2019年06月25日

奈良3 平城京跡大極殿

平城京跡大極殿

 電車で西大寺まで行く。そこから平城京跡まで歩く。
 わたしの知っている知識では、広い野原のなかに、区画の目印があり、近鉄奈良線が横切り、その南に朱雀門ができた。
 その朱雀門を見たいと思ったのだ。
 平城京跡の北西の外れまで来たら平城京跡資料館がある。そして平城京跡の地図があった。

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 これを見ると朱雀門ばかりでなく、いろいろなものができている。
 まずは平城京跡資料館に行く。

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 まだ時間前でもあって誰もいない。

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 左が入り口だが閉まっている。

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 辺りを三十分ほど散歩して、資料館に戻る。

「まだ時間前ですが、入って構いませんよ」と言われ入った。
「よかったらご案内します。ボランティアのガイドがいますから」
 ガイドをお願いして、二人で話しながら館内を歩く。
 暫くすると、二人の先生と小学生の団体が入ってきた。そちらも別なガイドが説明している。

 奈良時代は70年と言われるが、はじめは第一次大極殿(だいごくでん)で、一度遷都するも戻って来て、第二次大極殿を第一次大極殿跡の東側に建てた。
 この遷都の時、柱や屋根はもちろん、敷石まで運んで組み立てたという。
 戻って来たときも同じだ。建築の材料は簡単には手には入らないということだ。
平城京遷都 710年
   平城京(第一次)     〜740年
   恭仁 (くに) 京    740〜744年
   紫香楽 (しがらき) 京 744年
   難波京       744〜745年
平城京遷都 745年
   平城京(第二次)     〜784年
   長岡京       784〜794年
平安京遷都 794年

平安京遷都まで84年間を総称して奈良時代という。
平城京にしたところで、まず大極殿ができて、それから徐々に形か整ったであろう。京として計画通り完成したのかどうか。
 だから紫香楽 (しがらき) 京などは、大極殿だけ引っ越しして、街ができないうちに次に引っ越しただろう。約5年である。結局大極殿を建てる材料とともに平城京に帰ってきた。
 そんな話を聞いて、資料館を出た。

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 第一次の大極殿(だいごくでん)が見えてきた。

 復元事業情報館に入って、説明を見る。釘を使わず、材木を組み合わせる具体的な模型なども展示されている。手に取って組み合わせてみる。これだからこそ、簡単に引っ越しができるのだ。

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 仮の塀、この塀の内側が大極殿院。左の灰色の覆いは、工事中の大極殿院南門。

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 大極殿(だいごくでん)はこのアングルの写真が多い。
 最重要な建物で、国家的儀式などを行う。
 2010年(平成22年)に復元した。

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 脇から。入り口はこの面の左の方。
 屋根の二層部分は意外に小さいと思った。

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 入り口指示。

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 濡れ縁から。遠くに見える丸い植木は、ここに建物があって、その柱の位置の印。北側つまり裏側なので、内裏などがあったようだ。

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 大極殿の前の写真はこれしかない。

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 高御座(たかみくら)

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 屋根の上の真ん中にある飾り。
 屋根の左右は定番の鴟尾である。靴を横にしたような形だ。

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 天井

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 部屋の敷石

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 柱や壁は礎石の上

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 昔のまま復元したのでは、建築構造上の安全性を満たせない。基壇内部に免震装置が導入されている。

 
 余談だが、資料館には碁を打っている姿があった。奈良時代には碁は盛んに打たれていた。その盤面はよくできているが、よく見るとなんだかおかしい。イメージで言えばヌキ跡ような形なのに閉じていない。では何でそこに石がきたのか。(^_^)
 そうはいうものの、こういう展示にしては形がよくできている。よくできているから違和感が生じたのだ。
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2019年06月22日

奈良2 興福寺

興福寺

 博物館のとなりの興福寺に行ってみた。
 中金堂の建設で賑わっていた。しかしとても見学の雰囲気ではなく、宝物殿は見ずに退散した。阿修羅に会いたかったが、この雰囲気では見る気が失せた。雰囲気に飲まれて、国宝館を忘れてしまったのだ。

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 案内する地図がHPにもないので、南円堂の近くにあった地図を示す。
 なんと2010年の案内図らしい。
 寺全体を作り直ししているようで、地図が間に合わないのか。
現在、中金堂は完成したが、回廊は工事中で南大門はなかった。北円堂は見なかったが、回廊が計画されている。

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 東金堂は覚えている。

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 これは何度見ても良い。

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 東金堂と五重塔。
 この前は広い土地だったが今は中金堂回廊の工事中。

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 中金堂は完成した。中はピカピカの仏像など。他の大寺でも創建当時はこんな雰囲気だったのかな。

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 回廊の基礎工事中。
 すでに基壇は整い、礎石も埋め込まれている。
 基も礎もできていた。

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 中金堂正面、わたしの背後に中門の基礎があり、その先に南大門ができるはず。

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 南円堂もとなりの建物は記憶にない。
 整備図では西金堂があるはずだが、地図では興福寺興善院がある。塔頭かな。どうも西金堂の雰囲気ではない。
 見る気力がなくなって、あちこちの大事なところを見ないで引き上げた。

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2019年06月18日

奈良1 奈良国立博物館庭園

奈良国立博物館庭園 茶室八窓庵

 奈良国立博物館は久しぶりだ。新館ができたことも知らなかった。
 今回は「曜変天目茶碗」が展示されるので見に行った。
 曜変天目茶碗は中国からの輸入品だが、中国にはなく、日本に3点あるのみ。「曜変」も「天目」も日本で作られた言葉。5月の連休前後に、3点ともそれぞれの場所で展示されるので話題となった。
 この博物館で見られるのは、大阪の藤田美術館所蔵の曜変天目茶碗だ。
 中国では完全な品はないが、破片が見つかっているという。
 見学者は行列となり、二十分ぐらい並んだ。

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 わたしの知っているのは、「なら仏像館」の部分だけだった。

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 新館の南側に茶室八窓庵を中心にした、庭園がある。新館の見学が終わり、庭園に行く。

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 この飛び石を通り、庭園内へ行く。
 新館はこうして浅い水に囲まれている。

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 ちょうど躑躅が咲いていた。右端に八窓庵の一部が見える。

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 庭園に入ると左手にこの古木がある。

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 説明は覚えていない。

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 「奈良の八重桜」もしくは「奈良八重桜」という栽培品種。遅咲きであるとはいえ、5月9日では遅すぎた。「奈良の八重桜」といえば次の歌を思い浮かぶ。

  いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな(伊勢大輔)

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 茶室は池の向こう側であり、池を半周する。

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 ここを通れば、近道なんだが(^_^)

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 腰掛待合かな。橋を渡る前に一休みして服装など整え、亭主の迎えを待つ。

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 八窓庵
 静かな落ち着きのある建物だ。
 曜変天目茶碗を見るために並んでいた人たちは、どこに行ったのだろう。わたし一人で庭園内を歩く。

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 わたしの好きな道だ。池の突端に来た。

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 八窓庵は竹垣で囲われている。

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 ここが八窓庵の中門か。

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 八窓庵を外側から。

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 八窓庵から離れる。この石塔、いわれはあるのだが、記録を撮り損ねた。

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 館内に戻る。
 地下回廊のレストランで昼食とし、なら仏像館へ行く。
 となりの青銅器館も充実していた。青銅器館のガイドと話し込んだ。

 昔、台湾では、商(殷)の時代のきれいな青銅器が1個あれば、それだけで一品展が開けた。天目茶碗1個で、これだけの人が集まるようなものだ。
 しかし、ほとんどは偽物であった。骨董品のプロには製作来歴が判っている品が多い。そんな時青銅器を見たプロは「眼福であった」と言って去る。決して偽物とは言わない。
 台北故宮博物院の毛公鼎のような、中国最高の宝といわれている品まで偽物説がある。鑑定は難しい。それでも今は進歩した。
 こんな話をして、博物館を後にした。
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2019年06月13日

京都9 二尊院・祇王寺・化野念仏寺・清涼寺

二尊院・祇王寺・化野念仏寺・清涼寺

 二尊院
 嵐山の近くは名所旧跡が多い。二尊院は大きな寺である。

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 総門
 小倉山の下を歩いて、二尊院に行く。

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 紅葉の馬場
 総門を入れば、伽藍のある地域まで、まっすぐな道がのびでいる。
 新緑が輝いている。紅葉も映えるであろう。

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 紅葉とは異なり、新緑は毎年輝く。
 本堂の裏ではタゴガエルの声が響いていた。
 普賢像桜があった。初めて聞く名だ。八重だが、花びらが百五十〜百六十枚もあるという。

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 本堂の前の勅使門
 簡素で優雅である。総門も簡素だった。

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 祇王寺

 平家物語の祇王が出家した寺である。明治初年に廃寺となったが、再建した。
 今は大覚寺の塔頭(たっちゅう)となっている。
 今回の旅行で「塔頭とは」と聞かれ、答えに窮したが、「会社でいえば子会社」で理解してもらえるだろうか。境内にあることが多いが、こうして遠く離れた所にもある。
 囲碁でなじみの本因坊も、寂光寺の境内の塔頭であった。今はない。

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 小さな寺で住職もいないが、苔の庭は手入れが行き届いている。

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 小さな庵に入ると、仏壇には、祇王や清盛などの像が安置されている。

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 化野(あだしの)念仏寺

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 賽の河原
 明るい光の下では、かわいさが先に立つ。
 前に来たときは、鬼哭啾々として、身が引き締まった記憶がある。
 この落差に戸惑った。
    一重積んでは父のため 二重積んでは母のため

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 清涼寺

 五台山清凉寺という。
 五台山清凉寺といえば、清朝の三代目順治帝が出家した寺として知られている。本当は病死だが、出家したという俗説があるのだ。その寺と関わりがあるのかな。
 ここは光源氏のモデルといわれる源融ゆかりの寺だ。
 霊宝館が春期特別公開されていた。二ヶ月間である。写真はないが、見てよかった。
 寺は嵯峨釈迦堂といわれるように釈迦像が高名である。

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 仁王門
 塔のような門に圧倒される。

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 庭の不思議な形の樹木。わたしには禅寺を思わせる。

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 本堂(釈迦堂)はかなり大きい。
 清凉寺の前身である棲霞寺の寺域は嵯峨天皇の仙洞「嵯峨院」の一部であった。その大覚寺まで直線距離で五百メートル弱である。
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2019年06月09日

京都8 大覚寺

大覚寺(旧嵯峨御所)

 弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山である。正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と称する。
 嵯峨天皇(在位809−823)が離宮を建立した。離宮嵯峨院である。その離宮が貞観18年(876年)に大覚寺となった。
 代々天皇もしくは皇統の方が門跡(もんぜき=住職に相当)を務めた格式高い門跡寺院(もんぜきじいん)である。
 嵯峨天皇は、平安遷都した桓武天皇の息子であり、兄の平城天皇の次の天皇である。
 いけばな発祥の花の寺であり「嵯峨御流」の総司所(家元)である、というが、その方面に疎いわたしには、説明できない。

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 大覚寺門跡の総門の跡。現在はここから門までかなり歩く。400メートルくらいか。

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 大覚寺に着いた。 

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 宸殿(しんでん)まえの庭

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 宸殿牡丹の間、絵は近寄って見たいほど。
 正面
 以下の絵も宸殿の絵である。


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 左側はいま歩いてきた廊下。


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 村雨の廊下辺り、建物は心経前殿(しんぎょうぜんでん)であろう。記憶が曖昧。

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 心経前殿(御影堂)の西側。向こうに見える小さな建物が、勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)で、
大正14年に法隆寺の夢殿を模して再建。

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 この写真は、具体的位置を特定できない。

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 心経前殿前の庭。心経前殿は大正14年建造。
 正面の勅使門は修繕中。
 
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 五大堂(本堂)は堀をまたぐ。大沢池がよく見えるようにベランダが出ている。
 四角く、四方がこのような堀で囲まれている。
 この塀の右(外側)が大沢池である。

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 観光客が少ないためか、このような庭を落ち着いて見られる。

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 静かで熱い日差しも涼しく感じる。

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 この辺りであったか、渡り廊下を歩くとかすかに音がする。鶯張りのようだ。
 通りかかった若い僧に訊いてみたが、「たまたま今この寺にいるので知りません」、と言われた。末寺の修行僧らしい。

 一度入り口に戻り、大沢池に行く。

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 大沢池は境内にあり、人工の林泉である。時計回りに歩く。

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 放生池であるが、大沢池とは細い土手で隔てられているのみ。一部つながっている。

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 心経宝塔。1967年建立というから新しい。
 嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立される。

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 護摩堂は池の脇、火の心配はない。

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 庭湖石、この池の別名を庭湖という。中国の洞庭湖を模して造られた。しかし、どうだろう。当時の洞庭湖に似ているか。心象風景なんだろうな。
 わたしなどは、洞庭湖は江湖者という言葉の元になった湖、ということを思う。

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 右の大きな建物が五大堂。

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 これで大覚寺と分かれる。

参考 大覚寺境内ご案内
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2019年06月04日

京都7 天龍寺

天龍寺

 天龍寺は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。
 寺号は正しくは霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と称する。

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 京福電気鉄道嵐山本線で嵐山に行く。
 始発の四条大宮駅から終点嵐山まで7.2kmの、市街電車である。

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 天竜寺の門前には躑躅が咲いていた。ちょうど遅咲き躑躅の時期であった。
 ここから入ると、両側に多数の塔頭が並ぶ。

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 少し歩いて中門を振り返る。これは前日夕刻の写真である。
 この写真だと境内のイメージだが、その他は参道のイメージだ。

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 法堂(はっとう)
 まだ時間前なので寄らずに進んだ。公開日は限定である。

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 庫裏に向かう。わたしが二番目のようだ。

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 庫裏で拝観受け付け。
 ちょうど参拝時間となった。この庫裏をはじめ、多くの建物は新しい。明治以降である。例外的に、塔頭の中には古い建物もあるので、そういう興味をお持ちの方は、塔頭を訪ねるとよい。ただし公開しているかどうか。

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 庫裏前にも、ミニ庭園。左奥が大方丈。
 左手前(写真では見えない)に庭園入り口がある。参拝券は諸堂屋内と庭園の二枚になる。

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 中に入って大方丈を見る。
 廊下を右回りに裏に向かう。

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 広大な庭園が広がる。曹源池(そうげんち)庭園である。方丈の裏庭でもある。
 この辺りに来ると、西洋人に囲まれてしまった。日本語のガイド付きの団体である。

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 大方丈を回り書院に行く。書院は小方丈ともいう。床の間には「莫妄想」。この右にもう一カ所床の間があり、達磨の絵が画ある。

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 屋内の様子。見ると縦横に区切られていて、その襖を取り払っているのが判る。
 二カ所の床の間は襖で区切られた、別の部屋である。

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 屋内から見た曹源池。

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 書院から多宝殿に行く渡り廊下。茣蓙が敷いてある。

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 ここは後に通る道。この先に多宝殿がある。

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 渡り廊下の右側は、参拝コースではない。

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 多宝殿の内部正面。

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 多宝殿の内部左側。

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 蔀戸(しとみど)をあげてある。いにしえの雰囲気。

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 渡り廊下を戻る。

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 一度外に出て、庭園に入り直す。
 大方丈の前庭、枯山水庭園。この左側に門があるが、開けることはあるのだろうか。

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 曹源池はこの庭園の中心である。二枚の写真を合成した。
 開山である夢窓国師の作庭であり、1994年に世界文化遺産に認定されている。
 池の向こうは京都盆地の西の断層崖である。

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 池の向こう側の石組みにも、禅寺(臨済宗)ならではの解釈があるのだが、わたしでは理解出来ない。

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 少し進む。

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 正面が書院(小方丈)、右が大方丈。

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 書院の前から振り返る。

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 池の向こう側にも拝観コースがある。苔のびっしり覆った一画もある。
 前に来たときは、「猿に注意」の立て札があったが、今は見当たらないようだ。
 小倉山の亀山公園付近に猿が今でもいるのかな。亀山公園も渡月橋も昔は天龍寺境内だった。

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 赤花蝋梅というが、とても蝋梅には見えない。

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 北門から出て、竹林を歩く。

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 竹林を抜けると、すぐに大河内山荘庭園だ。
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2019年06月01日

京都6 大河内山荘庭園

大河内山荘庭園

 鎌倉時代の歌人藤原定家が、小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされるが、場所は特定されていない。
 その小倉山の南部に大河内山荘庭園があった。亀山公園(嵐山公園の一部)のとなりである。

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 突然、大河内山荘庭園の門に出会う。
 大河内とは往年の映画俳優、大河内傳次郎のことだった。こんなこともいままで知らなかった。
 造園家でもあった大河内傳次郎が、30年かけて作り上げた庭園である。

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 不鮮明だが、おおよその位置が判る。

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 緩やかな坂道を上ると開けた。右へ行くと、お抹茶席がある。入園料には「お抹茶」も含まれている。

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 庭園は山の斜面であり、ほとんどの道は、こうして石畳となっている。

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 中門

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 大乗閣
 ここが、生活の中心だったか。

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 大乗閣前の庭、ここでは珍しい芝生の広場だ。

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 嵐山を借景として広大な雰囲気がある。

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 大乗閣も新緑の中にある。

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 石畳の道を登っていくと、小さな堂の前に出た。
 形は大乗閣に似ているが、大きさは茶室より小さい。こもって思考したという。

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 周囲に展望はないが、植木は小さく明るい空間である。

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 少し暗い道を歩いて滴水庵に行く。

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 滴水庵
 茶室であるが、常識的な茶室よりかなり広い。

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 嵐峡展望台
 滴水庵のすぐ近くに嵐峡展望台があった。
 向かいは嵐山で、すぐ下の小枝の間から、亀山公園の道が見える。手に取るほど近い。

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 大悲閣の月見台はここより少し高そうだ。

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 嵐峡展望台から市内展望台まで、この山荘の一番高いところである。

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 市内や東山が一望できる。
 左にひときわ高いのが比叡山、緩やかなカーブを描いて、中央右に高くなっているのが大文字山。
 付け焼き刃の知識だが、両山ともホルンフェルスの山だ。熱による変成(接触変成作用)によって生じる接触変成岩。堅い。
 間の低い曲線は花崗岩。風化しやすくここまで低くなった。花崗岩は全体的に白く見え、これが真砂化して、黒い雲母は薄く剥がれて流れ、白い部分が砂となって残った。例えば白川の河底だ。
 東山のこの稜線から流された白い砂が、枯山水の庭に使われ、京文化を形づくった。
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2019年05月30日

京都5 亀山公園

亀山公園(嵐山公園亀山地区)

 京都の嵐山は有名だが、その辺りは嵐山公園と呼ばれる。その中に嵐山公園亀山地区と言われる地域がある。亀山公園と通称される。小倉山の最南部である。
 桂川(保津川、大堰川とも)を挟んで、嵐山の対岸である。

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 嵐山駅は、こんな着物柄のアートが迎える。

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 渡月橋に向かい、渡らずに保津川上流に向かう。

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 桂川の渡月橋から上流を保津川というようだ。

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 亀山公園は小高い山の上である。

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 ブラタモリで紹介された「嵐山公園 亀山地区 展望台」へ行った。
 前は保津川(桂川)の渓谷。
 左上が大悲閣千光寺。高瀬川開削などの角倉了以の寺。見えるのは月見台で、ここで日本で初めて算術書が著されたという。
 参考  雲外の峰−大悲閣

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 振り返れば京都市街が(わずかに)見える。

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 さらに奥に行くと、保津川を見下ろすようになる。保津川の川下りの舟が来た。小さくて見にくいが。

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 展望台の東側には、このような無粋な囲いがあって、大河内山荘の名がある。このときは、大河内山荘とはなんなのか知らなかった。
 トロッコ嵐山駅の方へ下る。
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2019年05月26日

京都4 伏見稲荷大社

伏見稲荷大社

 三日目(5月5日)は、午前中に伏見稲荷大社に参拝し、昼に解散する。
 伏見稲荷は全国の稲荷神社の総本山だ。この営業力には驚嘆する。
 全国至る所に分社がある。わたしの近所の民家でも、庭の片隅に稲荷社があったりする。
 
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 大きな鳥居の後ろに見事な楼門が見える。
 駅前からすると2基目の鳥居である。
 この日は、特別な行事があると見えて、神職は忙しそうだった。観光客も多かった。

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 楼門の左をいくと拝殿と本殿のわきを通り、奥社へむかう道だ。

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 本殿の奥側、この前に続きでもう一棟あり、両方で本殿である。

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 奥社へむかう鳥居の前の左右に狐がいる。
 あちこちにいる狐の銜えているのは、稲穂・玉・鍵・巻物のどれか。

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 本殿を半周するとはじめの写真では右手になるが、神楽殿。
 撮影禁止の立て札がある。禁止と言っても無理だろうな。囲いに入れば問題だが、遠くからでも撮れる。

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 約束の時間になったので、社務所の前に集合した。
 時間だが、行事があって待たされた。
 まず、玄関から入って二階に行き、お茶を頂きながら、歴史などの説明を受ける。
 例えば創建年が711年だとか。これをセブンイレブンと覚えてください。
 笑ってしまったが、しっかり覚えた。これで2011年に、創建1300年祭を行ったことが判る。
 とにかく平安遷都(794年)以前の、京都は秦氏の時代の頃である。
 池を見ながら最奥の社務所斎館にいく。
 斎館の前には池泉回遊式の庭園がある。制作年は2010年(併設の庭は明治期)。

 この庭園については「京の庭を訪ねて」の「伏見稲荷大社・社務所庭園」を参照してください。
   http://www.kyoto-ga.jp/greenery/kyononiwa/2015/09/post_12.html

 斎館は由緒のある建物である。
 そこで宮司さんを中心にして記念写真。

 社務所の見学を終えて一応解散し、有志でこれから千本鳥居の見学である。いわゆる千本鳥居はそこまでは高低差があまりなく楽に行ける。
 外国人就中西洋人にもっとも好まれるという千本鳥居である。だが中国語も多かった。

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 奥社に向かう階段を上がり右に曲がると、千本鳥居の前になる。
 ここでは大きな鳥居だが、少し歩くと小さな鳥居が隙間なく並んでいる。

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 このような小さな鳥居が延々と続く。令和の日付の鳥居もある。

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 途中の奥社奉拝所までで引き返したが(そのための帰り道まである)、ここまでを千本鳥居という。千本鳥居も実際には850基ほど。
 若いときに、この奥の稲荷山頂上まで行ったことがある。そこまで数えると一万基近いという。
 この日は人が多く、思うように写真が撮れなかった。まあ、社務所訪問が目的だったし…。
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2019年05月22日

京都3 下鴨神社と糺の森

下鴨神社と糺の森

 糺(ただす)の森に入る。

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 史跡 糺の森(再掲)
 糺の森は「鴨川をどり」でも背景となった。その背景は両側が小高く、谷のようなイメージだったが、実際の糺の森は平地である。一応原生林である。下鴨神社の鎮守の森化している。
 現在はおよそ12万4千平方メートルだが、往時は495万平方メートルあった。今の40倍である。
 現在およそ南北640メートル、東西150メートル。おそらく道路や馬場や建物などの森ではない部分を除けば、10万平方メートルもないだろう。案内の地図では、これで森が残っているの? と思わせるほど。

 地図から推測すると賀茂川と高野川に挟まれた三角形で、北は北山通りとすると、495万平方メートルに近い。現状では、まさに「史跡」である。むかしこの辺りに糺の森があった、という意味だ。だから現状は貴重な森なのだ。
 写真の鳥居は河合神社で、下鴨神社境内にある摂社。方丈記の鴨長明ゆかりの社である。
 鴨長明は下鴨神社の禰宜の鴨長継の次男であった。
 境内には鴨長明の庵が復元されている。いつでも家をばらして引っ越しできるように作られている。そして鴨長明は何度も引っ越ししている。

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 参道を下鴨神社に向かう。正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)という。書くとき、鴨か賀茂か気をつかう。
 左右が糺の森だが左数メートル先は、馬場であり、馬場の西側にも森がある。馬場の西側は少し厚みがある。
 右は森の向こうの道路を通る車がよく見える。そんな程度の幅である。
 馬場では、前日に流鏑馬(やぶさめ)が行われたはず。(あとで知った)
 原生林とはいえ、それなりの保存努力をして保っている。貴重な森だ。

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 最後の鳥居の前で神職が集まっている。

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 鳥居前の手洗舎
 船の模型に、石の手水場。いわれがあるのだが。

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 鉦と太鼓、何かの行事らしい。

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 楼門が近づいた。左にカメラを構えた人が並んでいる。

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 斎王代御禊儀がこれから行われる。葵祭に続く前儀であった。
 知らずに入ってびっくりした。こんな時写真が役に立つ。
 前日の5月3日に流鏑馬(やぶさめ)、4日の斎王代御禊、15日の葵祭に続くのであった。

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 門を入った正面はこの舞殿(まいどの)。

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 舞殿のとなりにあった。

 本殿の写真は撮り損ねた。
 儀式が始まった。一度門を閉じる。

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 先ほど見た太鼓などが入ってくる。

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 これでようやく、カメラの列が理解できた。
 禊の行事は見届けなかった。あまりに人が多く、あちこちを確認しながら歩くことができずず、京都府立植物園に向かう。
posted by たくせん(謫仙) at 09:43| Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする