは個性的で、ソフトごとに特徴があるという。その比較。
 ミニマックス法やモンテカルロ法やディープラーニング(深層学習)などの説明もあるる。
 全体的には囲碁界はこのソフトのレベルアップを歓迎している。多くの棋士が積極的に研究しその打ち方を取り入れている。もう人間と比べてどっちが強いという時季を脱している。
 王九段のこの事態に対する現在の見識を示し、解説をしている。そして、この後も見識が変わるかもしれないという予想もしている。この柔軟性があるのだ。

 驚くのはこの日本語の文章力。HPに書いていた頃から文章力には感心していたが、あらためて脱帽する。
 銘琬はメイエンと読む。わたしはメイワンとしか読めなかったが、辞書にはエンという読み方があった。さらにご本人に訊ねたところ、子どものとき、親御さんに「『日本語ではメイエンと読む』と言われましたよ」とおっしゃっていた。

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 いま世界ナンバーワンの柯潔(か けつ、柯洁)九段が、5月23日25日27日にAlphaGoと三局打ち、三連敗した。もはや人では勝てない。一説では二子でも勝てないという。
 これをもってAlphaGoは引退つまり碁をやめるという。DeepMind社とって碁は本来の仕事の一過程であったわけだ。
 普通の会社では、もちろん個人でも、何百億円もの金を碁の対局につぎ込むことはなかなか出来ないので、当分これだけのソフトは出て来ないだろう。ただ準ずる程度なら出来そうな気がする。
 碁神の人に対するいたずらだったのか。
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2017年06月01日

会津田島

会津8 会津田島

 5月3日、帰りも会津田島で東武鉄道の“リバティ”に乗り換える。
 すぐの電車もあったが、次の電車にすることにし、2時間ほど田島で過ごした。

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 この桜を見たために途中下車。駅の脇に咲いていた。
 この桜の下に蒸気機関車も展示されている。街も歩く。

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 “ちょっこぐら”とでも読むのだろうか。まずこの大通りを歩く。
 
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 7月22日から24日にかけて会津田島祇園祭が行われる。そのとき運行される本大屋台である。
 1981年に“田島祇園祭のおとうや行事”として、国の重要無形民俗文化財に指定された。

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 本屋台・中屋台・上屋台・西屋台の4つの大屋台から成る。というが、わたしはこの屋台を見て、初めてこの祭りを知ったので、詳しくはこちらをご覧ください。ウィキです。
 会津田島祇園祭

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 駅の南側を歩いた。橋に至る。川の上流を見るとずっと桜が見える。川はコンクリートの味気ない川だが、桜の並木を見て上流に歩いてみた。

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 川といっても水流はほとんどない。

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 八百メートルを超える桜並木だ。

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 途中にあった個人の庭。左下の砂礫は道である。

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 大きく横に張り向こう岸に届きそう。
 突き当たったので、別な道から引き返した。

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 花は白く、葉はすでに伸びている。本来の桜はこうなんだろうな。

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 レンギョウらしい、こんなに大きくなるんだ。

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 この丸形の屋根は田島駅である。駅の南側を三角形に歩いた。
 駅の北側には屋台会館がある。この文を書くために調べていて知った。

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 ここはそば屋であるが、実際に入ったのはこの向こう側の写真にはない小さなそば屋。
 満足できるおいしさだった。
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2017年05月29日

会津若松 余録

会津7 会津若松 余録
 順序は逆になったが、4月30日(日)は会津若松に1時半頃到着した。ホテルに荷物を預け、バスで県立博物館を目指した。停留所は鶴ヶ城三の丸口である。ここは月曜は休館のため、先に見ておこうと思ったのだ。

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 三の丸口の八重の像、女ながら鉄砲隊を率いた。先の大河ドラマ“八重の桜”で有名になった。

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 県立博物館、まるで無人の如し。中はけっこう充実していると思った。

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 廊下橋。三の丸口から入り、二の丸を過ぎると、この橋に出る。二の丸は右側。

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 酒蔵、市内には酒蔵(酒の醸造所)が多い。

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 野口英世青春館。一階は喫茶店である。

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 野口英世青春館の前の通りは歩道を広くして、車は一方通行。
 まっすぐ行くと会津若松駅前に出る。まだ歩道を広げる工事中のところがある。
 この百二十メートルほど南に野口英世像がある。そこは外堀だった。

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 七日町駅、バスの停留所でもある。この道の向かいに阿弥陀寺がある。

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 阿弥陀寺は、会津軍の墓地である。長い間埋葬が許されなかったが、ようやく二カ所に埋葬が許された。
 
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 ここにまとめて葬られた。

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 ここには大仏があったが、第二次世界大戦のとき、軍に供出させられた。今は台のみ。

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 御三階(ごさんがい)、城内にあったものをここに移築した。
 唐破風の入り口は付け加えたもの、元は本丸の玄関。二層と三層の間にも部屋があり、4階建て。
 向こう側の本堂が出来るまでは、これが阿弥陀寺の本堂だった。
 城内では再建の予定がある。“おさんがい”と言っている。

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 御薬園
 会津藩の薬草園である。江戸時代にここで朝鮮人参の栽培に成功している。今では庭園が有名だ。
 中心となるお茶屋御殿が、工事中であった。
この写真の中央の建物が楽寿亭。島にある。今は橋が架かっているが、昔は船橋だった。

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 戊辰戦争当時の刀傷とあるが、ここでは戦闘は行われていない。

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 楽寿亭をお茶屋御殿側から。
 この当時かなり雨が降ってきて、傘を差した状態で撮っている。見事な大木もあったが写真にない。

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 秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの重陽閣がある。希望すれば中も案内してもらえたが、大雨になったので、遠慮して見学をやめにした。

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 長い間、朝敵扱いされた会津は、松平容保の孫の勢津子さまが秩父宮さまに嫁ぐことで、心の重荷を下ろしたという。天皇家と親戚になったわけだ。そのためにこうして記念している。

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 明治6年に、若松の豪商など多くの人が、官有の御薬園を買い、松平家に献上した。会津戦争が終わって間もない時である。全くの不人気というわけではなかった。
松平容保一家は明治16年から数年間ここに住んでいた。

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酒蔵末広
 酒造工程の見学が出来る。最期の回に間に合った。試飲もできる。四合瓶を買い求めた。

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 石部桜、樹齢六百年といわれるエドヒガン。江戸時代からすでに名木として知られていて、囲いもあった。


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 石部桜は大河ドラマ“八重の桜”のオープニングでも使われたことでさらに有名になった。
 散り終わる寸前であった。写真では花は判別できない。
 
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 旧滝沢本陣、参勤交代や領内巡視の際の、歴代藩主の休憩所。若松城下から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにある。
 会津戦争のおり、ここまで来て指揮を執るつもりだったが、まもなく城に帰った。
 白虎隊もここで命をうけて、戸ノ口原戦場へと出陣した。

城の外側も歩いた。

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 三の丸口から堀の外側を南に行く。八重桜が満開だった。

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 内堀。堀の幅は矢の届かない距離、しかし鉄砲や大砲は越えてしまう。

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西出丸
 今では駐車場になっている。

 北と西には出丸、東には二の丸・三の丸があるが、南にはない。
 南には湯川があり、その間には外堀があり三重の防御とした。
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2017年05月26日

会津武家屋敷

会津6 会津武家屋敷

 会津武家屋敷というが、家老西郷頼母の屋敷を再現したものが半分。旧中畑陣屋を移築した建物や、くらしの歴史館などが半分である。

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     案内図

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 城の北側、北出丸停留所のそばに、西郷邸があった。今ではこの石碑のみ。外堀の中である。

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 ここから入る。

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 入って左に折れ西郷邸に行く。

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 西郷邸の塀に沿って入り口に向かう。

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 門の脇に西郷四郎の像がある。姿三四郎のモデルである。得意技は山嵐、西郷頼母の養子となった。

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 表玄関である。ここから右は領主などの“お成りの間”。写真では見えないが左に塀が有り、その左には家族や西郷邸使用人の玄関があった。

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 こうして賓客を迎えた。

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 ここが領主などの部屋。廊下の向こうは次の間で有り、一の間はその奥になる。

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 玄関を入ったとなりの部屋“使者の間”で有り、領主などはこの廊下を通ってお成りの間(一の間など)に行く。

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 案内図、上が玄関、左の黄色い部分がお成りの間である。

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 裏庭から

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 図では青い部分、当主の部屋である。

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 左が子ども部屋、右が女中部屋、案内図では右の方。この右が次の奥玄関。

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 奥玄関、この右に台所がある。台所以外は火は厳禁なので、風呂の湯も、台所で沸かして風呂場まで運んだ。

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 中の口玄関、家臣たちの出入り口である。右の塀を隔てて、はじめの表玄関が並んでいる。

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 片長屋、第二資料館としている。戊辰戦争で西郷頼母が登城のおり、女たち21人は足手まといにならないよう自刃した。新政府軍が入ってきたとき、死にきれなかった女が介錯を頼んだという。
 後ろの屏風が逆になっているのが、決意を表している。

自決は8月23日、城下に新政府軍が入ってきた。
西郷は8月26日に容保の使者として城を脱出。
開城は9月23日
 この日付をみて、???となってしまう。8月24日にはすでに外堀の中まで新政府軍が入っていたのだろうか。
 西郷頼母は松平容保が京都守護職に就くのを反対している。それもあって一時家老職を解かれている。会津決戦にも反対した。新政府軍が容保親子の首を要求したため、それを拒否し、会津戦争となった。

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 旧中畑陣屋

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 旧中畑陣屋を裏から

 ここの土産物屋ですてきな茶筒を見つけた。買おうと思って蓋を開けたら、中蓋が開けにくい。プラスチックで、それはいいのだが摘むところが無いのだ。残念だがこれでは使えない。

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 会津藩は将軍家の守りを自認していたため、領民に対しては過酷であり、全く人気が無かったという。軍備を整えるのは平時でも金がかかるのだ。
 戊辰戦争のおりも、多くの民は協力を拒否したらしい。現在、会津の民が松平容保や白虎隊を自慢(とは言いすぎか)するのはおかしいはず。
 愚直に朝廷の守護をして朝敵といわれたが、賊ではないはず。会津戦争などの戦いの様子は郷土の誇れるところであった。
 いま冷静に考えて、苛政もあったが、それを乗り越えて郷土の誇りとしよう。という状況と思える。
 次回に述べるが、明治初期にも松平容保を支持する人は多くいた。明治維新の後、会津からは新時代の優れた人材が続出している。教育に力を入れた結果である。

 インターネットなどで調べるのであるが、諸説ある。意見の表明とはことなり、歴史的事実は? と訊かれると、判らないとしか言いようがない。
 苛政と書いたが、他藩と比べたわけではない。そんな時、わたしの考え方に合致する意見を採りやすい。
 常にそんなことを考えながら書いている。
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2017年05月23日

飯盛山

会津5 飯盛山
 会津若松市は観光地を巡って循環しているバスがある。
 まちなか周遊バス、左回り“ハイカラさん”、右回り“あかべぇ”である。一周55分。30分ごとに通る。1日乗車券(500円)を買えば何度でも乗り降りできる。なお1回だけは210円。
 これ以外のバスもある。わたしはこのまちなか周遊バスを使った。
 市内は片道通行が多く、工事中もあって、バスの駅(観光案内所)の説明図と実際の通行路が違うので注意。印刷されたカラーのバス路線図で、現在の通行路を確認する。裏には時刻表がある。
 会津若松駅前の、ハイカラさんの第一便は8:00。あかべぇの第一便は9:15。

 5月2日、晴れたので飯盛山に向かうことにする。あかべぇは待てないので、駅前から歩いて飯森山に行く。約2キロメートルなので、30分ほど。

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 駅前から東へまっすぐに歩くと、飯盛山の前に出る。バスなら5分。

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案内図、楽な参拝順路を行く。

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 白虎隊記念館の前を通り厳島神社の鳥居で右に曲がる。

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 厳島神社は小さい。

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 戸ノ口堰洞穴
 猪苗代湖の西岸戸ノ口から水を引いた。トンネルの水道である。

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 あの白虎隊20名は戸ノ口原の戦に敗れ、この洞穴を通って、ここまで来た。洞穴の長さは約150メートル。

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 水神社、この水道を守っている。

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 水の少ない会津盆地を潤す。

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 この階段を上れば栄螺堂(さざえどう)だ。

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 栄螺堂、この狭い建物に、登りと下りの二重の螺旋階段が組み込まれている。全体像が特異な形をしていることで栄螺堂という。正式名称は三匝堂(さんそうどう)。個人の所有物。

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 宇賀神、来歴も諸説あり、わたしには意味不明である。

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 ここを上がれば白虎隊十九士の墓に至る。

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 白虎隊十九士の墓所。20人が自決しようとしたが1人は助けられた。

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 そばにある慰霊碑

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 ローマ記念碑
 昭和3年、白虎隊の武士道の精神に共感を覚えたローマ市から寄贈された。柱はポンペイの廃墟から。

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 自決の場、この少年の見ている方向に鶴ヶ城がある。自決のとき、まだ城は落ちていなかった。
 通説では、戸ノ口原の戦に敗れ、疲れた身体で水道を通り、城の煙を見てこれまでと思った。
 実際は、城が落ちていないことは知っていたが、圧倒的な兵力の差があり、生き恥をさらすのを望まず、自決したという。その前に城に戻るか玉砕するかで激論があったという。

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 ちょっと見ただけでは、鶴ヶ城の建物はどこにあるか判らない。城の樹木に阻まれてこの写真では判別できない。城まで2キロほどだが、当時でもはっきりは見えなかったのではないか。見慣れているし、城の樹木の位置で、建物の位置は一目で判ったはず。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 
 白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。五隊で合計343名である。白虎隊は本来予備軍だが、全兵力が出払い、援軍要請に対してこの少年部隊しか残っていなかった。
 装備も旧式の銃であり、火縄銃よりましという程度。官軍の新式銃の前になすすべもなかった。
 ローマ記念碑も、イタリアでは話もないのに、こちらから要請したとか。
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2017年05月20日

麟閣

会津4 茶室麟閣

 麟閣(りんかく)は鶴ヶ城公園の東南の隅にある。前回紹介した荒城の月碑の近くだ。千利休の子、千少庵が建てたと言われる茶室である。
 戊辰戦争後、城下に移築され保存されていたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内に移築復元した。

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 お堀に沿った盛り土の上から麟閣を見る。
 遅咲きの桜があちこちで咲いていた。

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 出口の隅で枝垂れ桜が満開だった。

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 この入り口から入る。

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 最初に目に入る茶室、寄付(よりつき)。
 茶道に暗いので、寄付と待合と茶室の区別を知らない。

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 客はこの門を通って、腰掛待合(写真なし)に行くことになる。

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 こちらは中心となる建物
 左の女性がのぞき込んでいる部屋が鎖の間。右が麟閣。

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 説明図 横1000ピクセル

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 普通の茶室とは異なり、控えの間もある。鎖の間といい、茶室につけられた書院的一室。ここから麟閣に行く。

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 茶室麟閣の躙口(にじりくち)。

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 入り口にあった受付の後ろの建物で一休みし、お茶をいただき、外へ出る。
 出口の枝垂れ桜を下から見る。
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2017年05月17日

鶴ヶ城

会津3 鶴ヶ城(若松城)

 5月1日、雨の降る日であった。
 会津若松といえば鶴ヶ城。戊辰の戦役で新政府軍の猛攻を受けた。

   ♪二十日籠りて城落ちぬ

と歌われたが、実際は一ヶ月の籠城で落ちなかった。結局降伏する事によって、戦は終わった。取り壊されたのは明治7年である。石垣は残された。
 昭和40年9月に天守閣が再建され、会津若松市のシンボルとなっている。

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 地図の外側に大きく外堀があったが、外堀は埋め立てられて今はない。
 北口から入ると北出丸を通り、椿坂を通って管理事務所に至る。
 西出丸からは梅坂を通り、二の丸からは廊下橋を通っても、やはり管理事務所の前に出る。
 今は“旧表門”から入場券売り場に行き、天守閣に上れるが、本来の登城の道は南に下り、表門から本丸に行ったのであろう。

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 椿坂
 さくらまつりの表示があるが、もう普通の桜は散ってしまった。いわゆる葉桜である。
 傘を差しての登城となった。

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 椿坂の突き当たり、この辺りの石垣は、きちんと整形された石で組み立てられている。

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 ここを曲がると、天守閣は近い。

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 上の石垣の内側にはこのような階段がついている。“武者走り”という。

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 鶴ヶ城(若松城)の天守閣の石垣は傾斜が緩い。

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 旧表門を通って、天守閣に入る。

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 天守閣は最上階しか展望がきかない。
 真ん中辺りの手前の山が、飯盛山である。

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 本丸跡、藩政の中心部である。天守の東側。

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 南走長屋、このような構造は他の城では見たことがない。天守の南側。
 中程の門が“鉄門”といわれる表門である。

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 天守の西側、桜の木に囲まれている。何だったのだろう。

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 登城の道である。天守の北側、武者走りが見える。

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 天守閣内は一方通行で、下りるときは南走長屋を通って外へ出る。
 出口より表門(鉄門)を見る。

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 真ん中辺りがもう一つの出口。南走長屋を通らずに出たい人はここから。

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 荒城の月碑。南東の隅にある。
 昭和22年に、作詞者土井晩翠夫妻を迎えて、除幕された。荒城の月碑は鶴ヶ城・青葉城・竹田城址の三カ所にある。

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 本丸側から天守を見る。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする