2017年10月17日

円覚寺

鎌倉 円覚寺
瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)

 久しぶりの鎌倉、何十年ぶりだろうか。
 今更紹介するのも無用の有名観光地だが、歩いた記録だ。
 北鎌倉の駅で躓いた。前の人に続いて出たらなんと臨時改札口。地図ではそのまま右に行けば円覚寺だが、仕切りがあって行かれない。そのため駅をほぼ一周してしまった。

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 いよいよ円覚寺、臨済宗円覚寺派総本山。そうは言っても臨済宗の特徴などは一切知らない。
 鉄道が境内を横切る。ここまで来てようやく思い出す。

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 入り口から総門へ

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 山門(三門とも)
 この山門が一番知られているか。

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 仏殿
 中心の建物である。関東大震災で倒壊し、昭和39年(1964)に再建された。

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 仏殿に入る。まずは敬意を表して合掌する。

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 天井には見事な龍の絵がある。

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 仏殿で金澤翔子さんの書に出会う。若い女性ながら豪快な字を書く。一度お会いしたことがある。藤沢秀行先生の書展を見に行ったとき、別室で個展を開いていたのだ。

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 境内では、柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。仏殿の前にも並んであった。おそらく開山時に植えられたもの。

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 この階段を上ると方丈。門は唐門(からもん)。

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 唐門の門扉

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 方丈前の柏槇(ビャクシン)。

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 方丈に入る。本来住職の住まいだが、多目的に使われている。

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 方丈庭園の一部。

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 方丈の外に出て、脇を通り上に行く。方丈庭園を脇から。右が方丈で、そちらから見るように設計されているはず。

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 妙香池(みょうこうち)
 2000年に、江戸時代初期の形に復元した。放生池(ほうじょうち)である。
 わたしは放生池を見る度に、そのために生き物を捕まえるのは目的に反するのではないかと愚考してしまう。

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 リスを見つけた。台湾リスかもしれない。

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 最後に高みにある鐘堂に登る。洪鐘といい国宝である。
 隣の弁天堂の脇で抹茶を頂く。

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 古い道、この左に新しい道がある。

 塔頭は十九ある。さすが大寺院。原則的に非公開である。
 今回は一眼レフカメラを持たずに行った。写真は全てiPadのカメラである。
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2017年10月12日

草津白根山から芳ヶ平

1997年10月。草津白根山から芳ヶ平方向へ下った。
フィルムを整理していて見つけた。
スキャナーにかけてみたら、案外はっきりしていて、当時を思い出した。
バスで白根山の峠まで行く。

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小さく見える建物は芳ヶ平ヒュッテ

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 芳ヶ平は湿原である。
 山は草津白根山

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 草津白根山は火山で、上部は植物が少なく荒れている。
 裾野はまばらな紅葉樹

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 これらの写真はポジフィルム、当時人気のあったフィルムだが、赤が濃く出やすい。
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2017年10月07日

賢帝と逆臣と

賢帝と逆臣と  小説・三藩の乱
小前 亮   講談社   2014.9
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 康煕帝が八歳で即位し十五歳にして親政し、三藩の乱を押さえて三藩を取りつぶす話と、雲南の呉三桂が反乱せざるを得なくなる過程が、この小説の二つの軸である。
 それを李基信という架空の人物の視点で描く。
 わたしは鹿鼎記などで、この小説の舞台(時代)を知っているので、結論が先に見えてしまう。

 本書では康煕帝を中国史上最高の名君と評価する。康煕帝が権力を計画的に取り戻す話と、三藩を取りつぶす決断。それに税金を上げないことは評価できるが、それで史上最高の名君といえるかどうか。
 清朝は建国の荒事はその前のドルゴンの時代にほとんど済ましているので、それに乗った面もあるのだ。残ったのが三藩だった。
 明朝最大の実力者でありながら、雲南で滅ぶことになる呉三桂。この呉三桂を、明から清に寝返った将軍と見ている。だがその視線は冷たくはない。
 この呉三桂は決して明から清に寝返ったわけではない。
 李自成が明を滅ぼし、清と対峙している呉三桂を後ろから攻撃した。呉三桂は明を滅ぼした李自成に下るわけにはいかず、やむを得ず清に投降した。今回の反乱も、康煕帝の三藩取りつぶしの意思を知って、仕方なく反乱している。
 この中で、庶民は異民族支配を受け入れているのが興味深い。決して漢民族王朝でなければ、などとは思っていないのだ。そう思うようになるのは、異民族支配が非道になった時。
 そのことを理解している呉三桂は、長江から北上出来ない。漢民族というだけでは庶民はついてこない事を知っていた。
 呉三桂は異民族支配に反対しても、一般の人たちは、異民族支配を助けたのが他ならぬ呉三桂、ということを知っている。異民族支配に反対なら李自成に投降すべきだったのだ。

 呉三桂が先に三藩の協力をと思っているうちに、勝機を逃してしまう。
 結局滅ぶことになる。
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2017年10月02日

月に捧ぐは清き酒

月に捧ぐは清き酒 鴻池流事始(こうのいけりゅうことはじめ)
小前 亮   文藝春秋   2014.3
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 山中新右衛門幸元。鴻池といえば大坂(大阪)の財閥だが、その始まりが、この人物である。なんと尼子一族の再興に生涯を捧げた山中鹿之助の息子とか。
 戦国の世に、山中新右衛門が武士をやめ、商人として生きていく感動の物語である。
 はじめ上質の木炭の販売を手がけ、それを横取りされると、酒の製造を始める。
 落語で、こんな話がある。
 不満を持った従業員が酒樽に灰を投入して逃げていった。それがなんと濁りが下にかたまり、清酒となっていた。これが清酒の始まりだ。
 この小説でも、途中で似た話が噂となった。だが山中新右衛門は放っておく。競争相手がそんな話を信じているようではうまくいかないと。

 徳川家が江戸を開発している。そこで、大坂で造った酒を江戸に運ぶ。ところが普通に運んでは痛んでしまう。その輸送にも苦心を重ねる。
 大坂では他の蔵と五分の味でも、江戸に持っていくと圧倒的な人気を得る。
 清酒造りの改革に成功し、物流の工夫も成功し、息子たちを分家したりして、大坂の財閥となる。
 特に幼なじみである妻のはなと、仲睦まじく協力していく様子は心が温まる。
 物を運ぶことは幸せを運ぶことだ。商人のこころである。
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2017年09月25日

漱石先生大いに悩む

清水義範   小学館   2004.12
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「我輩は猫である」を書くことで、現代的な文体を完成し、後世の手本となった夏目漱石の、猫を書くまでの悩みを戯画的に書いた小説である。
 ある人が古い手紙を持ち込んだ。なんとか読んでみると差出人は夏目金之助(漱石)らしい。
 受取人は誰か。若い女性らしい。この「手紙」の謎に迫るうちに、当時の漱石の心情が理解でき、作家「夏目漱石」の偉業が頭に入ってくる。
 明治時代は文語の時代であった。そこに言文一致体の文を試作する人がいたが、どうもしっくりしない。それを漱石が、若い女性の意見を参考に「我輩は猫である」で完成させた。
 読んでいるときは、とても小説とは思えないほど。その若い女性は自殺した。その原因は漱石か。
 そのミステリー小説といえよう。
 漱石の意外な上機嫌さ。お金に対して細かい人という一面もあり、その理由も納得できる。
 どこまで本当なのか創作なのか気になってくる。最初の手紙にしても、読んでいるときは、その手紙があって、いろいろ考えたように思えたが、どうやら手紙も創作らしい。
 一気に読んでしまった。
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2017年09月19日

畏友亜Qさんをしのぶ

 今 たくせんの中国世界 で、次の記事を書いているがようやく終わった。
岡崎由美先生と行く中国の旅 2017年8月17日〜8月22日
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて

 8月14日に畏友亜Qさんが亡くなった。享年73、年齢72歳であった。盆の真ん中なので葬儀は難しいだろう。そう思い、わたしは8月16日にお通夜に出るつもりで用意していた。17日朝は5時前の始発電車で成田空港に向かう予定なのだ。しかし、19日にお通夜、20日に告別式となった。申し訳ないと思いながら、友人に弔意を託した。
 思えば、わたしが中国旅行を公表して以来、何度か中国行きの話をかけられ、「気をつけて行ってらっしゃい」と言われていた。だから、葬儀に参列せず中国旅行に行ったのも、許していただけるであろう。

 千寿会で梵天丸さんが書いているように、筆の立つ人であった。千寿会の雑記帳をクリックしてみても、わたしの三倍以上の文を書き、その内容が三倍以上濃い。
 わたしは碁ばかりでなく、文でも多く教えていただいた。感謝している。
 わたしの好きな武侠小説(ドラマも)に対しても、中国のチャンバラと喝破していた。
 ちなみに田中芳樹さんは母上に「武侠小説とは」と問われて、「中国の立川文庫」と答えたという。わたしなどタテカワなのかタチカワなのか読み方を知らないが、この答えは上手いと思った。「中国のチャンバラ」も「中国の立川文庫」に匹敵する名言ではないか。
 怪しい関西弁をあやつり、わたしは「老頑童」としたが、本人は気に入っていたようだ。
 近年、亜Qさんは体調が十分ではなく、執筆量が落ちていて心配していた。
 ご恩返しも出来ずにお別れとなったが、江湖(武侠の世界)の恩返しなど、不要であろう。
 ようやく、中国旅行の話も一段落して、亜Qさんへの弔辞を書く心の余裕ができた。
posted by たくせん(謫仙) at 12:39| Comment(0) | 千寿会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

鹿の王

鹿の王
上橋菜穂子   角川書店   2014.9
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 征服者の帝国東乎留(ツオル)の人の名前は、漢字を使って難しい読み方をする。万葉仮名的な使い方もする。被征服者の名前はカタカナ。この書き方は必要があったんだろうか。
 東乎留(ツオル)とあればこの国は漢字を使う国である。国名は「ツオル」でもなく「tuoru」でもなく「東乎留」と漢字でなければならない。この場合の漢字とは、いわゆる「漢字」である必要はなく、表意文字を使っていると言う意味である。ツオルと読めても、他の文字ではいけない。それにしても小説として、何でこんな難しい読み方をせねばならないのか。人の名も同様である。しかも他国から来た人は、カタカナ名のままである。
 たとえば「山犬」という字にオッサムとかなをふる。このような例が多い。自国語の文字ならこのような無理矢理の読み方はしない。もしかしたら、文字のない国が漢字の国を征服して、自国語に漢字を無理矢理あてたとか。
 他の国は文字がないか、あっても表音文字ということになる。
 しかし、「山犬」という漢字が必要なら読み方は「やまいぬ」に、「オッサム」と読ませたいならカタカナにすべき。一二の例外はあっても良い。

 戦士ヴァンが囚われていた岩塩鉱を犬が襲い、囚人も奴隷監督も謎の病死をするが、戦士ヴァンだけ助かる。ここから物語が始まる。そして逃亡生活。そういう少数民族や動物の、帝国東乎留(ツオル)との戦い(戦争とは限らない)。
 東乎留では天才医師ホッサルが、岩塩鉱の謎の死の原因解明と、その後の治療に当たる。
 細菌とウイルスの差が判りかけ、その対策を研究している。注射や顕微鏡などが発明されている。そのなかでの医師と病原体との戦い。
 この二つの戦いと共生がこの物語のテーマである。

 ファンタシィではあるが、推理小説のように謎が絡む。それがかなり複雑でありながら、メインではない。読者を迷わすための意味のない複雑さに思える。
あとがきに、
「生物の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」
「それって、社会にも似ているなぁ」
 この事実を小説化したともいえるのだ。
 ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ネタバレだが、事前にウィキなどであらすじや登場人物の説明を読んでおくとよいだろう。

参考 失われてゆく、我々の内なる細菌 には、 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。 という。
posted by たくせん(謫仙) at 06:11| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

幻庵

幻庵(げんなん)
百田尚樹   文藝春秋   2016.12
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 古来、中国では琴棋書画が君子の教養であった。棋とは碁のこと。
 この碁を爛熟させたのが、江戸時代の日本であった。それは幕府の家元制度によった。
 碁の家元制度は実力主義である。本因坊・安井・井上・林の四家があり、それを取り締まる名人碁所(ごどころ)が頂点にいる。碁所の権力は強大である。碁所になるには名人にならねばならない。
 この名人を目指して技を磨き、同時に碁所の地位を争う。江戸時代の二百六十年間に誕生した名人はわずか8人。
 幻庵とは、十一世井上因碩(1798−1859)のこと。隠居後、幻庵を号とした。
 本来十世であるが、幻庵の時代に一世井上因碩の前の中村道碩を一世としたため、十一世と伝わるようになった。今から見ると児戯に等しい。
 井上家では代々因碩を名乗ったので区別するため、引退後の号をつけて、幻庵因碩と言われる。八段(準名人)になった。名人は原則1人であるため、一応最高段位に登ったといえよう。

 幻庵因碩の時代を中心とした、戦国から昭和までの囲碁界の様子を俯瞰した小説だ。さらにAI囲碁まで言及している。
 主人公は幻庵を中心とした同時代の棋士たち。ライバルの本因坊丈和も幻庵なみに生き生きと書かれている。
 特に対局シーンは迫力がある。これは著者の文章力のたまものだ。ただ、棋譜のない観戦記のような文は、読んでいてもどかしさを感じることがある。しかもかなり大げさに感じる。
 “恐ろしい手”だとか、“凄まじい妙手”とか、言葉を並べられても、ホントかなと思ってしまうのだ。
 江戸時代の碁は失着が少ない。それは時間に縛られないことと、公式な対局が少ないことにあった。高段者のみが年1局である。それに準ずるような対局も、多くはなかった。少ない機会を生かさねばならない。ゆえにその1局に集中する。現代碁とは異なり、原則、時間は無制限。1日では終わらないことが多かった。失着が少ない理由である。
 現代は年50局でも珍しくない。時間の制限があり、秒読みはいつものこと。
 小説中で、ときどき碁の解説を加えるが、この解説では、碁を知らない人にはたぶん意味は判らないであろう。といって省いていいものか。
 碁は勝負を争う。しかし家元制度は芸術の域に高めた。たとえば、このままでは2目の負けとなる。そんなとき、投了するか、あるいは最後まで最善手を打ち、1目でも差を少なくしようとする。これが芸であり美学である。
 しかし、勝負手として逆転を狙う手を打つこともある。勝負を争うなら当然であるが、場合によっては、手のないところに打った、棋譜を汚したとして、その人の評価を落とす。
 あるべき姿はどちらか。登場人物も悩むところ。

 幻庵は、吉之助→橋本因徹→服部立徹→井上安節→井上因碩→幻庵(引退後の号)と名を変える。
 家元制度は実力主義、我が子でも実力がなければ篩い落とす。弟子の中から最強者を選んで跡を継がせる。適当な人がいなければ、他の家から貰い受ける。そのとき養子縁組をする。
 子は父の名を継ぎ、養子縁組後は新しい名となり、さらに義父の名を継ぐ。それで姓名共に変わっていく。同じ名の別人が登場する。当代か先代か先々代か。区別は前後の文ですることになる。
 事情は判っていても、人物を知らないと判りにくい。この人誰だっけ、という状態になりやすい。
 全体的に、歴史書を読んでいるようで、かなり冗長に感じる。この冗長部分を削り、幻庵に集中した方がよいと思う。
 持碁を芇と書き「じご」とかなをふる。芇に「じご」と仮名を振るくらいなら「持碁」でよいはず。芇(べつ)の字にこだわる必要性がないと思う。
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2017年08月02日

爛柯堂棋話

爛柯堂棋話(らんかどうきわ)
林 元美(はやし げんび)  林裕校注   平凡社   1978.6

 林元美(1778−1861)は江戸時代の囲碁四家の林家の十一世当主。本来坊門(本因坊家の弟子)であったが、十世林(鐵元)門入の死去に伴い、坊門から移り林家の当主となる。旧姓は舟橋。
 林家では代々門入を名乗る例が多いが、林元美はこのままで通した。
 引退(1849)後に(1852)八段を許された。
 この本は、1849年に発行された。そして林家分家の林佐野から、その養女の喜多文子に伝えられた。
 1914年、林佐野の三女の女流棋士林きくがまとめて、大野万歳館より出版された本がこの本のもとである。1849年の原本は失われてしまった。写本が国会図書館にあるという。

 囲碁の史話、説話、随筆、記録類を集め、注と評論を加えたもの。囲碁界にあっては貴重な資料である。
 だだし、市井の噂のような根拠の薄い話もあって、注意が必要である。たとえば、日蓮と弟子の日朗の対局、武田信玄と高坂弾正の対局、真田昌幸・信幸親子の対局などが、棋譜とともに紹介されている。すべて疑わしいのだ。偽作らしい。
 本能寺の変における三劫の話など、あちこちに引用されていて、歴史的事実であるかのように扱われているが、確認できていない。
 第一世本因坊算砂が、秀吉によって碁所に任命された話は明らかな間違い。当時は碁所の制度はない。
 その他の話も、引用するときは注意が必要だ。
 当時のエンタメとして書いたのかもしれない。それでも貴重な情報が多い。
 多くの棋譜は特に貴重である。残念ながらわたしには鑑賞するだけの力がない。

 本文は江戸時代の文体である。写真はその一例である。こんな調子で書かれているので、かなり読みにくい。下巻P122。
 碁では引き分けを持碁という。写真の文はそのことに触れている。わたしはこの部分を読みたくて、この本を手にした。
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 囲碁贏輸(勝ち負け)なきを持碁と云うは、正字にあらず。歌合わせに勝負左右にこれ無きを持と云うに倣えるなるべし。しかれども、「囲碁三十二字釈義」(『玄々碁経』)を見れば、持は「せき」の事をいうなり。持碁の正字は芇なり。……
 次のように解釈した。
 引き分けを日本では持碁(じご)という。しかし正しくは芇(べん)である。ゆえに芇の字に「じご」の訓を与えた。
 現代中国語では和局という。書物上ではなく口語では、芇(べん)はいつ頃まで使われたのだろう。


 音読み:ベン、 メン、 バン、 マン
 訓読み:あたる、 じご
 
 写真中に“路”とあるが、助数詞で一路は一目。唐代あるいはそれ以前に中国で用いられた。
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2017年07月28日

宇宙にとって人間とはなにか

宇宙にとって人間とはなにか 小松左京箴言集
小松左京   PHP研究所   2011.1

 著者は小松左京となっているが、小松左京事務所が、著書のあちこちから、テーマ別に選んで編集したものである。
 小松左京の思考のダイジェストなので、魅力ある文章が多い。
 言葉が難しく、わたしには理解できない文が多い。ただ小説などを読んでいたときはそのようには感じなかったので、おそらくその言葉の背景や状況が判っていれば、理解できるのではないか思う。思考過程が重要なのだ。
 名言ではないので、かなり長い文もあるし、その文単独では賛同できない文もある。特に小説の場合は、その小説の特殊状況が文の意味を左右する。SFの世界が多いので、仮説だったり仮定だったりする。そのためここで紹介するかどうか迷ったほど。
 SFを書くには総合的な知と常識にとらわれない思考力が必要である。間違いなく、小松左京には備わっていることを実感する。
posted by たくせん(謫仙) at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする