2017年10月25日

長谷寺(鎌倉)

海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)

 創建は鎌倉時代より古く、奈良時代といわれる。しかし、梵鐘など鎌倉時代の銘が多い。
 太平洋戦争終戦直後に、浄土宗から独立し単立となった。
 鎌倉の地は狭く、先に紹介した建長寺や円覚寺などは、谷戸(やと)といわれる、小さな谷に建立されている。そのため、門から奥まで、谷に沿って曲がっている。平地の寺院が幾何学的に配置されているのとは異なる。
 長谷寺は、門を入ると下境内で、庭園などがある。主要な堂宇は観音山の中腹の上境内にある。
 その堂宇は関東大震災で倒壊し、その後に再建された。だからどの堂も見るからに新しい。

2017.10.22.1.jpg  案内図

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 長谷の駅から近い。門前の松の剪定中であった。赤い提灯には長谷寺とある。
 左の方から入る。

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 妙智池 入ると正面にこの池がある。

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 この階段を使わず、左の方から坂道を登ってこの上にいく。

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 その途中にひっそりと良縁地蔵。

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 その脇にひっそりと灯籠。

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 地蔵堂は新しい。見には行かなかった。
 さらにひと登りすると、上の境内に出る。

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 鐘楼
 1264年鋳造の鐘は宝物館にて展示。鐘楼の鐘は昭和59年に鋳造。

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 阿弥陀堂
 はじめにも書いたように堂宇は新しい。

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 阿弥陀如来座像 伝承では鎌倉時代に造立された。他寺にあったものを移したという。

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 観音堂

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 観音堂内には本尊の十一面観世音菩薩がある。このため、通称長谷観音といわれる。
 奈良時代の作と伝わるが、未詳である。室町時代までは遡れるようだ。木造では日本最大級という。

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 見晴台。よく紹介されている場所。鎌倉一望とは言いがたいが、名所だ。

 さらに眺望散策路がある。あまり行く人はいない。山登りになる。

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 こんな整備された道だ。紫陽花が多い。紫陽花の咲く頃は、入り口で待ち行列になる。

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 当たり前だが、見晴台よりよく見える。由比ヶ浜の海岸線が一望で、三浦半島も見える。

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 転輪蔵 経蔵である。一切経が収められていて、観音御縁日などには、回すことが出来る。

 下の境内に下りて案内図の右に方へ行く。

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 弁天堂

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 弁財天の洞窟がある。窟内壁面には弁財天とその眷属である十六童子が彫られている。

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 出世大黒天 有名らしいが…

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 和み地蔵 誰もがケータイを向ける。どんな話をしているのか。

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 放生池 案内図の右側の池である。
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2017年10月21日

建長寺

臨済宗建長寺派 大本山
巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)

 本尊が地蔵菩薩であるのは珍しい。
 建長5年(1253年)の創建で、鎌倉五山の第一位。
 鎌倉五山の第一位とは、禅宗寺院の順位であって、鎌倉寺院の順位ではない。

IMG_1213.JPG 案内図
 最初の門(外門)を通ると駐車場であった。この案内図は駐車場にあった。
 右側に赤い点線で囲まれて地域がある。修行道場で立ち入りは禁止である。
 
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 駐車場から総門を入る。

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 山門(三門)、円覚寺では山門を通るとき、中央に高い敷居があった。ここではそれを削って平らにし、通りやすくしてあった。

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 国宝の梵鐘、山門の脇にある。

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 この寺も柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。

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 この崇山門内は立ち入り禁止、案内図の赤い点線で囲まれた地域である。

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 仏殿前の柏槇
 開山禅師のお手植えという。樹齢は約七百六十年。

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 仏殿
 この前で僧侶が団体の参拝者に、説明をしていた。わたしが聞いたときは徳川将軍家との関係など話していた。
 仏殿は1647年に芝の増上寺から移築した。

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 仏殿に入る。
 本尊の地蔵菩薩坐像。

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 天井や周りの絵はかなり傷んでいるようだ。

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 法堂(はっとう)
 他宗派では講堂という。修行の中心の建物であったが、現在は修行道場は案内図の赤い点線内の地域になっている。まあ寺全体が修行場ではあるが。

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 法堂に入る。
 手前の釈迦苦行像(レプリカ)は2005年にパキスタンから寄贈されたもの。
 付け加えれば、釈迦は、苦行は正しい修行方法ではないと苦行をやめ、中道を進むことになる。

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 天井画は新しい。小泉淳作筆の雲龍図。

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金ピカの唐門、この奥が方丈である。
禅寺にふさわしくないのは、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したものだから。

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 法堂を横から。

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 方丈庭園

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 少し戻って、案内図の左側の道をさらに奥へ行く。
 図の外になる。突き当たりから山登りになる。

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 寒山拾得(かんざんじっとく)
 山登りの前に、少し広いところがある。そこにある碑の一つ。

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 半僧坊
 階段の道を登ると、半僧坊大権現にいたる。建長寺の鎮守である。1890年勧請という。建長寺は何度かの火災で創建当時の建物を失っている。徳川時代に徳川家の援助で再建した。そんな歴史を思わせる。
 左上に天狗、その他あちこちに烏天狗の像がある。
 このあたりが建長寺の最上部か。

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 半僧坊からさらに登る。勝上献、海抜145メートル。

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 建長寺を見下ろす。右上の四角い建物は鎌倉学園。
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2017年10月17日

円覚寺

鎌倉 円覚寺
瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)

 久しぶりの鎌倉、何十年ぶりだろうか。
 今更紹介するのも無用の有名観光地だが、歩いた記録だ。
 北鎌倉の駅で躓いた。前の人に続いて出たらなんと臨時改札口。地図ではそのまま右に行けば円覚寺だが、仕切りがあって行かれない。そのため駅をほぼ一周してしまった。

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 いよいよ円覚寺、臨済宗円覚寺派総本山。そうは言っても臨済宗の特徴などは一切知らない。
 鉄道が境内を横切る。ここまで来てようやく思い出す。

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 入り口から総門へ

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 山門(三門とも)
 この山門が一番知られているか。

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 仏殿
 中心の建物である。関東大震災で倒壊し、昭和39年(1964)に再建された。

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 仏殿に入る。まずは敬意を表して合掌する。

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 天井には見事な龍の絵がある。

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 仏殿で金澤翔子さんの書に出会う。若い女性ながら豪快な字を書く。一度お会いしたことがある。藤沢秀行先生の書展を見に行ったとき、別室で個展を開いていたのだ。

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 境内では、柏槇(ビャクシン)の巨木が多い。仏殿の前にも並んであった。おそらく開山時に植えられたもの。

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 この階段を上ると方丈。門は唐門(からもん)。

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 唐門の門扉

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 方丈前の柏槇(ビャクシン)。

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 方丈に入る。本来住職の住まいだが、多目的に使われている。

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 方丈庭園の一部。

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 方丈の外に出て、脇を通り上に行く。方丈庭園を脇から。右が方丈で、そちらから見るように設計されているはず。

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 妙香池(みょうこうち)
 2000年に、江戸時代初期の形に復元した。放生池(ほうじょうち)である。
 わたしは放生池を見る度に、そのために生き物を捕まえるのは目的に反するのではないかと愚考してしまう。

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 リスを見つけた。台湾リスかもしれない。

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 最後に高みにある鐘堂に登る。洪鐘といい国宝である。
 隣の弁天堂の脇で抹茶を頂く。

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 古い道、この左に新しい道がある。

 塔頭は十九ある。さすが大寺院。原則的に非公開である。
 今回は一眼レフカメラを持たずに行った。写真は全てiPadのカメラである。
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2017年10月12日

草津白根山から芳ヶ平

1997年10月。草津白根山から芳ヶ平方向へ下った。
フィルムを整理していて見つけた。
スキャナーにかけてみたら、案外はっきりしていて、当時を思い出した。
バスで白根山の峠まで行く。

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小さく見える建物は芳ヶ平ヒュッテ

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 芳ヶ平は湿原である。
 山は草津白根山

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 草津白根山は火山で、上部は植物が少なく荒れている。
 裾野はまばらな紅葉樹

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 これらの写真はポジフィルム、当時人気のあったフィルムだが、赤が濃く出やすい。
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2017年10月07日

賢帝と逆臣と

賢帝と逆臣と  小説・三藩の乱
小前 亮   講談社   2014.9
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 康煕帝が八歳で即位し十五歳にして親政し、三藩の乱を押さえて三藩を取りつぶす話と、雲南の呉三桂が反乱せざるを得なくなる過程が、この小説の二つの軸である。
 それを李基信という架空の人物の視点で描く。
 わたしは鹿鼎記などで、この小説の舞台(時代)を知っているので、結論が先に見えてしまう。

 本書では康煕帝を中国史上最高の名君と評価する。康煕帝が権力を計画的に取り戻す話と、三藩を取りつぶす決断。それに税金を上げないことは評価できるが、それで史上最高の名君といえるかどうか。
 清朝は建国の荒事はその前のドルゴンの時代にほとんど済ましているので、それに乗った面もあるのだ。残ったのが三藩だった。
 明朝最大の実力者でありながら、雲南で滅ぶことになる呉三桂。この呉三桂を、明から清に寝返った将軍と見ている。だがその視線は冷たくはない。
 この呉三桂は決して明から清に寝返ったわけではない。
 李自成が明を滅ぼし、清と対峙している呉三桂を後ろから攻撃した。呉三桂は明を滅ぼした李自成に下るわけにはいかず、やむを得ず清に投降した。今回の反乱も、康煕帝の三藩取りつぶしの意思を知って、仕方なく反乱している。
 この中で、庶民は異民族支配を受け入れているのが興味深い。決して漢民族王朝でなければ、などとは思っていないのだ。そう思うようになるのは、異民族支配が非道になった時。
 そのことを理解している呉三桂は、長江から北上出来ない。漢民族というだけでは庶民はついてこない事を知っていた。
 呉三桂は異民族支配に反対しても、一般の人たちは、異民族支配を助けたのが他ならぬ呉三桂、ということを知っている。異民族支配に反対なら李自成に投降すべきだったのだ。

 呉三桂が先に三藩の協力をと思っているうちに、勝機を逃してしまう。
 結局滅ぶことになる。
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2017年10月02日

月に捧ぐは清き酒

月に捧ぐは清き酒 鴻池流事始(こうのいけりゅうことはじめ)
小前 亮   文藝春秋   2014.3
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 山中新右衛門幸元。鴻池といえば大坂(大阪)の財閥だが、その始まりが、この人物である。なんと尼子一族の再興に生涯を捧げた山中鹿之助の息子とか。
 戦国の世に、山中新右衛門が武士をやめ、商人として生きていく感動の物語である。
 はじめ上質の木炭の販売を手がけ、それを横取りされると、酒の製造を始める。
 落語で、こんな話がある。
 不満を持った従業員が酒樽に灰を投入して逃げていった。それがなんと濁りが下にかたまり、清酒となっていた。これが清酒の始まりだ。
 この小説でも、途中で似た話が噂となった。だが山中新右衛門は放っておく。競争相手がそんな話を信じているようではうまくいかないと。

 徳川家が江戸を開発している。そこで、大坂で造った酒を江戸に運ぶ。ところが普通に運んでは痛んでしまう。その輸送にも苦心を重ねる。
 大坂では他の蔵と五分の味でも、江戸に持っていくと圧倒的な人気を得る。
 清酒造りの改革に成功し、物流の工夫も成功し、息子たちを分家したりして、大坂の財閥となる。
 特に幼なじみである妻のはなと、仲睦まじく協力していく様子は心が温まる。
 物を運ぶことは幸せを運ぶことだ。商人のこころである。
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2017年09月25日

漱石先生大いに悩む

清水義範   小学館   2004.12
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「我輩は猫である」を書くことで、現代的な文体を完成し、後世の手本となった夏目漱石の、猫を書くまでの悩みを戯画的に書いた小説である。
 ある人が古い手紙を持ち込んだ。なんとか読んでみると差出人は夏目金之助(漱石)らしい。
 受取人は誰か。若い女性らしい。この「手紙」の謎に迫るうちに、当時の漱石の心情が理解でき、作家「夏目漱石」の偉業が頭に入ってくる。
 明治時代は文語の時代であった。そこに言文一致体の文を試作する人がいたが、どうもしっくりしない。それを漱石が、若い女性の意見を参考に「我輩は猫である」で完成させた。
 読んでいるときは、とても小説とは思えないほど。その若い女性は自殺した。その原因は漱石か。
 そのミステリー小説といえよう。
 漱石の意外な上機嫌さ。お金に対して細かい人という一面もあり、その理由も納得できる。
 どこまで本当なのか創作なのか気になってくる。最初の手紙にしても、読んでいるときは、その手紙があって、いろいろ考えたように思えたが、どうやら手紙も創作らしい。
 一気に読んでしまった。
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2017年09月19日

畏友亜Qさんをしのぶ

 今 たくせんの中国世界 で、次の記事を書いているがようやく終わった。
岡崎由美先生と行く中国の旅 2017年8月17日〜8月22日
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて

 8月14日に畏友亜Qさんが亡くなった。享年73、年齢72歳であった。盆の真ん中なので葬儀は難しいだろう。そう思い、わたしは8月16日にお通夜に出るつもりで用意していた。17日朝は5時前の始発電車で成田空港に向かう予定なのだ。しかし、19日にお通夜、20日に告別式となった。申し訳ないと思いながら、友人に弔意を託した。
 思えば、わたしが中国旅行を公表して以来、何度か中国行きの話をかけられ、「気をつけて行ってらっしゃい」と言われていた。だから、葬儀に参列せず中国旅行に行ったのも、許していただけるであろう。

 千寿会で梵天丸さんが書いているように、筆の立つ人であった。千寿会の雑記帳をクリックしてみても、わたしの三倍以上の文を書き、その内容が三倍以上濃い。
 わたしは碁ばかりでなく、文でも多く教えていただいた。感謝している。
 わたしの好きな武侠小説(ドラマも)に対しても、中国のチャンバラと喝破していた。
 ちなみに田中芳樹さんは母上に「武侠小説とは」と問われて、「中国の立川文庫」と答えたという。わたしなどタテカワなのかタチカワなのか読み方を知らないが、この答えは上手いと思った。「中国のチャンバラ」も「中国の立川文庫」に匹敵する名言ではないか。
 怪しい関西弁をあやつり、わたしは「老頑童」としたが、本人は気に入っていたようだ。
 近年、亜Qさんは体調が十分ではなく、執筆量が落ちていて心配していた。
 ご恩返しも出来ずにお別れとなったが、江湖(武侠の世界)の恩返しなど、不要であろう。
 ようやく、中国旅行の話も一段落して、亜Qさんへの弔辞を書く心の余裕ができた。
posted by たくせん(謫仙) at 12:39| Comment(0) | 千寿会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

鹿の王

鹿の王
上橋菜穂子   角川書店   2014.9
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 征服者の帝国東乎留(ツオル)の人の名前は、漢字を使って難しい読み方をする。万葉仮名的な使い方もする。被征服者の名前はカタカナ。この書き方は必要があったんだろうか。
 東乎留(ツオル)とあればこの国は漢字を使う国である。国名は「ツオル」でもなく「tuoru」でもなく「東乎留」と漢字でなければならない。この場合の漢字とは、いわゆる「漢字」である必要はなく、表意文字を使っていると言う意味である。ツオルと読めても、他の文字ではいけない。それにしても小説として、何でこんな難しい読み方をせねばならないのか。人の名も同様である。しかも他国から来た人は、カタカナ名のままである。
 たとえば「山犬」という字にオッサムとかなをふる。このような例が多い。自国語の文字ならこのような無理矢理の読み方はしない。もしかしたら、文字のない国が漢字の国を征服して、自国語に漢字を無理矢理あてたとか。
 他の国は文字がないか、あっても表音文字ということになる。
 しかし、「山犬」という漢字が必要なら読み方は「やまいぬ」に、「オッサム」と読ませたいならカタカナにすべき。一二の例外はあっても良い。

 戦士ヴァンが囚われていた岩塩鉱を犬が襲い、囚人も奴隷監督も謎の病死をするが、戦士ヴァンだけ助かる。ここから物語が始まる。そして逃亡生活。そういう少数民族や動物の、帝国東乎留(ツオル)との戦い(戦争とは限らない)。
 東乎留では天才医師ホッサルが、岩塩鉱の謎の死の原因解明と、その後の治療に当たる。
 細菌とウイルスの差が判りかけ、その対策を研究している。注射や顕微鏡などが発明されている。そのなかでの医師と病原体との戦い。
 この二つの戦いと共生がこの物語のテーマである。

 ファンタシィではあるが、推理小説のように謎が絡む。それがかなり複雑でありながら、メインではない。読者を迷わすための意味のない複雑さに思える。
あとがきに、
「生物の身体は、細菌やらウイルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」
「それって、社会にも似ているなぁ」
 この事実を小説化したともいえるのだ。
 ちょっと複雑すぎて、カタカナ的な創作名詞が多くて読みにくい。これをクリアできれば、小説としてはおもしろいらしいのだが、わたしはクリアしたとはいえない。
 ネタバレだが、事前にウィキなどであらすじや登場人物の説明を読んでおくとよいだろう。

参考 失われてゆく、我々の内なる細菌 には、 ヒトの体を構成する細胞の70〜90%がヒトに由来しない。逆に言えば体の中にそれだけの細菌が住んでいる。その数は100兆個にもなる。 という。
posted by たくせん(謫仙) at 06:11| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

幻庵

幻庵(げんなん)
百田尚樹   文藝春秋   2016.12
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 古来、中国では琴棋書画が君子の教養であった。棋とは碁のこと。
 この碁を爛熟させたのが、江戸時代の日本であった。それは幕府の家元制度によった。
 碁の家元制度は実力主義である。本因坊・安井・井上・林の四家があり、それを取り締まる名人碁所(ごどころ)が頂点にいる。碁所の権力は強大である。碁所になるには名人にならねばならない。
 この名人を目指して技を磨き、同時に碁所の地位を争う。江戸時代の二百六十年間に誕生した名人はわずか8人。
 幻庵とは、十一世井上因碩(1798−1859)のこと。隠居後、幻庵を号とした。
 本来十世であるが、幻庵の時代に一世井上因碩の前の中村道碩を一世としたため、十一世と伝わるようになった。今から見ると児戯に等しい。
 井上家では代々因碩を名乗ったので区別するため、引退後の号をつけて、幻庵因碩と言われる。八段(準名人)になった。名人は原則1人であるため、一応最高段位に登ったといえよう。

 幻庵因碩の時代を中心とした、戦国から昭和までの囲碁界の様子を俯瞰した小説だ。さらにAI囲碁まで言及している。
 主人公は幻庵を中心とした同時代の棋士たち。ライバルの本因坊丈和も幻庵なみに生き生きと書かれている。
 特に対局シーンは迫力がある。これは著者の文章力のたまものだ。ただ、棋譜のない観戦記のような文は、読んでいてもどかしさを感じることがある。しかもかなり大げさに感じる。
 “恐ろしい手”だとか、“凄まじい妙手”とか、言葉を並べられても、ホントかなと思ってしまうのだ。
 江戸時代の碁は失着が少ない。それは時間に縛られないことと、公式な対局が少ないことにあった。高段者のみが年1局である。それに準ずるような対局も、多くはなかった。少ない機会を生かさねばならない。ゆえにその1局に集中する。現代碁とは異なり、原則、時間は無制限。1日では終わらないことが多かった。失着が少ない理由である。
 現代は年50局でも珍しくない。時間の制限があり、秒読みはいつものこと。
 小説中で、ときどき碁の解説を加えるが、この解説では、碁を知らない人にはたぶん意味は判らないであろう。といって省いていいものか。
 碁は勝負を争う。しかし家元制度は芸術の域に高めた。たとえば、このままでは2目の負けとなる。そんなとき、投了するか、あるいは最後まで最善手を打ち、1目でも差を少なくしようとする。これが芸であり美学である。
 しかし、勝負手として逆転を狙う手を打つこともある。勝負を争うなら当然であるが、場合によっては、手のないところに打った、棋譜を汚したとして、その人の評価を落とす。
 あるべき姿はどちらか。登場人物も悩むところ。

 幻庵は、吉之助→橋本因徹→服部立徹→井上安節→井上因碩→幻庵(引退後の号)と名を変える。
 家元制度は実力主義、我が子でも実力がなければ篩い落とす。弟子の中から最強者を選んで跡を継がせる。適当な人がいなければ、他の家から貰い受ける。そのとき養子縁組をする。
 子は父の名を継ぎ、養子縁組後は新しい名となり、さらに義父の名を継ぐ。それで姓名共に変わっていく。同じ名の別人が登場する。当代か先代か先々代か。区別は前後の文ですることになる。
 事情は判っていても、人物を知らないと判りにくい。この人誰だっけ、という状態になりやすい。
 全体的に、歴史書を読んでいるようで、かなり冗長に感じる。この冗長部分を削り、幻庵に集中した方がよいと思う。
 持碁を芇と書き「じご」とかなをふる。芇に「じご」と仮名を振るくらいなら「持碁」でよいはず。芇(べつ)の字にこだわる必要性がないと思う。
posted by たくせん(謫仙) at 11:49| Comment(0) | 書庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする