2019年12月17日

魔性の子

小野不由美   新潮社   2012.7
2013.6.17記

 書き下ろしと書いてあるが、解説は平成3年(1991)に書かれている。どこか誤植かと思っていたら、新版だった。元は1991年9月発行。実際は十二国記より先に書かれた。十二国記の序に相当する。なお十二国記は、初めから十二国記という名があったわけではない。のちにその名をつけた。

 十二国記は、現実世界の日本と異世界の十二国を巧みに組み合わせて書いているが、中心は十二国であり、現実の日本は十二国から見た日本である。
 それに対して本書は、十二国記の日本の部分を、現実の日本からの視点で書かれている。
 それは不思議な恐怖の世界になる。これだけ読むとホラー小説だが、わたしは十二国記を先に読んでいて、アニメも見ているため、ファンタジーとして読めた。

 10歳の頃に1年間神隠しにあった高里という高校生がいた。神隠しの間のことは覚えていない。それからいろいろと不思議な事件が起こる。ここで既読感が生じた。
 事件は高里を守るために「異世界からきたもの」による。しかし、高里はそれを知らない。周囲は確信が持てないものの高里を疑っている。それがいじめに近くなると「異世界からきたもの」が高里の知らない間に排除しようとして事件をおこす。だんだん規模が大きくなり大量殺人になっていく。
 そうして高里は神かくしのときのことを思い出して、自分の世界は十二国の異世界であることを知る。

 高里は、嘘を付いてはいけないと祖母から厳しく躾けられていて、人を疑うことを知らない。「洗面台の水を零したのは誰か」と言われて正直に「知らない」と答える。ところが弟が「兄がやった」と言ったため疑われる。形だけでも謝ればよさそうだが、それでは嘘をついたことになるために、謝ることができない。雪の中に立たされて、神かくしになる。
 このあたり、わたしがもっとも共感したところ。

 風の海 迷宮の岸 の裏の話といえよう。
posted by たくせん(謫仙) at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月08日

水底の橋

鹿の王 水底の橋
上橋菜穂子   角川書店   2019.3

     19.12.8_.jpg
 鹿の王と同じで、ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ここでも万葉仮名問題がある。
 オタワルの天才医術師ホッサルは、祭司医・真那の招きに応じて、恋人ミラルとともに清心教医術の発祥の地、東乎瑠(ツオル)帝国の一地方、安房那(アワナ)領へと行く。
 ここで土毒などの治療方法をめぐって、争いが起こる。三種の治療方法のどれを使うか。
   オタワルの医術
   清心教医術
   清心教医術の古流
 この三種は、宗教の禁忌を巡って、相容れない部分がある。
 ところがそのうらに次期皇帝争いがあった。有力候補がある薬を使うと、皇帝の資格がなくなる。しかし、それ以外に助ける方法はない。そこから土毒を使った者が推理されるが複雑。そこに次期宮廷祭司医長の争いも絡む。
 人の命と医療の在り方を考えさせる。一般論ばかりでなく、目の前の患者をどうするか。それも親しい人である。この問題は現代医療でもあるだろう。
「水底の橋」の意味が気になるが、はっきりした説明はない。
posted by たくせん(謫仙) at 07:26| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鹿の王

鹿の王    2017.8.11 記
上橋菜穂子   角川書店   2014.9
     2017.7.18.1.jpg

 征服者の帝国東乎留(ツオル)の人の名前は、漢字を使って難しい読み方をする。万葉仮名的な使い方もする。被征服者の名前はカタカナ。この書き方は必要があったんだろうか。
 東乎留(ツオル)とあればこの国は漢字を使う国である。国名は「ツオル」でもなく「tuoru」でもなく「東乎留」と漢字でなければならない。この場合の漢字とは、いわゆる「漢字」である必要はなく、表意文字を使っていると言う意味である。ツオルと読めても、他の文字ではいけない。それにしても小説として、何でこんな難しい読み方をせねばならないのか。人の名も同様である。しかも他国から来た人は、カタカナ名のままである。
 たとえば「山犬」という字にオッサムとかなをふる。このような例が多い。自国語の文字ならこのような無理矢理の読み方はしない。もしかしたら、文字のない国が漢字の国を征服して、自国語に漢字を無理矢理あてたとか。
 他の国は文字がないか、あっても表音文字ということになる。
 しかし、「山犬」という漢字が必要なら読み方は「やまいぬ」に、「オッサム」と読ませたいならカタカナにすべき。一二の例外はあっても良い。

 戦士ヴァンが囚われていた岩塩鉱を犬が襲い、囚人も奴隷監督も謎の病死をするが、戦士ヴァンだけ助かる。ここから物語が始まる。そして逃亡生活。そういう少数民族や動物の、帝国東乎留(ツオル)との戦い(戦争とは限らない)。
 東乎留では天才医師ホッサルが、岩塩鉱の謎の死の原因解明と、その後の治療に当たる。
 細菌とウイルスの差が判りかけ、その対策を研究している。注射や顕微鏡などが発明されている。そのなかでの医師と病原体との戦い。
 この二つの戦いと共生がこの物語のテーマである。

 ファンタシィではあるが、推理小説のように謎が絡む。それがかなり複雑でありながら、メインではない。読者を迷わすための意味のない複雑さに思える。
あとがきに、
「生物の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」
「それって、社会にも似ているなぁ」
 この事実を小説化したともいえるのだ。
 ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ネタバレだが、事前にウィキなどであらすじや登場人物の説明を読んでおくとよいだろう。

参考 失われてゆく、我々の内なる細菌 には、 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。 という。
posted by たくせん(謫仙) at 06:11| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

死を恐れずに生きる

   駒田信二  講談社   1995.5.25
               2019.11.28 追記

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 2019/11/28追記
 いまもう一度読みたいと思っている本がある。駒田信二の「死を恐れずに生きる」だ。死の直前に書かれている。
 その本の中で、特に儒教思想に対する反発は同感する。
 駒田信二は中国系の軟文学で有名だが、漢文学者である。
    島根大学教授、桜美林大学教授、早稲田大学客員教授を歴任(ウィキによる)

 ちかごろ武侠ドラマ以外にも、中国の時代劇テレビドラマを見ることが多い。この中でもどうしようもない違和感は、この儒教思想である。
 皇帝は全世界を統べるという思想なので、外国の王さえ地方に派遣した臣下の扱いである。そして、臣下は熱心な協力者となる。
 まるでミツバチやアリの役割分担のようだ。各家庭でもそのミニ版である。
 その正反対にいるのが駒田信二であり、その思想はこの本に濃縮されている。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

1995.5.25記

 死の一週間前までに著者の語ったものをまとめ出版したという。平成6年80歳である。

          sioosorezuni.jpg

人と争うな、競うな、偉くなるな、出世するな、ということだけは娘たちに伝えたい…。
つまらぬ野望など抱かず、のびやかに彼女らの人生をまっとうしてほしいと願う著者が語る真摯な生き方。


第一章 「死」と向き合って考えたこと
第二章 人間のあり方を見つめ直す
第三章 いつも精神を自由にしたい
終章  残された「生」を精一杯生きる

「生きる自由のない時代」に何度も死と対峙した著者が、その体験談を話し、自らの諦念を語る。
 懲罰出征されて戦地へ送られる。懲罰出征とは、「どうも言動が怪しいようだが証拠がない。無理に徴兵して戦地へ送ってしまえ」という出征である。
そして、位が上だという理由で散々に殴られる。高校(現在の大学)教員は位階は高いのだ。
 反発して、軍人勅諭さえ覚えなかったら、中国では共産党のスパイと間違われた。日本兵なら軍人勅諭が必ず言える時代である。そして重慶の刑務所に入っていた。後に重慶で、その刑務所に入っていたが命が助かった、という話を現地の中国人に話すと、みな涙を流して喜んでくれたという。
 若いときにそんな体験をした著者は、また中国思想にも詳しい。儒教のいかがわしさにも敏感で、
 儒教に根ざした思想は持ちたくはない。権力の側に立って仁政を施すといっても、所詮目の位置は下に向けられているのです。慈悲の衣をまとっていても傲岸不遜さが見え隠れするこのような考え方をわたしは信じません。

 そのような考え方でその後の人生を生きた著者の、「人と争うな、競うな、偉くなるな、出世するな」という思想に、わたし(謫仙)はもっとも同調する人生を送っているような気がする。
 どうも父親の在り方が似ているようなのだ。家族を犠牲にして、ひとりだけいい思いをしようとする父親の姿はそっくり。それに対する反発心。

 人間万事塞翁が馬という言葉がある。この「人間」を「じんかん」と読む人はどれほどいるだろうか。読み方は「にんげん」でいいが、意味は「じんかん」で「人の世」や「世間」の意味である。そう考えると意味がまるで違って見えないか。
 聖徳太子の憲法の中に、「以和為貴」という言葉がある。これはどう読むか。「和を以て貴しと為す」が普通であろう。
 しかし、イワイキと読む。なぜなら「和を以て貴しと為す」というのは平安時代になって考え出された読み方。聖徳太子のころはそのような読み方はなかったのである。
 ではイワイキで意味が通じたか。結局、同時の為政者は倭語や朝鮮語と同時に漢語を普通に使っていたのではないかと思われる。
 こんな蘊蓄も好きだが、特に著者の文章に対する考え方が好きなのだ。点の打ち方に神経を使っている。「私はそのとき泣いた」と「私は、そのとき、泣いた」では読み方が違うはず。点や丸は書いた人の鼓動という。
 日本語を美しく書きたいものです。
posted by たくせん(謫仙) at 07:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月24日

倚天屠龍記

2008年8月2日 記
2019年11月24日 訂正追記

   倚天屠龍記 全五巻
   金庸   徳間書店   2001
 時代は元順帝(在位1333−1368)の至元二年(1336)、南宋が滅びて五十余年後。神G侠侶の最後の年(1259)から77年後である。
 その前に神G侠侶から三年後、冒頭で郭襄が江湖をさすらい楊過の行方を尋ねて少林寺に行く。少年張三豊や覚遠と再会する。そして三人は少林寺を出る。そして一気に年月を飛ばし、太極拳の始祖張三豊の九十歳の誕生日を巡る話になる。
 張三豊は伝説上の人物で、実在は疑わしい。しかし、相当するモデルがいたことが知られている。太極拳はかなり後にできたので、始祖説はもちろん怪しい。ただ太極拳の原型は張三豊の頃といわれている。

 張三豊の九十歳の誕生日以後に生まれた張無忌が大人になって活躍する。となると、張三豊は百十二歳を過ぎてしまうか。最期は駆け足で、明朝成立までを説明するが、それは物語のその後であろう。
        yiteanduling.jpg

 主人公がなかなか決まらない。なにしろ普通の小説なら終わってしまうころ、第一巻約400頁のうち、340頁目で、ようやく呱々の声をあげるのだ。
 主人公だと思っていた張翠山は、第二巻目の104頁で自決してしまう。
 そこでようやく、張翠山は主人公ではないと判る。そして子の張無忌が主人公らしいと気づくことになる。
 波瀾万丈の生涯で、半ば偶然のようにして武技を身につけるのは、いつものパターンである。とにかく、あっちで騙され、こっちで騙され、騙され続けた。これはこども時代に孤島で育ち、友人がいなかったせいか。この主人公は指導者として優れているとはいえないが、多くの協力者をえて、明王朝成立の礎を築く。そこでも朱元璋に騙されて、朱元璋が明朝皇帝となる。
 張無忌は優れた人物ではないが、いい友人となる人物と評価されている。

 倚天剣と屠龍刀という武林の宝がある。屠龍刀を手に入れれば、武林の盟主になれるという。武林の有力者が血眼になって探している。そのためには家屋敷さえ燃やしてしまう者がいる。鉄でさえ豆腐のように簡単に切ってしまえる名刀だ。
 倚天剣と屠龍刀を作ったのは、襄陽城の戦いで戦死した郭靖・黄蓉夫婦。将来モンゴルに対する反乱が起こることを予想し、そのために作った。倚天剣は娘郭襄に伝え、屠龍刀は息子郭破虜に伝えた。郭破虜は戦死し、屠龍刀は江湖をさまよう。郭襄は四十歳の時、出家して、峨嵋派を興す。そして倚天剣は峨嵋派に伝わる。
 郭靖夫妻は戦死し、屠龍刀を持っている者もいっこうに芽が出ない。そのことを考えれば、屋敷を焼き払ってまで、手に入れるほどの物かと思う。結論を言ってしまえば、屠龍刀には岳飛の遺書(兵法書)が入っていた。これが手に入っても普通の人には使い道がない。江湖の人間ではまず役に立たない。倚天剣には武術書、これは江湖の人にはのどから手が出るほど欲しい物。
 屠龍刀は何度か火に入る。しかし中の書(絹布)は何ともない。楊過の持っていた玄鉄剣が材料だ。加工するときは、特殊なやり方で溶かした。炉に入れても溶けないのはともかく、中の物(絹布)が無事だった理由の説明はない。この玄鉄は熱を伝えないのか。赤熱はするのだ。

 この中に庶民の歌が出てくる。それを「戯れせんとや生まれけん……」といったうまい訳をしている。この訳者はかなり日本古文に造詣が深いと思われる。

 ここは本の紹介のみ、以下あらすじなどは別に書きます。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 次の言葉は、使い方が気になった。訳者は飛狐外伝と同じらしい(倚天屠龍記は訳者が2人なので、違うかもしれれない)。
 第一巻P207 張翠山が女に「お名前をうかがってもよろしいですか」と訊く場面がある。
 返事はないのだが、それはともかく、返事をしたとして、次のような会話が予想される。
「訊いてもいいですよ」
「あなたのお名前はなんとおっしゃるのでしょうか」
「教えられません」
「訊いてもいいですよ、と言ったではありませんか?」
「訊くのは構いませんが、教えるとは言っていませんよ」
ということになりそうだ。
 何を言いたいかというと、「訊いてもいいか」と問いながら、それで訊いたつもりでいる、不思議な言葉だと言いたいのだ。
 平成語ではないが、昭和も後半になって、多く使われるようになった政治言葉と記憶している。
 昔の江南でこんな言い方をしたのだろうか。金庸の原文はどうなんだろう。

 誰だったかある作家が、電話で言伝(ことづて)を頼んだら、「お名前をうかがってもよろしいてすか」と訊かれ、「名前を訊かずに、どう伝えるんですか」とあきれていた。
 わたしもある受付に訊かれ、「訊かずにどう名簿をチェックするの」と思わず訊いたことがある。
 おそらく訳者にとっては、これが普通の言葉で、疑問に思わなかったに違いない。婉曲的な言い方らしいが。
「謝りたい」、この後はなく、謝らないで終わる。
「注意したい」、注意致します、と言ってもらいたい。

参考:たくせんの中国世界−倚天屠龍記
posted by たくせん(謫仙) at 07:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

甘利俊一さん文化勲章

甘利俊一さん文化勲章

 今日の新聞で、甘利俊一さん(83)に文化勲章が贈られると発表された。おめでとうございます。
 甘利さんは、東大名誉教授で、理化学研究所栄誉研究員。そしてわたしの碁友であり、毎月2〜3度碁席をともにしている。わたしより強い。アマ六段くらいである。
 脳科学と情報科学の二分野の研究者であり、海外では別人と思われたこともあったという。現在AIが急速に発展していて、特に囲碁界では人を超えたと、注目されている。
 
 このAIの基になった研究者であり、大げさに言えばAIの生みの親である。
 2年ほど前に、英語で本を書いたが、去年今年と印税が……、と言うと堅いお人のようだが、いつもニコニコしている、気さくな方で、知らない人は気づかない。
 先日帰国したアメリカの青年が、帰国のとき甘利さんを検索して「大変な人だった」とびっくりした話もある。
 わたしは二つの碁会に参加していたため、甘利さんの碁敵となった。
 この甘利さんと先日ある会話をした。

 AIが発達し、家中の家電やら何やらが、全部AIで動くようになると、生活がしにくくなりそう。
 どれかが故障を起こす度に、自分では処理できなくて、大騒ぎになるのでは。
 便利になるのか、不便になるのか。

 もちろんその頃には、そのことも工夫されるだろうが、こんなことを甘利さんに言われると、不思議な気がする。
posted by たくせん(謫仙) at 09:56| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

円通寺

円通寺(えんつうじ)

 東京都荒川区南千住にある曹洞宗の寺院。あまり知られていないが、無名でもない。
 791年に坂上田村麻呂将軍によって開かれ、八幡太郎義家が再建した、と伝わる。

   IMG_3843.JPG
 門前からも見える観世音菩薩が古い寺にしては珍しい。
 仏塔のような外観が異彩を放っている。

IMG_3845.JPG IMG_3841.JPG
史跡
 彰義隊士の墓、旧上野黒門、小塚原旧跡。
 わたしは黒門があるので見に行った。
 本来は百観音で知られていた。ただし、安政の地震で観音堂が倒壊、現在は三十三体が本堂にあると言う。それは見なかった。

IMG_3848.JPG
 黒門
 これは上野寛永寺の総門であった。寛永寺は上野公園のほぼ全域を境内としていた。その南の正門で、官軍と彰義隊の激戦の中心となったところだ。
 冠木門であり、正門にしては質素な作りである。

IMG_3849.JPG
 たくさんの弾痕がある。

IMG_3853.JPG
 戊辰戦争は鉄砲の戦争であり、弾丸の量が勝敗を分けた。

IMG_3852.JPG
荒川区指定の有形文化財となっている。

IMG_3854.JPG
 裏側

IMG_3857.JPG
 八幡太郎義家が、奥羽征伐のとき、賊の首48をここに埋め、四拾八塚を築いた。
 それでこの辺りが小塚原と呼ばれるようになった。
 石造七重の塔には銘があり、現存する荒川区最古の石文である。遠くて判らなかった。

IMG_3860.JPG
 元からの石像か?

IMG_3862.JPG
 円通精舎、榎本武揚の書。

IMG_3864.JPG
 黒門とその後ろの彰義隊士の墓などは大きく囲われている。
 中に入る。

    さかるほと 見あける人や ふちの花

 と読めたが? (2字目自信なし)

IMG_3865.JPG
 曼珠沙華

IMG_3870.JPG
 自然に傾いたのか?

 慶応四年(1868)五月十五日に戦死した彰義隊士の遺体が放置されていたのを、円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野に行って斬首覚悟で供養した。拘束の後、埋葬の許可が出た。
 これが縁で、明治40年10月に、帝室博物館より黒門が円通寺に贈られた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 余録
 東京オリンピックの前の年(1963)、吉展ちゃん誘拐殺人事件があった。
 2年3ヶ月後、埋められて白骨化した遺体が円通寺で見つかった。
 その供養のため、「吉展地蔵」か建立されている。

    IMG_3855.JPG
 古い写真とは異なるので2代目の像か
posted by たくせん(謫仙) at 07:26| Comment(0) | 山房筆記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月26日

小田原 土塁

小田原 土塁

 土塁の前に小田原を潤した上水道を見る。

IMG_3770.JPG
 早川に堰を作り、一部を分流させた。
 右が城下への分流である。

IMG_3771.JPG
 取水口の様子である。現在はほとんど流れていなかった。

IMG_3774.JPG
 取水口から下流を見る。

IMG_3776.JPG
 ここから土手(国道)の下をくぐり、城下へ続く。
 写真を撮り損ねたが、狭い水路であった。
 この水路が江戸の上水道の原点という。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 小田原城は総構(そうがまえ)で知られている。城下全体を守っている。秀吉の小田原攻めに備えた。これを知った諸将は、小田原の戦いの後、自らの城下にも総構を施した。
 会津では役に立たなかったことは前に書いた。守る兵がいなかったのだ。

 ところでわたしは何度か中国旅行をしているが、中国の城とはこの総構である。それはレンガや土の塀である。だから城とは総構の都市を指す。戦国時代の人も知っていたはずで、これまで総構の考え方がなかったのが、不思議に思えるほど。日本なりの事情があった。
(以下、グーグル地図を見ても判りにくいが、★印で検索すると出てくる)
 
IMG_3760.JPG
 国指定史跡 小田原城跡 総構 城下張出(平場)★
 小田原の前は海、後ろは丘陵。その丘陵に施した総構(そうがまえ)の一部である。
 城下張出(しろしたはりだし)とは、突出した部分で、総構に取り付く敵を横から攻撃した。

IMG_3761.JPG
 ブラタモリで見たような…、ここから堀を見る。

IMG_3763.JPG
 総構 城下張出(堀)
 調査の結果、総構の土塁の一部がある程度判ってきた。
 一帯は立ち入り禁止である。ポリの紐で囲っているだけなので不心得者は入ることができるが、あえて入る気はしない。このときはわたしひとり。

IMG_3764.JPG
 違った位置から。

IMG_3768.JPG
 大きく巻いて、下に降りて、脇から見る。
 民家が映り込むのは申し訳ない。

IMG_3766.JPG
 近くの畑であるが、ここは堀を埋めた。その跡が階段状の農地になっているが、判りにくい。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 三の丸外郭 新堀土塁 ★
 ここは総構を構築する前からあった。総構ができて、その内側の堀となった。

IMG_3806.JPG
 段になっている。

IMG_3802.JPG
 一番上はこんな石がある。建物の礎石だろうか。

IMG_3804.JPG
 高低差はさほどではない。上からは見晴らしはよい。鎧武者が歩いて上るのは無理だが、もう鉄砲の時代である。
 見張りと砲台の役目であろう。

IMG_3803.JPG
 四角くへこんでいるのは建物の跡か。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

小峯御鐘ノ台大堀切東堀 ★
こみねおかねのだい

IMG_3791.JPG
 三の丸外郭 新堀土塁に隣接して総構の堀切がある。

   IMG_3790.JPG  サムネイル
 この空堀の説明。

IMG_3792.JPG
 かなり急な空堀だが、秀吉の大軍を前にして、役に立ったのだろうか。
 秀吉には、一夜城を作る土木力があり、戦いに備えていても、戦闘のない十万を超える兵士がいる。その力で数ヶ月かければ、これら堀を埋めて崩してしまえるのではないか。
 そもそも秀吉の戦いは、兵を死なせない戦いである。戦闘はできるだけ避けた。兵糧攻めや水攻めである。そのためには金を惜しまない。
 それまでの戦いは遠征軍は補給が続かないため、短期決戦で乗り切ろうとした。しかし秀吉軍は補給は問題ないので、決戦はせず、にらみ合うのみである。却って籠城軍の方に補給の問題が生じる。
 こういう空堀は、短期決戦のときには役に立つだろうが、長期に渡ってにらみ合う場合は効果が薄い。もしかすると秀吉は、逆に城を包囲する堀として利用した可能性も考えられる。

 この右が、城山公園である。なんと立ち入り禁止になっていた。

IMG_3809.JPG
 大外郭堀 ★
 少し戻って西へ行くと、未調査の空堀がある。
 大外郭堀である。
 下は山道らしき道があるようだ。行きたいと思わなかったが、写真で見るときちんとした道がある。降りて見ておくべきだった。

IMG_3807.JPG
 堀の土を盛り上げた。

 引き返すと、森の中にも堀があると説明があるので入ってみた。

IMG_3810.JPG
 小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北の端か。
 これが堀の土を盛り上げたのであろう。この左が堀である。右側は民家である。
 
IMG_3812.JPG
 急な斜面の下は堀であるが、山道らしい。さほど深くはない。

 ここから民家の前の道に出た。
 一時間ほど山の中をさまよったような気になったが、地図で見ると、民家と畑の間にある細い藪を歩いていたようだ。(^_^)。

IMG_3816.JPG
 山ノ神堀切 ★
 未調査である。当然もっと深かったはず。

IMG_3818.JPG
 山ノ神堀切の向こう側、脇に詳しい説明がある。

IMG_3796.JPG
 先に触れた城山公園だが、立入禁止になっている。これもポリひもで囲んであるのみ。自由に出入りしている。
 禁止理由は、「先の台風で枝が折れたりしていて落下の危険がある」という。
 一目見て、こんな安全な山は滅多にないと思うが、実はここは山の中ではなく、住宅街の中の公園であった。
posted by たくせん(謫仙) at 08:08| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月22日

小田原

 9月14日小田原に行く。

 小田原の手前の駅で、派手な衣装で派手なメイクの若い女性たちが乗り込んできた。衣装の背側には「疾風乱舞」の文字が躍っている。
 小田原の駅で、9月14〜15日の二日間、「第21回えっさ“ホイ”おどり」のイベントがあることを紹介していた。

    19.9.21.1.jpg  サムネイル

 ホテルに荷物を預け、小田原城へ向かう。

19.9.21.2.jpg
 お堀の外側を正門の方へ歩いて行くと、様々な衣装の人たちに会う。その人たちは、この「学橋」から入っていく。
 わたしは少し先の馬出門から入る。

19.9.21.3.jpg
 この辺りに来ると、あの歌をアレンジした、歌声が繰り返し流れてくる。
♪えっさほいさっさ
♪えっさほいさっさ
♪えーさ、えーさ、えっさほいさっさ

「えっさ“ホイ”踊り」はこの歌を基調にした踊りだったのだ。

19.9.21.4.jpg
 馬出門から馬屋曲輪へ

19.9.21.5.jpg
 住吉橋

19.9.21.6.jpg
 銅門を通ると、ここが第二会場だった。

19.9.21.7.jpg
 100チームを遙かに超える予定表があるが、1チームが2回ないし3回出ているので、チーム数は判らない。50チーム以上と思える。4年前に50チームを超えたという。

19.9.21.8.jpg
 銅門に上る。

19.9.21.9.jpg
 木立の向こうが二の丸跡で、第一会場。
 
IMG_3738.JPG
 第一会場には屋台が多く、テントの向こうに舞台が設置されている。
 お堀端通り会場(15日のみ)と栄町会場もあるが、様子は判らない。

 イベントはここまでにして、天守閣へ向かう。

IMG_3724.JPG
 イヌマキの巨木の脇を通り

IMG_3726.JPG
 常磐木門

IMG_3727.JPG
 新しくなった天守閣
 城が大きいのに天守閣は三層なので、小さく見える。しかし、各地の天守閣と比べると、小さくはない。
 手前の広場は本丸の跡。

IMG_3728.JPG
 手前の松に気をとられたが、向こうの巨木は何だろう。写真を見て気がついた。

   IMG_3729.JPG  サムネイル
 天守閣に入る。模型があった。これで見ると昔は学橋はない。

IMG_3731.JPG
 手前の鉄塔が建っている山が一夜城の石垣山。
 実際には築城は約八十日かかったらしい。それを隠していたのが通説らしいが、本当に北条方は気づかなかったか、疑問に思っている。

IMG_3735.JPG
 真鶴半島、その向こうに霞んでいるのは伊豆半島。
 大島ははっきりしなかった。

IMG_3744.JPG
 遊園地の近く。天守の裏の方の石垣や土塁。

IMG_3745.JPG
 正面とは趣が異なる。

IMG_3750.JPG
 北入口の道の脇、よくぞここまで育った。


IMG_3755.JPG
 城内の郷土文化館前のクスノキ
 郷土文化館の見学者はわたしひとり。

IMG_3740.JPG
 市中も歩いた。ここはかまぼこ通り。趣のない街だった。
 昔はこの通りが繁華街だったのではないか。工場は残っても販売所は移動したか。
 浜が近い。浜は砂ではなく小石の浜であった。

IMG_3743.JPG
 これは実用の鐘であったが、わびしく立っている。
 昔日の大手門に近い辺り。本来の位置からここに移した。

IMG_3758.JPG
 山王川
 この川に沿って歩き、途中から駅に向かう。
 途中は細い道が不規則に通る。古い区割りだが、家は新しい。
posted by たくせん(謫仙) at 08:21| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月16日

飛狐外伝

   飛狐外伝全三巻
   金庸  訳 阿部敦子  徳間書店  01.11
2008.9.7記
2019.8.16追記

 この小説は雪山飛狐に続くが、雪山飛狐が先に出た。雪山飛狐の少年時代である。プロットには一致しない部分があるが、新聞小説を本にするときも、そのままにしたという。
 初めて読んだのは2001年、もう7年になる。再読した。当時は本の紹介しかしていないが、今回は少し詳しく書いてみよう。
        hikogaiden1.jpg
 清の乾隆帝の時代。まず、「書剣恩仇録」で、カスリーが死んで、紅花会が紫禁城を騒がしたときから、6年くらいたったころ、山東武定の商家堡で物語が始まる。そこで胡斐(こひ)が登場し、一波乱あって胡斐が大きく成長するきっかけとなる。ここでの諸々は本題への伏線となる。

 4年後、広東仏山鎮で、鳳天南一族の悪事に苦しみ死んだ農民の仇を討とうとする。この小説は、逃げる鳳天南を追う胡斐の話ともいえる。
 時はカスリー(香妃)が死んで10年後である。この時、胡斐は18歳。

 一面識もなかった農民のために…、これが「侠」だ。
 ふつう武侠小説といっても、武の小説で、侠の小説は少ない。この小説ではこの「侠」の部分を強調して書いてみたという。侠はある意味で私設警察に近い。その人の考え方でどうにでもなる。日本でも侠客といえば、建前は「侠」でも、実体は「ならず者」だったりする。
 武侠小説は、実体はならず者小説でもある。
 鳳天南はその地方一帯の実力者で、地方官では手が出せない。今日的に言えば警察も手が出せないほどのヤクザ組織。もっとも軍と対抗できるほどではないので、地方官が言い訳ができるように、表面的にはもっともらしくする。

 胡斐は義憤を感じて、一面識もなかった農民を助けようとして、鳳天南の縄張りを荒らすが、若さ故の甘さがあり、助けることができず、鳳天南には逃げられてしまう。
 北京では乾隆帝の私生児福康安が、在野の武林の抹殺を図り、福府(福康安の邸宅)で武林の掌門を集めていた。武林掌門人大会を開くという。ここに鳳天南が来るはずと、胡斐は北京まで行くことになる。
 その間にいろいろな話がある。実の親を母の仇と狙う少女円性の話や、田帰農の毒で目が見えなくなった苗人鳳を治すため、毒手薬王のところに急行する話が柱。鳳天南の話は隅に追いやられているが、忘れたわけではない。毒手薬王の少女弟子程霊素はいろいろと胡斐を助ける。
 その武林掌門人大会は、武林の勢力争いで自滅するよう仕掛けたものだったが、胡斐たちは見破り、大乱闘になったりして大会を壊してしまう。鳳天南はその場で死ぬ。

 表面的にはこのように話が流れるが、著者によれば、続編の「雪山飛狐」の本当の主人公は亡くなった胡一刀であるという。胡斐が生まれた頃に亡くなった胡斐の父親である。だから胡斐の性格描写はあっさりしている。それを細かく書いたのがこの外伝だ。
 胡斐は父の武技書を受け継ぎ刀法を身につけ、父の仇を捜し父の死の真相を知ろうとする。様々な登場人物が、胡一刀の故事にからんでくる。胡斐に恋して犠牲となる少女程霊素の操る毒も、胡一刀の死に関係があるのだった。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 初めて読んだとき、次のように書いている。

 第2巻 愛憎の父娘 
 この中に気になる文があった。
「…負けたら、……をさせていただきます」
 この言い方があちこちに出てくる。お互いに譲り合っている場合ならかまわないが、そうではない。
 本来「勝ったら…をさせて頂きます。負けたら…を致します」と言うべきところである。
 賭は勝った方が我を通し、負けた方が譲るものだが、これでは逆になってしまう。
 言葉は変化するので、今の時点では間違いと言い切れないが、この言葉が出てくるたびに、前後を読み返して、「いただく」のか「いたす」のか意味を確認している。

 この話、今回は全然引っかからなかった。この使い方を目にすることが多くなり、抵抗感が薄れたし、ここでは話の流れで、意味がはっきりしているからだ。前は「意味はこういう意味なのになぜわざと逆にいうのだろう」と念のため「わざという」理由を確認したのだ。
 江戸の時代劇でも商人が多く使っている。してみると商人言葉が始まりか。

 射G三部作といわれる作品群があるが、書剣恩仇録・飛狐外伝・雪山飛狐をもって、反清三部作と名付けたい。
 主人公の胡斐は「こひ」と読む。「こい」ではない。わたしはこの本を再読するまで「こい」と記憶していた。甲斐武田の「斐」だったからだ。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
2019.8.16追記
 いままで何度も読んでいるのに、記憶にない文がある。もちろん覚えていないという意味でなく、当然覚えていなければならない状況である。

文庫本第一巻 P70  苗人鳳は、
 その隙に逃げようとする人足の後頭部を掴むと、気合いもろとも抛り投げる。人足は糸の切れた凧のように、数十丈もすっ飛んだあげく、雪の上にしたたか叩きつけられた。
 いままで読んでいたときは、数十丈がどんな距離か判らず、漠然と遠くへ投げたと思っていた。
 ところが当時の丈は、ほぼ日本と同じである。約3メートル。すると三十丈でも90メートルである。人足なので、六十キロくらいあるだろう。それをこんな距離を投げたのだ。もちろん筋肉の力ばかりではないにしても。
 ここには出てこないが、それなら、幅跳び百メートル高飛び三十メートルは軽い軽い、ということにならないか。

文庫本第一巻 P401
 袁紫衣は白馬の鞍を軽く叩き、胡斐を振り返ってにっこりすると、キリッと手綱を引き絞った。白馬は助走もつけず、いきなりひらりと飛び上がると、十余輌の塩車を飛び越え、北に向かって、駆け出すや、たちまち影も形も見えなくなった。
 ここでいう塩車がどんな車か知らないが、古い言葉に「驥服塩車」(きふくえんしゃ)がある。これと同じなら、馬に引かせるほどの車である。かなり大きい。幅1メートル以上はあるだろう。十余輌なら十余メートル。二十メートルもあるか。
 袁紫衣の白馬は助走なしで、十余メートル飛び超えたのだ。馬まで内力があるのか? 袁紫衣の軽功によるのか。

 その後を読むためには、知っていなければならないのだ。それを意識していなかった。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
あらすじなどはこちらに 雪山飛狐・飛狐外伝
posted by たくせん(謫仙) at 08:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする